戯れの結末
「ちょっと困ったことが起きたんだ」
俺が、カウンターに一人で座っている彼に声を掛ける前に、彼は俺が近づくのを察知して振り返りざまにそう言った。まだ、俺は彼の隣にも座らせてもらっていない。本当に困っているのかわからないくらい、彼はポーカーフェイスだったが、この慌てぶりは珍しく本当に困っているようだ。
1ヶ月ぶりに、親友の橘俊一に呼び出されて、銀座のコリドー通りにある、居酒屋「じゃぽね」に俺は顔を出した。
「話しはゆっくり聞きましょう。とりあえず、ビールくらい飲ませてください」
私は、カウンター席に座っている橘の横に滑りこむと、カウンターの中で微笑みかけている料理長にビールを頼んだ。
彼は、この店の常連である。一人のときは料理長が彼の相手をしているらしいし、彼に出す料理は、料理長自ら手掛けていると以前に料理長から聞いたことがある。
きっと今も料理長相手に雑談をしながら、私を待っていたのだろう。しかも、随分前から来ていたようだ。彼の前の酒が、ビールから熱燗に変わっている。
私は、彼の猪口に熱燗を注いで、とりあえず乾杯した。
「困ったことって何ですか?」
私は、テーブルの上の料理を眺めながら聞いた。
「腹は減ってないのか?」
橘は、落ち着いた口調で私を伺った。時間は午後7時、仕事帰りの私が、空腹でないわけがない。
「ぺこぺこです」
「何か注文していいぞ」
私は、メニューから2、3品の小鉢を頼んで、再びビールを飲んだ。
「忙しいのか?」
「貧乏ヒマなしってやつかな」
「忙しいのに、無理矢理呼び出して悪かったな」
「週の頭に定時で帰るのはちょっときついですね。でも、橘さんの急な呼び出しは今に始まったことじゃないでしょ」
私は、お通しを箸で突っつきながらにやりと笑った。
「それより、一体どうしたと言うんですか?」
橘は、猪口の酒を一気に煽って、手酌で注いだ。
私と橘俊一は、10年程前に同じ会社で働いていた同僚である。
彼は私より4つ年上の42歳で、現在は独立して、従業員10数名の小さな広告代理店を経営している。私は、相変わらずサラリーマンをやっている。そういう意味では、彼のほうが時間は自由に作れる。
会社が変わっても、つきあいは途切れずに、ずっと今まで続いていた。
私は、ある意味で彼を尊敬していた。彼から得るものも少なくないと思っているし、彼から学んだことも一つや二つではなかった。
「上杉は一度会ったことがあったな。ほら、六本木の橋本で偶然に会った女がいただろ?」
六本木の橋本とは、「橋本屋敷」というイタリアンレストランのことである。橘の紹介で行き始めてから、私も常連になった。
私は、最近めっきり衰え始めた記憶を辿ってみた。だが、六本木の橋本で会った、彼と一緒にいた女は、それこそ一人や二人ではない。それだけでは説明不足というものである。
「どこの店の娘?」
「クラブの女じゃないよ。大学時代の同級生って紹介した人だ」
それで私はピンときた。
六本木の「橋本屋敷」に、私が当時つきあっていた彼女と食事に行った時、偶然橘俊一と出くわし、彼の連れの女性を大学時代の同級生だと紹介されたことがあった。いつも若い女を連れている橘にしては珍しいと思った記憶がある。
確か、2ヶ月ほど前のことだったと記憶している。
「その人がどうかしたんですか?」
「つきあってるって話は前にしたよな?」
私は、再び乏しい記憶力に頼る羽目になった。聞いた憶えもあるし、初耳だったような気もする。
私は曖昧に頷いた。会うたびに、つきあっている女が変わるので、いちいち憶えていないというのが本音だ。
「それがとんでもないことになっちゃってね」
「とんでもないこと?妊娠させちゃったとか?」
私はにたりと、薄気味悪いと思われるような微笑みを浮かべて、彼をからかった。もちろん冗談のつもりである。
「それならまだマシだよ」
橘は吐き捨てるように呟いた。妊娠させるより酷いことって何だろう? と私は考えてみた。というより、妻子ある男が、不倫相手を妊娠させることよりも、もっと酷い事があるのだろうか、と彼の感覚を疑いたくなった。
「俺の目の前で自殺しようとしやがったのさ」
しやがった・・・彼にしては自虐的な表現に、私はちょっとした違和感を覚えながら首を傾げた。
「自殺、ですか? それはいつのことですか? またどうして?」
確かに、妊娠よりも穏やかじゃない。
「先週の金曜日だ」
3日前である。
「上杉も知っているとおり、俺は、彼女とシティホテルに部屋を取っても、外泊は絶対しないだろ?」
「そうでしたね」
