第九章 新たな疑惑
「――なるほど」
しなやかな細い指が、パサリと音を立てて、パンシクにもらったばかりの紹介状を文机に置いた。
「確かにここは、訳あり者の巣窟と言える。その裏の事情を知る者は限られているがな。事情を探られず、情報だけが欲しいという者には打って付けと言えよう」
文机を隔て、下座に座るシアの対面で、クスリ、と艶やかに微笑したのは、一人の妓生だった。
頭部に付けられた鬘には、振り簪や棒簪が飾り立てられ、胸元には房飾りが揺れている。丈の短いチョゴリに、ふんわりして見えるよう重ね着されたチマが、彼女の見た目を豪奢に彩っていた。
彼女は、地方ではかつて紅蓮という妓名で知られていた妓生で、今はこの妓楼『玉聲楼』を取り仕切る行首の座にあるという。ということは、現役を退いているはずだが、外見は若く、その気になればまだ現役として充分やれそうだ。
「パンシク様には、色々とお世話になっている。彼の望みとあらば、そなたの希望に添うてやりたいが……」
そのパンシクの商団をあとにしたのは、ついさっきのことだ。商団には、身支度の為に二日ほど滞在させてもらっていた。
「何もしないで屋根だけ貸せ、情報も寄越せでは、世の道理が通るまい?」
(いや、そこまでは言ってねぇけど)
大方、シアの性別を知っているパンシクは、妓生としての職務は遠慮させろ、といったことを書いてくれたようだ。が、それはそれとして、ド正論を突き付けられては、ぐうの音も出ない。
視線を落としたその時、ホンニョンがシアに目を向ける。
「そなた、名は何と申す」
「――イム・シア、と申します」
紹介状にも書いてあったはずだ、と思った為、答えるのにやや間が空いてしまった。だが、ホンニョンは気にした風もない。
「そうか。ではシア。そなたほどの美貌をこの妓楼という場で生かさぬ手はないのだ。妓楼を預かる行首としてはな」
彼女以外の妓楼の行首とも、散々交わしたやり取りだ。しかもここからは、彼女らの金銭欲と一人で対峙しなくてはならない。
うんざりして、覚えず深い溜息が漏れそうになるが、危ういところで呑み込んだ。が、ホンニョンはこちらの反応には頓着しない。
「働かざる者食うべからず、と昔から申すであろう。この妓楼という場所に来た以上、その美貌を宿代代わりに生かし、私に恩を返すのが筋ではないのか?」
(お説、ごもっともだけど……)
さてどうするか。
シアは黙ったまま、伏せていた視線を上げて、彼女を見た。
ここで正体を明かせば、妓生として仕事をする必要はないかも知れない。ただ、彼女が言った通り、ここは『訳あり者の巣窟』だ。正攻法では土台無理な話かも知れないし、そういった人間は、大抵は権力をよく思っていないから、権力にはおもねらない傾向もある。
それ以前に、先に予定外に正体を明かす必要に迫られている。このままなし崩し的に次々正体をバラしていては、いずれ王宮にも届いてしまうだろう――『永昌大君』が、あの火事を生き延びていた、ということが。
「……どうしても、わたくしに妓生として働けと?」
「嫌なら無理にとは言わぬ。その代わり、パンシク様からのご紹介はなかったことにしてもらうがな」
シアは内心で舌打ちした。
短いやり取りの内にも、このホンニョンが一筋縄では行かないことは感じていたが、中々思うようには説き伏せられてくれないらしい。
ふう、と一つ息を吐いて、「分かりました」と返す。
「仰る通りにいたしましょう。どのようにすればよろしいでしょうか」
「そうだな。そなた、年は幾つになる」
「十六でございます」
「そうか。芸事の心得は?」
「歌も舞も楽器も一通りは」
結局、フィギルが亡くなるまでは、主に妓楼に潜伏していた。その間に、歌舞音曲は否応なく学ぶ機会を得ている。
「では、勉学知識のほうはどうだ」
「四書五経は一通り」
四書五経とは、儒教の教えを記した書物の総称で、基本的には王族や両班子弟の学ぶべき知識の基礎である。
シアにとっては、フィギルに叩き込まれた知識の一つだが、妓生も一流となると、王族や両班を相手にする為、無学では務まらないらしい。
「そうか。詩や図画は?」
「心得はございます」
「左様か」
うん、とホンニョンは一つ頷き、パンシクからの書状を畳む。
「安心した。一部の人間には誤解を受けているようだが、男と共寝をするばかりが、妓生の仕事ではない。二牌、三牌になると閨事も主なる仕事の内かも知れぬが、都近郊の妓楼にいるのは一牌妓生が主流だ。むしろ仕事は、芸や舞が主軸になるから、できぬでは話にならぬ」
一牌、二牌、三牌とは、妓生の階級のことだ。
