第一章第1部: 見知らぬ男
その男は、どこからともなくやってきた。
静かな宙域を抜け、この惑星の上空を低く滑るように降下する。
無人の荒れ地に足を下ろし、砂混じりの風に身を晒す。
誰にも気づかれず、ゆっくりと歩き始める。
風が渡るたび、砂が足跡を消していく。
低い雲の切れ間から、かすかな光が落ちる。
男は歩き続ける。
どこから来たのかも、どこへ向かうのかも、誰も知らない。
小さな影が、その後ろを追っている。
村の輪郭が、揺れる蜃気楼のように前方に現れる。
乾いた大地が遠くまで続いている。
風が巻き上げる砂塵の向こうに、低く連なる建物の影が揺れている。
その輪郭を見つめ、男は進み続ける。
砂混じりの風が切り立った岩壁をなで、乾いた音を立てる。
男の影が、村の外れに築かれた土嚢の列に近づくと、そこに伏せていた数人が立ち上がった。
古びた布で顔を覆い、手製の短銃や鉈を構える。
風が強まるたび、細かい砂が目元を刺し、視界を濁らせた。
「止まれ」と誰かが低く言う声が聞こえる。
その言葉は風に飲まれても、緊張は消えなかった。
男は歩みを緩めない。
砂を踏みしめ、ゆっくりと土嚢の前に立つ。
銃口が揃って彼を狙い、引き金に指がかかる。
空気が張り詰める。
呼吸の音がやけに大きい。
一人が痺れを切らしたように間合いを詰め、刃を抜いた。
砂煙を巻き上げて走り込む足音が近づく。
男は首を少しだけ傾け、重心を移す。
そのまま腕を伸ばすと、襲いかかった男の手首を掴み、勢いを殺し、肘を返すように捻る。
骨の軋む音が小さく響き、武器が砂に落ちた。
襲撃者は呻き声を漏らし、膝を折る。
もう一人が銃を構え直す。引き金に触れようとしたその瞬間、男は稲妻のような速さでわずかに踏み込んだ。
相手の腕を払い、銃が手から離れるのと同時にその銃身を捕らえた。
間髪入れずに、掴んだままの銃を鮮やかな手つきで分解し、バレルとトリガーを砂上に投げ捨てた。
短い沈黙が降りる。
砂が風で流れ、転がった部品を覆っていく。
村人たちは、その異様な手並みに息を呑み、言葉を失っていた。
男は息を切らさず、ゆっくりと視線を巡らせる。
背後には小さな影が音もなく追いつき、その場に留まった。
◇◇◇
土嚢の列の向こうで、銃口がわずかに揺れた。
乾いた風が音もなく吹き抜け、砂粒が男の足元を転がる。
「止まれ」
短く押しつぶした声が響く。
男は立ち止まったが、何も言わない。
視線だけを投げ返す。
「武器を置け」
別の声が鋭く響いた。
数人が身構え、引き金に指をかける音が小さく重なった。
男は動かない。
風の音が続く。
「聞こえないのか。置け」
声が低く震える。男たちの一人が、銃口を微かに震わせながらそう命令した。
男は動かない。その静かな視線は、銃を構える相手の目をまっすぐ見据えていた。
「なぜ、置く必要がある」
その言葉は予想外だったのか、その男は息を呑み、一瞬、銃口が揺らいだ。
「ここはお前の来る場所じゃない……!」
「ならば、その根拠を問う」
男が短く言い放つと、張り詰めた空気は、もはや皮膚が張り裂けそうなほどの重さになった。
そのとき、奥から年嵩の男が歩み出た。
顔の皺に砂が入り込み、目を細めたまま、男を睨む。
古びたライフルを下げ、低い声を出した。
「よそ者に理由など要らん」
男は視線を動かさず、彼らの目に自身の冷静な意志を映し出すかのように答える。
「水が要る。そして、船を修理する」
男の言葉が、乾いた空気に静かに溶けていく。
「話をするなら応じる」
風が強く吹き荒れ、張り詰めた沈黙が空間を支配した。
年長者の目がわずかに細められた。
「そいつは何だ」
顎をしゃくる。
砂風に吹かれながら、小さな影が男の背後でじっとしていた。
男は目を動かさず、短く返す。
「見ての通りだ。危害はない」
周囲の緊張がわずかに緩むが、銃口はまだ下がらない。
「武器を持って村には入れん」
「条件だな」
「そうだ」
二人の間に砂の音だけが落ちる。
やがて男は腰に下げた短いブレードを外し、砂に置いた。
砂に落ちた金属が鈍く転がる。
若者たちが安堵と緊張を混ぜた息を吐く。
銃口がわずかに下がる。
年長者は視線を動かし、周囲を制するように手を挙げた。
「連れていけ。水をやれ」
男は無言で歩み出す。
小さな影が後ろを追うように進んだ。
風が再び吹き抜け、砂を巻き上げた。
村の低い屋根と崩れた柵が見え始める。
その中に消えるように、男の姿はゆっくりと近づいていった。
◇◇◇
村の入り口を越えると、硬く踏み固められた土の通りが一本、低い屋根の建物群を縫うように続いていた。
外壁には金属片や古びた合成樹脂の板が継ぎはぎされ、砂と風で磨かれたような鈍い光を放つ。
壊れたパイプがむき出しのまま地面に埋まり、錆びた継ぎ目から細く水が滲んでいた。
そこにバケツを置き、溢れる分を集める女の姿がある。
水は貴重だ。
男は歩みを止めない。
脇を通る時、屋根に取り付けられたソーラーパネルの枠が歪んでいるのが目に入った。
