ポイズン・エクソシズム2
◆
霊務省広報課の会議室にはいつも乾いた空気が淀んでいた。
課長の戸塚は五十を過ぎてから急激に老けた男で頭髪の後退と引き換えに得たものといえば、霞が関でも指折りの図太さくらいのものだった。部下の顔を見渡しながら、手元の企画書をぱらぱらと捲る。「国民感情改善及び呪物不動産削減に関する統合的広報戦略について」という仰々しい表題がいかにも役所仕事らしい。
「つまり、こういうことだな」
戸塚は企画書を机に放り出した。
「幽霊をいじめ殺せ、と」
若手の職員が数名、居心地悪そうに視線を逸らす。戸塚は構わず続けた。
「いや、言葉が悪かったな。正確に言おう。国民の皆様に、呪物物件に対する健全な敵意を醸成していただき、結果として霊的汚染の自然減衰を促進する。これでどうだ」
「その、課長」
入省三年目の女性職員が恐る恐る手を挙げた。名を笹野という。まだ霊務省特有の空気に染まりきっていない、貴重な人材だった。
「それって、つまり」
「つまり、だ。お前の言いたいことはわかる」
戸塚は笹野の言葉を遮った。
「倫理的にどうなのか。人道的にどうなのか。そもそも幽霊に人道が適用されるのか。いろいろと疑問はあろう。だがな、笹野。この国の呪物汚染率は現在18%だ。東京23区に限れば22%を超えている。住む場所がない。刑務所を建てる場所もない」
「それは存じていますが」
「では聞くがお前ならどうする。予算は削られる一方、呪物は増える一方、国民は怯える一方、犯罪者は増える一方。この四重苦をどう解決する」
笹野は黙り込んだ。戸塚は満足げに頷く。
「そう、答えなどない。だから我々は答えがないなりの答えを出す。それが役人の仕事だ」
会議室の隅でベテラン職員の神田が低く笑った。この男は霊務省の創設時からいる古株で執行課との太いパイプを持っている。戸塚にとっては煙たい存在だが今回の企画には欠かせない駒でもあった。
「戸塚課長、理屈はいい。で具体的にはどうやるんです」
「まず、テレビだ」
戸塚はホワイトボードに向かい、マーカーを手に取った。
「民放各局には既に話を通してある。心霊特番の復活だ。ただし、従来のような『恐怖を煽る』路線ではない。『怒りを煽る』路線に転換する」
「怒り、ですか」
「そうだ。考えてもみろ。これまでの心霊番組は幽霊を『怖いもの』として描いてきた。だから国民は怯えた。逃げた。物件価格は暴落し、社会不安は増大した。だが発想を変えてみろ。幽霊を『憎むべきもの』として描いたらどうなる」
神田が顎を撫でた。
「なるほど。恐怖は逃避を生むが憎悪は攻撃を生む」
「その通り。国民に幽霊を憎ませる。蔑ませる。馬鹿にさせる。そうすれば、連中は勝手に呪物物件に近づいて罵倒を浴びせるようになる」
「それで幽霊が消えるんですか」
笹野が再び口を挟んだ。戸塚は苦笑する。
「消える。少なくとも、弱い奴は消える。この点については高野グループの折り紙付きだ。神田、説明してやれ」
神田は重い腰を上げ、戸塚に代わってホワイトボードの前に立った。
「いいか、笹野。幽霊ってのは基本的に人間の恐怖を糧にしている。これは知ってるな。だがそれは彼らが恐怖という感情に『強い』ことを意味しない。むしろ逆だ」
「逆、ですか」
「幽霊ってのはな、死んだ時の感情を引きずっている連中だ。恨み、悲しみ、苦痛。そういうネガティブな感情の塊と言っていい。でそういう連中が一番苦手なのは何だと思う」
笹野は首を傾げた。
「わかりません」
「嘲笑だよ」
神田は断言した。
「恐怖は幽霊にとって栄養だ。敬意はまあ、毒にも薬にもならん。だが嘲笑、侮蔑、そういう類の感情はな、連中にとって致命的なんだ。何しろ、死んでまで自分の存在を否定されるわけだからな」
