空っぽの家
僕の家はいつも空っぽだった。
空っぽと言っても、もちろん家族はいた。
父が一人、母が一人、兄が一人の4人家族。
一般的な家庭だったと思う。
生活水準は、寧ろ、一般家庭より高かった。
父は大手建設会社の重役だったし、母は地方公務員の共稼ぎだったから、経済的には恵まれていた。
兄も成績優秀、文武両道で学校では人気者だったし、傍から見れば完璧な家族だった筈だ。
ただ、皆が皆、優秀過ぎたのかもしれない。
50歳過ぎてもバイクでツーリングに出掛けるのが趣味だった父は、死ぬ時はバイクと一緒だと豪語していた。
休みが取れると、まだ早朝も暗いうちにバイクに乗って出掛けて行く。
もちろん、僕ら家族とではない。
彼のお供をするのは、学生時代からつるんでいるバイク仲間達だ。
彼に言わせれば、友情は家族愛よりも崇高で尊いらしい。
「お父さんはね、父親という家庭内の枠に嵌められて生きるのは間違っていると思うんだ。男は外に自分の世界を持っていてこそ仕事も頑張れるし、人生もモチベーションを高く維持できるんだよ」
父はしたり顔で、まだ幼かった僕にそう言って、今日も意気揚々と出掛けて行った。
子供を残して遊びに行くという疚しさなんかは、その背中から全く感じられない。
確かに、家庭に束縛されない父は、いつまで経っても若々しくてエネルギッシュだった。
会社での評価も高く、それは一重にバイクという趣味のお陰だと自他共に認めている。
でも、「お前も男ならいつか分かるよ」と父が言う度、僕が思うのは「早くバイクで事故ればいいのに」ということだけだった。
だって、そうすれば、父も少しは家にいるようになるだろう。
残念ながら、僕の思いとは裏腹に、父はなかなか事故に遭わなかった。
一方、公務員だった母は、毎週末、英会話に励んでいた。
お嬢様女子大の英文科を卒業したと自慢するだけあって、母の英会話はかなり流暢だった。
その内、習うだけでは飽き足らず、有志を集めて、留学生を対象にした日本語講座を始める事になった。
もちろん、完全無償のボランティアだ。
逆に、場所代に掛かる費用を母が自腹を切って補っていた。
「私が講座を続けるのは、お金の為じゃないのよ」
自腹を切ってまで見知らぬ外国人に日本語を教えるのがそんなに楽しいのかと、幼かった僕が尋ねた時、母は新興宗教の信者のような自信に満ち溢れた顔で答えた。
「意識の高い人達と集まって何かを始めるのは、自分にとっても勉強になるし、世界が広がるわ。女だからって家にいちゃダメなの。結婚したって、自分の夢を追いかけなくちゃ。ママの夢はね、定年退職したら日本語教師になって外国に行くことなんだから」
少女のように顔を紅潮させ、夢を語る五十路女の夢は、僕にとってはなんともはた迷惑な話に思われた。
定年退職した初老の女性が外国に行くより、国内で何かできることがあるんじゃないのか?
受け入れる外国側だって、老人人口が増えて迷惑だろう。
何にせよ、母にとって、家庭は女を腐らす牢獄くらいな場所らしい。
でも、女が家庭にいなかったら、誰が家に残るのだろう?
実際、母のいない週末は、子供だけで家に残されてしまうので、宅配ピザを頼むのが習慣になっていた。
「女だからって結婚して大人しく家庭に収まるような人生にしたくないの」と母は常に言っていた。
「だったら、どうして結婚したんだろう?」と僕は疑問に思っただけだった。
文武両道で成績優秀の兄は、物心つく頃にはひたすら勉強していた。
週末は塾やセミナーに積極的に参加して、家にいる時は常に勉強部屋に引き籠っていた。
とにかく家を離れたかったらしい兄は、一人暮らしを条件に東京の有名大学に進学し、そのまま帰って来なくなった。
「こんな田舎じゃ就職先もないし、一度、都会に出たらもう帰れないよ。不便過ぎてさ」
田舎者のくせに、服装と髪型だけはチャラくなった兄は、久し振りに帰省した時、僕に言った。
「やっぱり、こんな田舎で一生終えてちゃダメだよ。視野が狭くなるっていうか、感覚が狂っちゃうんだよね。お前も東京に来たら、そんなダサいカッコで外歩けないぜ?」
上京してからたった4年ですっかり都会かぶれした兄は、何を勘違いしてるのか、帰って来る度に地元の友人の悪口ばかり言っていた。
彼に言わせれば、この地方に住んでいる全ての人間がダサくてダメらしい。
「お前も井の中の蛙で収まんなよ」と兄に言われた時は、都会という大海で既に溺れてかけている兄が憐れにさえ思えた。
僕の家族は、いつも家庭以外の場所に何かを求めていた。
だから、家にはいつも僕しかいなかった。
でも、僕はいつも疑問に感じていたのだ。
一番大事な家庭という場所を大事にできない人間が、他の場所で何ができるんだろう?