一牌妓生は、『芸は売っても身は売らない』のを信条としている。掌楽院に属する妓生はすべて一牌妓生だ。対して、二牌妓生は芸と閨事が半々、三牌は文字通り三流で酌婦に売春が主とされていた。
ただ、あくまでもこの三階級はざっくりとした分類であり、三牌の下には単なる売春行為をする女性も存在したが、彼女らは妓生とは認められていない。
「――心得ております」
「口だけは達者だな」
クス、と面白がるようにホンニョンはまた一つ笑った。
「では、早速だが、そなたの芸の技量を見せてもらう。それから、時期を見て披露目をして水揚げだ。それで一人前の妓生としてそなたを宴席に出せるようになる」
「分かりました」
目を伏せて言うと、ホンニョンは満足げに頷いた。
「今日のところは、臨時に部屋を用意させるゆえ、荷物を持って引き取るがよい。基本は相部屋になるから、後日、改めて部屋を手配しよう」
「その前に、もう一つよろしいでしょうか」
「何だ」
「芸事の技量を見せることも、宴席へ出ることも拒みません。それが、目的でもありますから。ですが、水揚げ――殿方との共寝だけは、ご容赦いただきたく」
瞬時、沈黙が落ちたあと、ホンニョンが苛立ったような吐息を漏らす。
「もう一度同じことを言わせたいのか。世の中、それで通る道理が」
「これでも、ですか?」
言うや、シアは上衣の袖をまくった。
ホンニョンが息を呑むのが分かる。
まくり上げられた袖の下から覗いたのは、皮膚が無惨に歪み、或いは引き攣れた、火傷の痕だ。
「……そなた……」
「見ての通りです。幼い頃に酷い火傷を負いました。幸い、衣服に隠れない場所のモノはどうにか治りましたが、このような痕は全身に残っています。まだご覧になりますか?」
シアは無表情で、今度はチマと下衣〔ズボン〕の裾をまくり上げる。その下に現れた臑の辺りにも、同じように焼き鏝でも押し付けられたかのような痕が刻まれていた。
目を逸らすべきか否か、躊躇うように目を見開いているホンニョンに、シアは畳み掛ける。
「それでも、共寝も仕事の内と仰せなら、仰る通りにします。ただ、その後の妓楼の評判までは、わたくしには責任持てませんが」
眉を顰め、耐えられないとばかりに、ついにシアの火傷の痕から目を逸らしたホンニョンは、掌に顔を伏せて、ポツリと呟く。
「――なぜ……」
「は?」
「何故……そのような火傷を負ったのだ」
ノロノロと顔を上げたホンニョンに、先刻までの威厳はない。これには心底戸惑って、返す言葉もなくただ彼女を見つめると、彼女は衣擦れの音と共に、おもむろに立ち上がった。
歩を進め、シアの前に改めて腰を下ろすと、シアの手を取る。
「あ、の」
「すまぬ……大抵のことには動じない人生を歩いて来たつもりであったが……」
ホンニョンは、その手に取ったシアの手を包み込むようにしながら、眉尻を下げた。
「そのような過去の傷は、妓生としては男を誑し込む為の武器も同然。しかし、そなたのそれはあまりに痛ましい。武器とするには両刃の剣だ。惨すぎる……」
ホンニョンはシアの手の甲に額を付けんばかりに顔を伏せ、しばし沈黙してしまった。
シアは、そんな彼女の頭頂部をただ見つめる。
どう反応していいか分からなくなり、結局ホンニョンが顔を上げるまでは、室内には沈黙が落ちた。
「……すまなかった。信頼できる仲介屋の紹介を受けてくる者でも、巧妙に、その……不幸な事情を捏造し、この玉聲楼を探ろうとする輩もいないではないのでな。受け入れるにも、ある程度の見極めを余儀なくされるのだ」
まだ握ったままのシアの手を、ホンニョンは出会った時よりも柔らかくなった表情で、ポンポンと軽く叩いた。
「よく分かった。そなたの役回りについてはほかの手立てを考えるとしよう」
「つきましては行首様。一つ、提案があるのですが」
「何だ」
「実は、以前別の妓楼にいた頃、化粧を専門に担当していたことがあるのです」
「ああ、そうか。その手があったな」
ホンニョンはパッと顔を輝かせ、シアの手を握った手に力を込めた。
「では、すぐにその腕、見させてもらう。化粧師はあまり数が多くないのでな。対して、化粧が得意でない、という妓生も珍しくはないゆえ、正直引く手数多なのだ」
満面の笑みを浮かべたホンニョンは、それから意外なことを口にした。
「その上、客は妓生に留まらぬ。様々な両班のお宅に出入りが叶い、場合によっては王宮に呼ばれることも望めるであろう」
シアは、小さく目を瞬く。
「……それは、いかなる意味でしょうか」
質したのは、シアだ。
「何故、両班宅や王宮に?」
