7話 祭り②
狐のお面に隠された視界は狭く、けれどその不自由さが、隣に並ぶ陛下の体温をより鮮明に伝えてきた。
繋いだ手からは、指先が時折ピクリと跳ねる感触が伝わる。
それは緊張か、それともこの喧騒に対する高揚か。
「……リア、あれは何だ。……妙に甘い匂いがする」
陛下が指差したのは、人だかりができている屋台だった。
鉄板の上で、薄く伸ばした生地に刻んだ果実と、見たこともないほど白く泡立てられた蜜を載せて巻き上げている。
帝都の流行に疎い私にとっても、それは未知の食べ物だった。
「何でしょうか」
「……食べたい」
「見たことがないものですし、食べても大丈夫なものでしょうか」
「……皆、食べているから大丈夫だ。……買え」
「承知いたしました」
人混みを掻き分け、手に入れたのは紙に包まれた熱々の菓子だった。
甘い香りが鼻をくすぐり、陛下の金の瞳が期待に揺れる。
陛下が手を伸ばそうとした瞬間、私は無意識にその前に手を差し出した。
「お待ちください」
私はごく自然に、その端を小さく千切り、自らの口へと運ぼうとした。
だが、指先が唇に触れる直前、熱い手が私の手首を掴んで止めた。
「……よせ」
低く、地を這うような陛下の声。
陛下は狐面を少しずらし、金の瞳に鋭い、それでいて少し焦燥の混じった光を宿して私を睨みつけた。
「……不愉快だ。……なぜ、お前が先に食べる」
「毒見です。万が一、これに毒が混入していれば……」
「……毒が入っていたら、お前が死ぬというのか」
遮るように放たれた言葉に、私は息を呑んだ。
陛下の手の力が、骨が軋むほどに強まる。
「……お前が倒れたら、誰が私の側にいる。誰が、私の沈黙を読み取るのだ。……お前は、私にとっての盾ではない。……私の一部だ。勝手に壊れることは、許さない」
それは、主君としての命令を超えた、独占欲だった。
陛下は私の手から強引に菓子を奪い取ると、毒など露ほども疑わぬ様子で、自ら口にした。
「……甘い。……死ぬほどにな。お前が毒を食らう必要など、どこにもない」
陛下はそう吐き捨てると、少しだけ顔を赤らめ、残りの半分を私の口元へと押し付けた。
「……食え。……お前が倒れないよう、私が命じる。……同じ毒を食らうなら、私と同時だ。いいな」
それは罰という名の、あまりにも重く、切実な共有だった。
周囲の喧騒に紛れ、交互に口にする菓子の熱は、どんな高価な晩餐よりも私の心拍を乱していく。
次に足を止めたのは、景品が並べられた射的の屋台だった。
コルク弾を詰めた銃を構え、棚に並んだ木彫りの人形や色とりどりの小瓶を狙う遊び。
「……リア、やってみろ。……お前の腕を見せてみろ」
「あまり期待はなさらないでください」
陛下に促され、私は渋々銃を手に取った。
護身術や剣術の嗜みはある。
だが、この軽すぎる玩具のような銃は、重心がどこにあるのかさえ掴めない。
狙いを定め、引き金を引く。
パシュッ、と間の抜けた音がして、弾は標的の遥か上を虚しく通り過ぎた。
「……おかしいですね。風の影響でしょうか」
「……風などない。お前の腰が引けているだけだ」
二発目、三発目。弾は無情にも空を切り、棚の奥の幕を揺らすだけだった。
景品の一つも落とせない私を、店主が「お嬢ちゃん、次は当たるよ!」と商売用の笑顔で慰める。
それが余計に悔しくて、私は眉間に皺を寄せた。
「代われ。……手本を見せてやる」
陛下が私の手から銃を奪い取った。
狐面を少し額に上げ、鋭い金の瞳を標的に定める。
その立ち姿は、粗末なマントを羽織っていてもなお、戦場を支配する将のような威厳に満ちていた。
――パンッ。
乾いた音とともに、一番奥にあった、最も小さな木彫りの人形が弾け飛ぶように落ちた。
「……もう一発」
流れるような動作で次弾を装填し、引き金を引く。
立て続けに、棚の上の景品が吸い込まれるように次々と落ちていく。
完璧な弾道。
一点の曇りもない集中力。
店主の顔が引き攣り、周囲で見物していた客たちから「おおっ!」と歓声が上がった。
「……これを持て。お前にやる」
私が受け取ったのは、精巧に彫られた、小さな白猫の木彫りの人形だった。
陛下はそれを私の掌に、無造作に押し付けた。
「私が欲しかったわけではない。……お前が欲しそうな顔をしていたから、獲っただけだ。……私の戦利品を、お前が管理しろ」
「……ありがとうございます。大切にいたします」
受け取った木彫りは、陛下の体温を吸ってじんわりと温かかった。
陛下は満足げに鼻を鳴らすと、再び狐面を深く被り直した。
――その時。
「おい兄ちゃん、あんたすごいな!どこの兵だ?」
「今の見たか?一発も外してねえぞ」
「もう一回やってくれよ!」
周囲のざわめきが、一層大きくなる。
好奇と興奮の混じった視線が、一斉に陛下へと集まっていた。
……まずい
私は一歩、陛下の前に出ようとする。
だが、その前に。
「……行くぞ」
低い声で、陛下が呟いた。
先ほどまでの余裕は消え、わずかに歩調が早い。
人混みを抜け、視線が途切れたところで、ようやく陛下は足を緩めた。
そして――小さく舌打ちする。
「……やりすぎた」
珍しく、はっきりとした自己評価だった。
「……ああいう遊びは、加減が分からん」
狐面の奥で、僅かに眉を寄せているのが分かる。
「……視線が集まりすぎた。……無駄に騒がせたな」
声音には、明確な不快が混じっていた。
己が注目されることへの嫌悪。
そして身元を探られる可能性への警戒
「申し訳ございません。私が先に止めるべきでした」
「……違う」
即座に否定される。
「……お前のせいではない。……私が勝手に撃っただけだ」
短く言い切ったあと、わずかに間が空く。
「……ただ」
ぽつりと続ける。
「……お前の前で、外す気にもならなかった」
その言葉は、ほとんど独り言のように小さかった。
だが、確かに聞こえた。
私は何も返さない。
やがて陛下は軽く息を吐き、
「……次からは、もう少し下手にやる」
と、どこか納得していない声音で呟いた。
不意に、遠くの空で重厚な音が轟いた。
祝祭の終わりの始まりを告げる、合図の音。
「……始まったか」
陛下が空を見上げる。
その瞳には、楽しかった時間が終わることへの、隠しきれない寂寥が滲んでいた。
「リア。……もっと高い場所へ行くぞ。……一番近くで、一番鮮やかな場所で……お前と、火の花を視る」
陛下の手が、再び私の指を強く、今度は離さないと誓うように握りしめる。
私たちは喧騒を抜け、帝都を一望できる高台を目指して、夜の闇へと駆け出した。




