4話 私室
謁見の間を後にした私たちの間に、言葉はなかった。
重厚な石造りの回廊を、重なり合う足音だけが規則正しく刻んでいく。
すれ違う文官や侍女たちが一様に頭を垂れるが、陛下はその誰にも視線をくれない。ただ前だけを見据えていた。
私たちが歩くたび、皇帝の正装である重なり合った衣が、擦れて独特の衣擦れの音を立てる。
やがて、最奥に位置する皇帝の私室が見えてくる。
そこは城の中でも最も静かで、同時に最も隔絶された場所だ。
扉の前には、彫像のように直立する二人の近衛騎士が控えていた。
「――陛下がお戻りだ」
私の静かな、しかし有無を言わせぬ声に、騎士たちは一分の隙もない動作で扉を開き、同時に深く頭を下げる。
彼らの忠誠心は疑いようがない。だが、彼らはこの扉の先へ踏み入ることは決して許されないのだ。
この聖域の平穏を守り、その内側に潜む真実に触れることができるのは、世界でただ一人だけだった。
部屋に入り、背後で扉が閉まる。重く、無機質な閂が下りる音が響く。
外界との繋がりが完全に絶たれた瞬間、陛下はふらつく足取りで部屋の中央にある天蓋付きのベッドへと向かった。
どさり、と重い衣の音を立てて、ベッドの端に腰を下ろす。
薄暗い室内で、陛下の髪だけが月光を透かしたように白く輝いている。
「……セシリア」
陛下が、膝の上に置いた自分の手を見つめたまま、低く私を呼ぶ。
その手はまだ、使節団の前で見せた時と同じように、肘掛けを叩く合図を送るための形のまま、硬く強張っていた。
「……こっちへ、来い」
その声は先ほどよりもずっと掠れていて、けれど底知れぬ孤独を含んだ、拒絶を許さない響きを持っていた。
私は一瞬、ためらった。
側近として、これ以上近づくことが適切なのか。
感情に流され、主君の懐に踏み込むことは、守るべき境界線を踏み荒らすことにならないか。
理性が、ここで踏みとどまるべきだと激しく警鐘を鳴らす。
だが、陛下と目が合った瞬間、あの一人の人間としての瞳を、真正面から受け止めていかなければならないと思った。
ゆっくりと歩み寄り、彼女の目の前に立つ。
豪華な絨毯が私の足音を吸い込み、室内には彼女の、荒く、切迫した呼吸だけが満ちていた。
「……隣に。座れ」
顔を上げた陛下の瞳は、熱に浮かされたように潤んでいた。金の瞳は、暗がりの中で燃えるような輝きを放っている。
私は静かに頷き、促されるまま、陛下のすぐ隣に腰を下ろした。
触れ合う肩越しに、陛下の体温が波のように押し寄せてくる。
「……陛下、少しお休みになられた方が――」
「……黙れ」
遮るように、熱い手が私の手を掴んだ。
細い、けれど骨が軋むほどに強い指が私の指の間に入り込み、痛いほどに固く握りしめられる。
「………………」
陛下がそのまま、私の手に顔を埋めるようにして身を寄せてきた。
握られた手の平から、彼女の激しい鼓動が、まるで自分自身のものかと錯覚するほどの質量を持って流れ込んでくる。
しばらくすると、固く絡められていた彼女の指が、ふっと緩んだかと思うと、今度は私の手の甲や平を、確かめるように柔らかくにぎにぎと握り始めた。
幼子が寝入り端に、安心を求めるように毛布を掴むような、あるいは慈しむものを愛撫するような、あまりにも無防備なその動き。
……陛下?
私は困惑した。
そのにぎにぎという感触が伝わるたびに、私の肌に甘い痺れのようなものが走る。
陛下は無意識なのだろうか。
それとも、こうして私の肌の感触を確かめることで、先ほどの謁見の場で削られた心を癒やそうとしているのか。
どちらにせよ、あまりにも近すぎる。
側近として律してきた私の理性が、その指先の感触によって少しずつ、けれど確実に溶かされていくのが分かった。
胸の奥が騒がしくなり、どう反応すればいいのか分からず、私はただ固まることしかできない。
やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
至近距離で、金色の瞳が私の視線は捕らわれる。
「……セシリア」
名を呼ぶ唇が、吐息が直接肌に触れるほどの距離まで近づく。
陛下の瞳の中に、戸惑いと、それ以上に深い情愛を隠しきれない私の顔が、無様に映り込んでいる。
逃げ場のない沈黙の中で、どちらからともなく距離が縮まっていく。
重なり合う視線の先、微かに震える彼女の唇が、ゆっくりと私の唇へと重なろうとした。
だが。
重なり合うその寸前、陛下の動きが、ぴたりと止まった。
見つめ合う金色の瞳に、ふいに鋭く、冷徹な光が差し込む。
それは情熱ではなく、自らを縛り付ける呪いのような、皇帝という役割がもたらす自責の念だった。
「…………っ」
アルスは、弾かれたように顔を背けた。
先ほどまで私を確かめるように握りしめていた指から、力が抜ける。
行き場を失った熱が、冷え切った寝室の空気の中に浮いた。
「……すまない」
低く、地を這うような掠れた声。
「……忘れろ」
「陛下……」
「……下がれ、セシリア。」
私を見ようともせず、ただ短く、自分自身を切り捨てるような拒絶。
これ以上側にいれば、二度と主従関係には戻れなくなる。それを誰よりも、陛下自身が恐れているのだ。
「……承知いたしました。陛下」
私は静かに立ち上がり、深く頭を下げた。
一歩、また一歩と、ベッドから離れる。
重厚な扉に手をかけ、ゆっくりと引く。
背後からは、衣が擦れる音さえ聞こえてこない。
ただ、耐え忍ぶような静かな気配だけが、私室の空気を満たしていた。
扉の外へ踏み出すと、そこには変わらぬ姿勢で控える近衛騎士たちの姿があった。
彼らは、中で起ころうとしたことなど、露ほども知らない。
背後で扉が、重く、無機質な音を立てて閉ざされた。
私は、その扉に背を向けたまま、しばらく動くことができなかった。
冷えた回廊の空気が、顔に残っていた熱を奪っていく。
無意識に、自分の指先に視線を落とした。
つい先ほどまで、陛下の温もりと、私の手をにぎにぎと確かめていた指先の感触を伝えていた指先。
私はそれをぎゅっと握り込み、一人、暗い回廊へと歩き出した。




