あなたの恋が叶いますように
もうすぐ夏至祭の日が来る。
日差しが暑くなってきた教室で、先生の話し声と学友の石盤に文字を書き込む音を聞きながら、ぼんやりと思った。
わたしはその日、急いで学校から帰るつもりだった。
鞄を肩に掛けて教室の出入り口へ向かう。
大事な用事があったわけではなくて、ただ手紙を出しに行きたかっただけだけど、夕方にはお母さんの手伝いをしなくちゃいけない。
それに郵便局には、家からそれなりの距離があるから、ゆっくりはしていられない。
学校から家まで帰って手紙を取って、郵便局に行って帰る。夕食の支度に間に合うかな。やっぱり手紙を学校に持って来ていればよかったかもしれない。
だけど教室から出ようとした時に、後ろから呼び止められた。
その声の主が誰だかわかると、わたしは途端に不機嫌になってしまう。話しかけないでよ、まったく。
「何か用? ジョシュア」
わたしが刺々しい言い方をして、無表情で振り返っても、彼はいつも通りの愛想のいい笑顔を浮かべていた。だけど無理に作っている顔だと、ほとんどの人が気づいているだろう。心配そうに学友の何人かが見守っている。
「今度の土曜日に皆で河辺までピクニックに行こうって話しているんだ。タニアも行くだろう? 釣り好きなんだよね」
女の子がきゃあきゃあ言う程のかっこいい顔で誘いをかけられる。
だれに聞いたのか知らないけれど、わたしは釣りが好きで、おまけに天気のいい日に、友達と外でサンドイッチを頬張るのも好きだわ。
でも最近ではピクニックはともかく、釣りはあまりしていない。女友達はもう子供っぽいと言うし、わたしもそう思う。誘われれば行っていたけど。
だけどどこに行くのかも、何をするのかも問題じゃない。答えは決まっている。
「行かないわ」
「どうして。用事でもあるのかい。学校のすぐ近くの河だから、ちょっとだけでも参加しないか」
「行かないったら」
なんでいつもすぐに諦めてくれないのよ。
「顔を出すだけでもいいから」
「あなたがいるから行きたくないの!」
わたしは苛立って声を荒げてしまった。
教室内がしん、と静まりかえる。ジョシュアは傷ついた顔でわたしを見ていた。
だけど謝る必要なんてない。彼が口を噤んだので、背を向けてさっさと帰ることにする。
何人かがわたしに非難の声を上げていたけど、無視して足を速めた。
腹が立つわ。あんな顔をするなら、話しかけなければいいのに。
今みたいなやり取りは、一度や二度のことじゃない。二日に一回は行われている。ジョシュアがわたしに話しかけて、わたしが突っぱねて、ジョシュアが傷つく。
何度も繰り返しているんだから、どう言われるかなんてわかっているはずなのに、彼は相変わらずわたしに話しかけては傷ついている。
でも別にそうしたくて、キツい言葉を返しているわけじゃない。彼がわたしをしつこく遊びに誘うからそうなるのよ。大嫌いな人に構われ続けたら、あんな言い方になるわよ。
「タニア!」
学校を出たところで、再び呼び止められた。
この声は友達のマリだ。
でも何を言われるのかがわかっていたから、振り返らずに歩き続けた。
「タニア、あんな言い方はないわ」
「いいじゃないの。彼は未だに理解していないみたいだもの」
隣に並んで説教しようとするマリに、前を見たままそっけなく返す。
「何をよ」
「わたしが彼のことを大嫌いってことをよ」
「タニア……」
マリは困惑していた。眉尻を下げて、言葉を探している。
彼女もわかっていない。わたしを説得できる言葉なんてないということを。
「ねぇ……本当にあのことは彼が悪いわけじゃないのよ。ネリーが何を言ったのか知らないけれど、ちゃんと彼の言い分も聞いてあげるべきだし、あの時もっとひどいことを言っていた人はたくさんいるわ」
「その人たちも許せないけど、もっと許せないのはきっかけを作ったジョシュアよ」