「それって」
「残酷か。そうだな、残酷だ。だが考えてもみろ。連中は生きている人間を殺している。物件に足を踏み入れただけの、何の罪もない人間をな。それに比べれば、言葉で消えてもらうくらい、よほど穏健な解決策だと思わんか」
笹野は反論できなかった。神田の言葉には現場を知る者特有の重みがある。
戸塚が話を引き取った。
「というわけでまずはEランクからDランクの物件を対象にパイロット事業を行う。成果が出れば、順次ランクを上げていく。予算は既に確保してある。あとはコンテンツだ」
「コンテンツ」
「そうだ。国民に幽霊を憎ませるにはそれなりの『理由』がいる。漠然と『怖いから憎め』では誰も動かん。具体的なストーリーが必要だ」
戸塚は企画書の別のページを開いた。
「ここに、対象物件のリストがある。それぞれの物件について、どんな幽霊がいて、どんな死に方をして、どんな被害を出しているか。詳細なプロファイルを作成する。そしてそれを面白おかしく、かつ憎々しげに国民に伝える」
「面白おかしく、ですか」
「そうだ。恐怖を笑いに変えるんだ。怖いものを馬鹿にすれば、人間は強くなれる。少なくとも、そう錯覚できる。その錯覚を利用する」
会議室に沈黙が降りた。戸塚の言葉にはどこか開き直ったような清々しさがあった。
「では始めよう。神田、第一弾の物件は決まっているな」
「ええ。世田谷区のワンルームマンションです。Dランク。住人が首を吊った部屋で以降の入居者三名が原因不明の頭痛と不眠を訴えて退去。実害としては軽微ですが物件としては典型的な『事故物件』です」
「よし。そいつから始める」
◆
世田谷区のワンルームマンションは駅から徒歩十五分の住宅街にあった。築三十年を超える古びた建物で外壁のタイルがところどころ剥がれている。問題の部屋は三階の角部屋、302号室だった。
霊務省から派遣された調査員はまず高野グループの僧侶と合流した。僧侶の名は澄海といい、四十代半ばの痩せた男だった。袈裟ではなく地味なスーツを着ているが首から下げた数珠だけが彼の身分を示している。
「でどんな具合です」
調査員の質問に、澄海は淡々と答えた。
「弱いですね。Dランクの中でも下の方です。自縊の霊ですが生前から気の弱い人間だったようで死んでからもその性質を引きずっています」
「具体的には」
「侵入者を直接害する力はありません。せいぜい、部屋にいる人間に漠然とした不快感を与える程度。頭痛や不眠の原因も、霊的な攻撃というより、霊の存在自体が発する瘴気に過敏な人間が反応しているだけです」
「つまり、危険性は低いと」
「低いです。ただし」
澄海は言葉を切った。
「ただし、何です」
「霊というのは時間が経つと強くなることがあります。特に、恨みや未練が深い場合は。この霊は今のところおとなしいですが十年、二十年と放置すれば、Cランク、あるいはBランクまで成長する可能性はあります」
「なるほど。だから今のうちに処理しておきたい、というわけですか」
「霊務省の考えはそうでしょうね」
澄海の声にはどこか冷めた響きがあった。調査員はそれを気にせず、手元のタブレットにメモを取った。
「ところで澄海さん。この広報戦略について、高野グループとしてはどうお考えですか」
「私個人の意見でよければ」
「ええ」
「下劣だと思います」
調査員は手を止めた。澄海は続けた。
「霊というのは元は人間です。生きて、苦しんで死んでいった人間の残滓です。それを見世物にして、大衆の憎悪を煽る。死者への冒涜であり、生者の品性を貶める行為です」
「しかし効果があるのでは」
「あるでしょうね。効果はある。だからこそ下劣なのです」
澄海は数珠を握り締めた。
