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自由研究

作者: はるあみ

 夏休みの初日、九歳の僕は、お寺の山門の前に流れる細い小川に小さな白い花を見つけた。澄んだ水の中に揺れる細長い藻の上に黄色い花弁をつけた白い花は八十センチぐらいの短い石橋の陰に隠れるように咲いていた。

 二センチほどの小さな花を見たくて石橋から身を乗り出して近づくと、水面に女の子の顔が写っていた。

 目の大きな女の子に驚いた僕は、思わず花の中に顔を突っ込んでしまった。

「大丈夫?」石橋の上にいた女の子は、ビショビショの顔で目を丸くする僕に心配そうに見ているだけで、他に何もしてくれそうもない。

 仕方なく僕はTシャツの裾で顔を拭くと、そのまま門前の土産物屋が並ぶ参道を走って帰った。

 翌日の朝、僕はまた白い花が咲く石橋に走った。

「この暑いのに走らなくていいでしょう」とお母さんは言うが、子供である僕は急ぐ理由がなくても走るのだ。

 今日も石橋まで走る理由はある。昨日、ちゃんと見られなかった花をスケッチして図鑑で調べる必要があるのだ。

 僕の夏休みの自由研究は、『みじかにある花』と決めていた。何を研究しても自由だから自由研究なのだが、自由といわれるほど困ることはない。

 作文だって、絵画だって、自由に描きましょうといわれるほど困ることはない。だから、迷っていた僕にお母さんは自分が子供の頃にやったことをいくつか教えてくれた。

 朝顔の観察、昆虫採集、どちらも僕には向かない。朝顔の観察は毎朝起きなくてはならないし、昆虫を触るのは苦手だ。

 残ったのは花のスケッチ。絵を描くのは嫌いじゃないし、いざとなれば図鑑を写すことだって出来る。

 そして最初に見つけたのが、白い花だった。光の反射と石橋の陰の間に咲く白い花を僕は調べたいのだ。水面に浮かぶ大きな目の女の子に興味があるわけではない。

 息を切らせて石橋に辿り着くと、白い花だけが咲いていた。すこしだけがっかりした僕は、石橋に座りスケッチブックを広げると水に映る光どころか小さな花さえ上手に描けない。

