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18話 祝宴会⑤

 葡萄酒を注ぎ終えた瞬間、指先に残った微かな熱が、いつまでも肌の奥に留まり続けているようだった。

 ほんの一瞬触れただけ。

 それなのに、その温度は不思議なほど鮮明で、鼓動までそこへ集まってしまったように思える。


 私は動揺を悟られないよう静かに息を整え、一歩だけ後ろへ下がった。

 いつものように、陛下の斜め後ろ。

 最も自然に傍を守れ、視線を交わしやすい位置だ。


 眼下では、リリアが桃色のドレスの裾を揺らしながら、満足げに一度だけこちらへ小さく手を振っていた。

 私はほんのわずかに目元を和らげ、それに応える。

 やがてリリアは父の待つ席へ戻り、隣に腰を下ろした。

 父もまた、リリアが私と言葉を交わせたことに安堵したように小さく頷いている。


 その様子を見届けた、その時だった。


「……あの子は」


 不意に、すぐ傍で低く落ちた声。

 私は陛下へ視線を向けた。

 陛下は杯を持ったまま、まだ口をつけてはいない。

 金の瞳は静かに、リリアが去っていった方角を見つめていた。

 その横顔には、わずかな興味の色が宿っている。


「……妹か」

「はい。妹のリリアです」


 私は姿勢を崩さぬまま、静かに答える。


「父に付き添って、今夜初めて祝宴へ参りました」

「……そうか」


 短い返答。

 けれど陛下の視線はなおもリリアの席に留まり、やがてゆっくりと私へ移ってくる。


「……よく似ている」

「え……?」


 思わず小さく問い返してしまう。

 陛下はわずかに杯を揺らし、その赤い液面を見つめながら続けた。


「目元が」

「……それは、初めて言われました」

「笑う時の顔もだ」

「陛下はよくご覧になっていらっしゃるのですね」

「……お前のことはな」


 さらりと落とされた一言に、息が止まりそうになる。

 周囲では貴族たちの談笑が続き、楽団が柔らかな弦を奏でている。

 誰にも気づかれないほど小さな会話。

 

「光栄です」


 俯きながら答えると、陛下は空いた方の手で卓上の菓子皿を静かにこちらへ寄せた。

 銀皿の上には、砂糖を薄くまとった果実の菓子。

 葡萄、柑橘、ざくろ――収穫祭らしい色鮮やかなものばかりだ。


「……食べろ」

「ここで、ですか?」

「……下がれとは言っていない」


 低く静かな声音。


「……ここで食べろ」

「ですが皆様の前で」

「……誰も見ていない」


 高座へ向けられる視線は多い。

 けれど今は褒賞を受けた将軍たちへ貴族が次々と祝杯を向けており、高座の細かな様子まで気にする者はいない。


 それでも少し迷っていると、陛下の指先が再び私の手元に触れた。

 ほんのわずか。

 けれど今度は、先ほどよりも少し長い。


「……疲れているだろう」

「平気です」

「……平気な顔をしているだけだ」


 給仕の流れ、席順、使節への配慮、褒賞授与の補佐。

 祝宴が始まってから、一瞬たりとも気を抜いていない。

 その張り詰めた糸を、この方だけは簡単に見つけてしまう。


「ありがとうございます」


 私は誰にも見えない角度で一つ菓子を摘み、そっと口に運んだ。

 薄い砂糖が舌の上でほどけ、果実の甘酸っぱさが広がる。


「美味しいです」

「……だろう」

「陛下も召し上がりますか?」

「……お前が勧めるなら」


 珍しい返しだ。

 私は小さめの一つを選び、銀皿の端へそっと寄せた。


「では、こちらを。柑橘の香りが強くて、陛下のお好みに合うかと」

「……私の好みまで覚えているのか」

「もちろんです。お傍におりますから」

「……なら、もらおう」


 陛下は静かにその菓子を手に取る。

 けれどすぐには口にせず、一度だけ私を見上げた。


「……お前が選んだものなら、外れはない」

「そのようなことを仰ると、緊張します」

「……事実だ」


 そのまま陛下はゆっくりと菓子を口に運んだ。

 ほんの一口味わった後、陛下は小さく喉を鳴らした。


「……悪くない」

「よかったです」

「……お前も、もう一つ食べろ」

「また、ですか?」

「……命令だ」


 その言い方があまりにも自然で、思わず笑みが深くなる。


「かしこまりました」


 私はもう一つ、今度はざくろの菓子を口に含んだ。

 

 ちょうどその時、眼下で小さな歓声が上がった。

 褒賞を受けたザルツ将軍が、部下たちに囲まれて祝杯を掲げている。

 その輪の中に、見覚えのない若い侯爵子息の姿があった。

 まだ年若い貴族らしく、祝宴の華やぎに頬を上気させながら、高座の方――正確には私の方を見上げている。


 その視線に気づいた瞬間だった。

 陛下の杯が、静かに卓へ置かれる。

 音は小さい。

 だが私には、それだけで空気が変わったのが分かった。


「陛下?」

「……離れるな」


 独り言のように発せられた声。

 けれどその言葉は、命令というより別の意味を含んでいる気がする。

 私は自然と背筋を伸ばし、陛下の影に寄り添うように立ち位置を少し近づける。


「はい。ずっと、お傍に」


 そう答えると、陛下はようやく満足したように杯を再び手に取った。

 黄金の灯火に照らされた高座の上だけは、静かで甘い時間が流れている。

 眼下では宴がさらに賑わいを増し、舞踏のために中央の空間が少しずつ整えられていく。

 けれど私の意識はすべて、すぐ目の前の陛下の背中へ向けられていた。

 誰よりも孤高で、誰よりも多くを背負う皇帝。

 その背に、今夜も私は影のように寄り添っている。

 そしてそのことが、何よりも嬉しかった。

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