第二章第2部:統治の萌芽
新たな「法」が武装集団の拠点に導入されて数週間。
定められた上納品が整然と運び込まれ、見回り兵がいつもより整列して歩くなど、表面上は新たな秩序が生まれつつあるかに見えた。
しかし、その内側では依然として不満の嵐が渦巻いていた。
夕食時、配給された食料を口に運びながら、古参の兵士がわざとらしく大きな声で呟いた。
「ちっ、これじゃあ昔の方がマシだったぜ。『法』だかなんだか知らねえが、全く軟弱になりやがって」。
粗暴な男たちは、あからさまに不機嫌な顔で腕を組み、新しい体制への不満を漏らす。
彼らは依然として、目先の利益と私的な欲望とを優先していた。
村との間で取り決められた上納品以上のものを村から直接せしめようと画策し、夜陰に紛れては、かつてのように村へ押し入ることもままあった。
しかし、そういう「法」をないがしろにする行為に対する司令官の態度は断固としたものだった。
ある日、上納を終えたばかりの村の男が帰路で武装した兵士たちに襲われ、わずかな持ち物まで奪われる事件が報告された。
それを聞いた司令官の表情は一瞬にして硬質な怒りに凍り付いた。
即座に犯人の捜索を命じ、間もなく四人の兵士たちが捕らえられた。彼らは見せしめとして広場に引きずり出される。
司令官は、彼らが長年信頼してきた古参の兵士であったにもかかわらず、一切の躊躇を見せなかった。
怒号が響き渡る中、司令官自ら鞭を手に取り、規律を破った兵士の背を容赦なく打ち据えた。鮮血が地面に飛び散り、悲鳴が上がるたび、広場に集まった他の兵士たちの顔から血の気が引いていく。
司令官の低い声が響いた。
「この『法』は、貴様ら自身の命を守るものだ。二度とこのようなことは許さん。誰であろうと、規律を破る者は同じ目に遭うと思え!」
この見せしめは、武装集団のメンバーたちに「法」の絶対性を血肉を持って理解させた。
それはまさに、この無法な集団をまがいなりにも「集団」として結束させてきた、この司令官の唯一の資質だった。
飢えへの現実的な恐怖と、これこそが自分たちの生き残る唯一の道だという司令官の断固たる態度が、集団の粗暴な性質を徐々に削り、新たな「法治」という側面を前面に押し出していった。
ザックたち合理的な思考を持つ若い兵士たちは、この司令官の厳しい意志の下、新たな「法」の実践を担うことになった。上納品の管理、村ごとの「生産ノルマ」の割り当て、そして武装集団内の規律維持。
彼らはこれまで力任せだった略奪を、数値と論理に基づいた「効率的な徴税」へと昇華させていく。
無駄な破壊を減らし、持続的な生産を促すことで、集団全体の食料と物資の安定供給を図ったのだ。
彼らの地道な努力により、徐々にではあるが、武装集団の補給状況は改善の兆しを見せ始め、「統治機構」に近い姿へと進化しつつあった。
しかし、その一方で、効率化と規律強化は、旧来の無法者たちからの新たな反発を生んでいた。
司令官の鞭に怯えながらも、ザックたち「秩序派」への恨みを募らせる者は少なくなかった。
ある夜、村の見回りを終え、本拠地へ戻るザックは、暗闇に紛れて待ち伏せていた数人の男たちに襲われた。
かつての略奪仲間だったにも関わらず、彼らは憎悪に歪んだ顔で「お前が俺たちの自由を奪った!」と叫び、容赦なく棍棒を振り下ろす。
不意を突かれたザックは、頭部に激しい衝撃を受け、視界が白く染まった。全身から力が抜け、意識は暗闇へと沈んでいく。
男たちは、瀕死のザックにもう一度、確認のように棍棒を叩きつけると、血溜まりに横たわる彼を見て「死んだか…」と呟き、足早に闇へと消えていった。
どれほどの時間が経っただろうか。冷たい夜風がザックの頬を撫で、微かな意識が彼を現実へと引き戻し始める。
朦朧とした意識の中、誰かが彼を抱え上げ、どこかへ運ぼうとしていることに気づいた。
その誰かは、瀕死のザックを巧妙に隠された地下の貯蔵庫へと運び入れた。
