19話 祝宴会⑥
祝宴が始まってしばらく経ち、大広間の熱気はさらに増していた。
黄金のシャンデリアから降り注ぐ光が、大理石の床に無数のきらめきを落としている。
舞踏の輪はすでに幾重にも広がり、色とりどりのドレスが花のように揺れていた。
高座では陛下が静かに広間を見渡し、その斜め後ろに控える私もまた、宴の流れに目を配り続けていた。
「北方使節の席へ、白葡萄酒を追加して」
「はい、セシリア様」
「西側の卓は菓子皿が減っています。すぐに補充を」
「承知しました」
給仕たちへ短く指示を飛ばしながら、私は一瞬たりとも気を抜かない。
今夜は戦勝祝いと収穫祭を兼ねた重要な祝宴。
外交使節も多く、どんな小さな乱れも許されない。
眼下では、リリアが父と並んで舞踏を眺めている姿も見えた。
時折こちらを見上げては、姉の働きを見つめてくれている。
その視線に小さく微笑み返した、その時だった。
一人の若い給仕が、やや青ざめた顔で急ぎ足に卓の間を抜けていくのが見えた。
「急がなくていいので落ち着いて――」
声をかけようとした瞬間。
カシャン!
銀盆の端が、装飾用の大きな花瓶に当たった。
豪奢な青磁の花瓶が傾き、次の瞬間、床へ落ちて砕け散る。
「……っ」
飛び散った破片の一つが、避けきれなかった私の手の甲を掠めた。
鋭い痛みが走り、白い手袋の下で、一筋の熱が走る。
反射的に視線を落とせば、淡い布地の下に赤が滲んでいた。
「セシリア様、申し訳ございません!」
「大丈夫です。すぐ片付けて」
若い給仕は道具を取りに行く。
私はすぐにそう告げ、騒ぎを最小限に抑えようとする。
これ以上目立てば、せっかくの祝宴の空気を壊してしまう。
幸い傷は浅い。
私は素早く予備の手袋を嵌め直し、その場を離れようとした。
――だが。
「セシリア」
低く、地を這うような声。
大広間全体に響いたわけではない。
けれど、その一声だけで空気が凍りつく。
私は息を呑み、ゆっくりと高座を振り仰いだ。
何もかも切り捨てるような鋭い視線が、まっすぐ私の手元を見ていた。
陛下は何も言わず、ただ顎をわずかに引いて、自分の傍へ来るよう示している。
私は静かに高座へ戻り、その傍らで膝をついた。
「陛下、どうかされましたか」
「……手を出せ」
「ですが――」
「出せ」
短い言葉。
けれど有無を言わせぬ強さがある。
私はためらいながら、傷を隠したままの手を差し出した。
その瞬間、陛下は躊躇なく私の手首を掴み、白い手袋を引き抜いた。
「……っ」
露わになった手の甲には、細い赤い線。
傷は浅いのに、陛下の眉間には深い皺が刻まれる。
「……傷ついた」
「ほんの掠り傷です、陛下」
「血が出ている」
「すぐ塞がります」
「……私の前で、血を流すな」
怒っているのではないと思う。
むしろ、痛みを感じているのは陛下の方ではないかと思うほど、苦しげだった。
周囲の貴族たちがざわめき始める。
「何をされているのかしら?」
「陛下自ら……?」
「まさか、……」
囁き声が広間の端々を揺らす。
少し離れた父の席で、リリアが思わず立ち上がりかけているのも見えた。
驚きと心配が入り混じった顔。
けれど陛下は、そんな周囲の気配など最初から存在しないかのように無視した。
卓上の清らかな布を取り、私の傷へそっと当てる。
その手つきは驚くほど慎重で、優しい。
「……陛下、皆様が」
「見せておけ」
「え……?」
「お前に傷一つ負わせることを、私が許さないと」
その一言に、周囲の空気がさらに張り詰めた。
私は何も返せず、ただ陛下の指先から伝わる熱を感じる。
「……二度と、離れるなと言ったはずだ」
「申し訳ありません」
「謝罪はいらない」
傷を拭い終えた後も、陛下は私の手を離さなかった。
むしろ指先を自らの掌の中へ包み込み、逃がさないようにそっと握る。
「陛下……葡萄酒を、お注ぎします」
「…………」
ようやく指が解かれる。
私は手袋をはめ、杯を取り、慎重に葡萄酒を注いだ。
赤い液体が揺れるたび、手袋の下で処置されたばかりの傷が脈打つ。
けれどそれ以上に熱いのは、陛下の視線だった。
何も話さない。
ただ深く、重く、私だけを見つめている。
――この御方は。
私が流すほんの数滴の血さえ、気にしてくれる。
その事実だけで少しうれしい。
祝宴は再び雰囲気を戻し続いている。
楽団は舞踏曲を奏で、人々は華やかに笑い合う。
けれど高座の上、陛下の影の中だけは、誰にも触れられない密やかな時間が流れていた。




