9話 祭り④
石畳を踏む足音が、夜の帝都に静かに溶けていく。
あたりには誰もいない。
丘の上で見た花火の余韻はまだ胸の奥に残っているのに、周囲はすっかり祭りの熱を失い、どこか現実へ引き戻されたような静けさだった。
私たちは並んで歩いていた。
――いや。
正確には、並んで歩いているだけではない。
陛下の手が、私の手を握っている。
丘を降りる時から、ずっと。
夜風は冷たいはずなのに、指先だけが妙に熱い。
互いに何も言わないまま、しばらく歩いた。
言葉を探しているわけではない。
ただ、どちらも同じことを思い出しているのが分かるからだ。
あの、花火の下での――
不意に、指がわずかに動いた。
陛下の指先が、私の指の隙間に触れる。
そして、ほんの少しだけ、絡め直された。
――心拍数が上がっていくのを感じる。
気づかないふりをしようとしたが、どうしても意識してしまう。
歩幅まで乱れそうになり、私は慌てて息を整えた。
「……アル」
呼びかける声が、思ったよりも小さくなる。
「何だ」
陛下は前を向いたまま答えた。
その横顔は、月明かりに淡く照らされている。
いつもと変わらぬ、凛とした表情。
「……手」
そこまで言って、言葉が詰まる。
どう言えばいいのか分からない。
だが陛下は、私の言葉の続きを待つように、わずかに首を傾けた。
仕方なく、私は続ける。
「もう、あたりに人はいませんが……離さないのですね」
一瞬の沈黙。
それから、陛下は小さく息を吐いた。
「離してほしいのか?」
淡々とした声。
だが、その言葉の奥に、わずかな緊張が混じっている気がした。
私は思わず首を振る。
「……いえ」
否定した瞬間、胸の奥が妙に落ち着いた。
陛下は私を見ないまま、ふ、と鼻を鳴らす。
「なら、このままだ」
簡潔な答え。
だがその直後。
陛下の指が、もう一度、私の手を握り直した。
今度は先ほどよりも、少し強く。
絡められた指が、逃げ場を失う。
鼓動が、さらに早くなった。
このままでいいのか。
分からない。
ただ、嫌ではないということだけは確かだった。
むしろ――
離されたくない、とすら思っている自分に気づき、私は視線を逸らした。
しばらくして、陛下がぽつりと呟く。
「……静かだな」
「祭りの人々は、もう広場に戻ったのでしょう」
「そうか」
それきり会話は続かない。
だが沈黙は、決して気まずいものではなかった。
むしろ、同じものを思い出している静けさ。
遠くで、祭りの音がかすかに聞こえる。
太鼓の響き。
笑い声。
だがそれらは、今いる場所とは別の世界の出来事のようだった。
ここにあるのは、夜風と、石畳の足音と繋がれた手の温もりだけ。
私はふと、陛下の横顔を見た。
金の瞳は前を向いている。
だがその表情は、どこか柔らかい。
花火の光を見上げていた時の、あの顔に少し似ていた。
「……アル」
また呼ぶ。
「何だ」
今度は、ほんの少しだけ声が近い。
私は迷った。
何を言うべきなのか分からない。
だが、口から出た言葉は、思っていたものとは違っていた。
「……今夜は、よく歩きますね」
我ながら、ひどく遠回しな言い方だった。
陛下は一瞬だけ黙り、やがて小さく笑ったような気配を見せる。
「……お前が付き合っているからな」
その言葉に、胸がわずかに熱を帯びる。
歩みは止まらない。
だが、指先の距離だけは、確かに近づいていた。
その時だった。
夜の静寂の奥から、かすかな音が聞こえた。
「……っ、ひっ……」
小さな、泣き声。
私と陛下は同時に足を止めた。
視線を向けた先――
街灯の届かない路地の影に、小さな人影がうずくまっていた。
肩を震わせながら、細い腕で顔を覆っている。
「……子供、ですね」
私がそう言うより早く、陛下は足を向けていた。
迷いのない歩み。
つい先ほどまで、花火の下で私の肩に額を預けていた人物とは思えないほど、静かで確かな足取りだった。
