5話 次の日
朝の空気は、妙に澄んでいた。
昨日までの張り詰めた気配が嘘のように、城の回廊には穏やかな光が差し込んでいる。磨き上げられた床に反射するそれを眺めながら、私は足音を一定に保ち、執務室へと向かっていた。
――いつも通りだ。
そう、思う。そうでなければならない。
昨夜のことは、すべて介抱の範疇だ。主君が極度の緊張から解放された後に見せる一時的な情動。
それを受け止め、安定させるのは側近として当然の務め。
それ以上でも、それ以下でもない。
……そう整理しているにも関わらず、胸の奥に残る微かな違和感は、どうにも拭いきれなかった。
扉の前で一度だけ呼吸を整え、私は静かにそれを開く。
「失礼いたします、陛下。本日の――」
「……遅い」
言葉は途中で遮られた。
机の向こう、書類の山に囲まれながらも、こちらをじっと見つめる金の瞳。いつも通りの無表情。だが、その視線にはわずかな棘が混じっている。
私は一瞬だけ瞬きをし、それから軽く頭を下げた。
「申し訳ございません。定刻には間に合っておりますが……」
「……そうか」
短く、それだけ。それ以上の追及はなかった。
代わりに、陛下は手元の書類を無造作に私へ差し出す。
「……読め」
「かしこまりました」
受け取り、目を通す。……そして、私は無言で紙面から顔を上げた。
「……陛下」
「……何だ」
「この数字ですが、三桁ほど誤りがございます」
「……」
「さらにこちらの文面、綴りを間違えております。」
沈黙。
そして、わずかに、ほんのわずかに。陛下の視線が逸れた。
「……問題ない」
「問題大ありでございます」
私は即座に修正に取り掛かる。こうした誤りは珍しくないが――今日は、少しばかり多い。
視線を感じる。
ずっと。
紙面に向けているはずの意識の端で、それが気になって仕方がない。
「……セシリア」
「はい、陛下」
「……そこでは、遠い」
筆が止まった。一瞬、言葉の意味を測りかねる。
「恐れながら、執務の妨げになりますので」
「……来い」
短い命令。
拒否権はない。
私は書類を整え、机の側へと歩み寄る。
通常よりも一歩、いや二歩近い位置で足を止めた。
「……ここでよろしいでしょうか」
「……あぁ」
「……セシリア、昨夜のことだが……」
一瞬。
空気が、止まる。
「……嫌、だったか」
低い声。
だが、その奥にあるのは――恐れだった。
言葉が出ない。
ほんの一拍。
「……いいえ」
静かに、答える。
「陛下のご負担を和らげることが、私の役目ですので」
「……そうか」
短く返される。
それ以上、何も続かないが、陛下は満足したのか、再び書類へ視線を落とす。
視界の端に銀の髪が揺れる。
香油の淡い香りが、ふとした拍子に鼻先をかすめる。
集中しなければならない、これは仕事だ。
――なのに。
なぜか、普段よりも意識がそちらへ引かれる。
ペン先を動かしながら、ふと窓の外に目をやれば、遠く帝都の街並みには建国祭を祝う色とりどりの旗が揺れていた。
城の静寂とは対極にある、熱を持った喧騒がここまで届きそうなほどだ。
「……騒がしいな」
不意に、陛下の唇から独り言のような声が零れた。
「祭りの準備が佳境のようです。市民たちは陛下の統治を祝っておりますよ」
「……お前は。……あれに、行きたいか」
「私、ですか? いえ、私は陛下の側を離れるわけには参りませんので」
「……嘘だ。お前は祭りが好きなはずだ」
「なぜ、そう思われるのですか」
「5歳の時に祭りが好きだと話していただろう」
まだ私たちが、この重すぎる衣も、何の義務も背負っていなかった頃。
ほんの一時、庭の隅で交わしただけの他愛もない言葉。
それを、この方は十余年もの間、覚えてくれていたのか。
陛下は、繋いだ指先にさらに力を込め、拒絶するように顔を背けた。
耳が微かに赤く染まっている。
