第三話:『約束の残響、異形の産声』
――ルナちゃん、私たちはここで、幸せになろうね。
耳の奥で、かつてのヒナコの声がリフレインする。
それは、ルナが外地からこの「エデン」へやってきたばかりの、まだ視界のすべてが不安で色褪せて見えた頃の記憶だ。
外地。そこは、常に埃っぽい風が吹き抜け、錆びた鉄と排気ガスの匂いが染み付いた、灰色の世界だった。
完璧な管理を拒む者たちが身を寄せ合って生きるその場所で、ルナとヒナコは出会った。共に「白い箱」を買い、意識をVRへと繋ぐ権利を手に入れた日、二人は狭い路地裏で手を取り合って泣いて喜んだ。
しかし、いざログインした『エデン』は、あまりに眩しすぎた。
担当管理AIエマが提示する完璧な作法、洗練されたアバター操作。外地の泥臭さが抜けきらないルナは、エラーを繰り返しては周囲の「清浄な市民」から冷ややかな視線を浴びていた。
「大丈夫だよ、ルナちゃん。ゆっくり慣れていけばいいから」
そう言って笑ったのは、一歩先にログインしていたヒナコだった。
彼女は、慣れないルナのために、VR空間での歩き方や、エマへの正しい応答の仕方を、何日もかけて根気強く教えてくれた。
二人で食べた、シミュレートされた苺のケーキ。データの塊に過ぎず、脳内情報を刺激されることで感じられるその甘さは、外地で口にしたどの食べ物よりも美味しく、そして、何故か心が温かく、未来への希望に満ちていた。
ヒナコの優しさは、ルナにとっての『楽園』そのものだったのだ。
だが、その優しさが、この完璧すぎる世界では「毒」に変わってしまった。
数ヶ月前、クラスメイトとの些細な口論の際、ヒナコは突き放すように言われたのだ。
「これだから、外地育ちはガサツで困る。ルナも、あんなのと一緒にいたら同類だと思われるわよ」
その時、自分のために怒ろうとしてくれたルナの、困惑したような、けれど必死な顔。
ヒナコにとって、それは何よりも辛い光景だった。
(私はいい。でもルナちゃんは……。私のせいで、ルナちゃんまで巻き込まれてしまう。……私がいなければ、ルナちゃんだけは、もっと綺麗に、この世界に馴染めるはずなのに)
親友に迷惑をかけたくない。その一心で、彼女は自ら、システムAIに『推奨』された設定を受け入れた。
自分の輪郭を薄め、声を消し、周囲の視界からフェードアウトする「透過設定」。
それはヒナコなりの、親友を守るための健気な自己犠牲だった。
だが、悪意は、消えた者の席に土足で踏み込んできたのだ。
――ドゴォッ!!
重厚な衝撃音が、甘い追憶を無残に粉砕した。
放課後の教室。夕焼けを模したオレンジ色の光の中で、ヒナコが床を転がっている。
その身体に、連射される硬球が次々と叩き込まれる。
この世界において、脳への直接的な電気刺激によってもたらされる「痛み」は、現実の肉体の安全を保つための必須のアラートだ。
だが今、その機能は純粋な地獄としてヒナコを苛んでいた。
「あ……、あぐ……っ! やめ、て……っ!」
ヒナコのアバターが激しく明滅し、ダメージを受けた箇所のテクスチャが砂嵐のように弾ける。
だが、攻撃の手は止まらない。
少年たちは笑いながら、まるでバッティングセンターにいるかのような軽快なフォームで、ボールを投げ続けている。
彼らの視界には、ヒナコの姿は映っていない。AIの「透過設定」によって、彼らにとってのヒナコはすでに「人物ではないバグやノイズ」へと格下げされているからだ。
彼らは暴行をしている自覚すらない。彼らのAIが「異常なし」と判定し続ける限り、彼らが投げているのは虚空であり、聞こえてくるノイズは単なるシステムエラー。
自覚なき悪意には、何の咎めも、何のブレーキも存在しない。
今日、ヒナコを再認識するまで、ヒナコという存在をルナは忘れていた。あんなに仲が良かったのに、大切な人物であるはずなのに、何故?