「だからそれは、ジョシュアは悪くないの。仕方がないじゃないの。だってあれは……」
「マリ、わたし急いでいるの」
言葉を遮って、ぴしゃりと言った。マリは悲しそうな顔をする。
でもそれ以上は聞きたくない。わたしは彼女を置き去りにして、早足で駆けた。
やりきれない思いを抱えながら、口には出されなかったマリの台詞が頭の中に響いた。
『だってあれはネリーが一番悪いんじゃない』
わたしは憂鬱な気分で自分の書いた手紙を見つめた。
この手紙は読まれるのか、封を切らずに放置されるのかどちらだろう。
ここ二カ月の間、一週間に一度は出している手紙に、返事が来たことはない。
それでも手紙を書くのは、書かないよりも書いたほうがいいから。むしろ書くのをやめたら、あの子はきっと癇癪を起こす。
手紙の受取人には「ネリー」という名前がある。
ネリー。わたしの双子の片割れ。
彼女は小さい時から困った子だった。顔が可愛くてちやほやされていたから、何でも自分の思い通りにしたがるようになってしまった。
そんなあの子を諫めるのはいつもわたし。おかげでしっかり者だと思われるようになった。同時に気の強い女という認識もされたけど。
似ているけれどそっくりではなかったから、知らない人には必ずわたしが姉かと聞かれたし、性格だけじゃなくて趣味も正反対だったから、外ではあまり一緒にはいなかった。それでも仲はいいほうで、おしゃべりをし出すと止まらなくなる。そんな双子だった。
そのネリーは今は十八年間生まれ育ったこの村にはいない。居られなくなってしまった。
現在は叔母夫婦に預けられている。
きっかけを作ったのはジョシュアだった。
彼は一年前に赴任してきた医者の息子として、この村にやって来た。かっこよくて社交的な彼は、こんな知り合いしかいない田舎の村で、一躍人気者になるという偉業を達成した。
医者の息子なのにあまり頭がよくなくてノリのいいところは男の子に受けて、顔がよくて気さくなところは女の子に受けた。
わたしだってあの頃は好意を抱いていた。
そして大勢の女の子たちと同じように、彼と付き合いたいと思ったのはネリーだった。
あの子には当時付き合っていた男の子がいたけれど、そんなことは気にしないのがネリーだ。とにかくジョシュアの気を引こうと、やたらにつきまとうようになってしまった。
そうなると何を言っても無駄。何度か注意はしたけれど、その場限りの返事しかしない。わたしはジョシュアと距離を取り始めた。だってあの子への苦情を言われても面倒だから。
ネリーは思い込みが激しくて、自分に都合のいいように言葉を解釈してしまうから、すぐにジョシュアに好かれていると勘違いしてしまった。
「わたしが一番可愛いっていったのよ」
「今度二人で出かけようって誘われたわ」
どこまでが本当で嘘かは知らない。
だけどジョシュアはその気がないのなら、もっとはっきり拒絶するべきだったのよ。
二人が付き合っているのだという噂が囁かれるようになるよりも前に。我慢の限界が来て大勢の人がいる場所で、ネリーに酷い言葉を浴びせるよりも前に。
彼が何を言ったのかはっきりとは知らない。わたしはその場にはいなかったから。
だけどもともとネリーにいい感情を持っていなかった村の人たちは、そのことがきっかけで、ますますあの子を悪く言うようになった。
あの子の外見と調子のよさで好意的に接してくれていた人たちも、手のひらを返すようになった。
村のほとんどの人からネリーは嫌われてしまった。
あの子は自分勝手で都合のいい解釈をするくせに、人からどう見られているのかとても気にする弱い子だった。
外を出られなくなって、学校にも行けなくなり、ネリーは引きこもるようになった。家の中にしか安心して居られなくなった。
そうして村に居場所がなくなったネリーは、街の叔母の家に預けられることになる。
