第二章第3部:法の守護者
アジトに戻ったザックは迷うことなく司令官の天幕へと向かった。
屈強な兵士たちに守られたその天幕の中央には、これまでも変わらず、司令官が威圧的な静けさをもって座している。
ザックの姿を認めた兵士たちは、彼の不在に対する疑念を露わにしたが、その顔に刻まれた生々しい傷跡と、底知れない冷徹な眼差しに、誰もが口を閉ざした。
司令官は、無言でザックを見据えた。
彼の鋭い視線は、ザックの負傷の経緯と、その間に何があったのかを全て見透かそうとしているかのようだった。
ザックは一歩進み出ると、ひざまずき、簡潔に報告した。
「村の見回り中に複数の兵士に襲撃されました。奴らは『法』に反発し、秩序を乱そうとしています」
司令官の顔に、わずかな感情の波がよぎった。
怒りか、あるいは不満か。
しかしそれはすぐに消え、静かな命令が下された。
「排除しろ。速やかに」
ザックの行動は迅速だった。彼は「秩序派」の若い兵士たちを集め、襲撃者たちの炙り出しにかかった。
彼らの多くは、ザックが提唱し、司令官が承認した「法」によって、わずかながらも安定した生活を得ていた者たちだ。
彼らはザックを信頼し、その反動として襲撃者たちへの怒りを募らせていた。
ザックを襲撃した「非秩序派」の者たちは、その帰還に戦々恐々としていた。
襲撃の成功に安心していた彼らは油断し、自らの蛮行を自慢げに吹聴するようなことをしてしまっていた。
ザックたちは、彼らを即座に特定し、躊躇なく行動を開始した。
彼らは抵抗する間もなく、ザックと「秩序派」の兵士たちの手によって、あっという間に制圧されることになった。
司令官の「法」に背いた代償は大きく、彼らは鞭による容赦ない制裁を受けた後、荒野へと追放された。何らの生存手段も持たない彼らにとって、それは事実上の死刑宣告に他ならなかった。
その冷徹な処断は、武装集団の中に残る旧来の残党たちにも、司令官の「法」と、それを執行するザックの揺るぎない意志を改めて知らしめることになった。
◇◇◇
村人たちにとって、この「法」は依然として過酷な支配であったが、同時に以前の予測不能な恐怖からは解放されていた。
少なくとも以前のような、突然に武装集団が家に押し入り、何もかも奪っていくという恐怖は薄れた。
「今日のノルマをさえこなせば、今夜は命がある」という、ささやかながらも確かな計画性が生まれたのだ。
村人たちは決して略奪者たちの「生かさぬよう、殺さぬよう」という支配原則に、ただ従順に従っているだけではなかった。
セオルが残した「問い」の炎は、その「法」の隙間や、矛盾点を冷静に見つめ直す力を与えていた。
彼らは、課されたノルマをぎりぎりで達成しながらも、密かに作物を育て、物資を隠した。
武装集団が統治の精度を高めようとすればするほど、村人たちの対抗策はさらに洗練されていく。
より効率的な生産方法や、わずかな余剰を巧妙に隠蔽する技術は磨き上げられ、武装集団が見回りや検地を厳しくするたび、村人たちはその裏をかく新たな手法を生み出していった。
それは、互いの生き残りをかけた息詰まるような知恵比べだった。
武装集団は、その粗暴な外見とは裏腹に、徐々にではあるが、より組織的で、ある種の「まともな」統治機構へと姿を変えつつあった。だが、それはあくまで資源としての「村」を効率的に支配するための進化であり、その根底には暴力と搾取の原則が厳然として存在していた。
村人たちの「問い」は、その巧妙な支配の影で、静かに燃え続け、反転の時を待ち続けていた。
◇◇◇
ザックが武装集団のアジトに戻って以来、武装集団の雰囲気は一変した。
私的な略奪を試みた者たちへの冷徹な処断は、司令官の「法」と、それを執行するザックの意志が揺るぎないものであることを、誰の目にも明らかにした。
無法者たちの残党は鳴りを潜め、「秩序派」の若い兵士たちの間では、ザックへの畏敬の念と、彼がもたらすであろう変化への期待が入り混じった空気が醸成されていた。
この集団は、かつてないほど規律に満ち、効率的に機能し始めていた。
それでも、ザックの心は静まることがなかった。
表面的な秩序が確立されても、それが本質的な解決ではないことを、彼は直感的に理解していた。
自身の故郷でありながら、かつては「資源」としてしか見ていなかった村。そこに息づく強固な連帯と知恵は、武装集団の「法」では測れない深さを持っていた。
