14話 祝宴会①
朝の執務室には、すでに慌ただしい空気が満ちていた。
窓の外では中庭を行き交う侍女や使用人たちの姿が見える。
大広間へ運び込まれていく花々、磨き上げられた銀器、色鮮やかな布。
城全体が、今夜の祝宴へ向けて目覚め始めていた。
帝国の戦勝、そして今年の豊かな収穫を祝う大夜会。
諸侯に加え、戦で功績を挙げた将軍たち、さらには近隣国からの使節まで招かれる一大行事だ。
私は手元の進行表へ視線を落としながら、執務机の向こうに座る陛下へ報告を続けていた。
「大広間の装飾は昼までに完了予定です。秋の果実を中心に、金の布と白百合でまとめるそうです」
机に向かう陛下は、相変わらず無駄な言葉ひとつなく書類へ目を通している。
陽光を受けた銀の髪が静かにきらめき、その横顔はいつものように冷ややかで美しい。
「使節団の席順は、北方の侯爵家を中央寄りへ。昨年の件もありますので、西方の公爵家とは距離を置かせます」
そこでようやく、陛下の金の瞳が書類から上がった。
視線だけで先を促され、私は続ける。
「戦勝の褒賞授与は祝辞の後。将軍ザルツ殿には剣を、騎士団には銀杯を贈る手筈です」
しばしの沈黙。
やがて陛下は一枚の書類へ署名を入れ、短く私へ差し出した。
承認。
それだけで十分だった。
私は書類を受け取りながら、小さく息を吐く。
「……やはり、今夜はかなり大規模になりそうですね」
思わず本音が漏れる。
これだけの賓客を迎えるとなれば、警備も進行も一切の乱れは許されない。
側近として自然と気が張る。
すると、不意に、机越しに伸びた手が、私の指先をそっと捕らえた。
「……っ」
驚いて顔を上げる。
陛下は相変わらず無表情のまま。
けれどその指先だけが、私を離すまいとするように静かに絡んでいた。
執務室には他に誰もいない。
だからこそ許される、ごく小さな触れ合い。
「陛下……?」
問いかけると、金の瞳がまっすぐ私を映した。
「……今夜は、人が多い」
低い声音。
必要最低限の言葉だけ。
けれど、それだけで意味は伝わる。
私は少しだけ目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「はい。できる限り、お傍を離れません」
その答えに、陛下はわずかに指先へ力を込めた。
満足したのだろう。
すぐに手は離れ、再び何事もなかったように書類へ視線が戻る。
冷徹な皇帝の横顔。
けれど、ほんの一瞬触れた温もりがまだ指先に残っていた。
今夜の祝宴では、きっとまた多くの視線が陛下へ注がれる。
誰もが威厳ある皇帝の姿しか見ないだろう。
それでも私は知っている。
この冷たい横顔の奥に、言葉にしない不器用な独占欲が隠れていることを。
窓の外では、城中の鐘が高く鳴った。
祝宴の日の始まりを告げる音だ。
私は書類を抱え直し、静かに背筋を伸ばす。
今夜はきっと、長い夜になる。
執務室を辞した私は、書類を抱えたまま大広間へ向かった。
城の回廊は朝から慌ただしい。
侍女たちが磨き上げた銀器を慎重に運び、使用人たちは大きな花籠を抱えて行き交っている。
いつもは静謐な石造りの城が、今日ばかりはどこか浮き立って見えた。
城中の誰もが、その準備に追われている。
大広間へ足を踏み入れた瞬間、私は思わず小さく息を呑んだ。
「……すごい」
高い天井からは巨大なシャンデリアが幾重にも吊り下げられ、朝の光を受けて無数の硝子が淡く煌めいている。
壁には帝国の紋章を織り込んだ金の布が優雅に垂らされ、その間を埋めるように白百合と深紅の薔薇が飾られていた。
窓辺には秋の実りを象徴する果実籠。
豊穣を祝う華やかな彩りが、大広間全体に温かな気配を満たしている。
中央には長い宴卓がいくつも並べられ、白いクロスの上に磨き抜かれた銀器が整然と置かれていた。
燭台の配置も完璧だ。
夜になれば、ここはきっと黄金の光に満たされるだろう。
「セシリア様、おはようございます」
装飾を指揮していた侍女長が一礼する。
「進捗はいかがですか?」
私はすぐに意識を仕事へ切り替えた。
「予定通り順調です。花の飾り付けは正午まで、卓上の最終調整は夕刻前には終わります」
「素晴らしいですね。使節席の卓は少し間隔を広めに。北方侯爵家は中央寄りでお願いします」
「かしこまりました」
侍女長が手早く指示を飛ばし、使用人たちがすぐに動き出す。
私は広間をゆっくり歩きながら、席順表と照らし合わせて細部を確認していく。
将軍たちの席。諸侯の卓。楽団の配置。
舞踏のために中央は十分に広く空けられていた。
その光景を見つめながら、不意に指先へ意識が向く。
先ほど、執務室で陛下に触れられた場所。
書類を持つ手に、まだあの温もりが残っている気がした。
――今夜は、人が多い。
短い言葉。
けれどそこに込められた意味を思い出し、胸がそっと甘くなる。
公の場では、陛下はきっといつも以上に冷たい皇帝であられるだろう。
戦勝を称え、諸侯を迎え、外交使節と向き合う。
その隣で私は側近として完璧でいなければならない。
それでも……。
「……仕事に集中しないと」
誰に聞かせるでもなく呟く。
けれどその時、楽団席の近くで何やらざわめきが起こった。
見ると、若い使用人が大きな燭台を運ぶ途中で足を止め、困ったように周囲を見回している。
どうやら配置場所に迷っているらしい。
私はすぐにそちらへ向かった。
「それは舞踏の邪魔にならないよう、柱際へ。夜にはここから光が卓全体に落ちるはずです」
「あ……! ありがとうございます!」
安堵した使用人が深く頭を下げる。
再び動き始める人々。
花の香り。磨かれた銀の光。忙しなく響く足音。
城全体が、今夜の祝宴へ向けて息づいている。
私は広間の中央で足を止め、完成へ近づいていく景色を見渡した。
夜になれば、ここに帝国中の視線が集まる。
そして玉座のように高い席には、あの方が座る。
冷徹で、美しく、誰もが畏れる皇帝として。
私は再び準備の確認へと歩き出した。