そうなってもやっぱり皆はネリーが悪いのだと言う。中にはいなくなってよかったと囁いている人がいることを知っていた。
身勝手でそのくせ弱い、わたしの片割れ。
あの子のことを一番に理解しているのは、間違いなくわたし。
だからわたしはジョシュアのことが大嫌いになった。
◇ ◇ ◇
夏至祭では親しい人たちに腕輪を贈る。
由来はよくわからないけれど、この辺りではそういう風習があった。
腕輪といっても、紐で編んだ簡単に出来上がる手作りのもので、とにかく腕に嵌められればそれでいいってことになっている。
中には凝ったものを作ったり、草や木の枝を使って特徴を出したがる人もいた。
親しい人というのに制限はなく、家族だけに贈る人もいれば、村の半数以上の人に配る人もいる。
わたしは家族と五人の友人と、お世話になっている隣に住む家族の分を作っていた。
あまり特徴のない、よくある紐で編んだタイプのものだけど。
でもそれなりに手が込んでいて、出来栄えもなかなかのものだと思う。いえ、懲りすぎて時間が足りない。
次の金曜日の夜が夏至祭だというのに、まだあと三つ作らなきゃいけない。わたしは家にいると何かと用事を言いつけられるので、授業が終わった後に、学校の花壇に座って紐を編んでいた。
もうちょっとで一つ完成する。そうしたら今日は家に帰ろう。
そんなことを考えていると、手元に影が差した。
「もうすぐだね」
見上げるとジョシュアがいた。
穏やかな表情で、いつものような作った笑顔じゃなかった。
どうしたのだろう。
疑問に思いながらも、その力を抜いた態度に、警戒心を少し緩めてしまった。
「タニアはどの家を訪ねるか決めているの?」
夏至祭当日のことかしら。
その日の夜は数家族が合同でホームパーティーを庭先で開く習わしだ。そして知り合いのパーティーに顔を出して回って、腕輪を渡したり、手料理をご馳走になったりする。
「……マリの家と、村長のお宅よ」
「じゃあ僕の家にも寄ってくれないか?」
「無理よ。家の手伝いもあるから」
隣の家と合同でやるのことになっている。
「そうか。じゃあ、会えるとしたら村長の家かな」
「……そうね」
わたしはどうしてこんなに普通に会話を続けているのかしら。ジョシュアが嬉しそうな顔をしたせいで、我に返った。
手にぐっと力を入れて、彼を睨みつける。
「ジョシュア」
「何?」
彼は悲しそうに笑った。
わたしはいつもより口にするまでに、少しだけ時間がかかった。
「わたしはあなたが大嫌いなの。だから話しかけないで」
何度も言った台詞だった。
「タニア・・・僕はネリーに酷いことをしたと思っている。だけどまさかあんなことになるとは思わなかったし、それにあの時僕が彼女に怒ったのは、僕がされたことが原因じゃない」
彼はこれまで何度もわたしに謝っていた。でも言い訳をするのは初めてかもしれない。
「ネリーがジムに酷いことを言ったんだ。だからついカッとなってしまった」
知っている。たくさんの人がわたしに教えてくれた。
「それにいくら言ってもわかってくれないから、キツいことを言った。でもそれくらい言わなきゃ気づいてくれないと思ったんだ」
これも他の人が言っていた。
わたしがジョシュアを突っぱねるたびに、周りの人は彼を庇う。ジョシュアは悪くない。あれは仕方がなかった。
そして本当に悪いのはネリーだと仄めかす。
ジムは当時ネリーと付き合っていた男の子で、あの子に酷い扱いをされても、別れようとしなかった。本当は優しい子なんだと言って。
そんな彼をあの子はどうでもいい人間のように言った。だからこそジョシュアは怒って、更に溜まっていた鬱憤をぶつけた。
何度も聞かされたから、知っている。
知った上でわたしはジョシュアが嫌いだと言っているのよ。
