16話 祝宴会③
祝宴の夜が、静かに幕を開けようとしていた。
陛下に手を引かれたまま進む回廊には、すでに夜の気配が満ちていた。
高い窓の外では藍色の空が城を包み、遠くの庭園には無数の灯火が揺れている。
風に乗って微かに届くのは、宴の準備を終えた楽団の音合わせ。
弦を爪弾く柔らかな音、金管の華やかな響き、低く響く太鼓の余韻。
そのすべてが、今夜の特別さを物語っていた。
私は陛下の隣を歩きながら、自然と背筋を伸ばす。
やがて、大広間へ続く巨大な扉の前へ辿り着いた。
天井近くまで届く重厚な扉には、帝国の紋章が金で刻まれている。
その前には近衛騎士たちが左右に整列し、銀の甲冑が燭台の光を鋭く反射していた。
中央には侍従長が待っている。
「陛下、皆様お揃いにございます」
深く頭を垂れた報告に、陛下は短く頷いた。
その横顔は、すでに完全に“皇帝”のものだった。
私も小さく息を吸い込む。
帝国の戦勝を祝い、豊かな実りを寿ぐ一夜。
諸侯、将軍、外交使節、功績ある騎士たち――国中の視線が、この先の大広間に集まっている。
「……セシリア」
陛下の声に、私は顔を上げた。
金の瞳が静かにこちらを見つめている。
「はい、陛下」
「……傍にいろ」
短く、それだけ。
「はい。今夜も、ずっと」
微笑んで答えると、陛下の指先が私の手の甲を一度だけ静かに撫でた。
ほんの一瞬。
次の瞬間にはもう離れ、公の皇帝の手へ戻っている。
それでも、その小さな触れ合いだけで胸の奥が熱く満たされた。
侍従長が一歩前へ出て、朗々とした声を響かせる。
「皇帝陛下、ご入場――!」
その宣言とともに、重厚な扉がゆっくりと左右へ開かれていく。
途端に、眩い黄金の光が一気に溢れ出した。
昼間に見たはずの大広間が、まるで別世界に変わっていた。
高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアには、無数の灯りが宿っている。
その光が硝子の粒に反射し、星空そのものが広間へ降りてきたようだった。
壁を彩る金の布は柔らかな波のように揺れ、白百合と深紅の薔薇が華やかに咲き誇る。
宴卓には銀器が美しく並び、葡萄や林檎、ざくろが豊穣の象徴として惜しみなく飾られている。
燭台の炎がゆらめくたび、広間全体が黄金色の海のように輝く。
その中心へ、陛下がゆっくりと一歩を踏み出す。
空気が揺れて、一斉に視線が集まる。
皆深く頭を垂れ、外交使節たちは息を呑んでその姿を見つめている。
黒の礼装に身を包み、金をまとった銀髪の皇帝。
ただ歩くだけで、広間そのものの空気を支配してしまうような圧倒的威厳。
誰もが、その存在感に目を奪われていた。
そして当然のように、その隣を歩く私へも無数の視線が注がれる。
「……あれが皇帝陛下の側近」
「今夜はドレス姿か」
「なんと美しい……」
囁き声が微かに耳に届く。
普段の軍装ではなく、今夜は紺碧のドレス。
貴族たちの目を引くのも無理はない。
それでも、不思議と怖くはなかった。
陛下の隣に立っている。
赤い絨毯の上を、二人でゆっくりと進む。
その時だった。
貴族席の一角で、若い侯爵子息たちがこちらを見て小さくざわめいているのが見えた。
値踏みするような視線。
その瞬間、陛下の歩調がほんのわずかに私へ寄る。
黒い袖が、私の腕へかすかに触れた。
何も言葉はない。
けれど、その無言の一歩だけで十分だった。
――見るな。近づくな。
そういっているように感じた。
私はそっと視線を伏せ、誰にも見えないほど小さく微笑んだ。
やがて最上段の高座へ辿り着く。
