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11話 祭り⑥

 広場へ近づくにつれ、人混みはさらに濃くなっていった。

 祭りの終わりを惜しむ人々のざわめきが、灯籠の明かりの下で絶えず揺れている。


「ねえ、アル」


 陛下の肩の上のリオンが、ふいに身を乗り出した。

 無邪気な声に、私と陛下はリオンを見る。


「アルとリアは、けっこんするの?」


 さっきの指輪の話を、まだ覚えていたらしい。

 私が返答に迷っていると、リオンはさらに追い打ちをかけた。


 「けっこんするなら、わたしもこどもにしてくれる?」

 「――え?」


 思わず間の抜けた声が漏れる。

 こ、子供って……!

 私は一気に頬が熱くなるのを感じた。

 リオンはきらきらした目でこちらを見下ろしている。


 「だって、アルもリアもやさしいし、いっしょにいたいもん」

 「リオン、それは簡単に決めることじゃないですよ」

 「……お前の親もいるだろう」

 「だって……」

 

 そこへ。


 「リオン様!」


 鋭い声が聞こえた。

 数人の屈強な護衛を連れた一団が、人混みを力ずくで押し分けるようにして現れる。

 中央に立つのは、深緑の外套に銀糸の刺繍を施した壮年の男――エドワード・ヴァン・リテレス侯爵。

 そして、氷のように冷ややかな微笑を湛えた侯爵夫人。


 胸元に刻まれた、白鷺の紋章。

 伝統と血統を至上とする名門貴族の急進派だ。

 皇帝の急進的な改革を快く思わず、隙あらばその権威を削ごうと狙う、もっとも厄介な敵対勢力の一つ。


「おとうさま、おかあさま!」


 リオンがぱっと明るい声を上げる。

 だが、リテレス侯爵の表情は安堵より先に、凍りつくような厳しさを浮かべていた。


「何をしていた、リオン。私の娘であるものが、泥にまみれた民の群れに混じって醜態を晒すとは」


 低く鋭い声に、リオンの小さな肩がびくりと震える。

 

「……ごめんなさい」

 

 隣で侯爵夫人も、一切の慈愛を排した声音で続けた。


「祭りで勝手に列を離れるなど、我が一族の恥です。戻ったら相応の罰を与えなければなりませんね」


 先ほどまで無邪気に笑っていたリオンが、みるみるうちにしゅんと項垂れる。


 私が話しても声だけでばれることはないだろうと考え、話しかける。

 

「申し訳ありません。あまりの人混みにはぐれていらしたようで……私共がお預かりしておりました」


 私が間に入るように穏やかに言うと、リテレス侯爵はようやく私へ、そしてその隣に立つ陛下へと視線を向けた。


 狐の面。

 隙のない立ち方。

 そして何より、黙っているだけで周囲の空気を支配する、圧倒的な覇気。


 侯爵の目が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められた。

 

「……そちらの御方は?」


 私は一瞬、息を止めた。

 陛下は何も答えない。

 相手は陛下のことをもちろん知っているはずだ。

 正体を見破られているかもしれない。


「私の……主です。お祭りの折、少し羽を伸ばしておりまして」


 慎重に、けれど不自然にならないよう答える。

 しかし、リテレス侯爵はじっと陛下を見つめたまま動かない。

 その視線は、相手の魂まで透かし見ようとする執念深さに満ちていた。


「ほう。主、か。……だが、その立ち姿。そして面越しに放たれるその眼光……。どこかで見覚えがある気がしてならん。貴族か?」

「辺境の貴族です」

 

 侯爵はさらに一歩、陛下へ詰め寄った。


「貴殿、どこぞの戦場、あるいは……円卓の会議場にいたことはないか? その威圧感、まるで我が主君である陛下を彷彿とさせる」


 手のひらに、じっとりと汗が滲む。

 リテレス侯爵の疑念は確信に近いものへと変わりつつあった。


 けれど、その緊張を壊したのはリオンだった。


「アルはアルだよ! わたしをかたぐるましてくれたの!」


 無邪気に笑い、侯爵の袖を引くリオン。

 侯爵は娘を一瞥し、忌々しげに鼻を鳴らした。


「肩車……?……まずは礼を言うのが貴族の義務だ。リオン、下がりなさい」


 厳しい声音のまま、侯爵は陛下へ短く顎をしゃくった。

 

