1話 無口な皇帝
「……陛下。本日の議題、最後の案件となります」
静まり返った玉座の間に、私の声だけが静かに響いた。
重厚な扉に閉ざされたこの空間には、最初から音というものが存在しなかったかのように、すべての気配が抑え込まれている。居並ぶ臣下たちは俯いており、誰一人として玉座を正面から見ようとはしない。
それは礼節というよりも、長い年月の中で刷り込まれた畏れに近いものだった。
玉座の上には、この国、セレスティア帝国の皇帝、アルス陛下。
銀の髪に、透き通るような金の瞳。非の打ち所のない美貌と、感情の揺れを一切映さぬ無表情。その姿はあまりにも完成されていて、生きた人間というよりも、精巧に作られた像のような印象すら与える。帝の正装としては、いささか過剰なほどに重ねられた衣。首元から指先に至るまで隙間なく覆われたその装いは、近寄りがたい威厳を演出している。
そして何より、この方は言葉を発さない。
沈黙こそが意思表示であり、その沈黙がこの場のすべてを支配していた。
「南方の徴税について、再度ご審議いただきたく――」
進言役の貴族が口を開いた、そのときだった。
言葉が、不自然な形で途切れる。
陛下の視線が、ほんのわずかに動いたからだ。
それだけで場の空気が張り詰め、言葉を続けることを躊躇わせるには十分すぎた。慣れない者にとっては、それは明確な拒絶に感じられるのだろう。
だが、その意味を読み取れない者は、この場にはいない。
少なくとも――一人を除いて。
「陛下は、現行案の再検討をお望みです」
私は一歩前へと進み出る。
声は抑えながらも、確実に全員へ届くように整える。
「特に南方の民への負担が過度にならぬよう、配分の見直しを。三日以内に新たな案を提出なさるように、とのことです」
私の言葉は、そのまま勅命として扱われる。
誰も異を唱えないし、そもそも唱えられない。陛下が否定なさらない限り、それはそのまま陛下の御意志として確定するからだ。
私はセシリア・ヴァルシュタイン。
幼い頃から陛下に仕えてきた。
沈黙を読み、言葉を補う。
いわば皇帝の声として振る舞うことが、私の日常であり、存在意義でもあった。
「はっ……承知いたしました!」
貴族は深く頭を下げた。
その背中からは、あからさまな安堵が滲んでいる。先ほどまでの緊張が嘘のように抜け落ちているのが分かった。
やはり、怖いのだろう。
無言で見つめられるという状況は、それだけで人の心を削る。何を考えているのか分からないというだけで、人はこれほどまでに萎縮するものらしい。
もっとも、私からすればそこまで恐れる必要があるとは思えなかった。
少なくとも、この方は理不尽に怒るような方ではないのだから。
「他に、進言はございますか」
場を締めるように問いかけると、誰も口を開こうとはしなかった。
すでに結論は出ている。これ以上言葉を重ねる必要はない。
やがて、玉座の上で陛下の指先が、ほんのわずかに動いた。
その合図を受け取り、私は静かに告げる。
「――本日の会議は、これにて終了といたします」
一斉に頭が下がる。
臣下たちは、ほとんど逃げるような足取りで玉座の間を後にしていった。誰一人として振り返らないのは、習慣か、それとも単なる恐怖からか。
重い扉が閉ざされる。
その音が響いた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
「……以上で、本日の政務はすべて終了しております」
私は改めてそう告げる。
返答はない。
だが、それで問題はなかった。
沈黙は拒絶ではなく、この方にとってはごく自然な状態なのだから。
「この後のご予定ですが――」
続けようとした、そのとき。
「……セシリア」
名を呼ばれる。
先ほどまでよりも、ほんのわずかに温度のある声音で。
「はい、陛下」
顔を上げ、玉座へと歩み寄る。
この距離に近づくことを許されている者は、そう多くない。
否、正確には――私だけだ。
本来であれば、皇帝の沈黙を理解するなどということは許されるべきではない。それはあまりにも特異で、あまりにも危うい。
それでも私は、それを許されている。
許されてしまっている。
「……これを」
短く告げられ、差し出されたのは小さな箱だった。
書類ではないことに、わずかに意外性を覚える。
「拝見いたします」
受け取り、蓋を開ける。
中に収められていたのは、繊細な細工が施された菓子だった。王都でも限られた店でしか扱っていない、新作の品であることが一目で分かる。
その見た目と記憶が結びつくまでに、さほど時間はかからなかった。
数日前、ほんの些細な雑談の中で、確かに私はこれに興味を示していた。
「……新作の菓子、でございますね」
そう言うと、陛下はわずかに視線を逸らされた。
「……余った」
短い返答。
それだけだった。
だが、この手の品が余ることはまずあり得ない。数量が限られている以上、偶然手元に残るという状況の方が不自然だ。
つまり、わざわざ用意されたものだという結論に至る。
もっとも、その理由を深く追及する必要はないと判断した。
こうしたことは、これが初めてではないのだから。
「ありがとうございます」
礼を述べる。
「……味の保証はない」
「そのようなことはございません」
自然と声がわずかに和らぐ。
「陛下がお選びになったものであれば、間違いなどあるはずがありませんので」
その言葉を耳にした瞬間、陛下の金色の瞳が、微かに揺れた気がした。
数拍の間を置いて
「……そうか」
短く返される。
それ以上は続かない。
再び、静かな時間が戻る。
だが、不思議と居心地の悪さはなかった。
むしろ、こうしたやり取りはどこか穏やかですらある。
陛下は必要以上に言葉を交わそうとはなさらないが、その分だけ行動で示されるものがある。
そしてそれは、おそらく一般的な主従関係よりも、いささか距離が近い。
もっとも、それを特別だと意識したことはなかった。
ただ、少しばかり過保護なだけなのだろうと、そう理解している。
「では、こちらの書類を片付け次第、次の業務に移らせていただきます」
そう告げ、踵を返そうとした、そのとき。
「……セシリア」
再び、呼び止められる。
「はい」
振り返る。
陛下は変わらぬ無表情のまま、こちらを見ていた。
だが、その視線はどこか定まらず、わずかに揺れているようにも見える。
「……少し、ここにいろ」
ぽつりと落ちた言葉は、命令というには弱く、願いというにはあまりにも不器用だった。
私は一瞬だけ考え、すぐに結論を出す。
「承知いたしました」
一礼する。
「本日中の業務はすでに区切りがついておりますので、しばらくはお側に控えております」
それが最も合理的で、適切な判断だと思った。
少なくとも、その時の私はそう理解していた。
その言葉に込められていた意味を、正しく受け取ることはなく。
しばらくして、セシリアが退出した後も、皇帝はしばらく動かなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……違う」
ぽつりと、声が零れる。
それは先ほどまでとは明らかに異なる、抑えきれない響きを帯びたものだった。
「……そういう意味じゃ、ない」
低く抑えられていた声がほどけ、本来の高さを取り戻す。
それは“皇帝アルス”のものではなく。
ただ一人の少女の声だった。
喉元に触れた指先が、衣の留め具をわずかに緩める。
隠されていた線の細さが、ほんの少しだけ露わになる。
「……セシリア」
名を呼ぶ声音は、不器用で、拙い。
それでも隠しきれないほどの感情を孕んでいた。
――この国の皇帝は、男でなければならない。
だから彼女は、今日も沈黙する。
本当の名前を、誰にも呼ばせないまま。