「それでも大勢の人の前で責める必要はなかったわ。あの子は家から出られなくなったのよ」
「それは……でも僕はあの時以降はネリーを責めていない。言い過ぎている奴は止めていた」
「あなたがきっかけを作ったんじゃないの」
わたしはこれ以上話をしたくなくて立ち上がった。
「タニア!」
「もう帰らなくちゃいけないの。次に会っても話しかけないでね」
言いながら、それでも彼はまた話しかけてくるんだろうと思って、気が重くなった。
このところずっと胸に小さな鉛が入り込んだような気分になっている。
でもそれもあと少しの間だけ。
夏至祭が終われば、学校を卒業できるのだから。
学校から帰ってきた子供たちや、仕事を終えた大人たちが、待ちに待った祭りの準備を始める。
この日ばかりは畑仕事をさっさと切り上げても、店をすぐに閉めてしまっても、誰も文句は言わない。
わたしは台所にこもって、料理を作るお母さんの手伝いをした。夏至の日だけに作られる特別なパイの調理方法をしっかり頭に叩き込む。
出来上がった料理を次々に庭に運んだ。
隣の奥さんはこの日のために鶏を一羽絞めて、豪華な鶏肉料理を作ってくれている。美味しそうな匂いが充満して、お腹が鳴りそうになる。
「タニア、こっちはもういいから食べてらっしゃい」
「ありがとう、お母さん!」
許可が降りたので、わたしは庭先に飛んでいった。
お父さんたちはもう飲み食いを始めている。
すぐにお腹を満たしたかったけど、その前にやらなくちゃいけないことがある。
「おお、タニア来たのか。ほら、こっちに来い」
お父さんが上機嫌で手招きした。隣の椅子に座ると、腕輪を差し出される。
編み方も凝っていない紐の腕輪だけど、木の実を通しているところはちょっとかわいい。でもこれって小さい子供が喜ぶようなものなんだけど。
「お前の願いが叶いますように」
お父さんが優しい声で言った。
腕輪を贈る時は、こんな言葉をかけることになっている。
大抵の場合は「願いが叶いますように」と言うけど、特に決まってはいない。要するに腕輪は願掛けのおなじないなのだ。
わたしもお父さんに腕輪を渡す。
「ほう、今年はまた手が込んでいるな。タニアは器用だな」
褒めてくれたところを申し訳ないけど、わたしはここ数年お父さんに言っていることを繰り返した。
「お父さんがあともうちょっとだけ痩せますように」
毎年言っているのに、一向に痩せてくれない。いえ、もしかしたらちょこっとだけ痩せているのかもしれない。太りすぎているから気づかないだけで。
気まずそうな顔をするお父さんにため息を吐いて、わたしは隣の奥さんと旦那さん、お爺さんとお婆さんと五歳年下の女の子にも腕輪を贈った。皆喜んでくれた。
しばらくはそこでのんびりしていたけれど、近所の人たちが顔を出し始める。
わたしもそろそろ行かないと。
マリの家に行ってから、二人で村長の家に向かった。
辺りはまだ明るいけど、そろそろ夕方とは言えない時間帯になっていそう。
一年の内で今日だけは、子供でも夜更かしが許されるから、何時だろうと関係ないけど。
村長の家の庭にはたくさんのテーブルと椅子と料理が並べられていて、人もごった返していた。
少しでも時間がある人は必ず顔を出すから当然なんだけど。
わたしとマリは空いている椅子をとうにか確保した。
いろんな人と挨拶をしながら、料理を少しずつ食べる。
村長の息子が得意のギターを鳴らし出すと、何人かが適当な振り付けで踊り出した。ヤジを飛ばす人と、やり返す人のやり取りを笑いながら眺める。
わたしはふと学友の姿を見つけて、マリの袖を引っ張った。
「ねえ、ウィリーがいるわよ。行ってきたら」
マリが片思いしている男の子がちょうど友達と離れて、一人で座っていた。
「腕輪作っているんでしょう?」
マリは赤くなって俯いた。やっぱり用意していたわね。
