焚き火の話
久々にこの前焚き火をしてきた。私は小学校を卒業するまで世田谷区に在住していた。今の在所は勿論異なる。その世田谷区には、『プレーパーク』なるものが何ヵ所かある。少年少女に様々な挑戦をさせるというよーなものであり、そのなかでも目玉なのが焚き火である。
私は小学四年生の冬から、小学校卒業まで毎週末に通いつめて焚き火をしたものである。真夏に何するでもなく汗をだらだら流しながら火を焚く少年、極めてアホであるが、それが私だった。特技はとにかく盛大に火を焚くことであり、多分今でもその当時ほどではないが得意な方だと思う。
体全体をつかって薪を叩き割り、時には団扇であおぎ、奇声をあげながら楽しんでいた。中学の二年生迄は割かし定期的に通っていたが、流石に引っ越した後なので、徐々に頻度は減り、そのうち行かなくなったが、それはどうでもよい。
私が、中学受験のためにしていた試験勉強で、子育てを焚き火に例えた論説があったのを覚えている。確か、育児放棄の問題を下敷きにして居たはずである。最初は小さく、火のつきやすいものから徐々に大きな薪材に変えていく様がどうたら、放っておけば消えるだのなんだのである。細かい内容は完璧に忘れた。しかし、概要だけは知っている。その論説があった週末、勿論私は焚き火をしに行ったのだ。真夏の、気温は三十度近く。バカの極みであるが、何しろやらないと気が収まらない。中毒だったのだな。そこでその内容を反芻しながら焚いたものだ。汗を流しながら。子育てとはよー分からんが、火を焚くのは分かるぞと、謎のはりきりを見せた。いまだに熱中症で倒れなかった理由がわからん。汗を滴らせながら、『さうか、かように辛き事なるか』などといった不思議な感想を抱いたのが昨日のように思い出せる。
この前、一酸化炭素の実験をしたくて、久々に焚き火をしてきた。焚き火のなかに、割り箸を詰めた缶を入れて蒸し焼きにするというものだ。一酸化炭素を主成分とする可燃性ガスがでた。
私は、焚き火のあの独特な臭いが好きだ。あの臭いは、私の心を落ち着かせるし、何だか原始的な安堵感に包まれる。文明の根底に火があるというのは、この事かと一人ごちる事もある。煤まみれな顔になって帰り、起こられるのもよくあった事だ。そのやり取りが好きだ。そして、自分が生物である事を忘れさせてくれる。私は、私が生物であると意識するのが嫌なのだ。理由は知らんが、生々しいというか何というか、厭なのだ。しかし、火を焚く間は、すべての事をかき消してくれる。汗が体を伝うのは嫌いなくせに、焚き火をして居る間は高揚感でその事を忘れていられる。キャンプファイアでやたらと踊り狂ったり、よくある古いマンガの『野蛮人』が火の周りでなんかおかしな事をやっているのと全く同じ原理である。だとするならこれはすべての人間に言えることかも知らん。
と言うことで、なんか悩みごとがあるなら、とにかく焚き火をしてみよう。