第一章 白い彫像
「夏ホラー2008」二作目の参加作品です。第二章として、人に聞いたミニ恐怖談集を付け加えました。
真夏の昼下がり。照りつける太陽は、アスファルトをジリジリと焦がし、陽炎を揺らす。
「空は、弱虫だよなぁ。肝試しで泣き出すなんてさ」
「本当に怖がりよね」
炎天下の舗道に、小学生達の笑い声が響く。
「だって……あのお墓、時々幽霊が出るって……」
空という少年は、前を歩く二人に一歩遅れて歩いて行く。
昨夜、六年一組のクラスで行われた『肝試し大会』は、空にとって最悪だった。女の子さえ誰も泣かなかったのに、不覚にも空は、クラス皆の前で大泣きしてしまったのだ。
「そんなの嘘に決まってるだろ。怖がらせるための演出、演出」
クラスメイトの拓海は、また声を立てて笑う。彼と肩を並べて歩いている七海も一緒になって笑った。
「……」
空は拓海が羨ましかった。いつも元気で明るくて、クラスの人気者的存在。勉強だってスポーツだって出来る。それに、女の子達にもモテる。全く自分とは正反対。
空は、拓海と顔を合わせて笑う七海の横顔を、後ろから盗み見た。二人が仲が良いことも、空はとても気になる。
今日のスィミングスクールも最悪だった。ようやくクロールが出来るようになった空だが、簡単に五年生や四年生に抜かれてしまう。体が弱くて風邪ばかりひくから、半ば強制的に親に勧められたスィミングだが、空は辞めたくて仕方ない。
とぼとぼと俯いて歩き、空は仲良く並んだ拓海と七海の影を踏んでいく。
──二人とも、本物の幽霊を見たことないから、笑っていられるんだよ。
「じゃあな! 明日は遅刻すんなよ!」
ぼんやり歩いてると、随分前を歩いていた拓海がふり返って手を振った。七海もクスクス笑いながら手を振っている。四つ角の分かれ道。二人は右で、空は左に曲がる。
明日のスィミングはさぼろう……と、思いながら、空は一人歩いて行く。濡れた髪の水滴が、湧き出る汗と混じって流れていく。
とにかく暑い。早く家に帰って、クーラーにあたり体の火照りを冷やしたかった。
けれど、家に帰り着くまでには、あの場所を通らなくてはならない。スィミングに行きたくない理由は、もう一つあった。
スィミングスクールのバスから降りて家まで歩く時、必ず、あの古びた洋館の前を通らなければならない。
今は住む人のない荒れ果てた洋館。鉄柵や館を囲む壁には蔦がからまり、管理者のない庭は、落ち葉や草で荒れ放題だった。
その洋館の前に来ると、空はいつも足早に通り過ぎる。晴れた昼間でも薄暗いそこは、今にも何かが出てきそうな気がした。
今日も空は目を瞑り、その前を一気に駆け抜けようとした。
と、ガサガサッと洋館の方から音がして、何かが空の前を通り過ぎる気配がした。空はビクッとして立ち止まり、体を硬直させる。何かが足にまとわりつき、空の足に触れた。空は悲鳴を上げそうになる。
『ニャー』
体を震わせ、恐る恐る目を開けた空の足元で、野良猫が鳴いていた。まるで、空をバカにするかのように、じっと空を見上げていた猫は、クルクルと空の足元を回ると、舗道を走り去って行った。
ホッと胸をなで下ろした空の耳に、今度はギギィという鈍い音が響いた。
さっきの猫が通ったせいか、いつもは固く閉ざされている洋館の鉄柵が内側に開いている。まるで、空を招き入れるかのように……。
空はゴクリと唾を飲み込んだ。早くここから立ち去ろう! 心ではそう思っているのに、何故か体がその場に釘付けになったように動かない。
──ちょっとだけ、ちょっとだけ庭を見てみよう。
好奇心、怖い物見たさ。震えながらも、空は洋館の中に入ってみたくなる。一度そこに入って見れば、何でもないってことが分かるはず。明日からはもう怖がることは何もない。そう自分に言い聞かせつつ、空は鉄柵に手をかけた。
「空!」
その時、突然背後から名を呼ばれ、空は心底驚いた。勝手に人の家に侵入しようとした泥棒が、見つかってしまったような気分だ。
「……拓海君?」
心臓をバクつかせつつ、さっき別れたばかりの拓海が、目の前に立っているのを見て、空は目を丸くした。
「何で……?」
