口裂け少女
「気をつけろよ、中は真っ暗だから」
観音開きの扉を足で押さえながら、カズヤが懐中電灯の明かりを奥へ向けた。
板敷きの床に棺桶のような箱が並べられていた。奥に闇が濃くなっている場所があり、光が吸い込まれていく。
「このお化け屋敷で兄貴がバイトしていたのさ」
カズヤが明かりを頭上に向けた。天井は4メートルぐらいの高さがあり、プロペラのような木製のシーリングファンが見えた。
「兄貴がたまたまスペアキーを家に持って帰っちゃったんだ。返そうと思っているうちに遊園地が閉鎖になって、鍵だけが兄貴の手元に残ったってわけ」
大樹は足がすくんだように扉の近くから動けなかった。夜のお化け屋敷の恐ろしさは想像を越えていた。奥へ続く通路が洞窟の入り口のように思える。
三人の小学生がいたのは、赤茶色の壁をした建物の前だった。薄い雲の後ろにある満月の光が、建物の屋根の上にある「悪魔のX病棟」という看板を照らしている。
「さっさと入れよ」
背後から別の声がして大樹は振り返った。
肉に埋もれた細い目が少年を見下ろしていた。まるで小学生横綱のようなヒロの巨体が、退路を塞ぐように立ちはだかっている。
「そこに突っ立てると邪魔なんだよ」
背中をドンと押され、大樹はバランスを崩して床に手をついた。
「やめろよ、ヒロ」
カズヤが少年の腕を引いて立ち上がらせる。
「悪かったな。ケガはないか?」
「う、うん……」
手のひらは埃と土で真っ黒になり、逆に床には手形のマークが残った。
「怖くなったらすぐ引き返せばいい。途中に非常口がいくつもあるから、ギブアップしたくなったらそこから外に出るのもアリさ」
なおもためらう少年にカズヤが言った。
「いいか、これは儀式なんだ。もしおまえがこの度胸試しをやり遂げたら、明日から僕たちの仲間だ。そのときは――」
耳元に顔を近づけてささやいた。
「マサトたちからおまえを守ってやってる」
少年の肩がぴくっと震え、うつむかせていた顔が持ち上がる。
「……ほんとに?」
「〝仲間〟を守るのは当然だろ」
マサトはクラスのいじめっ子だった。少年はこれまで何度も上履きを隠されたり、教科書に落書きをされたり、背中にコンパスを刺されたりした。
担任の若い女教師に訴えても、通り一遍の説教をするだけで何も効果がなく、後にはさらにひどいいじめが待っていた。
勉強もスポーツもできる優等生のカズヤは、マサトたちのいじめに加わることはなかったが、助けてくれることもなかった。カズヤの仲間にしてもらえれば、マサトも手を出せなくなる。
「わかった。やるよ」
少年がうなずくと、カズヤがぱちんと指を鳴らした。
「そうこなくっちゃな」
三人は建物の奥に進んでいった。床を這う光の輪の中を、空き缶や新聞紙、ガラス片などが通り過ぎていく。
「足元に気をつけろよ。半年前に閉園されてから、解体業者が捨てたゴミがかなり落ちてるからな」
やがて裏口から差し込む月明かりが届かなくなり、完全な闇に包まれた。気づけば大樹はカズヤの肘を掴んでいた。
カズヤが苦笑しつつ明かりを上方に向けた。
「ほら、見てみろよ」
薄汚れたズボンを穿いた二本の足が宙に浮いていた。通路の梁に首に麻縄を食い込ませた男の人形が吊り下げられていた。
「リアルだろ」
懐中電灯を手にしたカズヤが得意げに言った。
人形の顔は真っ青で、鬱血した目が飛び出て、だらんと垂れた舌が首まで伸びていた。ズボンの股間には失禁の黒い染みがにじんでいる。
「兄貴が言うには、遊園地に客が全然入らないから、アメリカのホラーハウスを参考にしてどんどん過激になっていったんだってさ。本場のお化け屋敷って、バラバラ死体とかが普通に展示してあるらしいぜ」