その背を追いながら、私はほんのわずかに息を吐く。
――この人は、やはりそういう人だ。
困っている者を見れば、放ってはおけない。
それが誰であろうと。
陛下は子供の前で膝を折った。
石畳に衣の裾が触れる。
「どうした」
低く、落ち着いた声。
威圧するような響きはない。むしろ、柔らかい。
子供はびくりと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。
月明かりに照らされて現れたのは、まだ幼い顔だった。
五つか、六つほどの女の子だろうか。
涙でぐしゃぐしゃになった頬をこすりながら、かすれた声で言う。
「……みんなが……いないの……」
「はぐれたのか」
こくこくと小さく頷く。
陛下はしばらくその様子を見つめていた。
そして、そっと息を吐く。
「泣くな」
短い言葉。
だが、その声は不思議なほど静かだった。
「迷子になっただけだろう」
子供の目の高さに視線を合わせたまま、続ける。
「祭りの夜だ。人も多い」
そして、わずかに首を傾ける。
「……名前は?」
「リオン……」
「そうか、リオン」
陛下はゆっくり頷いた。
「私はアルだ」
さらりと、偽名を名乗る。
そして、私を振り返る。
「こいつはリア」
「よろしくね」
私が微笑むと、子供――リオンは少しだけ目を丸くした。
泣き顔のまま、じっと私と陛下を見比べる。
その視線に、どこか探るような色が混じっている気がして、私はほんのわずかに首を傾げた。
だが、次の瞬間。
リオンは小さな手で陛下の袖をぎゅっと掴んだ。
「……いっしょに、さがしてくれる?」
その声は、不安に満ちている。
陛下は一瞬だけ目を伏せた。
だがすぐに、ゆっくり頷く。
「ああ」
迷いのない声。
「必ず見つける」
その言葉には、妙な説得力があった。
リオンの震えていた肩が、ほんの少しだけ落ち着く。
私はその様子を見ながら、ふと胸の奥に小さな違和感を覚えた。
理由は分からない。
ただ――
泣いている子供の手が、当然のように陛下の袖を握っているその光景を見て、
ほんの一瞬だけ。
胸の奥が、ちくりとした。
けれど、その感情の正体を考えるより先に、陛下が立ち上がる。
「リア」
「はい」
「祭りの広場へ戻る」
「承知しました」
私が頷くと、リオンが不安そうに陛下を見上げた。
「……ほんとにいっしょにきてくれる?」
その問いに、陛下はわずかに眉を上げる。
そして、当然のように答えた。
「当たり前だ」
そう言って、リオンの小さな手を取る。
その瞬間。
リオンの顔に、ようやく少しだけ安心した笑みが浮かんだ。
私たちは三人で歩き出す。
リオンは私の右手を、陛下は私の左手を取った。
気づけば、私が真ん中に立つ形になっていた。
小さな手と、大きな手。
その両方に引かれるようにして、私は歩く。
そして――
ほんの少し進んだところで、リオンがふと足を止めた。
「……あれ?」
不思議そうな声。
その視線は、私たちの手元へ向けられている。
私はつられるように、自分の手を見下ろした。
右手には、リオンの小さな指。
そして左手には――
陛下の指が、しっかりと絡められている。
先ほど丘を降りる時に繋いだままの手。
子供を見つけてからも、いつの間にかそのままになっていたらしい。
リオンはじっとその様子を見つめ、首を傾げる。
「……なんで?」
無邪気な問い。
私は思わず言葉に詰まった。
だがその隣で、陛下はまるで気にした様子もなく歩き続けている。
むしろ――
絡めた指を、ほんの少しだけ握り直した。
逃げ場を失った心臓が、大きく跳ねる。
「……はぐれないように、だ」
陛下は前を向いたまま、淡々と言った。
その言葉に、リオンは「ふーん」と納得したように頷く。
だが私は、その横顔を見てしまった。
月明かりの下で、ほんのわずかに楽しそうに見えるその表情を。
胸の奥が、また静かに騒ぎ始める。