なかなか踏み出せない彼女を、無理やり立たせて背中を押した。こんなチャンス滅多にないのだから。
後ろ姿を見守っていると、マリはなんとかウィリーに声をかけることができた。
大人しい彼女にしては上々だわ。彼の反応も悪くない。
ほっとして、いちご水を喉に流し込む。このまま上手くいってくれればいいけど。
わたしは手に持ったグラスをじっと見た。
これいちご水じゃないわ。飲んだことのない、すごく変な味がする。
もしかしてお酒かしら。村長の奥さんが禁酒法を無視してお酒を作っているのは公然の秘密だし、そのお酒がこっそり飲める夏至祭を楽しみにしている人がいるのも知っている。
もっと注意しておくべきだったわ。
でも一杯ぐらいじゃ酔わないって聞くし、平気よね。
「大丈夫?」
いつの間にかそこにいたのか、真横にジョシュアが立っていた。
わたしがお酒を飲んだことに気づいたのか、心配そうな目で見ている。やっぱり話しかけるのね。
「そんなに飲んではいないわ」
「そう。よかった」
言いながらマリが座っていた椅子に腰を下ろす。この人わたしが一人になるのを待っていたのかしら。
でも今日は夏至祭。皆が陽気に騒ぐ日だから、こんな所で冷たい態度を取って、空気を悪くするわけにはいかない。
わたしはマリがいる方向をちらりと見た。彼女はウィリーと話し込んでいて、とてもいい雰囲気になっている。しばらく戻っては来ないだろうな。
「タニアは学校を卒業したら、どうするんだ?」
なんでこんな祭りの日に、将来の話なんてするのよ。
「働くわよ。店の売り子」
「へえ、どこの」
「どこでもいいでしょ」
口調がいつもよりキツくないせいか、ジョシュアは笑って聞いている。
「売り子なんだろう。誰にでも愛想良くしなくちゃいけないのに、そんなんじゃあ怒られるよ」
わたしは痛いところを突かれて黙った。
あまり愛想が良くないことは、これでも気にしている。性格がキツくても、顔つきはキツくないから、なんとかなるんじゃないかと思っているけど。
「あなたはどうなのよ。医者にはなれないのでしょう」
「ああ、頭がよくないからね。ジョセフさんのところに弟子入りする」
ちょっとばかり嫌味で返したつもりなのに堪えていない。
ジョセフさんって、家具職人のジョセフさんかしら。なんだからしいわね。
「そう……」
「うん」
会話が途切れた。
温かい喧騒に包まれる。
村長の息子さんはますます調子に乗って、誰かに歌えと囃し立てている。
わたしは今度こそいちご水を見つけてちびちびと飲んだ。
騒がしいはずなのに、なぜか静かだと思った。
「タニア」
ジョシュアが右手をわたしに突きだしていた。
手のひらの上には、細い木の枝をヤスリで磨き、器用にしならせて輪っかにしている腕輪がある。
それは受け取れと言わんばかりに、わたしの目の前に差し出されている。
腕輪をじっと見てから、ジョシュアを見た。彼は微笑んでいるだけだったけど、わたしが腕輪を手に取るまで、この体制から動かなさそうで、思わずそれを受け取ってしまった。
ジョシュアが嬉しそうに笑う。
「君の願いが、叶いますように」
今日何度も聞いた言葉だった。
だけどこんなにも心を込められた言葉を聞いただろうか。決まりきったお約束の言葉ではなくて、それは願いだった。
わたしは居ても立ってもいられなくなって、椅子から立ち上がった。
「わたし、もう帰るわ」
逃げるように立ち去った。
この時は急に帰ったら、マリが困惑するとか、心配をかけるとか、そんなことはまるで考えつかなかった。
とにかくわたしは一人にならなくちゃいけなかった。
薄暗くなり始めた空は、それでも灯りなんてなくても道に迷わないくらいには明るい。
わたしは早足で家に帰っていた。
胸が痛いことに気づきたくなくて、走ってしまいたい。
でも見通しのいい小路は、余計なものまで見せてくれた。あるはずのない幻までも。