大樹はカズヤの肘を掴み、じっと顔をうつむかせていた。
「こいつ、マジでビビってるよ」
ヒロがからかうと、カズヤが「よせ」とたしなめた。
「最初はビビるのも無理ないさ。ヒロ、お前だって泣いて引き返したじゃないか」
巨体の少年はむっと口をつぐんだ。
ヒロの父親は、カズヤの父親が経営する会社に仕事をもらっている。大人たちの上下関係を子供たちも律儀に守っていた。
「行こうぜ」
カズヤが再び歩き出す。しばらく暗闇の中を進んだ後、階段で地下に降りた。
そこは幅の狭い通路だった。両側に鉄扉が等間隔に並んでいる。腐食した配管から水がピチャンと落ち、カビ臭かった。
「このお化け屋敷のコンセプトは病院で、このエリアは閉鎖病棟。ようは拘禁が必要な患者を閉じ込める病室だな」
コンセプトだとか、コウキンだとか、小学生のくせにカズヤは難しい言葉を使ってくる。だが少年は恐怖でほとんど声が耳に入ってこない。
鉄扉の上には、番号の書かれた白いプレートがはめ込まれていて、懐中電灯の明かりが傍を通り過ぎるたびに、「15」とか「18」といった数字が見えた。
「どこまで行くの?」
焦れたように大樹が尋ねた。
「あそこさ――」
カズヤが懐中電灯を向けると、廊下の突き当たりに鉄扉が見えた。
三人の少年が扉の前でやってきて足を止めた。
扉の表面は錆びついて赤茶色に変色していた。ドアのプレートには「28」という字が刻まれていた。
カズヤがズボンのポケットから太い鉄釘を出し、大樹に渡した。
「扉に名前を書くんだ。それでここまで来た証明になる」
錆びついた鉄扉には、すでにカズヤとヒロの名前があった。
大樹は肘を扉に押しあて、二人の横に自分の名前を刻んだ。ぎぎぎ、と鉄を削る不快な音が暗い通路に響く。
「おまえ、度胸あるよ。一回目でここまで来るなんて。ヒロは何度も泣いて、三回目でようやく来れたんだぜ」
大樹の額に汗がにじむ。それどころではなかった。名前を書き終えて、一秒でも早くここを出たかった。
「これで明日からは僕たちの仲間だな」
耳元でそう囁くカズヤが、ほんの一瞬、ヒロに目配せをしたことに、大樹は気づかなかった。
最後の一画を刻もうとすると、目の前にあった扉がふっと消えた。
「あ――」
少年は口を開いたまま、ドアの先に広がる闇へつんのめるように進んだ。
背後で扉の閉まる気配がして、辺りが完全な闇に包まれた。かちゃり、という小さな金属音が聞こえた。
「カズヤ!」
少年は扉に飛びつき、ノブを引っ張った。扉はびくともしない。がちゃがちゃ、という音が空しく響く。頭から血の気が引く。鍵をかけられた?
「開けてよ!」
拳で鉄扉を乱打するが、何も反応がない。
「カズヤ、そこにいるんだろ?」
まさか――少年の胸に恐怖がこみ上げる。カズヤとヒロはもうドアの向こうにはいない? 僕を閉じこめて帰ってしまった?
「おーい、おーい!」
声の限りに叫んだ。建物の外にいる人間に聞こえるかもしれない。もっとも夜、しかも閉鎖された遊園地を人が歩いている可能性は限りなくゼロに近いけれど。
「そうわめくなって。ここにいるよ」
カズヤの声がした。ドアを叩く手が止まり、少年の胸に安堵が広がる。
「扉を開けてよ」
「ドアの下に懐中電灯があるはずだ。拾って中を照らしてみろ」
大樹は腰を落として、床の辺りで手を動かした。指先に冷たく硬い金属の感触がした。スイッチを入れると、ぱっと光の輪が壁に浮かんだ。
室内は八畳ほどで、奥の壁に寄せるように鉄製のパイプベッドが置いてあった。取り囲む壁は小便でも浴び続けたようにひどく黒ずんでいる。
「〝彼女〟が見えるか?」
大樹がいぶかしげな顔をする。彼女、と言ったのか? この部屋の中に他に誰かいる?