やがて、月日は流れ、僕も社会人になった。
父は定年退職間近にして、バイクの事故であっけなくこの世を去った。
ある意味、彼の長年の念願が叶ったと言える。
時期を同じくして定年退職した母は、発展途上国のシニアボランティアに参加し、南太平洋の小さな島で日本語教師をしている。
契約期間が終わっても年金が入るだろうから、きっとのんびりしてくるだろう。
兄は都会で出会った女の子と付き合いだしてから一緒に暮らし始め、そのまま戻って来なくなった。
その女の子も関東の田舎の出身らしく、二人は田舎話に花が咲き、意気投合したのだという。
兄の恋愛事情にまで口を出すつもりもないけど、結局、都会に出てきた田舎者同士が寂しさを紛らわそうと付き合ってるような気がしないでもない。
そして、僕は家の近くの大手自動車メーカーの関連工場に就職した。
残業があっても家が近いので夜も決まった時間に帰れるのが魅力だった。
両親や兄ほど大きな夢も人生のモチベーションも持てなかった僕は、この家から離れようという気はとうとう起きなかった。
いや、夢は一つだけあった。
ささやかだったけど、僕には叶わなかったたった一つの夢。
誰も帰って来なくなった家に、僕は一人残された。
幸い、仕事も順調だったし、父の保険金のお陰で生活には不自由はしなかった。
誰もいなくなった家で、僕は庭の手入れを始めた。
小さな家庭菜園にはトマトやキュウリ、生垣には料理に使うハーブを植えた。
シンプルな外壁には赤いゼラニウムを並べ、エントランスにはオリーブの鉢植えを飾った。
ヨーロッパのファンタジー映画に出てくるような外観に、近所の住人達が珍しがって見物に来ることもあった。
そうして、外見だけは温かい家庭的な家に見えるようになった。
だけど、ある日、玄関のドアにウェルカムボードを掛けた時、僕は唐突に激しい虚無感に襲われた。
いくら綺麗にしたって、この家に帰って来る人など誰もいないのだ。
いや、最初から誰もいなかった。
父も母も兄も、皆、出て行く事ばかり考えて、誰もこの家に腰を据えようとはしなかったではないか。
脱力感に圧し潰されて、僕は玄関にペタンと腰を下ろした。
その時だった。
「ただ~いま~」
突然、女性の高い声が庭に細く響いた。
驚いて顔を上げると、外壁の穴から覗き込むように見知らぬ女の子がこっちを見ている。
見覚えのないその顔に、僕は首を傾げた。
「あの、どちら様でしょうか?」
「あ、すいません、あんまり家が綺麗だったので、思わず言ってみたくなっちゃって」
女の子は屈託なく笑った。
ビジュアル的に人の事を言える立場でもないけど、彼女は一般的にかわいいと言われるような女の子とはかけ離れた容姿をしていた。
150cmくらいの身長に60kgくらいの体重で、俗に言う肥満体型と呼ばれる体格、細い目に小さな低い鼻とおちょぼ口が羽二重餅のようなポチャポチャした顔にちんまりと載っている。
シンプルな無地のトレーナーにダブダブしたデニムパンツ、年季の入っていそうなスニーカーという、機能重視のなりふり構わぬいでたちで、女子力はかなり低そうだ。
こんなシチュエーションで突然現れる女の子は大抵かわいい筈なのに。
まさかのマシュマロ系女子の出現に、僕は茫然として、しばらくその丸いシルエットを観察していた。
「素敵なお庭ですね。こんなかわいいお家に一度でいいから帰ってきてみたいな~って思ったら、思わずただいまって言っちゃってました。テヘ!」
「………」
なんなんだ、この女の子は?
新手の保険のセールスウーマンなのか?
それとも、ソーラーパネルの取り付け業者の営業か?
正体が分からない女の子に、内心、ドキドキしつつも、僕は曖昧に返事をした。
「はあ……、それはお褒め頂いてありがとうございます」
「私、近くに住んでるんですけど、またお庭見に来ていいですか?」
「ま、まあ、いいですけど、あなたは何してる人なんですか? どっかの業者の営業の方?」
女の子は厚い肉に埋もれた首を竦めて笑った。
その笑顔はまさにハンプティ・ダンプティだ。
「やだ、心配しないでください。私、営業の人じゃないですよ。だって、自宅警備員ですもん」
「じ、自宅警備員?」
「そうです。所謂、家事手伝い、またの名はニートですね」
「……」
「お家が綺麗だったから思わず覗いちゃったっていうのは本当です。あと、お庭にいたあなたを見て親近感覚えちゃって、お願いしたら、きっとお仲間のよしみで中に入れてくれるかなって思ったの」
「お仲間?」
「だって、なんか私と似てる気がして……」
女の子はキャハハと笑った。
そりゃ、僕は身長160cmで体重70kgの立派な肥満男子だけど、そこに親近感を覚えられてもあまり嬉しくはない。
女の子は高いテンションのまま話し続けた。
「いつもお手入れされていて、本当にすごいですね。家がこんなに素敵だったら、どこへも行きたくなくなっちゃいますね」
「さあ、どうかな。この家にいた家族は、僕以外、全員出て行ったよ」
自嘲的に返事をすると、女の子は小さな目を精一杯見開いて驚いた顔をした。
「えー、勿体無いですね。私だったら、自宅警備員頑張っちゃうのになあ。だって、どこも行く必要ないじゃないですかあ。このお庭でお茶とケーキがあれば最高ですよね。あ、だから、痩せないのか、アハハ」
「……じゃ、一緒に警備してくれる?」
僕の言葉に、女の子は「は?」とキョトンとした顔で首を傾げた。
思わず口からず出てしまった願望に、僕自身も驚いて、慌てて両手を振る。
「い、いや、何でもないよ。せっかく褒めてくれたんだから、お茶とケーキ御馳走するよ。僕の手作りだから味は保証できないけど」
「えー、本当ですかあ!? 嬉しい~! ケーキ自分で作るなんてすご過ぎます~!」
「……だから、痩せないんだけどね」
「あー、それ、私もです~」
どこにも行かずに、家族と一緒に家でのんびり過ごすこと。
それが、どうしても叶わなかった幼い頃からの夢だった。
女の子の丸い顔と屈託のない大きな笑い声に、能面のようだった僕の顔にも自然と笑みがこぼれる。
その日、空っぽだった家に、ようやく小さな明かりが灯ったような気がした。
Fim.