ぼくがこわしたきみ
どうにもならなかった。
すすめてくれた缶コーヒーに睡眠薬が混ぜられていたらしく、眠くてぼんやりしてしまって、何もかもぼんやりとしか感じない。
ただ、あ、刺されてるんだ、と思った。
痛みはそこまで感じなかった。…けど、それは薬の影響なのかもしれない。
とにかく、彼女は繰り返し僕を切りつけた。
さすがに傷口をナイフで抉られた時は少し痛かった。
薄ぼんやりとした視界の中に、彼女を探した。
彼女は、艶やかに泣きそうに消えそうに笑って、ナイフを横に置いた。
彼女自身が刻んだはずなのに、なぜか彼女は愛おしそうに傷を撫ぜる。
分かるか分からないかのギリギリのところで、優しく指を滑らせる。
どうして?
そう、問い掛けたかった。
ぞわぞわと、体の奥底から奇妙な感覚が頭をもたげる。そして、その傷に口づけられた瞬間、その感覚がより明確なものとなった。
ぞくん、と体が跳ねそうなほどの快感。
猟奇的な行為と、その正反対の触れることさえ躊躇うような優しさが堪らない。
そこで再び、理奈の泣きそうな表情が目に入った。
彼女は、どうやら自ら進んで僕を傷つけている訳ではなかったようだった。
それどころか、僕を傷つけたことを、酷く後悔しているようだった。
その、瞬間。
僕の心は、嗜虐にびりびりと震えた。
傷つけられているのに、まるでこちらが傷つけているような錯覚。
牙をもたない草食動物に敢えて凶器を押し付けて、苛めているような。
戸惑いながら、震えながら僕を傷つける理奈が、愛しい。
彼女は事実、そんな行為が心底似合わないような人間であったから、余計に。
首筋に、唇が近付けられる。温かな息が触れる事でそれを知った。
僕はだんだん愉しくなっていた。
さあ、噛みつけばいい。
酷くきつく噛みついて、したたりおちる血に罪悪感を覚えるといい。
一生残るような後悔を背負って生きるがいい。
けれどもそこまでの痛みはなく、控えめに噛んだのか、首にはちくりとした感覚しかなかった。
拭うように撫でる柔らかな指。
ゆっくりとした動き。その緩慢な動きのまま、爪を立てて引き裂いてくれればいいのに。…噛み痕でもついたのだろうか。だとしたら、どうか消さないでいて欲しい。君に罪を刻みこんで僕に縛りつけられるのなら、それはきっと、本望だ。
首の、噛みついた場所にした、触れるだけのキス。傷口にもした、かすめるような口づけ。物足りなさを感じる幼い行為は、許しを求めるサインなのだと気づいた。
許すも何も、彼女は初めから僕の機嫌を損ねるような真似は何一つしていない。
もっと深く深く傷つけてもいいのに。そうすれば、その傷を見るたびに僕の存在がどうしようもなく大きくなるだろうから。
意識がだんだんはっきりしてくるにつれ、痛みもはっきりしてきて、呻き声をあげないように必死だった。もう景色はぼやけなかったけれど、泣いている彼女は僕が起きていることにすら気付いていないようだった。
動かない体、出ない声に苛立った。
全てに絶望した目で、ただ「ごめんなさい」と唇を動かし、電話をかける。わざとらしく取り乱す様子を、僕はただじっと見ているしかなかった。
夢も希望も未来もある彼女は、身軽に柵を飛び越えると、そのまま堕ちていく鳥のように、静かにその身を傾けた。




