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2話 皇帝の秘密

自室に戻った私は、扉を閉めたところでようやく小さく息を吐いた。


 玉座の間に満ちていた張り詰めた空気が、ゆっくりと身体の外へ抜けていく。意識していなければ気づかないほどの緊張でも、解けた瞬間には確かな重みとなって残るものだ。


 肩の力を落とし、外套を脱ぐ。


 手袋を外し、指先を軽く動かすと、わずかな強張りが残っていることに気づいた。知らぬ間に力が入っていたらしい。


 鏡の前に立つ。


 そこに映るのは、皇帝の側近としての顔をわずかに脱ぎ捨てた自分だった。


 それでも完全に気を抜くことはできない。この城の中で、心から無防備でいられる場所など、存在しないに等しいのだから。


 机の上に、そっと箱を置く。

 自然と視線がそこへ向いた。

 先ほど、陛下から渡された菓子。

 そのやり取りが、静かに思い出される。


 ――「……少し、ここにいろ」


 あの言葉のあと、私はそのまま玉座の間に留まった。

 特別な会話があったわけではない。

 何かが起きたわけでもない。


 ただ、同じ空間にいる時間が、少しだけ長く続いただけだ。


 陛下は書類に目を通し、時折、わずかに視線を上げる。

 私はその意図を読み取り、必要なものを整え、言葉にする。

 それだけの、いつもと変わらないやり取り。


 だが、人払いの済んだ玉座の間はひどく静かで、その分だけ、些細な仕草や沈黙が妙に強く意識に残った。


 何かを言いかけてやめたような気配。

 視線が合って、すぐに逸らされる一瞬。

 ほんのわずかな違いでしかないはずなのに、それらがやけに印象に残っている。


 結局、あの言葉の真意は分からないままだった。


 ただ少し長く側にいただけ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 そう結論づけておくのが、最も穏当だろう。


 思考を切り替えるように、箱へと手を伸ばす。


「……いただきます」


 小さく呟き、蓋を開ける。


 整然と並べられた菓子は、やはり見事だった。形も色も整い、崩すのが惜しいと感じるほどに完成されている。


 ひとつ摘まみ、口に運ぶ。


 控えめな甘さが広がり、遅れて香りが抜ける。軽やかでありながら、確かな満足感だけが残る。


 この菓子が余ったというのは、やはり無理がある話だった。


 ふと、想像してしまう。

 

 あの方が、人目を忍んでこの菓子を用意させている姿を。

 あるいは、私に渡すタイミングを計りながら、あの不器用な手つきで箱を預かっていた時間を。


 そう思った瞬間、心臓の奥がわずかに熱を持ち、自分でも驚くほど自然に頬が緩むのが分かった。

 

「……いけない」

 

 私はすぐに指先で口元を覆い、鏡に映る自分を厳しく見据えた。

 

 たとえ自室であっても、今の顔はあまりにも無防備すぎる。側近としての矜持はどこへ行ったのか。

 これはあくまで、主君の慈悲に対する感謝であって、それ以上の意味を持たせてはならない。

 

 ……そう自分に言い聞かせる一方で、指先に残った甘い香りを、どうしても手放したくないと思っている自分がいた。


 昔から、あの方はそうだった。

 多くを語らない代わりに、行動で示す。

 距離を保っているようでいて、気づけば踏み込んでくる。

 そして、そのすべてがあまりにも不器用だ。


 小さく息をつく。


 甘さが、ゆっくりと広がっていく。


 玉座の間での陛下は、絶対の存在だ。

 誰も逆らえず、誰も近づけない。

 沈黙だけで場を支配し、視線ひとつで人の言葉を止める。


 だが。


 あの沈黙の意味を、正確に理解している者はほとんどいない。


 本当は、言葉を選んでいるだけなのだと。


 そして、それ以上に。


 言葉を出せない理由があることを。


 ふと、幼い頃に父から聞かされた話が脳裏に浮かぶ。


 厳重に封じられ、限られた者しか触れることすら許されない書物――『皇契の書』。


 皇族の正統性と継承について記された、最も古い記録の一つ。


 父はそれを実際に手にしたことがあるわけではなかったが、その内容の一部は、代々この家に伝えられてきた。


 皇は男にして継ぐべし。


 さもなくば、国に災いが下る。


 その一文だけが切り取られるように語られ、やがてそれが絶対の理として広まった。


 例外は存在しない。

 存在してはならない。

 実際に、皇族には代々男子しか生まれていない。


 それは偶然ではなく、必然であると、誰もが疑わなかった。


 ――ただ一度を除いて。


 今代の皇帝、アルス陛下。


 先帝には、子が一人しかいなかった。

 本来であれば、継承を安定させるためにも、複数の後継を設けるのが常識だ。

 だが、そうはならなかった。

 正妃は、出産の直後に亡くなっている。

 そして先帝もまた、その後まもなく崩御した。

 表向きの理由は、病。


 長く伏せっていたわけではなく、ある時期を境に急速に体調を崩し、そのまま回復することなく――と記録には残されている。


 あまりにも急な崩御だったため、一時は宮廷内でも動揺が広がったと聞く。

 病は病として処理され、原因が深く追及されることもなかったらしい。


 結果として残されたのは、たった一人の後継者。


 そして、その“唯一”が、例外だった。

 

 私は、幼い頃から知っている。

 それは偶然気づいたものではない。

 この家に生まれた時から、当然のように与えられていた役目の一部だった。

 守るべきもの。

 口にしてはならないもの。

 触れてはならない領域。

 そのすべてを、私は最初から教えられてきた。


 だからこそ、迷いはない。

 疑問を持つこともない。


 ――いや。


 持たないようにしている、と言うべきかもしれない。

 あの方が何者であるのか。

 その答えを、言葉にしてしまえば、すべてが崩れてしまう。

 この国も、あの方の立場も、そして私自身の在り方も。

 だから私は、それ以上を考えない。

 知っていて、知らないふりをする。

 それが、この国を支えるために必要なことだからだ。

 

 今の皇帝が即位しても国は滅んでいない。


 呪いも、災いも、目に見える形では現れていない。


 単なる言い伝えに過ぎないのか――

 

 視線を外し、窓の方を見る。


 夕暮れが、王城をゆっくりと染めていた。


 光が落ち、影が伸びる。


 曖昧になっていく境界は、この国の在り方そのもののようにも見える。

 静かで、美しくて。

 そして、ひどく不安定だ。


 残っていた菓子を一つ口に運び、ゆっくりと飲み込む。


 その時、扉が控えめに叩かれた。


「セシリア様、よろしいでしょうか」


「構いません。どうぞ」


 入室を許可する。

 扉が開き、侍女が一礼する。


「本日、帝都に到着された使節団の件でございますが……」


 そこで、言葉がわずかに止まる。

 普段にはないためらいが滲んでいた。


「……代表者の方が、陛下への謁見を強く望んでおられます」


 それ自体は珍しい話ではない。

 だが、問題はその次だった。


「“直接”お言葉を賜りたいと、仰っておりまして……」


 陛下の声を求めている。

 その意味を理解するのに、時間はかからなかった。

 それは、この国の前提そのものに触れかねない要求だ。


 静かに、手の中の菓子を皿へと戻す。


 甘さの余韻が、やけに長く残っていた。

 まるで、これから訪れるものを予感させるかのように。

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