15話 祝宴会②
大広間の最終確認を終えた頃には、昼を過ぎていた。
祝宴の始まりを告げる鐘までは、もうそう遠くない。
回廊を行き交う人々の足取りも、朝よりさらに忙しない。
磨き上げられた銀器を運ぶ侍女、最後の花飾りを抱えた使用人、正装した近衛騎士たち。
城全体が今夜の大夜会へ向けて息づいているようだった。
私はようやく自室へ戻り、小さく息を吐いた。
「……間に合いそうでよかった」
思わず漏れた本音に、待機していた侍女たちがくすりと笑う。
「セシリア様が大広間を見て回ってくださったおかげでございます」
「今夜は戦勝祝いと収穫祭を兼ねた大夜会ですもの。皆、気合いが入っております」
部屋の中央には、すでに今夜の衣装が広げられていた。
深い紺碧のドレス。
夜空の色をそのまま布へ落とし込んだような、静かで気高い青。
裾には銀糸の刺繍が幾重にも施され、月光を受けた水面のように繊細なきらめきを放っている。
胸元には小粒の宝石が散りばめられ、動くたびに星のように光を返しそうだった。
思わず足を止める。
「……とても綺麗」
素直にそう零すと、侍女たちが嬉しそうに顔を見合わせた。
「陛下の礼装に合わせて、黒と並んでも映えるよう選ばせていただきました」
「金の灯りの下では、銀糸がもっと美しく見えるはずです」
陛下の隣に立つための衣装。
そう思っただけで、ただの華やかなドレス以上の意味を持って見えた。
「さあ、こちらへ。お時間がございません」
「はい」
侍女たちに促され、私は鏡の前へ立つ。
軍装を解き、慣れた革手袋を外し、肩を覆っていた上着を脱ぐ。
いつもの側近としての姿を一枚ずつ置いていくたびに、今夜だけの別の自分へ変わっていくような不思議な感覚があった。
柔らかな布が腕を滑り、背へ落ちる。
腰紐が締められ、胸元が整えられていく。
「少し苦しくはありませんか?」
「大丈夫です。これくらいなら平気です」
「今夜は舞踏もございますから、裾は少し軽めに仕立ててあります」
「……舞踏」
思わずその言葉を繰り返す。
「ええ。貴族の方々がきっとお誘いになるかと」
「私を、ですか?」
侍女の一人がいたずらっぽく微笑んだ。
「当然です。今夜のセシリア様は、きっと誰よりもお綺麗ですもの」
「そんな……」
もし、本当に誰かに誘われたら。
一瞬よぎった想像に、最初に浮かんだのは陛下の金の瞳だった。
あの方は、どんな顔をされるだろう。
「きっと陛下が先にお声をかけてくださいますわ」
「陛下は……そのようなこと、なさらないと思います」
そう言いながらも、胸のどこかが少しだけ期待してしまう。
やがて髪が整えられていく。
髪を半分だけ結い上げ、残りを背へ柔らかく流す。
髪飾りも付けた。
最後に鏡の前へ立たされた時、そこには見慣れない自分がいた。
「……本当に、私でしょうか」
「ええ。とてもお美しいです」
「陛下もきっと見惚れられます」
その一言に、思わず頬が熱を持つ。
ちょうどその時、扉が控えめに叩かれた。
「セシリア様。陛下がお呼びでございます」
「……参ります」
扉の前で一度だけ深呼吸し、私は静かに中へ入る。
その瞬間、思わず息を呑む。
窓辺に立つ陛下は、すでに正装を整えていた。
黒を基調とした礼装は、深く美しい。
肩章には金の意匠、胸元には戦勝を示す深紅の飾緒。
銀の髪は整えられ、淡く輝いている。
ただそこに立っているだけで、圧倒的な威厳。
皇帝という存在の重みが、その姿そのものに宿っていた。
「……陛下」
呼びかけると、ゆっくりと金の瞳がこちらを向く。
その視線が私を捉えた瞬間、空気が静かに張り詰めた。
足元から、裾、腰、肩、髪。
時間をかけて丁寧に見つめられる。
何も言葉はない。
その沈黙に耐えきれず、私は小さく笑った。
「そんなに見つめられると、少し落ち着きません」
「……似合っている」
短い一言。
それだけなのに、甘く満たされる。
「ありがとうございます。陛下こそ、本当にお似合いです」
「……そうか」
ぶっきらぼうな返答。
けれどその目元はどこか柔らかい。
陛下は静かに歩み寄り、私の耳元へ手を伸ばした。
「少し、髪飾りがずれている」
「え……」
そっと髪飾りを直される。
指先が耳にかすめるたび、身体が熱を持つ。
「これでいい」
「……はい」
気づけば、互いの距離は息が触れそうなほど近い。
「今夜は、たくさんの方が陛下を見上げるでしょうね」
「……お前は」
「はい?」
「……私だけを見ていろ」
「仰せのままに」
微笑んでそう返すと、陛下の手が私の指先を静かに取る。
「今夜も、お傍におります」
「……離れるな」
「はい。決して」
その答えに満足したように、陛下は私の手を引く。
扉の向こうでは、楽団が音合わせを始めていた。
低く響く弦の音が、これから始まる華やかな夜を告げている。
二人で並んで回廊へ出た。
皇帝とその側近として。
遠く、大広間の灯りが金色に揺れていた。
祝宴の夜が、静かに幕を開けようとしていた。