妻子がある身では、それもしごく当然のことである。たまに出張や、私をダシに使った外泊もなくはないが、そうそう頻繁にできることではない。
「それが気に入らなかったらしいんだ」
橘は深い溜め息とともに、猪口の酒を空けた。私は、空の猪口に酒を注ごうと徳利を持ったが、空になっていることに気づいて、料理長に熱燗を頼んだ。
「たったそれだけで自殺ですか?」
私は、たぶん相当な呆れ顔になっていたと思う。
「それに、いつもそうしていることでしょう? その日に限って気に入らなかったんですか?」
「これには伏線があるんだ」
私は、ふと紹介された時のことを思い出して、
「そういえば、彼女は、確か結婚していましたよね。彼女だって外泊はできないんじゃないですか?」
「そうでもないんだ。あいつは、何年か前から夫婦仲が悪い。離婚までは考えてないらしいが、夫婦揃って好き勝手をやってる」
「橘さんが結婚していることは知っているんでしょ?」
「勿論だ」
「割りきったつきあいじゃなかったんですか?」
私が彼を、ある意味で尊敬しているというのが、まさにそれだった。
橘俊一という男の女性遍歴は、私が彼と知り合ってからも、その人数は私の指を貸しても足りないくらいの数だったが、その全てが割りきった、後腐れのない関係だったのである。少なくても、私の知る限りでは、揉めて困ったという話は聞いていない。それは見事なつきあい方という他ない。お互いに遊びと割りきっていて、ドロドロしたよくある別れ話など決して展開されたことがない。
その秘訣は、彼の薬指には結婚指輪が常に光っていることと、相手に、自分が家庭を壊す気が全くないことを承知させた上で不倫することのようだ。結婚を迫ってくるような相手も選ばない、と私は分析している。
つまり、彼にとって恋愛はゲームなのである。そして、見事なまでにそのゲームを楽しんでいる。常に勝者なのである。
「最初はそうだったよ。物分りのいい、快適なつきあいだった」
「最初はって、もうそんなに長いんですか?」
「橋本で紹介したときが最初のエッチだ」
すると、2ヶ月くらいのつきあいということになる。
「あいつがマジになってきたんだよ。夫と別れるから、自分と一緒になれって言ってきた」
「橘さんには珍しい失態ですね」
私は、冗談半分に笑ったが、事態は思ったより深刻なようだ。彼は笑わなかった。
彼が何か言いかけた時、料理長が熱燗を持ってきた。私は、それを受けとって、彼の猪口に酒を注いでから、自分の猪口にも注いだ。
「先週の金曜日に一緒にメシを食ったんだ。仕事の打ち合わせもあったしな」
そういえば、仕事上でも取引していると言っていた。私は、紹介されたときのことを徐々に思い出し始めていた。
「そのあと、六本木プリンスに部屋を取った。いつもやっていることだが、金曜日はワインを随分飲んでね。あいつも相当酔っていたらしい。事が済んだあと、俺が帰ろうとしたら、いきなり帰るなって叫び出した。こんなことは初めてだったよ。あいつは泊まっても問題ないので、いつも俺だけが帰ることにしているんだが…」
私は黙って聞いていた。相槌を打てないほどの緊張感が、彼に感じられたからだ。
「結婚の話がでた。初めてだよ、結婚を口にするなんて。そういうつきあいじゃないだろって、俺は言ったが、彼女は聞き入れなかった。旦那と離婚したがっていて、旦那も構わないような態度だそうだ。あいつが離婚するだけなら簡単な話しだし、俺には無関係なんだが、離婚後に、俺と結婚したいって言い出したんだ。俺にも離婚してくれって言ってきた」
世間ではよくある話のように感じられた。今迄こういうことがまったくなく、不倫を楽しんできた彼のほうが珍しいのだ。
「で、自殺っていうのは?」
「とにかく今夜は帰らないでって泣くのを、振りきって帰ろうとしたら、泊まってくれないのなら死んでやるって叫んで、風呂場で手首を切ろうとしやがったのさ」
最後は自嘲ぎみないい方だった。
「ほんとに切ったんですか?」
私は息を呑んだ。ドラマみたいな話が目の前で語られている。
「剃刀を手首に押しつけたところで、俺が止めたさ」
「芝居じゃないんですか」
「剃刀の刃が当たって出血した。酔ってたから、相当血がでたんで、びっくりしたよ。芝居だったかもしれないけど、あのときは、少なくても芝居には見えなかった」
橘は、口元に笑みを浮かべた。
「彼女は、そんなに激情型だったんですか?」
「そんなとこ、初めて見たよ」
「何故急にそんなこと言い出したんでしょう?」
私は首を傾げた。
