3話 謁見の間
謁見の間へと続く回廊は、朝だというのに妙にざわついていた。
普段であれば、足音一つ響かせぬよう静まり返っているはずの場所だ。だが今日は違う。控える文官たちの視線が落ち着かず、騎士たちもどこか張り詰めている。
理由は明白だった。
西方の軍事国家――その使節団が、予定より一刻も早く到着したのだ。
私は足を止めず、そのまま控室の扉を開いた。
中にはすでに、例の使節団の代表と数名が控えていた。
「これはこれは。皇帝の“声”殿が直々にお出迎えとは」
男は皮肉げに笑う。
初対面だが、厄介な類だと一目で分かる。
「歓迎の意は変わりません。ただ、礼儀が少々急ぎ足だったようですね」
「戦場では、遅い者が死ぬのでな」
軽口の応酬。
だがその実、互いに探り合っている。
「して、皇帝陛下は?」
あえて何気ない調子で問うてくる。
私は一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻した。
「間もなくお越しになります」
「……“お声”も?」
男の目が細まる。
――やはり、そこか。
この時点で確信する。
この使節団の目的は、条約ではない。
確認だ。
私は微笑を崩さない。
「陛下は、必要とあらばお言葉を賜ります」
「必要とあらば、か」
男は小さく笑った。
「では、その必要を作らねばならんな」
――面倒なことになった。
だが、想定の範囲内でもある。
「どうぞご自由に。ただし」
一歩だけ近づく。
「我が国の流儀に則っていただきますが」
わずかな沈黙。
男は肩をすくめた。
「面白い」
謁見の間は、昨日までの静寂が嘘のような熱気に包まれていた。
豪奢な装飾が施された高い天井の下、帝都に到着したばかりの使節団が、傲岸不遜な態度で立ち並んでいる。
彼らは大陸の西端に位置する軍事国家の使者であり、その物言いは常に強気だ。
玉座には、アルス陛下。
今日もその唇は固く結ばれ、金の瞳は氷のように冷たく、使節たちを見下ろしている。
私はその斜め後ろ、影のように、しかし確実に陛下の「声」が届く位置に控えていた。
「――以上が、我が国の要求にございます」
代表の男が、これ見よがしに胸を張る。
言葉を切ると、周囲の家臣たちを舐めるように見回し、最後に玉座の陛下を真っ直ぐに射抜いた。
「これほどの譲歩案、皇帝陛下ご自身も納得いただけたはず。……しかし、先ほどから代弁人の言葉ばかり。どうにも、誠意が感じられませぬな」
「皇帝陛下。どうかその御口から直接、一言なりとも賜りたい。我が王も、帝国の『真意』を測りかねておられるのです」
男はそこで言葉を切り、ニヤリと卑俗な笑みを浮かべた。
「……それとも、西方で囁かれる噂は事実か? セレスティアの皇帝は、病弱で声も出せぬほど虚弱である、と。あるいは――」
男の視線が、陛下の首元から指先まで、過剰に重ねられた衣を舐めるように動く。
「――そもそも、その玉座に座っているのは、精巧に作られた人形ではないか、とな」
広間に、悲鳴に近いざわめきが広がる。
ただの無礼ではない。こちらの存在そのものを否定し、正体を暴こうとする、明確な宣戦布告にも等しい揺さぶり。
私は、陛下の背中を見つめた。
微かに、その肩が強張る。
この場にいる誰にも気づかれない、ほんの数ミリの震え。
……大丈夫。あの方は、崩れない
自分に言い聞かせ、私は一歩、前へ出た。
玉座に座るその姿は、完璧な皇帝そのものだった。
もしここで声を発せば。
それはただの応答では済まない。
ひとたび言葉が下されれば、それは覆らぬ決定となる。
だからこそ、沈黙は盾であり――同時に、最も脆い部分でもある。
この場で退けば、不利になる。
だが押し返せば、相手は必ず退く。
――問題ない。勝てる。
「……陛下」
私は一歩、前へ出た。
使節の男が不愉快そうに目を細める。
その視線を、真正面から受け止める。
「使節殿。貴殿は、我が国の慈悲を読み違えておられるようだ」
「……何だと?」