「分からぬか。両班宅には奥方や、年頃の娘がいる。王宮であれば王妃様やご側室に、王女様方、女官がその顧客となることもあるのだ。もっとも、今の王室に、化粧が必要な年頃の王女様はおられぬが」
覚えず、唇の端が吊り上がりそうになるのを、全力で堪えなければならなかった。
両班宅や、王宮(と言っても行き先は後宮に限られるだろうが)に出入りできる――願ってもない情報源だ。持って行きようによっては、母と交流のある姉王女の許を訪れる機会もあるかも知れない。
「では、早速試験だ。来なさい」
立ち上がって部屋を出るホンニョンに、一礼したシアは続いた。
***
細くて長い指先がしなやかに泳ぐと、誰もが見惚れる。
それにシア本人は頓着しないまま、内人〔最下級の女官〕の一人に肩掛けを羽織らせた。
彼女の向かいに座ると、シアは内人の顔に化粧水を染み込ませた布を、丁寧に当てた。
化粧水を乗せ終えると、次は下地用の白粉を作る。
米粉で作ったものに化粧水を混ぜ、程よく半液状になったところで刷毛に取る。自分の手に取り馴染ませ、内人の頬、額、鼻先の順に乗せ、伸ばす。
「目を閉じてください」
言われる通りに瞼を下ろした内人の、上瞼と下瞼、口元には特に念入りに下地を付ける。よく動かす箇所なので、化粧が落ち易いからだ。
次に、粉末状の白粉を取り出し、綿で作った球体状の道具で、軽く叩くように載せていく。全体に載せたら、余計な粉は刷毛で落とす。
それから、黄土で作った黄色い化粧粉と、小豆から作った薄赤いそれを混ぜ込んだ白粉を取り出し、同様に綿で作った球体状の道具で、輪郭の線に沿って軽く叩く。
最後に、眉墨を引いて、紅花の色を混ぜて作った化粧粉を少し濃く瞼に載せ、唇と頬に紅を掃いた。ここまで、ものの一刻〔約十五分〕程度だ。
「――終わりました」
「うん、ご苦労だった」
「じゃ、次は私ね」
化粧を終えた内人が、順番を待っていた同僚に席を譲る。
玉聲楼に化粧師として入ってから、早ふた月が経っていた。
その間に、シアは顧客として、掌楽院の一牌妓生を始め、都の有力両班の婦女子や、王宮の尚宮・内人たちまで掌握していた。これに関して、先住の化粧師たちの顰蹙は買っているし、顔を合わせる度に嫌がらせも受けているが、知ったことではない。
女の嫉妬は出所が分からん、と思いつつ彼女たちを住なし、今日も宮中まで足を運んでいる。
「――ねぇ、ところでさ、聞いた?」
「聞いた聞いた。あれでしょ、鮮于尚宮様が、提調尚宮様に贈り物してさー……」
(要は賄賂か)
シアは、何食わぬ顔で手を動かしながら、始まった内人たちのお喋りに、脳内で相槌を打つ。
「初めてのお召しから殿下のお渡りがないから、ついに提調尚宮様に泣き付いたって」
「今じゃ、殿下の閨事情まで金次第ってホントね」
(マジ腐ってるわ)
この前来た時は確か、提調尚宮に賄賂を渡して官位を買った者がいるのいないのという話をしていた。まったくもって、反吐が出る。
王妃でもないのに、後宮から朝廷の人事を動かせるなど、今の提調尚宮は王妃以上の権力を持っている。ただ、皆が『提調尚宮様』と呼ぶものだから、名前までは分からない。
(……七年前はキム・ゲシだったけど、今もそうなのかな……)
いや、とシアは思い直す。
七年前どころか、シアが物心付いた頃から、提調尚宮の地位にいたのは、あのキム・ゲシだった。
七年前は、王子だった頃の記憶がなかったから気付かなかった。今も正直、五、六歳当時の記憶は曖昧だが、あの奥底が見えない瞳だけは強烈に印象付いている。
「でもさー。官位の売買と言い、閨のことと言い、提調尚宮様ってばちょっとすごくない?」
「そりゃだって、今の殿下の地位は提調尚宮様のお陰だもの。殿下だって、一目置くでしょ」
「どういう意味?」
「知らないのぉ? だって――」
一際高い声を出した内人は、ハッとしたように口を噤んだ。
視線が自分に集まるのを感じたが、シアは敢えて知らぬ振りで、目の前の内人の唇に紅をさす。
「終わりましたよ」
話の流れを綺麗にぶった斬りながら、シアは彼女の肩先から手拭いを外し、手早く化粧道具をしまう。
「それでは、報酬は後程妓楼へお願いします。またのご利用を」
仕上げに、極上の微笑付きで辞儀をして、退出した。だが、すぐに部屋の前を立ち去ることはしない。
室内にいた内人たちは、扉を開けて確認することなく、一拍の間ののち、話の続きを始めた。
「……だって、先王殿下を殺したのって、あの提調尚宮様なのよ?」
潜めた声音で続けられたその台詞に、シアは思わず室内へ引き返しそうになる衝動を全力でねじ伏せなくてはならなかった。
(……な……んだって?)