そして何よりも、兄カインとの再会という出来事が、彼の合理的な思考に、人間的な感情の波を押し寄せていた。
ある日のこと、ザックは支配する村々からの上納品の管理報告書に目を通していた。
ほとんどの村からの報告書からは相変わらず、食料の不足や村人の疲弊が見て取れる。
司令官の「法」により、支配構造を「襲撃と強奪」から「統治と徴税」に切り替えたことで、一時的な安定を得られても、何かを根本的に変えないと、やがて破滅が訪れることは間違いなかった。
ザックは村々からの報告書を以前にも増して注意深く読むようになった。
収穫量、労働力、病気の発生。
数字の背後にある、村人たちの息遣いを感じ取ろうと努める中で、彼は一つの村からの報告に、一点、目を引く特異な状況があることに気づいた。それは、他のどの村のデータとも異なり、この荒廃した惑星の状況では考えられないような、持続的な収穫の安定だった。
報告書の記述には、その驚くべき持続性を可能にしている具体的な方法や、通常なら伴うはずの資源枯渇や疲弊の兆候が、一切見当たらなかった。
この村には、他の村々とは全く異なる「何か」がある。報告書のデータはそれを明確に示していた。
ザックは、その「何か」に興味を抱いた。
彼は、この異常な成果を報告してきた村の名を確かめた。
その村は、ザックの故郷の村だった。
その村の名が、ザックの脳裏に、長い間意識の底に沈んでいたかすかな噂を思い出させた。
それは、遠い空からやってきて、人々に直接手を差し伸べることなく「問い」を突きつけるという、奇妙な男の話だった。報告書の数字と、その男の噂が、これまで点と点だった情報が、一本の線で繋がったかのように、彼の思考の中で閃光を放った。
ザックは、自身の知る限りの武装集団の監視網と情報収集能力を使い、その「男」の動向を探るよう、信頼できる部下に密かに命じた。彼には、その「男」が、この説明不能な「何か」をもたらしており、ひいては、この荒廃した世界での「持続可能な生存」という、自身が今、最も求めている答えを持っているのではないかという予感があった。
◇◇◇
ザックの密かな命令を受けてから数日後、信頼する部下たちが持ち帰った報告は、彼の興味をさらに深めた。
ザックの故郷の村で確認された異常な収穫量は、既存のデータや経験則では説明がつかない。
そして、その成功をもたらしたとされる「男」の噂は、どれも常軌を逸したものだった。機械を直し、病気を治し、星の運行を読み、枯れた大地に生命を吹き込む「知恵」を持つ者――。
合理的な思考を持つザックにとっては、迷信に過ぎないはずの話だったが、その村で再会した兄カインとの対話が心に残っていた。
いくら自分の兄とは言え、疲弊した農村でその日の食にも困っているひとりの農夫とは思えぬ知性のきらめきが、そこには感じられた。
「あの村には必ず何かがある」
それは確信となり、ザックの心中に新たな関心が湧きあがった。
ザックは、部下たちには通常の見回りと偽り、自ら故郷の村へと向かった。
荒れた道を進む。目的地に近づくにつれ、空気は奇妙なほど澄み渡り、乾いた風の中に微かな水の匂いが混じるように感じられた。改めて見るその村は、他の疲弊しきった村々とは一線を画していた。畑には青々とした作物が揺れ、井戸からは豊かな水が溢れ、村人たちの顔には諦めではなく、かすかな希望の光が宿っていた。
村に着いたザックは、迷うことなく兄カインの家へと向かった。
再会したカインは、以前にも増して生気に満ちているように見えた。
かつて無法者に襲われた自身を救ってくれた兄の、その様子に、ザックは眩しさを感じた。
幼いころ、いつも自分をかばってくれた強い兄、優しく頼りがいのあった自慢の兄、その記憶のままの姿だった。
彼は兄の姿に感傷を覚えつつも、頭の中は既に報告書の数字で占められていた。
ザックは単刀直入に尋ねた。
「兄ちゃん、この村にはいったい何があるんだ? このここからの報告書は、他のどの村とも違う。普通のやり方ではありえない成果だ」
「『問い』だよ」
カインは、ザックの問いに動じることなく、静かに答えた。
「何年か前、この村に、ある男がやってきた。彼はおれたちに、ただ『問い』を投げかけた。その問いに、おれたち自身で向き合った結果が、これだ」
