6話 祭り①
「……人、多い」
帝都の表通りに足を踏み出した瞬間、背後から今は身分を隠した陛下の、硬く強張った声が漏れた。
城の衣装室を後にしてから数時間――。
私たちは、深く被ったマントのフードと、私が巻いたスカーフによって、完全に皇帝と側近の仮面を脱ぎ捨てていた。
だが、窓の外から眺めていた祝祭の熱気は、実際にその渦中に身を投じてみれば、想像を絶するエネルギーとなって私たちに襲いかかった。
視界を埋め尽くすのは、色とりどりの旗と、夜空を焦がす無数の松明。
何層にも重なり合う、人々の哄笑と歌声。
異国の香辛料と、滴る脂が焼ける匂い。
城の静寂に慣れた身には、この喧騒そのものが鋭い刃のように肌を刺す。
「心得ております。私から離れないでください」
私は陛下を背後にかばうようにして、一歩、群衆の中へと踏み出す。
城の中では、陛下の沈黙が場を支配していた。
だが、ここでは沈黙など、他人の喧騒にかき消されるだけの無力な空白に過ぎない。
私たちがここにいることに、誰も気づかない。
民草が崇める絶対の君主が、今、肩をぶつけ合うほどの距離にいるなど、誰も夢想だにしない。
ただの貴公子とその連れ――それが、今宵の私たちの免罪符だった。
「……おい」
その時だ。
マントの下から、私の手を求めて、細く、熱を帯びた指が這い入ってきた。
陛下の手だ。
彼女は私の手の平を、逃がすまいと強く、食い込むほどの力で握りしめる。
「……離れないように手を握れ。これは……命令だ」
「はい。承知しました」
私の耳元で、甘く、壊れそうな声が囁かれた。
私はその熱い手に、あえて無礼を承知で力を込め、強く握り返す。
「離れません。絶対に」
人混みの激しさに、私たちは一度、大通りから外れた石造りのアーチの下へと身を寄せた。
ここなら、わずかに声を通すことができる。
「陛下。ここでは決して皇帝であると気づかれぬよう、お気をつけください。万が一にも正体が露見すれば、大変なことになります」
私の忠告に、陛下はフードの奥からじっと私を見つめた。
「……分かっている。……お前も、セシリアと名乗るな。……耳の早い者がいる」
確かにその通りだ。皇帝の筆頭側近、ヴァルシュタイン家の令嬢の名もまた、この街ではあまりに重すぎる。
私は一瞬思考を巡らせ、唇に残っていた幼い頃の愛称を即座に引き抜いた。
「では、私は『リア』と。……陛下は何とお呼びすれば?」
「……リア」
陛下は私の名を反芻するように小さく呟き、それから少しだけ視線を彷徨わせた。
「……アル。……そう、呼べ」
「アル、様……ですね。承知いたしました」
私がその名を口にした瞬間、陛下の指先がピクリと跳ねた。
「……様は、いらない。……アル、だ。……呼べ」
それは、主従の境界線を踏み越えようとする、危うい誘い。
私は動揺を押し隠し、事務的な声を作って応じる。
「分かりました、アル。……さあ、行きましょう」
初めて呼び捨てにしたその響きが、夜の空気に甘く溶けていく。
陛下は満足げに、繋いだ手にさらに力を込めた。
通りの脇に、安価な装身具やガラクタを並べた小さな屋台があった。
城の宝物庫に厳重に保管されている宝石と比べると少々雑な細工の品々。
そこに群がる平民の子供たちに混じって、陛下が足を止めた。
彼女の視線の先には、街灯を反射して安っぽく、けれど鮮やかに光る、赤い硝子の指輪があった。
「……あれ。……血の色みたいだな」
「不吉な例えはやめてください。ただの、赤い硝子ですよ」
私が苦笑してそう言うと、陛下は繋いだ手をぐいと力強く引いた。
「……2つ欲しい。……私とお前に」
「私に、ですか?」
陛下に数枚の銅貨を渡され、戸惑いながらも、それを買った。
店主は「お熱いねえ、カップルかい!」と冷やかしたが、私は無言でそれを受け取った。
陛下に指輪を一つ渡す。
「ここで無理に買わなくても、城に戻ればより高価で、真に価値のある宝石がいくらでも……」
「……これがいい。この場所で、お前と買った、これが」
そう言い切り、陛下は迷いのない動作で、自らの薬指にその赤い硝子をはめた。
細く白い指に、安物の赤が鮮明に浮かび上がる。
「……もう一つの指輪もよこせ」
夜の冷気。
そこに、陛下の熱い指先が触れる。
陛下は震える手で、私の剥き出しの指に赤い硝子を滑り込ませた。
「……似合う。……私の、印だ。誰にも渡すな」
「へ……アルとお揃いにしてよい立場ではありません。」
「……今日はつけておけ。……命じている」
逆らえず、私は左手の指輪を付けたままにした。
満足げに目を細める陛下を見て、私は胸の奥が騒ぐのを、懸命に職務という言葉で抑え込んだ。
次に足を止めたのは、動物の顔を模した木彫りのお面の屋台だった。
不気味に笑う猿、厳めしい獅子。
「……リアは何の動物が好きなんだ?」
「私ですか? ……そうですね、猫でしょうか。幼い頃、屋敷の裏でよく遊んでいたので。アルは?」
「……犬以外なら何でもいい」
まだ私たちが幼かった頃。
どこぞの貴族が連れていた犬に、陛下の裾を噛まれ、顔を真っ白にして今にも泣き出しそうになっていたあの事件。
当時の周囲の大人たちは、皇帝の世継ぎが犬に怯えたとあっては一大事だと血眼になっていたが、今思い出せば、あれはあまりに愛らしい一幕だった。
不敬を承知で、私は吹き出しそうになるのをこらえた。
「……猫の面はないようだが、これがいい。これを被れ」
陛下は同じ面を二つ買った。
言われるがままに、二人でお揃いの白い狐のお面を被る。
お面の内側で、陛下の声が反響した。
「……これで、いい。……お前も、私も。……顔を、消した。……今は、ただの、人間だ」
お面の狭い覗き穴越しに、陛下の金の瞳がこちらを見ている。
その瞳は、城の中よりもずっと自由に私を見ている気がした。