「嘘っ! 殺したなんて……どうして!?」
「シィッ! 声が高いわよ!」
また少しの間が空いたのちに、先王――つまり、シアの実父を殺したと話した声が先を続ける。
「癸丑の年に、江華島へ流された王子様がいらしたでしょ? 先王殿下の唯一のご嫡男の……」
「ああ、永昌大君様」
「そう。今の国王殿下は、大君様が邪魔だったのよ。ウチの尚宮様に聞いた話なんだけどね。先王殿下にはずっとご嫡男がお出来にならなくて、永昌大君様はやっと授かったご嫡男だったの。何でも、先王殿下は、ご自分の出自にご不満があったとかで、ご自分の跡は絶対にご正妃のお産みになった王子様、つまりご嫡男に継がせたいってお考えだったのよ」
ここまで聞けば、当時の事情を知らなかったシアにも、兄王の思っていたことは想像が付く。同時になぜ、下から二番目という末に近い生まれ順のシアを殺したがったか、なぜほかの兄弟の誰でもなくシアが標的となったのか、納得せざるを得なかった。
光海兄は、世子位の交代を恐れた。それをさせない為に、彼にも父に当たる先王を殺害したのだ。
その立役者となれば、ケシを寵愛し、彼女が贈収賄をしようが目溢しするのも頷ける。
シアは、その場でわけもなく喚きそうになるのを、唇を噛み締めることで耐えた。静かに深呼吸し、足音を殺してその場をあとにする。
今の正宮である昌徳宮は、正直タガが外れるほど広い。シアが生まれ育ったのは、現在母と姉が幽閉されているという慶運宮で、この昌徳宮にはこの年になって初めて足を踏み入れた。
女官の顧客を得てからはまだひと月しか経っていないし、シアが怪しまれずに彷徨ける場所は限られている。『道に迷った』という言い訳も、そう何度もは使えない。
昌徳宮内を熟知していれば、すぐにも承政院〔王の秘書室〕へ侵入して、そこにある業務日誌でも盗み見ているところだ。が、それも堪えつつ、シアはできるだけ頭を空にして、女官専用の通用口へと足を動かした。
出入り口で通行証を見張りの兵士に見せて、門を通る。そこからしばらく行ってから、詰めていた息を吐き出すようにして、化粧用具を地面へ置いた。
今の精神状態では、手にしている商売道具を、遠慮なく地面へ叩き付けて粉々にしそうだった。
(……くっそ……!)
拳を握り締め、立ち上がって塀に背を預けながら、片掌に顔を伏せる。
(そんなに世子位が大事だったのかよ、兄上。何で父上まで……!)