「我々高野グループは本来、霊を成仏させることを使命としています。苦しんでいる魂を浄化し、あるべき場所へ送る。それが除霊の本義です。しかし今回の計画は違う。霊を消滅させる。存在ごと抹消する。成仏ではなく、殺害です」
「殺害、ですか」
「そうです。二度目の死です。一度目は肉体の死。二度目は魂の死。霊務省はそれを国民の手で行わせようとしている。全国民を殺人者にしようとしている」
調査員は黙り込んだ。澄海の言葉には反論の余地がなかった。だが反論する気もなかった。そもそも、彼自身がこの計画の一翼を担っているのだ。今さら倫理を語る資格などない。
「まあ、いいでしょう」
澄海は肩をすくめた。
「高野グループとしては霊務省の方針に協力します。契約ですからね。ただし、私個人としてはこの計画が成功しないことを祈っています」
「成功しない方がいいと」
「ええ。成功すれば、人間はまた一つ、越えてはならない線を越えることになる。そしてその報いは必ずやってくる。霊というのはそういうものです」
澄海の予言めいた言葉を調査員は心のどこかで聞き流した。
◆
第一弾の放送は金曜日のゴールデンタイムだった。
「緊急検証 呪われた部屋の真実 〜幽霊の正体、暴きます〜」
番組タイトルからして悪趣味だったが視聴率は上々だった。司会は中堅のお笑いコンビでゲストには霊感タレントと称する女優、そして「専門家」として高野グループから派遣された若い僧侶がいた。澄海ではない。澄海はこの種の仕事を固辞したという。
番組は世田谷のワンルームマンションから始まった。
レポーターが物件の前に立ち、大げさな身振りで語る。
「こちらが都内有数の心霊スポットとして知られる、世田谷区のマンションです。この302号室で十五年前、一人の男性が命を絶ちました」
画面が切り替わり、部屋の内部が映し出された。何の変哲もないワンルームだったが照明と音響の演出で不気味な雰囲気が作り出されている。
「亡くなったのは当時42歳の男性、Aさん。彼はここで首を吊りました」
ナレーションが淡々と続く。
「Aさんは勤務先の会社でパワハラを受けていました。上司からの度重なる叱責、同僚からの無視。心を病んだ彼は精神科に通院しながらも仕事を続けましたがある日、限界を迎えたのです」
スタジオに画面が戻った。お笑いコンビの片方がわざとらしく首を傾げる。
「えー、つまり、この人は会社でいじめられて自殺したってことですか」
「そうです」
僧侶が答えた。表情は硬い。
「でその人の幽霊が今もこの部屋にいると」
「霊的反応は確認されています」
「なるほどなるほど」
お笑いコンビのもう片方が口を挟んだ。
「でもさ、ちょっと待ってよ。この人、会社でいじめられてたんでしょ。で自殺して、幽霊になった。それで今度は部屋に住む人をいじめてるわけ? 自分がいじめられっ子だったのに、死んでからいじめっ子になるって、どういうこと?」
スタジオに笑いが起きた。僧侶は黙り込んだ。
「いやいや、笑い事じゃないですよ」
司会が場を収めようとしたが勢いは止まらなかった。
「だってさ、考えてみてよ。生きてる間は会社に居場所がなくて、死んでからは部屋に居座ってる。結局、どこにいても邪魔者じゃん。生きてても死んでも迷惑な人っているんだね」
再び笑い声。霊感タレントの女優が困ったような表情を作った。
「でも、かわいそうですよね。自分で選んで幽霊になったわけじゃないでしょうし」
「かわいそう? この人のせいで何人もの入居者が引っ越しを余儀なくされてるんですよ。家賃も払えないのに居座るって、普通に考えて最低でしょ」
議論は加熱した。台本通りなのか、それとも本当に感情が高ぶっているのか、見分けがつかない。おそらく、両方だろう。人間の悪意というのはきっかけさえあれば簡単に噴出する。