「娘を拾っていただいた手間には感謝する。……だが、もし貴殿が私の想像通りの御方であるならば、このような場所で醜態を晒すべきではない。……いや、考えすぎか」


 最後の一言は、自分に言い聞かせるような響きだった。

 陛下はなおも沈黙を守ったまま、微かに首を傾げる。

 それがかえって、侯爵の探るような視線をさらに深くさせたが、これ以上ここに留まるのは限界だった。


「……では、私たちはこれで。リオン、元気でね」


 私はそっとリオンの前へ屈んだ。そして、誰にも聞こえないよう、そっと耳元へ囁く。


「……リオン。今日のことは、秘密にしてね。お父さんたちにも、誰にも」


 リオンは一瞬だけきょとんとしたが、すぐににこっと笑った。


「うん、ひみつ!」


 小さな唇の前に指を立てる。その後で、リオンは陛下の袖をちょんと引いた。

 

「ねえ、アル。……またあえる?」


 侯爵夫妻の冷徹な視線が注がれる中、陛下はどうするのか。

 私は思わず息を止める。

 だが陛下はやはり何も言わない。


 ただ、静かに身を屈め、狐の面をリオンの耳元へ寄せた。

 ごく小さな、秘密の耳打ち。

 それを聞いた瞬間、リオンの顔がぱっと明るくなる。


「ほんと!?」


「リオン、無駄口はそれまでです。戻りなさい」


 侯爵夫人の一喝に、リオンはぴんと背筋を伸ばし、「……はい」と消え入るような声で答えた。

 やはり、自由など一切許されない厳しい一族なのだ。


 リテレス侯爵は最後にもう一度、陛下を射抜くように見た。

 

「……面の下の素顔、いずれどこかで拝見することになりそうですな」


 挑戦的な言葉を残し、一行はリオンを囲むようにして去っていく。

 去り際、リオンだけがそっと振り返り、口元に指を当てた。


 ――ひみつ。


 その形だけを残して、リオンは闇の中へと消えていった。


 姿が見えなくなってから、ようやく私は膝の力が抜けるのを感じた。

 

「……危なかった、ですね。あの方は、確か……」

「……ああ。リテレスだ」


 陛下の声が、祭りの喧騒を吸い込むように低く響く。

 

 いつの間にか、周囲の喧騒は遠のき、私たちは静かな路地の影に立っていた。


「……リオンに、何を仰ったのですか?」


 私は、まだ冷めやらぬ鼓動を抑えながら尋ねた。

 

 陛下はゆっくりと、自分の肩を軽く叩いた。

 先ほどまでリオンが座っていた、その場所を。


「……また、乗せてやると」


 短く、それだけを返した。

 あまりに簡潔な、けれどその中には、リオンへの、陛下なりの深い憐憫と慈愛が込められているように感じられた。


「……あの子、本当に嬉しそうでした」


 私はふっと息を吐き、夜空を見上げる。

 灯籠の明かりが遠ざかり、路地裏には静謐な闇が降りていた。


「ですが、リテレス侯爵は完全に疑っています。……円卓の会議場にいたのではないかと、そう口にしていました」


 陛下は狐の面に手をかけ、わずかに顎を引いた。


「……構わん。証拠がなければ、奴は動かない」


 その言葉は冷徹だが、どこか楽しんでいるようにも聞こえる。

 陛下は再び歩き出し、広い通りから外れた、人通りの少ない運河沿いの道を選んだ。

 水面に映る祭りの灯りが、ゆらゆらと揺れている。


「……リア」


 不意に名を呼ばれ、私は背筋を伸ばした。


「はい」

「……指輪のことだ」


 リオンのけっこんするの?という問い。

 陛下は立ち止まり、水面を見つめたまま、静かに言葉を継いだ。


「……リオンの願い、半分は叶えてやれるかもしれぬな」


 私は言葉を失った。

 半分とはどういう意味だろうか。

 私が困惑していると、陛下は仮面を外し、月明かりの下でその横顔を晒した。


「……家族にはなれずとも、側に置くことはできる」


 その瞳は、先ほどまでの覇気を消し去り、穏やかさを湛えている。

 陛下は私の方を向き、一歩、距離を詰めた。


「お前が……望むならだ」

「私は……」


 言葉がうまく紡げない。

 リオンの問いに、私は「子供って……!」と赤くなったが、陛下はもっと先を見据えていたのかもしれない。


 陛下は大きな手で、私の頬に触れた。

 祭りの熱気が、指先から伝わってくる。


「……帰るぞ。夜が、明けぬうちに」


「……はい」


 私たちは再び歩き出す。

 祭りはもう終わっている。

 けれど、繋がれた手の中にある確かな熱は、温かかった。

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