二又に別れた路の先に、今よりも少しだけ背の低いジョシュアが立っている。
なんでこんなものを見ているの。頭がぐちゃぐちゃになっているからって。
ちょうど一年前のこの小路だった。ジョシュアと初めて会ったのは。
彼は引っ越して来たばかりの村を探索していて、わたしは道に迷ったのだと勘違いして、声をかけた。
「あなたお医者様の息子?」
「どうしてわかったの」
「皆が話しているからよ。お医者様には大きい息子がいるって。あなた見ない顔だもの」
彼はちょっとうなだれた。
「やっぱり村中が知り合いなんだな。僕は受け入れられるだろうか」
「大丈夫よ、お医者様の息子なんだから」
「いいや、期待させて悪いけど、僕は父さんの跡を継げない。なんてったって医者が匙を投げるくらいの頭の悪さだ」
おどけた言い方がおかしくて、わたしは笑った。
「あなたその調子なら大丈夫よ、絶対」
実際にジョシュアはすぐに人気者になった。学校ではいつも皆の中心にいる。彼のことが嫌いな人間なんていないんじゃないかと思うくらいに。
わたしは手の中の腕輪を意識した。
握りしめたままだった。他の腕輪と同じように手首に嵌めることができない。
どうして受け取ってしまったのよ。いくら夏至祭だからって、いらないと言えばよかったのに。
「タニア」
予感がしていたから、驚かなかった。彼は追いかけて来るって。
「危ないから送るよ。もうすぐに暗くなるから」
「結構よ」
言った後に後悔した。何よこの泣きそうな声は。
「タニア、何かあったのか?」
足音で彼が歩調を早めたのがわかった。わたしも追いつかれないように走るような速度になる。
だけど本気で追い越そうとされれば、適うわけがなかった。ジョシュアはわたしの横を通り過ぎて、目の前に立ちはだかった。
驚いて顔を上げると、彼まで驚いている。そんなに酷い顔をしているのかしら。わたしは後ずさった。
「来ないで。放っておいてよ」
懇願するかのような声が出る。お願いだから、わたしに構わないで。
「君は……」
彼は顔を歪めて口を噤んだ。何か葛藤しているように見える。でも覚悟を決めたように再び口を開いた。
「君はただ怒っているだけじゃなくて、本当に僕が嫌いなのか」
一瞬、息が止まった。
自分が驚いていることに驚く。
わたしは何度もそう言っていた。それでも彼が理解しないことに憤っていた。だから頷けばいい。そうよ嫌いなのと言えばいいだけ。
だけどなぜか繰り返し言った言葉が出てこない。
混乱した頭はまともに働いてくれなかった。
「だって……あなたは皆に好かれているわ」
「……タニア?」
「そしてネリーは皆に嫌われてしまった。お父さんとお母さんですら、疲れた顔でため息を吐いていた。だったらわたしぐらい、わたし一人くらいあの子の味方でいたっていいじゃない」
ずっと言うつもりのなかった言葉が吐き出されていく。でももう、耐えられなかった。
「皆が知っているんだからいいじゃない。あなたが悪いわけじゃないんだって。だからわたしがあなたを責めたって、皆困った顔をしているだけでしょう。だけどわたしが、わたしまでがあの子を非難したら、あの子はどうなるの? 誰からも顧みられない、馬鹿で愚かな人間になってしまうわ。たとえ本当にあの子が悪いのだとしても、わたしにはそんなことできない」
知っていた。ちゃんと。
悪いのはネリーで、ジョシュアじゃない。
あの子がわたしに隠れて、いろんな男性と同時に付き合い、我が儘放題をしていて、だからこそ恨まれていたことも。
ただ虚栄心を満たすためだけにジョシュアに付きまとって、そのくせいろんなプレゼントをくれるからというだけで、ジムと別れなかったことも。
ジョシュアのことはきっかけに過ぎなかった。ほとんどの人がネリーに不満を持っていて、だからあの子はこの村に居られなくなった。