懐中電灯を怖々と室内に巡らせる。
床には新聞紙やペットボトル、弁当の空き箱らしきものが散乱していたが、それ以外、何もなかった。人などいなかった。
「よく見てみろ。ベッドの下あたりだ」
ドア越しにカズヤの声が聞こえ、もう少し先まで歩を進めると、明かりをパイプベッドの下に向ける。何か黒っぽいものが見えた。
(髪の毛?……)
人間らしきものがうつ伏せで倒れていた。小さな身体だった。子供かもしれない。黒焦げのボロボロの服を着ている。
「一ヶ月前だ――」
扉越しにカズヤの声が聞こえた。
「僕とヒロがこのお化け屋敷を探検しているとき、偶然〝彼女〟を見つけたんだ。黒焦げの木炭みたいだったから、最初は人間だなんて思いもしなかった」
髪の間から肩が見えた。肌はオーブンで焼かれた七面鳥のようにオレンジ色だった。焼死体だろうか? でも、なぜこんな所に?
「すぐ警察に知らせようと思ったけど、僕たちが遊園地に忍び込んでいたのがバレるだろ? だから黙っていることにしたんだ」
懐中電灯を握る大樹の腕が震える。
火事があったわけでないのなら、誰かが故意にこの子供を燃やした? あるいは誰かが死体をここに捨てた?
扉越しにカズヤの得意げな声が聞こえた。
「最初は怖くて仕方なかった。ヒロは今でも怖がっているけどね。落ち着いてくると、だんだん興味が湧いてきた。なぜこんな場所で死んでいたのか? 自殺なのか他殺なのか。僕は根っからの研究者タイプなんだろうな」
「早く開けてよ!」
少年は扉を狂ったように連打する。焼死体と同じ部屋にいるなど気が狂いそうだ。
「わかったわかった。そうわめくな」
鍵が外される音がして、ようやく扉が開いた。外に逃げそうとする大樹を押し戻し、カズヤとヒロが部屋の中に入ってくる。
「死体は女だ。たぶん子供だな」
カズヤがベッドの下に懐中電灯を向ける。
「ほんとに死んでるの?……」
「触ってみろよ」
「嫌だよ」
「そこまでやって度胸試しはゴールだ。できないなら失敗ってことだな」
「扉に名前を書いたじゃないか!」
カズヤはニヤニヤするだけだ。最初からそのつもりでここに連れてきたのだ。しかたなく大樹はベッドに近づいていった。腰をかがめて焼死体を覗き込む。
(肌?……)
ボロボロの服の隙間から肌色が見えた。黒こげなのではなかったか。
そのとき、暗闇でがさっと何かが動く音がした。大樹はひっと声を上げた。カズヤが音のした方に明かりを向ける。
灰色の小動物が黒い目でこっちを見ていた。
「ネズミか……驚かせやがって」
光から逃げるようにネズミはベッドの下に潜り込んだ。
そのときだった。少女の黒こげの腕が急に動き、転がってきた野球のボールを掴むようにネズミを捕らえた。
「う、動いたよ!」
ベッドの下からチューチューと狂ったようなネズミの鳴き声がする。やがてボリッボリッと骨を砕くような鈍い音が聞こえてきた。
(食べてる?……)
それで気づいた。床には小動物の骨らしきものがあちこちに転がっていた。中には犬や猫を思わせる大きな動物の頭蓋骨もあった。
(他の生き物も食べていた?……)
異様な気配を察したヒロが「カズヤ、出ようぜ」と言い、カズヤがかすれ声で、ああ、と答えたときだった。
にゅっ、と黒い腕がベッドの下から出てきた。もう片方の腕も伸びてくる。水泳のクロールでもするように〝それ〟が腕を回して床の上を這い出てきた。
「ひいっ」
腰を抜かした大樹がへなへなと尻もちをつく。