「……視る。……街を。……お前と」
それは、珍しく明確な意志だった。
「視察、でございますか? しかし、警備が――」
「……行く」
「……では、最小限の範囲で厳重な護衛を――」
「……お前と二人で行く。……側にいろ」
被せるように、拒絶を許さぬ響き。
その聲音に、執務の延長ではない、ひどく個人的な切実さを感じた。
「……承知いたしました」
私は深く頭を下げる。
それ以上を考える必要はない。
これは命令だ。
そして私は、それに従う。
ただ、それだけのことだ。
その日の午後。
私は衣装室で、頭を抱えていた。
「……なぜ、このようなことに」
目の前に並べられているのは、いずれも祭り用の外出衣装。
問題は、その選定基準だ。私は手近な一着を手に取り、陛下の前に掲げた。
「動きやすさを最優先に。目立たぬ色合い、装飾は最小限――。視察には、こちらが適しているかと」
「……却下」
間髪入れず、冷淡な否定が飛ぶ。
「……理由を伺っても」
「……地味だ」
「視察ですので……」
「……つまらない」
珍しく、はっきりと不満が示される。
今日はなんだかわがままだ。
私は一瞬だけ沈黙し、それから対極にある別の衣装を手に取った。
「では、こちらは。軽装でありながら、仕立ての良さが際立ち――」
「……派手すぎる」
「先ほどは地味と仰いましたが」
「……これは違う」
――難しい。
私は深く息を吐いた。
ふと、隣を見る。
陛下は真剣な顔で布地を見つめていた。
普段の無機質な執務の際とは違う、わずかに柔らかな空気。
……この視察は、公務ではない。
重すぎる王冠を戴き、男として生きる陛下が、その呪縛からわずかに解放されるための、唯一の逃げ場。
私は棚の奥から、一着の衣装を選び出した。
ほどよく簡素で、それでいて細部に品のある中性的な紺青の旅装。
「……これだ」
陛下がぽつりと零した。
その声に、先ほどまでの刺々しさは消えていた。
「……悪くない」
「かしこまりました。……ですが、陛下」
私は衣装を受け取りながら、一点、どうしても見過ごせない箇所を指摘する。
「これでは、ここが……あまりに無防備です」
私が指し示したのは、立ち襟ではないその衣装の、喉元。
そこには、女性らしい繊細な白磁の曲線が、あまりに無防備に露わになっていた。
「……あぁ。……心許ない」
陛下が、自らの首筋を落ち着かなげに指でなぞる。
「……あれを貸せ」
「承知しました」
私は棚から、自らの私物である薄い絹のスカーフを取り出した。
「失礼いたします」
一歩、至近距離に踏み込む。
陛下の吐息が私の頬を掠めた。
陛下はされるがままに顎を上げ、私の指先にその無防備な喉を委ねる。
スカーフを首に巻き、丁寧に形を整える。
指先が、白い肌に触れる。
トク、トクと、早鐘を打つ鼓動が、薄い皮膚越しに私の指を叩いた。
「……セシリア」
名を呼ばれる。
見上げれば、金の瞳が潤み、熱を帯びて私を見ていた。
「……お前の、匂いだ」
陛下はスカーフに顔を埋めるようにして、小さく、掠れた声で呟く。
「……落ち着く。」
陛下の手が、私の手を重ねるようにして押さえた。
「……離れるな」
「承知しております。護衛として、常に」
「……違う」
被せるように、否定。
「……いい。何でもない」
それ以上は語られなかった。
私は一礼し、衣装室を後にする。
――やはり、少し様子がおかしい。
だが、それを異常と断じるほどの根拠はない。
依存の強まり。
それを受け止め、安定させるのが私の役目だ。
それだけだ。
それ以上の意味を、考える必要はない。
窓の外では、祝祭を告げる鐘の音が、遠く地響きのように鳴り響き始めていた。
どれほど騒がしくなろうとも、ただ一つ決まっていることがある。
私は、この方の側を離れない。
すべてを守ると、決めているのだから。