 ひまわりだったかな。僕はすぐに後悔し始めた。ひまわりなら家に咲いているし、見なくてもなんとなく描ける。

 丸くなった鉛筆の先で、なんど描いても白い花は上手くかけない。

 なにより水の反射で良く見えない。勇気を出して、また顔を近づけると、小さい唇が笑っているのが写った。

 耳が熱くなった僕は、慌てて顔を引っ込めると、今度はスケッチブックが小川に落ちた。

 自由研究のために買ってもらった黄色と黒のスケッチブックがビショビショになった。

「乾かせば使えるよ」

 ポタポタと水が滴るスケッチブックを僕の手から白い指先で奪うと、ハンカチで一枚一枚拭きはじめた。

「乾けば使えるの?」

 半べそをかいて僕は女の子の指先を見つめて尋ねた。

「バイカモっていう花なんだよ」

 小麦という九歳の女の子は、スケッチブックを僕に返すと、濡れたハンカチをパタパタと風に揺らした。

「バイカモ? カモなの」

「違うよ、バイカって梅の花って書くの、それに藻」

 その説明は僕にはよく分からなかったが、橋の上でハンカチを振る女の子が、お姉さんに見えた。

「小麦も手伝うよ、佐藤くんの自由研究」

 女の子に宿題を手伝ってもらうのは気が引ける。ましてや、女の子と遊んでいるところを見られたら、きっとからかわれるに決まってる。

「大丈夫、自分で出来るから」

 僕は初めて胸がチクっとなった。残念そうにハンカチをポーチの中に入れる女の子を見て、僕は生まれて初めて胸がチクチクするのを感じた。

「ありがとう」

 僕はまだ濡れているスケッチブックを胸の前に抱えると、来た時の半分ぐらいの速さで走って帰った。

バイカモ。説明されても良く分からなかった花の名前を、僕はスケッチブックに小さく書いた。

 まだ湿っているスケッチブックを抱え、僕はやっぱり石橋まで走った。昨日の夜はなんでチクチクするのか考えて眠れなかったから、あんまり早く走れない。

 バイカモ、バイカモ。口ずさみながら走った先には小麦が居た。

「私も梅花藻の写生をすることにしたの」

 小麦は僕と同じスケッチブックをもって石橋の上に立っていた。

「ふーん」

 耳が熱くなった僕は、石橋の上に座ってスケッチブックを広げた。

 それから、僕たちはお寺の境内をスケッチブックを抱えてうろついた。

 黄色い蓮、オオバコ、ツユクサ。僕が知らない花の名前を小麦は良く知っていた。

 スケッチブックはクレヨンで描いた色とりどりの花で埋まり、僕の自由研究は順調に進んでいった。

 僕と小麦は、お寺から近くの川にも花を探しに行った。

 土手に咲くシロツメ草で小麦はネックレスを作って見せた。

「なんで、小麦はそんなに花に詳しいの」

 僕は前から気になっていたことを、聞いてみた。

「小さいころ、入院していてね、その時に植物図鑑ばかり見ていたの。病院の窓からは、ビルしか見えなかったから」

 夏の太陽にあてられて白い肌が赤く上気した顔で小麦は、病気のことを教えてくれた。

 難しいことは分からなかったけど、五歳の時からずっと小麦は病院の中で過ごした。去年の夏に手術をした小麦の胸に大きな手術跡が残っているという。だから、小麦はプールには入らないのだと言った。

「痛くなかった?」

 何を言っていいか分からなかった僕は、当たり前のことを聞いて、前とは違うチクチクを感じた。


 夏休みの途中に、登校日があった。毎日スケッチブックを抱えて外を歩き回っていた僕は、驚くほどに日焼をしていて、友達から驚かれた。

「佐藤、女と遊んでんの?」

 こんなことを言い出すのは、武藤だった。佐藤は大人しいのに、武藤は乱暴。これはクラスの全員が知っていることだった。

「土手でいちゃいちゃしてるんだぜコイツ」

 僕は必死で言いわけを考えた。

「知らないよ。勝手について来て僕の絵を真似しているんだ」

 言い終わって、またチクチクした。

「嘘だ、お前好きなんだろう。女好き!」

 大人しいのが定説の僕は、「違う、好きじゃない。あんなヤツ知らない」と呟くのがやっとだった。

 そんな僕を、クラスの女子もニヤニヤしながら見ているのが怖くなって僕は泣き出した。

 泣き出した僕に武藤は追い打ちをかける。

「おんなずき、おんなずき」

 なんとも頭の悪いこと丸出しの囃子言葉だが、僕を叩きのめすのには十分に破壊力があった。

 翌日から僕はスケッチブックを机の一番奥にしまい。部屋の中でゲームをして過ごした。

 大好きなゲームをしていても、ずっと小麦のことが気になった。暑い日差しの中で、小麦は石橋の上で待っていて倒れていないか。

梅花藻に顔を近づけすぎて川に落ちていないか。

 野川で足を滑らせて転んでいないだろうか。

 明日も来るって約束した僕のことを怒っていないだろうか。


 夏休みが終わる数日前、昼から雷がなった。

 ゴロゴロと大きな音を立てる雷に、僕は耳を塞いだ。

 昔読んだ絵本で、雷がものすごく怒って雨を降らすのを読んだことがある。約束を破った僕をきっと雷は怒っている。

 そう思うと、僕は傘をもって家を飛び出した。

 約束を破ったのは僕だから、小麦が雨に打たれるのは僕のせいだ。

 真っ黒な空の下を僕は今までで一番早く走った。

 小麦は土産物屋さんの軒下から、僕を見つけて手を振ってくれた。

 降り出した雨は、参道に落ちて跳ね回る。その様子を土産物屋さんの軒下で見ながら、僕は何も言えず黙っていた。

 本当は「ごめんね。約束を破って」そう言いたいのに。

「小麦の花って見たことある?」

 小麦は約束を破った僕を責めずに、そんな話を始めた。

「幼稚園の庭に小麦があってね、名前が同じだったから、男の子にからかわれたの。そしたらね、『白くて可愛い花が咲いているよ』って言ってくれた男の子がいたの。その男の子が、秋になったら、うどんになるから、一緒に食べようって約束してくれた。

 穂先の小さな花に最初に気づいてくれたのが、その男の子で、すごく嬉しかった。

 でも、そのあとに入院しちゃったから、約束は守れなかったの」

 なんで、そんな話をするのか分からない僕は、「そうなんだ」とだけ答えてポカンとしていた。

「来年の春になったら、あの幼稚園に小麦の花を見に行こう!

約束だよ」

夏休みが終わったら、また大きな病院のある街に引っ越すという小麦は、僕の手を握ると、小さな声で、

「約束だよ。今度こそ守るからね」

そう言うと、少し雨に濡れたブラウスのボタンを外し、十字に残る施術の痕に僕の手を置いた。

「約束だよ。春にはもっと元気になるから」

僕は「ごめんね」も言えないまま、ただ小麦の傷跡を触りながら、「うを」とだけうなづいた。

小麦の胸がトクトクと動き、僕の胸は、またチクチクとした。


それから僕は小麦の絵を毎日描いている。僕が通っていた幼稚園には小麦が植えてあることも、お母さんから聞いた。

でも、心臓が悪い小麦という女の子がいたことは、お母さんも覚えていない。

あのスケッチブックの最後のページは、小麦と二人で白い花を描くために残しておいた。




いかがですか?

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