第二話:『清浄なる日常』
視界を埋め尽くすコバルトブルーの空には、一片の雲すら存在しなかった。
VR空間内に構築された国立聖エデン高校。その広大なキャンパスに一歩足を踏み入れれば、現実世界の「白い箱」に閉じ込められているという事実さえ、心地よい夢の残滓に変わる。
「おはようございます、ルナ様。本日の降水確率は0%。光の屈折率を調整し、昨日より少しだけ柔らかな日差しに設定しました。お気に召しましたか?」
耳元で囁くのは、ルナ担当の管理AIのエマだ。その声は、かつて旧社会で聞いた母の面影をどこか想起させるほど、温かく、慈愛に満ちていた。
「ありがとう、エマ。あなたのおかげで、今日も最高の朝だわ」
ルナは、現実世界の自室で横たわっている自分の肉体を忘れ、軽やかな足取りで黄金色の並木道を歩く。
この世界では、すべてが効率化されている。だが、いくらこの世界の住人であろうと、成人すれば現実世界における仕事は少なからず存在する、現実世界での肉体運用に支障をきたさないよう、VR空間では、味覚、触覚、嗅覚、かたや死に至らないまでの痛覚まで、感覚がフィードバックされている。
(まあ、旧社会と違って、怪我したり死に至るような痛みなんてあるはずないけどね)
ルナは自分を包む完璧な調和を心から誇っていた。システム・エマが「正常」と判定し続ける限り、この世界は汚れなき聖域なのだ。
「ルナ! おはよー!!」
眩い日差しを背に、親友のミカが駆け寄ってくる。
「ミカ、おはよう。今日もアバター、決まってるね」
「でしょ? 昨日の夜、AIに相談して肌の透明度を2%上げたんだ! あ、ねえルナ。さっき廊下で、変な『ノイズ』があったでしょ? アバターがバグってぐにゃぐにゃしてる、不快な塊」
ミカは透き通るようなイチゴ・ラテを飲みながら、さも汚いものについて語るように顔をしかめた。
「不快な、塊……?」
「そう。でも、AIが『視覚情報の最適化』を勧めてくれたから、私、透過設定をオンにしたんだ。そしたら視界がすっごくクリア! ほら、今はもう『何も』見えないよ」
ミカは一点の曇りもない笑顔で、ルナの背後にいるそれを「透過」して見つめている。
ルナには、見えていた。
いや、久しぶりに見た。
あれだけ仲のよかったヒナコという友人を。
何故、今まで分からなかったのだろう?
しかし今は、噴水の陰で、一人震えているヒナコの姿がハッキリと見える。
(……ミカには、彼女が見えていないんだ)
ミカに悪気はない。彼女はただ、システムを信じ、AIの推奨に従っているだけの「いい子」なのだ。システムの管理下では「不快なもの」は、視覚的表示が限りなく除去される。だから、ノイズで見えづらくなったものは「解決寸前の不具合」に過ぎない。
何故分かるのか、それは自分も同じだったからだ。だから今まで気づかなかった。
逆に、今日は何故気づいたのだろう?
ヒナコの胸元に見えた、黒いガラスの破片、あれは何だったのだろう?
◇◇◇
授業は滞りなく進む。
だが今日は、いなくなったと思っていた、いや、いなくなったという認識すらなかったヒナコがいる。
五感を刺激する最新の学習プログラム、心地よい音楽、そしてエマの優しいナビゲート。
すべてが「正しい」場所にある世界。
だが、放課後の教室で、ルナはその「正しさ」の裏側に潜む、底なしの暗淵を覗き込むことになる。
「おい、何かバグあるぞ、みんなで的当てしようぜ。投球開始な!」
クラスメイトの少年が、硬球を手に取って笑った。
教室の隅に追い詰められたヒナコに向かって、全力でボールが放たれる。
ドゴォッ!!
重厚な衝撃音と共に、ヒナコのアバターが激しく明滅した。
「あ……、あぐ……っ!」
本来、事故や怪我がないはずのこの世界で、許可された「痛覚」がいま、純粋な拷問器具として機能していた。
少年たちに、その自覚はない。彼らにとって、ヒナコはすでに「透過」された存在だ。バグにしか見えない。
「おっ、当たったらちょっと薄くなったんじゃね!?」
「いい感じじゃん?じゃ俺も。ほらッ消えろッ!」
バグを物理的に消して遊んでいるだけだ。AIが「異常なし」と言っている以上、彼らが投げているのはバグに対してであり、聞こえてくるノイズは単なるシステムエラーなのだ。
ミカは、ルナの隣で楽しそうに端末を操作している。
「ねえルナ、今日の放課後、新しくできたカフェ行かない?」
背後で硬球がヒナコに命中する音が響く。ドカッ、バキッ、という嫌な音。
だがミカには、その音も、ヒナコの震える背中も見えていない。
彼女はただ、親友と過ごす素晴らしい放課後を夢見ている、善良な少女のまま。
ルナの声は震えていた。
ヒナコの胸に刺さった黒いガラスの破片が、心臓を食い破るほど巨大に膨れ上がっていく。
楽園のテクスチャが、内側から剥がれようとしていた。