誰もが仕方のないこと、当然のこととして受けとめていた。わたしだって自業自得と思ったわ。
だけどそれを口にしてしまっては、あの子はいらない人間になってしまう。
それだけは駄目。違うのだと言わなくてはいけない。
「わたしは知っていたのよ、ジョシュア。あなたは悪くないんだって」
呆然としている彼に真実を告げる。
わたしはネリーは悪くないと思っていたわけでも、ジョシュアのせいでネリーが傷ついたのだと思っていたわけでもない。
ただあの子を惨めな人間にしないためだけに、彼を責めて、嫌いなんだと言い続けていた。
知っていたから。あの子のことは誰よりも。
わたし以上にあの子を理解し、そして接してきた人間なんていない。
──ネリー、いい加減にジムとは別れなきゃ駄目よ。
──そうね。もういいわ。
──あら、本当に別れるのね。よかったわ。
──ええ、だってあの人、タニアのこと口うるさいって言ったんだもの。ふざけてるわ。
身勝手で嘘つきで、自分が何よりも大事で、そのくせ弱いネリー。
あの子が本当に愛しているのは、わたしだけだった。
わたしだって、どうしようもなくて、時々大嫌いになるけれど、それでも大事じゃないなんて言えない。
他に誰もいないなら、わたしは嘘を吐いてでもあの子を庇う。
「タニア……」
ジョシュアは言われなき非難を受けていたのに、怒りもせずに苦しげにわたしを見ている。
「やっぱり僕が悪かったんだ。あんな風にネリーを責めるべきじゃなかった」
「いいえ、あなたは悪くないわ」
あの子が相手のことなど考えずに行動して、そして勝手に傷ついただけ。
「違う、タニア」
ジョシュアはそうじゃないと言った。
「僕が悪くていいんだ。そうしてくれて構わない。だから嫌わないでくれ。ちゃんと話をしてくれ」
喉に熱いものがせり上がってきた。
どうしてそんなことを言うの。
「そんなの意味がないわ。今更あなたが悪いのだと言って、誰がそれを信じるのよ」
ジョシュアが優しいからそんなことを言っていると思われるだけ。あの子の評価は変わらない。
「わたしはあなたと仲良くなることだけはできないの」
それはつまり、ネリーの味方が誰もいなくなるということなのよ。
「でも……」
わたしは首を振った。何も言わないでほしいというように。
そうやって拒絶した。
あなたが何を言っても、わたしの意志は変わらないから。もう選んでしまっているから。あの子を。
「ごめんなさい」
なんて薄っぺらい言葉だろう。それでも言わずにいられなかった。なんて卑怯。
そんな権利なんてないのに、あなたを傷つけ続けてきたわたしには、謝る資格すら持っていないのに。
本当は最後まで嫌いだと言いたかった。そしてそんな理不尽なことを言うわたしを見限ってほしかった。
だけどもう、その言葉が喉から出てこない。大嫌いだと、もう一度だけ口にすることができなくなった。
それでも言わなくちゃいけないことがある。
わたしはポケットに入れていたものを取り出して、ジョシュアに差し出した。
時間をかけて、ていねいに編んだ腕輪。彼のために用意していたわけじゃない。予備に作っていただけ。
ジョシュアは受け取ろうとしなかった。彼がわたしにくれたのと同じ意味で、渡そうとしているのではないと、気づいているから。
仕方なく無理やり手に持たせる。
「わたし卒業したら、村を出るわ」
ジョシュアは息を飲んだ。泣きそうな目でわたしを見る。
学校の誰にも言っていなかった。止められたくなかったから。
でもわたしたちはもう、同じ場所にいるべきじゃない。傷つきあって疲れてしまうだけだから。
だからこれがもう最後。
「さようなら」
ジョシュアの顔をしっかり見て言った。これがわたしにできる精一杯だった。
家に向かって走り出すわたしを、今度こそ彼は止めなかった。
さようなら。
いつか、あなたの恋が叶いますように。