番組の後半では視聴者からのメッセージが紹介された。
「幽霊って、結局は負け組の成れの果てなんですね。生きてる時に何もできなかった人間が死んでからも何もできずにうろうろしてる。ダサすぎる」
「早く成仏しろよ。いつまでもウジウジしてないで」
「こういう弱い幽霊はみんなで馬鹿にしてやればいいと思う。そしたら恥ずかしくなって消えるんじゃない?」
メッセージは次々と読み上げられた。そのたびにスタジオには笑いが起き、時折、拍手すら沸いた。
番組は大成功だった。視聴率は同時間帯トップを記録し、SNSでは「#幽霊いじり」というハッシュタグがトレンド入りした。
その夜、世田谷のワンルームマンションには数人の若者が集まっていた。
彼らはスマートフォンを手に、302号室の前に立った。
「おい、聞いてるか、いじめられっ子の幽霊さんよ」
一人がドアに向かって叫んだ。仲間たちが笑う。
「お前、生きてる時も死んでからもダメダメだな。会社では無視されて、死んでからは国民に馬鹿にされて。最高にウケるわ」
「早く消えろよ、ゴミ幽霊。お前みたいなのがいるから、この国の不動産価格が下がるんだよ」
「自殺するなら人に迷惑かけないところでやれよな。生きてる人間の邪魔すんな」
罵詈雑言が続いた。動画は撮影され、その場でSNSにアップロードされた。
部屋の中で何かが震えていた。
◆
翌週、霊務省広報課に報告書が届いた。
「対象物件302号室における霊的反応の推移について」
戸塚は報告書を一読し、満足げに頷いた。
「成功だな」
「ええ」
神田も頷いた。
「放送後、対象物件の霊的反応は顕著に減衰しています。高野グループの測定によれば、DランクからEランクに降格。さらに低下が続けば、数週間以内に完全消滅の可能性があるとのことです」
「やはり、嘲笑は効くか」
「効きますね。特に、SNSの影響が大きいようです。テレビだけなら一過性ですがSNSは継続的に悪意を供給し続ける。霊にとっては休む間もなく罵倒され続けるようなものです」
「いいな。実に効率的だ」
戸塚は報告書をファイルに綴じた。
「で第二弾の準備はどうなっている」
「順調です。次は杉並区の一軒家を予定しています。こちらはCランクですが事情が少し特殊でして」
「特殊?」
「幽霊の正体が幼い子供なんです」
戸塚の手が止まった。
「子供、か」
「はい。八歳の女の子です。十年前に、この家で虐待死しました。両親から日常的に暴力を受け、最後は餓死です。遺体は発見までに二週間を要したそうで」
「それは」
「凄惨な話です。だからこそ、彼女の霊は強い。侵入者に対して強烈な恐怖を与え、過去に三名が心臓発作で死亡しています」
戸塚は黙り込んだ。さすがに、これは迷った。
「神田。それを同じように扱うのか」
「同じように、とは」
「笑い者にするのかと聞いている」
神田は一瞬、目を伏せた。
「……私に聞かれても困ります。決めるのは上です」
「上、か」
戸塚は椅子の背にもたれた。天井を見上げる。
「上は何と言っている」
「効果があるならやれ、と」
「そうか」
戸塚は再び黙り込んだ。会議室には重い沈黙が流れた。
やがて、戸塚は口を開いた。
「やるしかないな」
「はい」
「ただし、慎重にいけ。子供の幽霊を笑い者にするのはさすがに反発が大きい。切り口を変えろ。同情を憎悪に変えるんだ」
「具体的には」
「虐待死した子供は被害者だ。それは間違いない。だが死んでから人を殺している以上、今や加害者でもある。その点を強調しろ。『かわいそうな子供』から『危険な殺人霊』へ。イメージを転換するんだ」
神田は頷いた。
「わかりました」
「それから」
戸塚は声を低めた。