「ことが終わったあとにベッドの中で会話をした。俺は自分の子供の話をした。上杉も知ってるとおり、俺は少年サッカーチームのコーチをボランティアでしてるだろう? 大会が近いから、明日の朝は早いって話した途端に、あいつが切れた」
「切れた?」
「ああ、あいつら夫婦には子供がいない。まぁ、彼女が仕事優先で、子供を作ることに反対したのが理由だが、最近になって、やっぱり子供が欲しくなったって、前に話していたことがある。だが、夫婦仲が悪くなった今では、これから子供を作ろうなんて気にならない。そこで、俺の子供が欲しいって言い出したのさ」
「橘さんの子供?」
「最近よくある話じゃないか。結婚はしたくないが、好きな人の子供だけ欲しいっていう、シングルマザー願望の女がさ」
「聞いたことあります。でも、待ってください。子供だけ欲しいっていうなら、結婚を迫るっていうのはおかしいですよね」
「子供だけ欲しいっていうのは詭弁だよ。要するに、あいつが離婚しない限り俺の子供は産めないだろう。旦那とは何年もやってないそうだから、俺の子を旦那の子だと偽るわけにもいかない。血液型も違う。だから、あいつが俺の子供だけ欲しいっていうのは嘘なんだ。離婚しても、あの年で一人で生きていくのは辛過ぎる。ましてや、シングルマザーはもっと大変だ。だったら、愛し合っている俺と一緒になって、俺の子供を産みたいっていう理屈だ」
「なるほど。つまり、子供も欲しいけど、橘さんと再婚する方が先決だと考えたわけですね」
「そういうことになるな」
不倫の結末として、ドロドロの状態になる話は珍しいことではない。むしろ、今まで何の問題もなく、綺麗に別れられてきたことが奇蹟に近い。
特に、橘俊一という男は非常にもてる。一緒に飲んでいても、注目を浴びるのは常に彼の方だ。そんな彼に、妬みさえ感じたこともしばしばだった。彼が狙った女は、非常に高い確率でモノにする。そのくせ、別れるときも非常に呆気なく、何の問題も生じない。
それに引き換え、独身で何の障害もない私は、女性と恋愛関係に陥るまでに、疲れ果てるほどの労力を要する。そして、好きになった女と恋愛に発展する確率は、商店街の福引で、ティッシュ以外の景品を当てることよりも困難だった。
世の中には俺に惚れる女はいないのか、と真剣に悩んだこともある。しかし、修羅場を経験している友人を前にして、このままでもいいかな、と一瞬思った。
「そのあとどうしたんですか?」
「とりあえず止血したよ。興奮してて、暴れるから相当手間取った。ここで死なれたら問題だからな。病院へ行こうって奨めたけど、本人が抵抗したんで、ベッドに寝かせて落ち着かせた。彼女も相当酔っていたからな。暫く一緒にいて、彼女の機嫌を取っていたら、そのまま寝てしまったよ。午前3時頃だったかな、彼女をそのまま置いて帰った」
「そんなことして大丈夫だったんですか?」
「今日、あいつの勤める会社に打ち合わせで行ったが、けろっとしてたよ。昨夜の出来事が嘘のような態度だった」
「じゃぁ、もう大丈夫じゃないですか。酔った勢いで、ちょっと我侭になっただけじゃないんですか? 彼女も今頃反省してますよ」
私は、人騒がせな、と呟いて料理メニューを取ろうとすると、
「それが、そうでもないんだ」
「まだ何かあるんですか?」
「彼女からメールがきた」
そう言って、彼は自分の携帯電話のメール履歴を探し始めた。そして、私の目の前に、携帯電話の画面を差し出した。
私は、その文面を読んで背筋が寒くなるのを感じた。
『私は貴方と結婚することを諦めない。貴方が私と別れるつもりなら、貴方との関係を奥さんにバラすかもしれないわ 玲子』
私は咄嗟に、映画の「危険な情事」を思い浮かべたが、口に出す雰囲気ではなかった。
「もう別れたいんだが、別れるのは苦労しそうだ。どうしたらいいと思う?」
そんなこと、恋愛経験の乏しい俺に聞く方が間違っている、と言おうと思ったがやめにした。これ以上自分を惨めにしたくなかったからだ。
彼は、これに懲りて不倫を止めるだろうか、と考えてみた。いや、きっと止めないだろう。恋愛は彼にとって、生きるための栄養みたいなものであって、例え毒に当たって、腹痛を起こしても、次は美味しいと期待して何度でも手を出すに違いない。そんな彼の恋愛に対する執念が、いつまでも若く、魅力的な人間を創り出しているのだろうと思う。
「なあ、おまえが彼女を口説いてくれないか?おまえなら、本気になられても大丈夫だろう。結構いい女だぜ」
私は、まじまじと橘俊一の顔を見て、何故10年以上もつきあってこれたんだろうと、首を傾げながら、乱暴に目の前の刺身をそのまま口に放りこんだ。
【終】