山の彼方に
都会のサラリーマンがある日の偽りの出張旅行から始まる災い、殺人事件に巻き込まれ家族が崩壊しやがて彼が見る本当の愛の姿
俺は薄暗い旅館にただ一人いる。休暇を利用してお守りを買いにきただけだ。別れの最後に加奈子が、あの時買えなかった物がほしいと言ったからだ。なぜそんな物が今ほしいのかわからないが、嫌いで別れる訳ではないので、甘えを聞いてやるつもりで今ここにいる。明日朝早く用事を済ませて娘の就職の御礼に行かなくてはならない。しかしまさか加奈子がここにいたとはー
健二さんそこに山があるの。昔、母がよく山菜を採りに行った山なの。
振り向くと加奈子が懐かしそうに山を見つめていた。素朴で感動屋の加奈子は疲れた自分を時には癒してくれた。付き合い始めて6年ほどたち彼女に頻繁に見合いの話があったのを覚えている。でも彼女にはその気がないらしく、いち二度付き合い付き合いしただけでその後は断っているらしい。止めたことは無いが自分に悪いと思っている感じがした。あどけない彼女がただ好きだった。
今を生きることだけがお互いに幸せだった。そんなある日彼女は誰かに気があることを告げられたらしい。彼女を抱きながら賛成した自分がこっけいだった。
雨が降り止まない。車まで二人濡れながらで走った。ティッシュとハンカチでお互い拭きあい、顔についた紙がなんだかおかしく笑った。楽しいときは楽しく、あたり前の話が通じなくなるまでに、それからさほど時間はかからなかった。今はなぜそうなったかは思い出せないが、二人の仕草に思いやりが無くなったことは確かなようだった。
修善寺から見る海を挟んだ富士は素晴らしいと聞いていた。俺はじっと遠くの山を見つめていた。何かを考える訳でもなく、ただじっと山を見つめていた。
海の風は健二のひたいの汗をさらに辛くした。加奈子は後ろ姿を見て景色と同化しようとしてる健二がなぜか羨ましく思った。自分とは時間が違うのだと、この時胸に感じた。
俺は何か忘れ物でもしているかのように加奈子の肩に優しく触れた。別に意味がある訳でもなく、彼女に触れてみたかった。安心した表情で加奈子はこちらを見た、ふっと心の中に切ない風が吹き抜け加奈子をじっとみつめた。日の下で幸せに出来ない加奈子に、何とも言えない感情が沸き、そっと額に顔を寄せ、髪と額の間を鼻でなぞってみた。人の生きてる匂いがした。
ーつづくー