「この件は上にも報告しておけ。万が一、世論が荒れた時のために、責任の所在を明確にしておきたい」
「承知しました」
神田は部屋を出た。戸塚は一人、窓の外を眺めた。
空は曇っている。まるでこの国の行く末の様だ。
◆
国会議事堂の一室で密談が行われていた。
出席者は三名。国土交通大臣の黒岩、総務大臣の片桐、そして霊務省事務次官の土屋だった。
「で、成果はどうなんだ」
黒岩が切り出した。七十を過ぎた老政治家で不動産業界との太いパイプを持っている。今回の広報戦略にも、彼の意向が強く反映されていた。
「上々です」
土屋が答えた。
「パイロット事業の結果、対象物件の霊的汚染度は平均で40%減少しています。このペースでいけば、年間で呪物物件を5%削減できる見込みです」
「5%か」
黒岩は顎を撫でた。
「少ないな」
「初年度としては十分な成果かと」
「いや、少ない。もっと加速させろ」
「しかし対象をこれ以上拡大すると、世論の反発が」
「世論など、操作すればいい」
黒岩は吐き捨てるように言った。
「国民は馬鹿だ。与えられた敵を叩くことしか考えていない。今は幽霊が敵だ。そう思い込ませておけばいい」
片桐が口を挟んだ。
「黒岩先生、お言葉ですが少し乱暴ではありませんか」
「何がだ」
「子供の幽霊を攻撃対象にするという話です。さすがに、それは」
「片桐、お前は何もわかっていない」
黒岩は片桐を睨みつけた。
「今、この国の不動産市場は崩壊寸前だ。呪物物件が増え続ければ、住む場所がなくなる。住む場所がなくなれば、経済が止まる。経済が止まれば、政権が倒れる」
「それは理解していますが」
「ならば黙っていろ。必要なことをやるだけだ。子供の幽霊だろうが老人の幽霊だろうが消えてもらわなければ困る。それだけの話だ」
片桐は言葉を失った。黒岩は土屋に向き直った。
「土屋、来月からペースを上げろ。Cランクの物件も対象に含めていい。予算は俺が何とかする」
「承知しました」
土屋は深々と頭を下げた。
会議室を出た後、土屋は廊下で立ち止まった。胃が痛む。この仕事を始めてから、胃薬が手放せなくなった。
ポケットから携帯電話を取り出し、霊務省広報課に電話をかける。
「戸塚か。俺だ。上から指示が出た。来月からCランク物件も対象に含める。準備を進めろ」
電話の向こうで戸塚が何か言っている。土屋は聞き流した。
「いいから、やれ。俺たちに選択肢はない」
電話を切った。窓の外には国会議事堂の尖塔が見えた。
その尖塔の先に、何かが蠢いているような気がした。気のせいだろう。おそらく。
◆
杉並区の一軒家は閑静な住宅街の一角にあった。
かつては瀟洒な洋風建築だったのだろうが今は荒れ果てて、庭の雑草は人の背丈を超えている。窓ガラスは割れ、玄関のドアは蔦に覆われていた。
高野グループの澄海が再び調査に駆り出されていた。今度は拒否できなかった。上からの直接の命令だったという。
「どうです、状態は」
霊務省の調査員が尋ねた。前回と同じ若い男だった。
澄海は家を見つめながら、低い声で答えた。
「強い。前回の物件とは比較にならない。Cランクと言われていましたが私の見立てではBランクに近い」
「それは困りますね」
「困るのはあなた方だけではありません」
澄海は調査員を見た。
「この霊は生前、両親から虐待を受けて死んだ子供です。八歳の女の子。餓死です」
「存じています」
「ではあなたは知っていますか。彼女がどれほど苦しんで死んだか。どれほど親を恨んで死んだか。どれほど世界を憎んで死んだか」
調査員は答えなかった。澄海は続けた。
「彼女の霊は純粋な恨みの塊です。生きている人間すべてを憎んでいる。特に、大人を。特に、自分を見捨てた社会を。その恨みが侵入者を殺す力になっている」