「陛下が言葉を発さないのは、貴殿を軽んじているからではない。その逆だ」
静かに、しかしはっきりと言い切る。
「陛下の言葉は、この国の理そのもの。ひとたびその御口が開かれれば、それは決定事項となり、一切の妥協も、再交渉も許されぬ定めとなる」
視線を、玉座へ。
陛下の右手の指先が、肘掛けを一度だけ、静かに叩く。
――合図。
信頼の証。
「陛下は今、貴殿の無礼を若気の至りとして流すべきか、あるいは宣戦布告として受け取るべきか、沈黙をもって測っておられる」
一歩、距離を詰める。
「……直接の言葉を望むということは、万一の際、貴殿の首一つでは償いきれぬ事態を招くと、理解しておいでか?」
言葉が落ちるたび、広間の温度が下がっていく。
沈黙が、圧力へと変わる。
見えない刃のように、場を支配していく。
「な……っ」
男の額に、一筋の汗が伝う。
私はさらに一歩引き、深く首を垂れた。
「陛下。この者の無知は、我が国の教育不足でもございます。どうか、今一度だけ、寛大なるご処置を」
顔を上げる。
「使節殿。今のうちに下がるがいい。これ以上陛下を煩わせるのであれば――我が国の騎士団が、言葉以外の方法で御意志をお伝えすることになる」
沈黙。
今度は、使節団側が沈黙する番だった。
やがて。
玉座の陛下が、わずかに顎を引く。
ただそれだけの動作が、断頭台の刃を落とす合図のように見えたのだろう。
「……失礼、いたしました」
男は、明らかに動揺した様子で頭を下げ、そのまま退室していった。
重厚な扉が閉まる。
張り詰めていた空気が、一斉に緩んだ。
謁見が終わった後、私は一人、回廊を歩いていた。
「お見事でしたな、セシリア卿」
後ろから声がかかる。
振り返れば、老練な文官が立っていた。
「過分なお言葉です」
「いや、事実だ。……だが」
彼は声を潜める。
「あの者たち、簡単には引きませぬぞ」
「承知しております」
「声を引き出すまではな」
静かに言い残し、去っていく。
その背を見送りながら、私は思考を巡らせた。
――時間の問題かもしれない。
だが。
その時までは、守りきる。
あの方の沈黙も、その正体も。
謁見の間へ戻ると、すでに人払いは済んでいた。
重い扉が閉まり、外界が遮断される。
静寂。
そして。
「……セシリア」
か細い声。
私はゆっくりと、玉座へ歩み寄った。
そこにいるのは、もはや皇帝ではない。
ただ震えている一人の少女だった。
「……セシリア」
掠れた声が、名を呼ぶ。
陛下は私の腕を掴み、引き寄せる。
抗う理由はない。
私はそのまま、玉座の傍へと身を寄せた。
「……怖かった」
短い言葉。
それだけで、すべてが伝わる。
陛下は私の腰に腕を回し、顔を押し付けるように寄せてきた。
「……お前がいれば、いい」
衣を握る指が、わずかに震えている。
私はその震えを、ただ受け止めた。
やがて、陛下が顔を上げる。
金の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。
そして、ゆっくりと。
私の手を取り、自らの喉元へと導く。
「……触れろ」
差し出された白い首筋に、私は一瞬だけ視線を落とした。
拒む理由はない。
そっと、指先を伸ばす。
触れた瞬間、鼓動が伝わる。
早く、強く、生きている証のように。
陛下は目を細め、小さく息を漏らした。
絡められた指先が、逃げ場をなくす。
距離が、ゆっくりと縮まっていく。
「……セシリア」
名を呼ぶ声は、不器用で。
それでも、隠しきれないほどの感情を孕んでいた。
「……私の声は、お前だけのものだ」
それは勅命ではない。
ただ一人の少女としての、切実な言葉だった。
私は、その言葉を否定しない。
ただ、静かに受け止める。
「……部屋へ行く」
短く告げられる。
「……側にいろ」
拒絶を許さない声音。
それでもそこにあるのは、命令ではなく――願いだった。
私は小さく頷き、その肩を支える。
影が伸びる謁見の間 を、二人で後にした。