無意識に、塀へ拳を打ち付ける。
シアが二歳の頃に亡くなった父のことは、正直顔も覚えていない。御真影〔肖像画〕は見たことがあるが、あんなものは画員〔宮廷画家〕の主観と、多分に美化が掛かっているから、本当の父の姿とは言えない。
思い出すらもない父が、実は殺されていたと知ったからと言って、すぐさま湧いたのは、報復してやりたいという気持ちや憎しみではなく、戸惑いと混乱に近い。
けれど、許せなかった。
父を殺して王位に就いたなら、それで満足していればいいのに、どうして自分や母、貞明姉を巻き込んだのか。
(……俺だけならまだいい)
百歩譲って、自分だけならまだ我慢できた。嫡男かそうでないかという出自の問題はどうにもできないし、そんなどうにもできないことから自身を守ろうとしただけなら、それが兄にとってシアを殺すという方法しかなかったのなら、許せはしなくても納得はしただろう。
(だけど、父上と母上と姉上は関係ない)
ましてや父は、兄にとっても父だったはずだ。しかも、シアと違って、兄には父と幼い頃を共に過ごした思い出だってあるだろう。どうしてそんな父を手に掛けるなどという、残酷なことができるのか。
(とにかく『永昌大君』は片付いたんだ、それでいいんじゃねぇのかよ)
なぜ、母と貞明姉まで降格・幽閉する必要があるのか。それがどういう得になるのかがさっぱり理解できないし、許せない。
委細構わず、王の居所まで駆け込みたい衝動を、何とか宥めるように、目を閉じて深呼吸を繰り返す。
今はまだ、殴り込むべき時ではない。今、激情のままに行動してしまえば、フィギルとの約束――何をしてでも生き延びるというあの約束を、違えることにもなり兼ねない。
いずれにせよ、父の暗殺に関しては、まだ女官の噂話の域を出ない。ただの噂話と言い切るには、動機は腑に落ち過ぎるが、何にせよ、断罪するにはもっと詳しく探る必要がある。
このふた月で、分かったことは特にないと言っていいだろう。女官や両班夫人・令嬢の、細かい噂話という名の情報だけは入っているが、肝心の七庶獄事に関することは分かっていない。
(……そろそろ……次の調査に移ったほうがいいな)
昌徳宮内はまだ把握できていないが、都の中は充分把握できている。
最後に長い溜息にも似た息を吐くと、シアはやっと顔を上げた。その直後。
「――シア?」
横合いから声が掛かって、弾かれたようにそちらへ顔を向ける。
三間〔約五・四メートル〕ほど先の距離に立っていたのは、以前出張の化粧を担当した、異母姉・貞淑翁主、ことイ・ミョンフィだった。彼女の後ろには、供だろう、尚宮らしき女性も付き従っている。
こんなに近付かれるまで気付かなかったなど、いくら人通りが滅多にない場所だからと言っても、不注意にも程がある。相手が貞淑姉でなければ、死んでいるところだ。
「これは……貞淑翁主慈駕。お久しゅうございます」
脳内で自分を罵倒しつつ、塀から背を引き剥がし、下腹部へ手を重ねて軽く頭を下げる。
「うん、久しいな。しばらく顔を見なかったが、元気そう……でもないな」
貞淑は、表情を曇らせると、シアに歩み寄って来た。
「何かあったのか。顔色がよくない」
シアの伏せた顔を上げさせながら、貞淑は問いを重ねる。
「そもそも、ここでいったい何をしていた?」
「あ、いえ……あの、内人様方のご用で、化粧の仕事をしに参りまして。今から帰るところでした」
「左様か」
貞淑は納得したように頷いた。
「そう言えば、今日は提調尚宮の誕生日であったな。開かれる宴には光海兄様もご出席なさるようだから、浅はかな内人たちは取り入る気であろう。まったく……」
伏せた目をチラリと上げて、呆れたように呟く貞淑姉を見やる。その視線と、姉の視線がぶつかった。
「あ、失礼を」
急いでまた目を伏せる。
貞淑は、ふっと微笑のような吐息を漏らした。
「よい、気にするな。ちょうどいいから、そなたも共に来ないか」
「えっ?」
「これから、世子に会いに参るところだったのだ。兄様にはつくづく愛想も尽き切っているが、世子に罪はないし、縣主〔世子の側室が産んだ娘〕も愛らしい盛りゆえ」
「世子……様」
そう言われて、シアはその顔を思い浮かべようとした。最後に会ってから九年も経った、年上の甥・李祬は、あの頃本当の兄のように接してくれていたのに、もう記憶の中では朧気だ。
あの『兄』が、人の親になったのかと思うと、何だか感慨深い。
「シア?」
「あ、すみません、あの……このあと、仕事がまだ残っておりまして」
方便だった。今宮殿へ戻ったら、自分は何をするか分かったものではない。
ただ、方便だというのは、尚宮には見破られたのか、「無礼な」と小さく呟かれる。
「折角の翁主慈駕のお誘いを」
「よい、印尚宮」
一緒にいた、イン尚宮と呼んだ女性を制すると、貞淑姉はこちらへ向き直った。
「分かった。気を付けて帰るがよい。それと、無理をせぬようにな」
「傷み入ります」
「また機会があれば、当家にも来ておくれ。今度は娘たちにも化粧をして欲しい」
「恐悦至極に存じ奉ります」
「うん。ではな」
「はい、翁主慈駕」
シアが改めて頭を下げると、貞淑姉はその場をあとにする。
彼女の気配が完全に消えるまで、シアは頭を上げずに見送った。
©️神蔵 眞吹