奇妙な形に手足を曲げ、蜘蛛のように〝それ〟は床を這っていた。びゅん、と黒い影が飛び跳ね、ヒロの上半身に抱きつく。少年の顔に囓りつき、鼻ごとバリバリと顔面の皮膚を引き剥がした。
「ぎゃあああああ」
つんざくような悲鳴が響く。
ヒロの巨体が横倒しになった。少年の顔はほとんど原形をとどめず、赤黒い肉塊の中に魚の目玉みたいな眼球がギョロリとのぞいていた。
少女がむくりと立ち上がる。ボサボサの黒髪の間に顔、落ち窪んだ双眸の奥で、黄色いビー玉のような目が鈍い光を放っている。
ぴき、と乾いた音がした。
顔の唇の端から耳にかけて、ぴきぴきぴき、と亀裂が走る。まるきり顔の下半分に巨大な鮫の口が現れたようだった。
(口が裂けた?……)
口腔の上下に鋭利な牙が生え、ぽたぽた唾液が滴り落ちる。盛り上がった頬肉の上に黄色いビー玉のような目があった。
弾かれたようにカズヤが逃げだした。
その瞬間、少女が後ろから飛びかかり、カズヤの首に噛みついた。巨大な口が首の肉を引きちぎり、ピューッと鮮血が吹き出した。壁に赤い染みが飛び散る。
うつ伏せに倒れたカズヤの上に少女がのしかかり、両手で掴んだ頭をひねった。ゴキッと嫌な音がして首の骨が折れる。無造作に右腕をもぎ取り、ムシャムシャと食べ始めた。
やがて少女が立ち上がり、尻もちをついている大樹を見下ろす。
頬に走った皮膚の裂け目が消え、元の顔に戻る。口の周りは血で真っ赤だった。髪はボサボサで、肌は煤けたように黒ずんでいたが、美しい顔立ちだった。
「君は口裂け女なの?……」
大樹が怖々と訊ねる。少女が口の手の甲で拭った。ギラついていた黄色い瞳が普通の黒い瞳に戻る。
「……あなた、私が怖くないの?」
少女が初めて言葉を発した。
「怖いけど……」
目の前で二人のクラスメイトが殺されたのになぜか恐怖心が湧かない。
「僕も食べるつもり?……」
少女が静かに首を振る。
「もうお腹いっぱい」
興味なさそうに大樹を見返す。
「……欲しいものはある?」
少女が少し考える素振りを見せ、それから言った。
「服。あと――大きなマスク。外に出るとき、顔を隠したいから」
「でも口は裂けてないよ」
頬の皮膚の裂け目が消えていた。見た目にはまったくわからない。
「美味しそうなものを見たら勝手に口が裂けちゃうの」
自分で制御できないらしい。口裂け女の生態を初めて知った。
「わかった。服とマスクを持ってくるよ」
「お肉が食べたい。しばらくはこれがあるからいいけど……」
床に倒れている二人の少年の死体を見下ろす。
「〝これ〟でどのくらい持つ?」
「一週間くらい……」
「スーパーで売ってる肉でもいいの?」
「人間がいい。子供は好き。肉が柔らかいから」
大樹の脳裏には、クラスのいじめっこたちの顔が浮かんでいた。マサトがいい。あいつを連れてきて彼女の餌にしよう。
母や大樹に暴力を振るう継父、いじめを見て見ぬフリをする教師……餌の候補はいくらでもいる。
「僕は大樹。君は?」
「前に育ててくれた人は舞って呼んでた」
「舞か。いい名前だね。一週間ぐらいしたら新しい〝餌〟を持ってくるよ」
「ありがとう……」
感謝の言葉を述べながら、少女は戸惑ったように訊ねた。
「なんでそんなに親切なの?」
「君に興味があるから」
「私、あなたを食べちゃうかも」
「食べてもいいよ」
ずっとこの世界に居場所がなかった。閉鎖されたお化け屋敷のような絶望の日々を生きていた。
何かが変わるかもしれない――異端の世界から突然、現れた少女は、大樹の中に暗い希望を芽生えさせた。
(完)