ザックは微かに香る土の匂いの中に、遠い日の記憶の断片を感じ取っていた。
数日後、深い眠りから覚めたザックは、ぼやける視界の先に、自分を介抱したと思われる男の顔を見た。
その顔には確かに見覚えがあった。
男は低い声で囁いた。「お前、ザックじゃないのか?」
「カイン...兄ちゃん?」ザックの喉から、掠れた声が漏れた。男の顔が、わずかに緩む。
「やっぱり、ザックか!」カインと呼ばれた男は、安堵と喜び、そして痛みを混ぜたような目でザックを見つめた。
「心配していた。あの日に連れ去られてから、ずっと...。でも、お前が生きていると信じていた」
カインは弟ザックの顔をまじまじと見つめた。そして、震える声で尋ねた。
「ザック...あの時、お前と一緒に連れて行かれた、ユリは...生きているのか?」
ザックは視線を落とし、重い沈黙が流れた。
彼の表情に苦痛が浮かぶ。「ああ、生きている...。ユリ姉ちゃんは...司令官の、傍にいる。妻として、だ」
カインの顔に安堵の色が浮かぶ。
しかし、それは一瞬にして苦悶に変わる。
妹は生きている。しかし...。
兄にとっては、失われたはずの家族との予期せぬ再会。そして、突きつけられた過酷な真実。
そして、弟にとっては、武装集団の構成員として、その粗暴な思考に染まる中、「資源」と割り切り、冷徹に管理しようとしてきたはずのこの村が、まさかかつて自分が生まれ育った故郷だったという現実。
◇◇◇
数日間の介抱により、ザックの傷は浅いものではないながらも、動けるまでに回復していた。
横たわる彼の鼻腔をかすめる、どこか懐かしい土の匂い。温かいスープの味が舌に残る。それは、故郷の村でしか感じられない、幼い日の記憶を呼び覚ますものだった。彼を介抱したカインの、痛みを湛えながらも温かい視線。そのすべてが、かつて自らが置き去りにしてきたはずの、柔らかな感情を呼び起こし、胸の奥で息づいているのを、ザックは不思議な感覚で感じていた。
彼の心には焦燥が募った。これ以上、武装集団の拠点から離れていれば、死んだと思われるか、最悪は裏切ったと見なされかねない。ましてや、彼を襲った無法者たちは、司令官の「法」に反発する者たちだ。彼らを野放しにしておけば、司令官の定めた秩序が崩壊する。そうなれば、この土の匂いと温かい記憶が息づく村、そして兄カインの生活が、再び無秩序な暴力に晒されるだろう。たとえ、ユリが司令官の元にいるとしても、この村全体の安寧がなければ、彼女の立場もまた不安定になるに違いない。
ザックは、まだ本調子ではない体に鞭を打ち、立ち上がった。
「兄ちゃん、俺はアジトに戻る。そして、俺を襲った奴らを排除する」
カインは弟の決断に、複雑な表情を浮かべた。
「無茶だ。まだ傷が癒えていない。それに、お前を襲ったのが誰であろうと、奴らは数を恃んでいる。一人で戻れば、また同じ目に遭うかもしれない」
「わかってる。だが、だからこそ戻るんだ。『法』を蔑ろにする奴らを放置すれば、この秩序は持たない。それに……」ザックは、その言葉が口から出た瞬間、自分自身でも驚いた。
「この村を守るためにも、俺はやるべきことをやる」
カインは弟の固い決意に、かつて連れ去られた幼い日の面影と、武装集団の中で身につけたであろう冷徹な覚悟、そして、その瞳の奥に宿る、彼自身もまだ自覚していないであろう、村への新しい情愛を見た。
止めることはできなかった。ただ静かに頷き、隠し持っていた質素な衣服と水筒を手渡した。
「死ぬなよ」
ザックは兄の言葉に小さく頷くと、闇夜の中、武装集団のアジトへと足早に戻っていった。
彼の心には、肉体の痛みと、自身でもまだ掴みきれない、故郷への温かい感情、そして、再び秩序を確立せねばならないという強い義務感が混在していた。
そして、ザックが戻ったアジトでは、すでに彼の不在を怪しむ声が上がり始めていた。