「それを消すわけですね」
「消す、ではありません。殺すのです。二度目の死を与えるのです。彼女は一度、親に殺された。そして今度は国民に殺されようとしている」
「仕方のないことでは」
「仕方がない」
澄海の声が低く震えた。
「仕方がない、ですか。便利な言葉です。その言葉で人は何でも正当化できる。彼女の両親も、きっとそう思っていたのでしょう。子供を殴るのも、食事を与えないのも、仕方がないことだと」
調査員は黙り込んだ。澄海は家に背を向けた。
「調査は終わりました。Cランク上位、Bランクに限りなく近い。嘲笑による消滅は困難でしょう。彼女の恨みはそんなもので消えるほど軽くはない」
「つまり、計画は失敗すると」
「失敗か、成功か。私にはわかりません。ただ、一つだけ言えることがあります」
澄海は振り返った。
「この計画を続ければ、いずれ取り返しのつかないことが起きる。霊というのはそういうものです。蔑まれれば恨む。恨めば強くなる。強くなれば、人を殺す」
「それでもやるしかないんです」
調査員は言った。
「上の命令ですから」
澄海は何も答えなかった。
◆
第二弾の放送は前回以上の反響を呼んだ。
番組は杉並区の一軒家の歴史から始まった。十年前の虐待死事件、発見された遺体の状態、その後の霊的汚染。すべてが詳細に語られた。
スタジオでは前回と同じお笑いコンビが司会を務めていた。
「いやあ、これは重い話ですね」
「そうだね。子供が虐待されて死ぬなんて、本当にひどい話だよ」
「でもさ」
片方が表情を変えた。
「この子、死んでから人を三人も殺してるんでしょ。それって、どうなの」
「確かに。かわいそうだったのはわかるけど、だからって人を殺していい理由にはならないよね」
「そうそう。被害者だったはずなのに、今は加害者になってる。それって、結局この子も悪いんじゃない」
議論は加熱した。今回はゲストに社会学者と弁護士も加わっていた。
社会学者が口を開いた。
「確かに、霊には人権がありません。法的には彼女は『存在しない者』です。したがって、彼女を消滅させることは殺人には該当しません」
「つまり、問題ないと」
「法的にはそうなります」
弁護士が補足した。
「ただし、倫理的な問題は残ります。彼女は生前、明らかな被害者でした。その彼女を死後も攻撃することが正当かどうか。それは法律では判断できない問題です」
「でも、現実問題として、彼女を放置すれば人が死ぬわけでしょ」
お笑いコンビの片方が言った。
「だったら、消すしかないじゃん。かわいそうだけど」
「かわいそうだけど」
もう片方が繰り返した。
「そう、かわいそうだけど。結局、それしか言えないんだよね。かわいそうだけど、仕方がない。かわいそうだけど、消えてもらうしかない」
スタジオに微妙な空気が流れた。だがそれも一瞬のことだった。
司会が場を変えた。
「さて、ここで視聴者の皆さんからのメッセージを紹介します」
メッセージが読み上げられた。
「虐待されて死んだのはかわいそうだけど、人を殺すのは許せない。早く消えてほしい」
「この子も結局、親と同じことをしてるんだよね。暴力で人を支配しようとしてる。血は争えないってやつ」
「八歳で死んだなら、もう八歳のままじゃないでしょ。十年も経ってるんだから。いつまで子供のふりしてるの」
メッセージは容赦なかった。スタジオのゲストたちは複雑な表情を浮かべながらも、それを止めようとはしなかった。
番組の最後に、レポーターが一軒家の前に立った。
「最後に、この家に住む霊に向けて、視聴者の皆さんからメッセージをお届けします。皆さん、カメラに向かって、思いの丈をぶつけてください」
画面が切り替わり、街頭インタビューの映像が流れた。