「ママに買い物頼まれてたの忘れてた」
拓海はそう言いつつ、通りの向こうのスーパーを指さす。
「それよか、空こそ、こんなとこで何してんの?」
拓海は鉄柵に手をかけている空を、意地悪な笑顔で見つめる。
「不法侵入?」
「ち、違うよ!」
慌てて手を放す空の後ろから、拓海はグイッと鉄柵を押した。
「今日は開いてるんだ。ってことは、僕達入って良いってことだよね?」
拓海は平然と庭に入っていく。拓海もこの洋館には興味を持っていたようだ。
「ちょっと中を探検してみようぜ」
「……」
躊躇しながら、空も足を踏み入れる。拓海と二人なら、一人より怖くない気もした。
「なんだ、何もないじゃん」
荒れた洋館の庭を一周した拓海は、サクサクと枯れた落ち葉や木ぎれを踏みしめ、つまらなさそうに呟いた。洋館の扉や窓は、しっかりと閉められていて開けることも出来なかった。
裏庭には枯れてひび割れた噴水があり、その中央に白い女性の彫像が建っていた。美術室にあるような白い石膏の彫像だが、薄汚れて白というより灰色に近い。長い髪をたらした女性の彫像は、古代ギリシャ人が着ていたようなヒラヒラしたドレスを身にまとい、両手を掲げて丸い玉を頭上に持ち上げている。
真っ直ぐ上を見上げた彫像の女性は、口元に柔らかな笑みを浮かべているかのようだ。
結局、庭にあるものと言えば、その噴水しかなかった。
だが、空は内心ホッとしていた。見る限り、この洋館に不気味な気配は感じない。明日からは、この前を通る時、怖がらなくてすみそうだ。
と、その時、ガシャンッという音がした。
「つまんない」
見ると、拓海が庭に落ちていた石を拾って、洋館の窓の一つを割っていた。
「拓海君……!」
いくら誰も住んでいないといっても、窓ガラスを割るなんて、犯罪だ。だが、拓海は気にする風でもなく、割れたガラスを見て面白がっていた。
「あの彫像、何持ってんだろ?」
拓海は、ガラス窓から噴水の白い彫像に視線を移した。
「何のボール? だっさいな」
「もう帰ろうよ」
空が言うより先に、拓海はさっきよりも一回り大きな石を拾い上げていた。石を持ちピッチャーのように振りかぶり、彫像の玉を目がけて思いっきり投げる。
ガシャーン!
見事に石は命中し、予想以上にもろく彫像の玉は砕け散る。
「もうやめようよ……」
空は怖くなり、小声で拓海を止めるが、拓海は彫像の砕け散る感触に興味を示す。
「窓を割るより面白いや。空もやってみなよ」
「やだよ」
首を横に振る空に、拓海は石を握らせる。
「もう大分傷んでる。ほっといてもそのうち、壊れるさ。結構面白いぜ」
言いながら、拓海はまた石を拾っている。
「……」
気が咎めるが、空が石を投げるまで、拓海は空を解放してくれそうもない。もし、投げなければ、また拓海にからかわれる。『空は弱虫だからなぁ』そう言って、七海と笑い合う様子を想像するだけで、空は悔しかった。
──いいや! ただの古びた彫像だし。
石を手にした空は、白い彫像目がけて思い切り石を投げつけた。
ガッシャーン!
今度は彫像の右手が砕けた。拓海が言ったように、彫像の割れる感触は快感でもあった。
「おっ! 右手に命中!」
拓海は広い集めた石を、次々に彫像目がけて投げつける。左手、頭、胴体……もろくも彫像は石をぶつけられるたびに、粉々に砕けていった。
見る間に白い彫像の姿はなくなり、辺り一面に白い破片の山が出来ていく。そして、最後には、彫像がドレスの中から出していた左足の先だけが、噴水の台に残った。
「最高! 面白い!」
興奮気味の拓海は、砕け散った彫像を眺め、勝ち誇ったように笑っていた。
「……」
空は笑えなかった。台の上の左足の先が、やけに痛々しく目に映る。
さっきは快感だった感触が、今は心に重くのしかかる。
『彫像を殺した』そんな考えが浮かんで、空は激しく首を横に振った。
──ただの彫像じゃないか! それに、壊したのは僕じゃなくて拓海だ!
「じゃあな! 空!」
じっと彫像の残った足を見つめていた空の耳に、拓海の明るい声が響く。拓海は何事もなかったかのような態度で、笑いながら洋館を立ち去って行った。
──拓海が悪いんだから!