陛下が静かに席へ腰を下ろし、私はその一段下、すぐ傍へ控えた。
楽団の音がすっと落ち着き、大広間には厳かな静寂が広がる。
今この瞬間、この帝国で最も多くの視線を集めているのは、間違いなくこの高座だ。
戦勝の誇り。豊穣の祝福。帝国の威光。
そのすべてを背負って、陛下は静かに広間を見下ろしている。
冷たく、美しく、誰もが畏れる皇帝。
私はゆっくりと広間を見渡した。
黄金の灯りが、高座に座る二人の影を長く伸ばしている。
大広間を満たしていたざわめきは、やがて引いていった。
高座に座した陛下が、ゆっくりと広間を見渡す。
その金の瞳が一巡しただけで、貴族や将軍たちは一斉に姿勢を正した。
陛下は何も仰らない。
ただ高座から静かに広間を見下ろし、その存在だけで場を支配していた。
その沈黙を受け、私は一歩前へ出る。
高座のすぐ傍から、大広間全体へ声を響かせた。
「皇帝陛下より、此度の戦勝に尽力したすべての者へ、最大の賛辞を賜ります」
一瞬、広間の空気が張り詰める。
私は陛下の横顔をそっと窺う。
金の瞳がわずかに細められた。
続けてよい、という合図。
「北方戦線を守り抜いた将兵、補給を支えた文官、負傷兵を救った医官、そして民の実りを守り抜いたすべての者たち。その忠義と献身が、今宵の勝利と豊穣をもたらしました」
これはただの形式的な祝辞ではない。
陛下が帝国すべてへ向けて抱いている信頼と評価、その重みを私が預かっている。
この役目を許されていることが、何より誇らしかった。
「ゆえに陛下は今宵、その功を広く帝国へ示し、褒賞をもって讃えられます」
私がそう告げると、広間中から盛大な拍手が湧き上がった。
その音を受けても、陛下はなお静かに座している。
「これより褒賞授与を執り行います」
侍従たちが一斉に動き出す。
銀の盆に捧げられた剣、勲章、銀杯。
磨き上げられたそれらがまばゆく光っている。
最初に中央へ進み出たのは、将軍ザルツ殿だった。
重厚な軍装のまま片膝をつく姿に、周囲の将校たちの視線が集まる。
私は再び陛下へ視線を向ける。
わずかに顎が動く。
「皇帝陛下は、北方戦線における突破と防衛の功を高く評価されています。将軍ザルツ殿、その忠義に帝国剣を賜ります」
侍従が捧げた剣を、陛下は静かに手に取る。
その一連の所作には一切の無駄がない。
銀の刃がシャンデリアの灯りを受けて鋭く輝いた。
やがて陛下がその剣を将軍へ差し出す。
ザルツ将軍は深く頭を垂れた。
「この栄誉、生涯をかけてお守りいたします」
広間に大きな拍手が響き渡る。
続いて騎士団長、兵站を支えた文官、戦地で数多の命を救った医官たち。
そのたびに私は陛下の小さな視線や指先の動きを読み取り、言葉へ変えていく。
「陛下は、その冷静なる采配を称えられています」
「帝国への揺るぎない忠誠に、深い感謝を」
「民を守り抜いた働きは、永く語り継がれるでしょう」
一つ一つの言葉が広間へ響くたび、褒賞を受ける者たちの表情に誇りが満ちていく。
外交使節たちも、その光景を興味深そうに見つめていた。
やがて最後の褒賞者が下がり、広間には再び拍手が満ちる。
私はそっと高座へ視線を戻した。
陛下の金の瞳が、ほんの一瞬だけ私を映す。
私は誰にも気づかれないほど小さく微笑み、胸の前でそっと手を重ねる。
お役に立てて、光栄です。
沈黙のまま交わされるやり取り。
それは大広間に集う誰にも真似できない、私たちだけの会話だった。
戦勝の誇りと豊穣の喜びに包まれた祝宴は、ここからさらに華やぎを増していく。
杯が満たされ、楽団が次の曲を奏で始める。




