わたしはいいこでいたかったのに。
そして、今に至る。
呼び出した。―休日の、学校の屋上に。
ひとつ前くらいに、私の狼が私にした事。その行為を、なぞる。
懐かしくないですか、と笑って睡眠薬入りのコーヒーを飲ませて、隠し持った果物ナイフで眠れる王子を刺す。
完璧にはなぞれなかったけれど、これは仕方がない。
彼は男で私は女―もっと言えば彼は成人男性で私はまだ女子高生―つまり少女だ。体格差も力の差もありすぎて実行などできるはずがない。
刺す、というよりは切りつけるに近く。
浅すぎず深すぎず、中くらいのちょうどいい深さで切りつけ続ける。
―真っ赤な血。
人間は本来そんなものにたいしてさほど欲をかきたてられないはずなのに、彼は確か、恍惚としていた。それを思い出して、私は彼の肌の白さと吹き出る鮮やかな赤に、目眩がしそうなくらい惹きつけられている風に演じる。
けれど。
―ああ、吐きそうなくらいに気持ち悪い。
ああ。
この赤も、そしてこの傷も。
突き刺したナイフをさらに深く貫かせ、抉るようにぐるりと百八十度動かす。すると、新たにどろりと血が溢れてくる。命が少しずつ溢れて、彼が一ミリずつ死へと踏み出しているようで、私は顔を背けたくて、ゆっくりと口端を引き上げた。
―どうして私の狼は笑えたのだろう。こんな、風に。
泣きたい。泣きたい。泣きたい。
どうしようもない嫌悪。引き返したくなるような情けなさ。けれど進むしかないと知っている愚かさ。 微かに感じる快楽を拾ってもなお、胸の内の九十八パーセントは後悔で埋まっている。
投げ出したくなって、はたと気づいた。
―きっと、ロウは。
視線は、浅く開いた傷口へと向かった。
―私が刻んだ傷。
世界に一つだけの、彼に送った、私だけがつける傷。
―きっと、それに焦がれた。
ゆっくりと表面をなぞり、許しを乞うように口づけた。
―あと一つだけ。
そう、言い訳する。
―あなたにするのは、あと一つだけだから。
独占欲の強い人なら、きっとこの上なく甘美な感情に変わるだろう、事実。
けれど、草食動物にはきつすぎる戒め。
かぷ、と彼の首筋に噛みつく。
―もう、どうにもならなかった。
喰らいつくことができなかった首筋を撫でる。
少しだけ食い込んだ歯の跡を、今ここで消せたらと、もう一度口づけた。
どうにもしようがなくて、涙が溢れて止まらない。
分かって、しまったのだ。
もう、どうしようもないことだけれど。
私は羽津さんの彼女にはなれないし、
私を殺した狼の気持ちもわかれないし、
羽津さんじゃない誰かを愛することなんて、できない。
私は、最初から羽津さんを愛していた。
だから、狼に対して似た感情を抱いていたとしても、それは羽津さんに対する感情じゃない。だから、狼と過ごした記憶を思い返しても、幸せな気持ちになれるわけじゃない。
虚ろな感情。
体も心に追い付いて、年老いて死んでしまえばいいのに。
『はい、こちら救急センターです。どうしました?』
乾いた笑いが漏れる。どうやら体は冷静だったみたいだ。
住所を告げ、彼女になりたくて殺してしまったのだと取り乱してみて、静かに彼を見た。
もう、刺す気にはなれない。
彼は、きっとこの世界で幸せになる。
―豹変した一人の少女のトラウマを抱えて。
それでもきっと、幸せになる。
手すりを乗り越える。吹き荒れる風が気持ちいい。
飛び降りたときの保険用にナイフをポケットに入れて、一気に飛び降りた。
ああ、速い。
速度が速すぎて、ジェットコースターから放り出された気分だ。
少し、楽しい。
人生を、振り返ってみた。
楽しい事もあったし、苦しい事もあった。誰しもそんなもの。私は終わるしかなかった。
羽津さんに必要とされない人生を生きられるはずがないし、狼を求められない欠陥だらけの兎なんて、もうその時点で終わっている。私は世界の不要物だ。
私なんていらない。
わたしなんて、いらない。
どん、と頭に衝撃がきて、ぱたん、と足が地面に落ちた。
物凄く痛い。けど、いままでの苦しみがこれで終わるのならそれで。
痛みは忘却という許しの対価だと思えれば、これで。
羽津さんはずっと思いださなければいいのにな。
だって、狼に戻ってしまったなら、私は、また置いていってしまったことになる。
だから、羽津さんのままで幸せなままで、この世界で暮らしたらいいのに。
―私も、思いださなかったらよかったのに。
―であわなかったら、よかったのに。
そうしたら、
他の 誰か を 愛して 、
そして 、
きっと 、
自分 は 、
必要 だって 、
おもえた 、
はず 、
―な のに。
 