空は心の中で叫ぶと、走って洋館を出て行った。
その日は、寝苦しい夜だった。
クーラーをつけていても息苦しいような、じめっとした夜。
空は顔をしかめ、何度も寝返りをうつ。浅い眠りの中で、さっきからずっとうなされていた。
『痛い……痛い……』
苦しそうな低いうめき声が、空の耳の奥に響いてくる。
『右手が、私の右手が……』
白い衣装を身にまとった髪の長い女性が、噴水のたもとにうずくまっている。空に背を向け左手で右手のあったあたりを押さえている。
──彫像だ。あの白い彫像……!
夢の中の彫像は、人間の姿をしていた。彼女は体を震わせながら、必死で痛みを堪え呻いている。よく見ると、白い衣装は血で真っ赤に染まり、彼女の右手はなくなっている。肩の下からちぎれた右手から、ドクドクと赤黒い血が流れ落ちていた。
彼女の傍らには石が転がり、その石も血で染まっている。
空は声にならない悲鳴を上げた。
──ごめんなさい! ごめんなさい!
必死で謝りながら、彼女に向かって手を差し伸べた。
──僕は嫌だったんだ。拓海が投げろって言うから……! 拓海が悪いんだ。
不意に、うずくまっていた女性は振り向き、素早い動作で左手を伸ばしてきた。
──ひぃっ!
彼女の左手が、ガシッと空の右腕を掴む。強い力。次の瞬間、その手は白い彫像に変わっていた。腕に食い込むような痛みを感じ、空は悲鳴を上げて飛び起きた。
心臓がドキドキする。体中に汗をかいていた。
──夢だから……ただの夢だから。
空は自分に言い聞かせるが、右手を掴まれた感触がまだ残っていた。空は怯えながら、痛む右手を必死でさすった。
その夜は、それから一睡も出来なかった。空は右手をさすり続け、夜が明けるのをひたすら待っていた。
──拓海も夢を見たのかな? 僕は右手しか壊さなかったけど、拓海は全部壊したんだ。もっと酷い目にあっているかもしれない……。
翌朝、直ぐに空は拓海に電話した。
しかし、拓海は空の話しを笑って聞き流すだけだった。
『昨日は泳ぎすぎて爆睡さ! 夢なんか見る暇もなかった』
空は、まだ痛む右手をさすりつつ、拓海の明るい笑い声を疎ましく思った。
『弱虫だなぁ、空は。怖がるからそんな変な夢見るんだよ。あれはただの古い彫像。血なんか流すわけないだろ』
拓海は可笑しそうにゲラゲラ笑う。
『あっ、それから、俺、今日はスイミング休むから』
笑いが一息ついたところで、拓海は言った。
「休み?」
拓海がいないなら、今日は七海とゆっくり話しが出来る。一瞬、空は嬉しく思ったが、空の喜びは次の瞬間消えていた。
『七海と映画見に行くんだ。試写会っていうやつ、昨日帰ったら招待券が届いてたんだって。だから、七海も休み』
「……」
『今日は、七海とデート!』
受話器の向こうで拓海の嬉しそうな笑い声が響く。
その声を聞きながら、空は乱暴に受話器を置いた。
──何で、僕だけ!?
空の怖さは、怒りへと変わる。
その日は、空もスィミングをサボった。
行きたくもないスィミングに、一人で行く気にもなれない。だいたい、スィミングに行こうと思ったのは、七海がいたからだ。
それなのに、いつの間にか七海は拓海と仲良くなっていた。
──拓海さえ、いなかったら。
むしゃくしゃしながら、空は自転車に乗って家を飛び出す。学校でもスィミングでも、拓海は空の友達のように接してくる。けれど、家が近所というだけで、特に親しい友達だと思ったことは一度もなかった。
それなのに、拓海はいつも空に付きまとう。勉強も運動も拓海が勝っている。クラスの人気者で女の子にももてる。
──七海も僕より拓海が好き……。
悔しくて、空はスピードを上げて自転車を漕いだ。
と、小さな路地を飛び出したところで、自動車の急ブレーキの音が響いた。
「わぁっ!」
気付いた時、空の目の前に自動車があった。空も慌てブレーキをかけるが、間に合わず自動車と接触した。
ガシャンッ! と大きな音を立てて自転車が倒れ、空は道路に投げ出された。
「おい! 大丈夫か!」
自動車のドアが開いて、男の人が空に駈け寄って来る。
「痛いっ! 痛い!」
道路に仰向けになったまま、空は右手を押さえた。あまりの激しい痛みに、空は涙を流した。
「右手が……! 右手……」
肘のあたりから出血し、押さえた左手が真っ赤に染まる。
──彫像のたたりだ……。
感覚のなくなった右手を、空は霞む目で見つめる。救急車のサイレンを遠くで聞きながら、空は気を失った。
空は右手を骨折した。
右手がちぎれてなくなってしまうんじゃないかと、恐怖に怯えていたが、どうにか骨折だけですんだ。
その後の夏休み、空はギプスで固められた右手に不自由しつつ過ごすこととなった。もちろん、スィミングにも行けず、家に閉じこもったまま宿題に没頭していた。
拓海や七海ともほとんど会わないでいた。
空が入院している時、一度二人がお見舞いに来て会ったくらいだ。その時も、拓海と七海が二人して来たことが、空の心を重くした。
「拓海君は、ホントに何ともないの?」
ギプスで覆われた右手をかばいつつ、空は念を押して拓海に聞いた。
「ある訳ないじゃん!」
拓海は彫像のことなどすっかり忘れていて、空が説明しないと何の話しか分からない様子だ。そして、未だに怖がっている空をバカにするように笑った。
「空は気にしすぎ。本当に怖がりよね」
七海も笑っていた。七海の笑顔はいつも可愛くて、空の心を楽しくするけれど、その時の七海の笑顔は冷たく、空の心にとげを刺した。
──何で僕だけ……!?