「早く成仏しろよ。いつまでもウジウジしてんな」
「人を殺すな。お前が殺されたのはかわいそうだけど、だからって人を殺していいわけじゃない」
「消えろ。お前がいると、この街の人たちが困るんだよ」
映像は延々と続いた。老若男女、さまざまな人々がカメラに向かって罵声を浴びせた。
杉並区の一軒家の中で何かが震えていた。
◆
放送から一週間後、霊務省に報告書が届いた。
戸塚は報告書を読み、眉をひそめた。
「消滅していない、だと」
「はい」
神田が答えた。
「対象物件の霊的反応はむしろ増大しています。高野グループの測定によれば、BランクからAランクへ上昇。さらに上昇が続けば、Sランクに達する可能性があるとのことです」
「馬鹿な」
戸塚は報告書を叩きつけた。
「なぜだ。前回は成功したじゃないか」
「前回の対象は生前から気の弱い人間でした。嘲笑に耐える力がなかった。しかし今回の対象は違います」
「違う、とは」
「彼女は生前から憎悪を抱えていた。両親への憎悪、社会への憎悪。その憎悪が嘲笑によって増幅されたのです」
「増幅」
「そうです。彼女にとって、今回の嘲笑は『また裏切られた』という体験だったのです。生前は両親に、死後は社会に。その怒りが彼女を強くしている」
戸塚は頭を抱えた。
「ではどうすればいい」
「高野グループは計画の中止を勧告しています。これ以上刺激すれば、手がつけられなくなると」
「中止だと」
戸塚は顔を上げた。
「それは無理だ。上が許さない」
「しかし」
「黒岩先生の意向だ。計画は続行する。方針は変えない」
神田は黙り込んだ。
戸塚は窓の外を見た。曇り空の向こうに、杉並区の方角が見える。
「神田。お前、この計画をどう思う」
「私に聞かれても」
「いいから、答えろ」
神田は長い沈黙の後、口を開いた。
「愚かだと思います」
「そうか」
「ええ。霊を嘲笑で消すなど、そもそも無理がある。弱い霊には効くかもしれませんが強い霊には逆効果です。怒りは怒りを呼び、恨みは恨みを呼ぶ。それが霊の本質です」
「だが上は聞く耳を持たない」
「そうですね」
「では我々に何ができる」
神田は肩をすくめた。
「せいぜい、被害を最小限に抑えることくらいでしょう」
戸塚は再び窓の外を見た。
杉並区の空に、何かが蠢いているような気がした。今度は気のせいではなさそうだった。
◆
三週間後、杉並区の一軒家で事件が起きた。
深夜、付近の住民が異常な音を聞いた。叫び声、破壊音、そして何かが崩れ落ちる音。
翌朝、警察が駆けつけた時、一軒家は半壊していた。
そしてその周囲には七人の遺体が転がっていた。
全員が若者だった。スマートフォンを手にしていた者もいた。おそらく、動画を撮りに来たのだろう。SNSで話題の心霊スポットを訪れ、霊を馬鹿にする動画を撮影しようとしたのだろう。
その結果がこれだった。
七人の遺体は全員が心臓を握りつぶされていた。文字通り、胸腔内で心臓が破裂していた。即死だったという。
霊務省は緊急会議を開いた。
「もはや、Cランクの話ではない」
神田が言った。
「このまま放置すれば、周辺住民にも被害が及ぶぞ」
「対策は」
戸塚が尋ねた。
「従来の除霊方法では無理です。高野グループの精鋭を投入しても、消滅させられるかどうか。むしろ、封印が現実的でしょう」
「封印か」
「ええ。結界を張り、霊の活動範囲を限定する。周辺住民を避難させ、物件を完全に隔離する」
「費用は」
「概算で百億円を超えます」
戸塚は沈黙した。
「百億、か」
「はい」
「広報戦略の予算は年間で十億円だったな」
「そうです」
「つまり、十年分の予算を一件の失敗で吹き飛ばすわけだ」
神田は答えなかった。
戸塚は苦笑した。