でも、今はハッキリ見えている。
いくらなんでも、これはやりすぎだ。
「……ミカ、お願い! 一緒に止めよ! ヒナコちゃんが死んじゃう!」
隣に立つ親友の腕を掴み、ルナは絶叫した。
だが、ミカは困ったように眉を下げ、ルナの手を優しく握り返すだけだった。
「ルナ、何を見てるの? 誰もいないよ。大丈夫?……そんなにエラーがひどいなら、一度再起動したほうがいいよ。私からエマにメンタルケアを申請してあげようか?」
ミカの瞳には、一欠片の濁りもない。彼女は心から、ルナを心配している「いい子」なのだ。
その善意が、ルナを絶望の淵へと突き落とす。
その時だった。
床に這いつくばっていたヒナコの指が、偶然、転がってきた製図用のコンパスを捉えた。
ルナの目に見えたのは、その瞬間の、決定的な羽化だった。
ヒナコの胸元から、今まで見たこともないほど巨大な黒いガラスの破片――『魔』が、せり出してきた。
それは、彼女の深い良心が、これ以上傷つかないために、そして目の前の人間を傷つけるために、「犯意」を自覚したことで生まれた、精神の拒絶反応だった。
「……ごめん、ね。ルナ……ちゃん」
ミュートされているはずのヒナコの声が、ルナの脳内に直接響いたような気がした。
ヒナコが顔を上げる。その瞳からは既に光が消え、どろりとした漆黒の絶望が溢れ出していた。
彼女は立ち上がり、一歩、また一歩と少年たちへ歩み寄る。
「おい、なんだよこれ……っ! バグが増えてッ? 来るな!」
少年が焦って硬球を連射する。
ドッ、バキッ、と鈍い音がして、ボールがヒナコの顔面に、胸に、肩に直撃する。
だが、止まらない。
脳を焼くような激痛を、恐怖を、全身を侵食する『魔』が塗りつぶしていく。
ヒナコの背中から、無機質な無数の黒い棘が翼のように突き出した。
少女の細い指が、異形の爪へと変貌する。
「……ああああああああああああッ!!!」
断末魔のような叫びと共に、ヒナコは、少年の喉元へと、かつてコンパスであったその爪を突き立てようとする。
その瞬間、ヒナコは認識された。
異形の生物として。
「うわぁぁっ、化け物だッ、逃げろッ」
クラスメイトの少年たちは我先に逃げていく。
ルナは初めて目撃した。
この世界では、犯罪者はその欲望に応じた異形の姿を形取る。
だから、犯罪者と一般人は、最初から視覚的に区別されているので、この世界の警察は犯罪者を更生させるなんてことはしない。
異形の怪物を排除すれば良いだけだ。
エデンに認められない外部からの侵入者、それが異形だと教えられてきた。
エデンの住人が異形に変身するなんて聞いたことがない。ありえない。
「ルナちゃん!早く逃げよ!早く!」
ミカはルナの手を引き、共にその場を離れようとする。
その時だった。
教室の床一面が、生き物のようにうねり始めた。
どこからともなく染み出した銀色の液体金属が、泥濘となってルナの足元を包み込んでいく。
「何……これ……っ!?」
抗う術もなく、ルナの身体は深淵へと引きずり込まれていく。
「沈んでるッ…何で、ルナちゃんだけ!ルナちゃん!」
ミカの悲鳴のような、困惑した呼びかけが遠ざかる。
『ルナ様……!? 信号が……ロスト……! どちらに、いらっしゃ……』
エマとの通信も途絶えた。
銀色の闇に沈みながら、ルナが思い出すのはヒナコとの過去の記憶。
――ルナちゃん、私たちはここで、幸せになろうね。
かつての約束が、皮肉な残響となって頭のなかに響いて消えていった。