拓海と七海の笑顔が、心底憎らしい。
──不公平だ。
『彫像のたたり』と、空が思いこんでいた出来事だったが、結局その後、拓海が事故に遭うこともなく、何事もなかったかのように幸せそうに毎日を送っていた。
やがて、夏休みも終わり、二学期が始まった。
空は、まだギプスのとれない不自由な右手のまま、学校に通うことになった。
ある日、塾からの帰り、空はプラットホームで電車が来るのを待っていた。その時、混み合うホームの片隅に、拓海と七海が並んで立っている姿が目に入った。
二学期になって、中学受験も近くなり、受験組は勉強で忙しくなる。空は骨折を機会にスィミングも辞めて、最近は拓海や七海とは学校でしか会わなくなっていた。
学校でも、空は二人を避けるようになった。
空は、二人に気付かれないよう、遠くへ移動しようとしたが、拓海と七海の楽しそうな笑い声が何故か耳について離れない。
プラットホームの先頭に立って、たわいないお喋りを続ける二人。
空は、自分の白い右手を見つめ、惨めな気持ちになる。
二人はきっと、中学生になっても付き合って、彼氏と彼女になるのだろう。そう思うと、自分だけ子供で、取り残されたような気分になる。
──僕だけ『たたり』を受けて、拓海は何ともない。全部拓海が悪いのに……いつも、いつも、拓海が悪いのに……!
二人の笑い声が、自分をバカにして笑っているように聞こえる。
空は、いつしか二人が立っているホームの方へと歩いていた。
特急電車の通過を告げるアナウンスが響き、線の外側へ下がるよう告げられる。
やがて、スピードを上げた電車がホームへと近づいてきた。空は足を速める。
──人をバカにして!
電車の轟音。
一瞬、拓海が空に気付き、顔を上げた。
目と目が合う。笑顔のままの拓海。
空は顔を強ばらせ、拓海の直ぐ後ろに走り、次の瞬間には、白いギプスの右手を振りかざしていた。 電車がホームに入り、突風が巻きおこる。
──拓海が悪いんだ!
全身の力を込め、空は白い手で拓海をホームへ突き飛ばした。
警笛を鳴らし、電車がホームへ飛び込んで来る。拓海の姿は電車の中に消えていた。
あちこちから悲鳴が沸き上がる。
騒然とするホーム。空は茫然と立ちつくしたまま、自分の右手を見つめていた。
白いギプスで固めた右手。
それはまるで、石膏で作られた白い彫像の手のようでもあった。
拓海は電車にひかれ、その小さな体はバラバラに砕け散った。
形の残った体の一部さえ見つからなかったが、後にただ一つ、線路の片隅から、拓海の左足の先だけが発見された……。
その後、空の右手の骨折は治り、元通りに快復した。だが、空の心は、もろくも壊れてしまった。砕け散った拓海の体や彫像のように……。
「彫像のたたりだ……彫像のたたりだ」
空は精神科病棟のベッドに座り、来る日も来る日も笑い続けていた。 了
前回が「黒」い沼だったので、今回は「白」い彫像にしてみました。このストーリーには、霊的な現象は全く起きてないかもしれません。全て、空の恐怖心が作り出した心の闇。それが、恐ろしい事件を巻き起こしていく、という物語にしたかったです。
悪魔も悪霊も、みんな人間のすさんだ心のなかに住み着いているのかもしれませんね。