カインの言葉は、以前の彼には見られなかった、確かな知性と揺るぎない信念を帯びていた。
「男だと? 星を越えてやってきたとかいう男か?」ザックは食い下がった。
カインは静かに頷くと、村の奥、かつては廃墟同然だった集会所の跡を指差した。
「彼なら、今もあそこにいるだろう。直接、話を聞いてみればいい」
ザックは、カインの言葉に導かれるように集会所の跡へと足を向けた。
そこにいたのは、質素な身なりをした、しかし年代不詳の静かな「男」――セオルだった。
彼は、何の警戒もせず、ただ猫のような小さな生き物を肩に乗せ、虚空を見つめている。
ザックが近づいても、表情一つ変えない。
「あなたが…セオルですか」
ザックは警戒を怠らず、声をかけた。
セオルはゆっくりとザックに視線を向けた。
その瞳は、宇宙の深淵を覗き込むかのような静謐さを湛えており、ザックの心臓は思わず跳ね上がった。
セオルは言葉を発することなく、ただ静かにザックの目を見つめ続ける。
その無機質な静寂の中にも、ザックは、深い洞察と、そして人類の歩みを見守り続けてきた者だけが知り得る、途方もない疲弊のようなものを感じ取った。
ザックは、手にしていた報告書の山をセオルの前へと差し出した。
「これを見ていただきたい。この村の収穫量、土壌の状態、水の供給量。私の集めたデータと、他の村のデータとの間には、顕著な違いがある。兄カインは、あなたが直接何かを与えたのではないと言った。では、あなたは村人に何をもたらしたというのだ?」
セオルはザックの視線を受け止めると、その無機質な響きの声で静かに答えた。
「『問い』、だ」
「問い?」ザックは思わず聞き返した。
彼の合理的な頭脳が、その抽象的な答えを理解しようと瞬時に回転する。
「問おう。お前は、なぜここに来た?」セオルが、今度はザック自身に矛先を向けた。
ザックは一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直し、理路整然と語り始めた。
「この星の人類は、このままではやがて滅びる。それは私のデータが示している。だが、この村のやり方を見ると、滅びないで済む方法があるのかもしれないと思った。それが何か、知りたくて来たのだ」
セオルはゆっくりと首を傾げた。
「では、どうなれば滅びずに済むと思うのか?」
ザックは迷いなく答えた。
「十分な水が供給され、適切な時期に適切な作物を植え、適切な時期に肥料をやり、適切な時期に刈り入れて、次の年の種を残すことだ。それができれば、この星は持続する」
セオルは微かに視線を動かし、ザックの目を見つめ返した。
その瞳には、彼がどれほどの知識を抱えているのか、計り知れない深みが宿っていた。
「どうすれば十分な水を供給できる?」
「適切な時期とはいつだ?」
「どんな肥料をどのくらい与えればいい?」
「どうすれば良い種を残せる?」
セオルは矢継ぎ早に、しかし感情を交えず、ザックが提示した答えの具体的な手段を問い詰めた。
ザックの顔に、苛立ちの色が浮かんだ。
彼はセオルの言葉の裏にある意図を理解しようと努めるが、目の前の男がただ問題を突き返しているようにしか思えなかった。
「それを聞きに来たのだ! その答えを知っているのは、あなただろう!」
セオルはザックの苛立ちにも動じず、淡々と答えた。
「おれは答えを持っていない」
さらに言葉を続けた。
「考えるのは、お前たちだ」
ザックは歯噛みした。これまで、答えは常に外部に求めてきた。
彼が持つ『法』も、司令官が与えた唯一の絶対的なものだった。苛立ちを抑えながら、ザックはなおも問う。
「そんなことは、この何年も考えてきた。だが、答えがなかった。だから、あなたに聞きに来たのだ!」
セオルは、ひるむことなくザックの視線を受け止めた。
「答えがなければ、作るしかない」
そのセオルの言葉が、まるで雷鳴のようにザックの脳裏に響いた。
凍てついていたはずの彼の思考回路に、熱い電流が走った。これまで誰も、そう言った者はいなかった。常に与えられ、常に探してきた「答え」という概念が、根底から覆される。
「……答えがなければ、作る。そして、その答えが正しいかどうかは、自分が決める……」
ザックは、自らの口から出た言葉を反芻するように呟き、目の前のセオルを見つめた。
その瞳には、初めて、彼自身の意志の光が宿っていた。