「毒を以て毒を制す、か。結局、毒が回っただけだったな」
会議室には重い沈黙が流れた。
◆
その夜、戸塚は一人で酒を飲んでいた。
霞が関の近くにある、古びたバーだった。霊務省の職員が時々使う店でカウンターの隅にはお札が貼ってある。気休め程度のものだがないよりはましだろう。
「もう一杯」
グラスを空け、バーテンダーに声をかけた。
「戸塚さん、今日は荒れてますね」
バーテンダーは慣れた手つきでウイスキーを注いだ。
「荒れてるさ。人を七人殺した」
「殺したって、あの事件のことですか」
「そうだ。俺の計画のせいで七人が死んだ。いや、もっとか。前回の物件の霊も、消滅した。あれも俺が殺したようなものだ」
「それは仕方のないことでは」
「仕方がない、か」
戸塚はグラスを傾けた。
「その言葉はもう聞き飽きた。仕方がない。そう言って、俺たちはどれだけのことをしてきた。仕方がないから犯罪者を呪物にぶち込む。仕方がないから幽霊を笑い者にする。仕方がないから人が死ぬ」
「戸塚さん」
「何だ」
「あまり、自分を責めない方がいいですよ」
バーテンダーは穏やかに言った。
「この時代、誰もが何かしらの罪を背負ってる。あなただけじゃない」
「そうかもな」
戸塚はグラスを置いた。
「だが俺は忘れないぞ。あの女の子の顔を。八歳で餓死して、死んでからも馬鹿にされて、最後は化け物にされた女の子の顔を」
「見たんですか」
「見たさ。報告書に写真があった。生前の写真だ。笑顔で可愛らしい顔をしていた。あの笑顔が今は人を殺す怪物になっている。誰のせいだと思う」
バーテンダーは答えなかった。
「俺のせいさ」
戸塚はグラスを空け、立ち上がった。
「勘定を頼む」
「お気をつけて」
店を出た。夜風が冷たい。
空を見上げると、雲の切れ間から月が覗いていた。
その月の周りに、何かが蠢いているような気がした。
気のせいだろう、と戸塚は思った。
だがこの頃はもう、何が気のせいで何が現実なのか、よくわからなくなっていた。
◆
杉並区の一軒家はその後、完全封鎖された。
自衛隊対霊特殊部隊が出動し、周囲二百メートルに結界が張られた。住民は全員避難し、周辺は無人地帯となった。
費用は予想を上回り、百五十億円に達した。
広報戦略は中止され、戸塚は責任を取って辞職した。
黒岩は何食わぬ顔で政界に残り、次の選挙でも当選した。
そして杉並区の一軒家の中で八歳の女の子は今も怒り続けている。
誰も助けに来なかった生前。誰もが馬鹿にした死後。
その怒りは消えるどころか、日に日に強くなっている。
結界がいつまで持つか、誰にもわからない。
◆
ある日、霊務省の新しい広報課長が部下に尋ねた。
「で次の戦略はどうする」
部下は顔を見合わせた。
「課長、あの戦略はもう」
「ああ、失敗したのは知っている。だが上は諦めていないぞ。呪物物件の削減は急務だ。何か新しい案を出せと言われている」
「しかし」
「しかしじゃない。案を出せ。できなければ、お前たちの首が飛ぶ」
会議室に沈黙が降りた。
やがて、一人の若い職員が手を挙げた。
「一つ、思いついたことがあります」
「言ってみろ」
「幽霊をキャラクター化するというのはどうでしょう」
「キャラクター化」
「ええ。憎悪ではなく、親しみを持たせる方向で。可愛いキャラクターにして、グッズを作って、国民に愛着を持ってもらう。そうすれば、幽霊も満足して成仏するかもしれません」
新しい課長はしばらく考え込んだ。
「悪くない。悪くないが上は納得するかな」
「やってみなければわかりません」
「そうだな。やってみるか」
こうして、新しい戦略が始まった。
「幽霊キャラ化計画」
結果がどうなるかはまだ誰にもわからない。
(了)