一部は割れて砂を噛み、他はかろうじて生きているように見えた。
その電力で照明や小さなポンプを動かすのだろう。
扉を開け放した家屋の中には暗がりがあり、電球が薄く点滅していた。
通りの端には干された布が風に揺れる。
染めは色褪せ、継ぎが当てられ、裂け目を縫った糸が砂埃に覆われている。
足元の小さな囲いには痩せた家畜が繋がれ、乾いた飼葉をあさっていた。
その脇には畑があり、背の低い作物が列を成す。
自生する野草のように細くしなび、青みが浅い。
だがそこに人の手が入っているのは明らかだった。
子供が二人、木の箱をひっくり返して遊んでいた。
割れたプラスチック片を剣のように振り回し、砂を蹴る。
母親らしい女が素早く呼び寄せ、視線を鋭くして男を見る。
彼は声を発さず、目を逸らさずに通り過ぎる。
女は肩を強張らせたまま、抱き寄せて後退した。
壁際では年寄りが工具を並べて座り込み、歪んだ継手を磨いていた。
擦り切れた合金片を集めて繋ぎ、パイプの長さを調整している。
経験で測り、目で寸法を決め、指先で確かめる。
一度砂を払い、咳き込みながら続けていた。
風が強まるたびに砂が舞い、通りを霞ませる。
布を被った人々が低く話し、視線を投げる。
男は一度も立ち止まらない。
その背後を、小さな影が音もなく追う。
荒野の空気を纏ったまま、村の中へ進んでいく。
◇◇◇
村の中を歩くあいだ、男の目は周囲を拾い続けていた。
錆びたパイプが地面を這い、どこかで漏れた水を細い溝に流す。
わずかな電力で回るポンプが鳴き声をあげる。
太陽を受けて割れたパネルは半分しか発電できず、照明は暗く揺れていた。
かろうじて維持される文明の残滓が、住人の暮らしを繋いでいる。
男は補給と修理を理由にしていた。
村の長は疑わしげに睨みつつも、見張りをつけて通した。
だが実際には、船は補給を必要としない。
核融合炉からの出力で重力場を作り、その傾斜を滑り落ちる。
燃料も推進剤も要らない。
内部のエコシステムは完全な再利用を繰り返し、食料も水も数年分を搭載していた。
故障もしていない。
この村に入るための口実でしかなかった。
日が高くなるにつれ、村人たちは仕事に散った。
水を汲み、畑を耕し、家畜を世話し、壊れた道具を直す。
声を潜め、男を避ける視線が続く。
だが子供だけは違った。
最初に近づいてきたのは、六歳ほどの少年だった。
布切れの上着を羽織り、素足で砂を踏んでいた。
遠巻きに見ていたが、ゆっくりと歩み寄り、視線を上げる。
「どこから来たの」
少年の声は低く抑えていたが、目は真っ直ぐだった。
男はしばらく言葉を探し、答えた。
「交易をしていた。他の村を回っていた」
少年は短く頷き、足をもう一歩進める。
「何しに来たの」
「水を探してた。船が壊れた」
「直るの」
「部品があれば」
「そっか」
少し間が空き、少年は視線を落とした。
「どこへ行くの」
男は、静かに答える。
「船が直ったらまた別の村に行く」
「いつまでいるの」
「直るまでだ」
男は表情を変えない。
すべて嘘だった。
少年は何も知らなかった。
村の外に何があるのかも。
少年は男の腰に下げた小さな金属筒をじっと見ていた。
「それ、何?」
男は手に取る。
「水筒だ」
「見たことない。どこで作ったの」
「別の星だ」
少年の目が一瞬丸くなる。
「星?」
砂が風に流れる音が間を埋めた。
彼の世界には、この砂漠の村と、その外に広がる荒野しかないのだ。
男は短く答える。
「この空の向こう。別の世界だ」
「行けるの?」
「行けるさ。いつでも」
少年は息を呑んだように肩を揺らした。
「どうやって」
男は遠くを見るように、少しだけ声を落とした。
「船に乗って『扉』を越える」
少年は砂を踏みしめ、一歩寄った。
「もっと教えて」
男はしばらく黙っていたが、小さく頷いた。
「また今度な」
◇◇◇
別の日、また来た。
同じように問いを投げる。
男は答える。
「扉」のことを話す。
星々を繋ぐ「道」がある。
それを越えて移動する人間たちのこと。
少年は黙って聞き、時折目を見開く。
「あれ…そっちの、それは何?」
少年は少し声を落として聞いた。
男は視線を落とす。
「ユビだ」
「生き物?」
「ああ」
少年は一歩引くように足をずらしたが、目は逸らさない。
「噛む?」
「いや。大丈夫だ」
少年は唇を噛んだあと、言葉を絞り出す。
「しゃべるの?」
ユビは短く男を見上げ、小さな声を出す。
「聞くことはできる」
「他には?」
「けがを治せる」
少年は小さく息を呑み、でも興味を抑えきれない目を向けた。
「友だち?」
男はわずかに頷いた。
少年を呼ぶ声がしても、すぐには戻らない。
母親と思われる女は遠巻きに睨み、名前を鋭く呼ぶ。
その声に少年は肩を跳ねさせ、振り返り、走り去る。
だが次の日も、また男のそばに来た。
風が荒野から吹き込むとき、その小さな影はいつも男の前に現れた。