第八章 駆け引き
シアは眉根を寄せた。警戒しているわけではない。万が一、(あらゆる意味で)襲い掛かって来られても、返り討ちにする自信はある。
ただ、パンシクの意図は測り兼ねていた。以前世話になった商団だし、彼も信頼できると思っていたので訪ねてしまったが、迂闊に過ぎただろうか。
すると、パンシクは何を思ったか苦笑を浮かべ、一つ肩を竦めた。
「何も、取って食おうってわけじゃねぇよ。いくらお前さんが、国一番の妓生も裸足で逃げ出しそうな美人でもな。第一、俺には大~事な恋女房がいるんだ。ほかの女なんか目に入らねぇし、万が一俺が未婚だとしても、そういう対象にするにゃ、シアじゃ年下過ぎる」
冗談めかして言われた言葉には、『そら、ゴチソウサマ』と返しそうになったが、シアはやはり口を噤んでいた。
他方、一度言葉を切ったパンシクは、スッと真顔になって続ける。
「ただ、人に聞かれたくねぇ話も出るんじゃねぇかと思ったからよ」
顔と同じく真剣になった声音に、とっさに言い返せなかった。何て鋭いオヤジだ、と思いつつも、ひたすら無表情に努めながらパンシクを見据える。
このまま睨み合いを続けていても、確かに埒が明かない。
無言で顎をしゃくったパンシクについて、シアは示された部屋へ足を踏み入れた。そこは何かの書庫のようだった。商団という施設の性質上、帳簿でも保管してあるのだろう。
その部屋の奥にある書棚をパンシクが動かすと、その向こうにまた、別室のような空間が見えた。隠し扉らしい。
扉の向こうは、すぐ降りの階段になっていた。パンシクは、シアに先に降るように促し、自分が殿になると、隠し扉を元通りに閉じる。
「こっから先の倉庫は、限られた人間しか存在を知らねぇし、出入りを許可してない。何らかの内緒話するには打ってつけの場所なんだが――」
「他言無用、ですね。心得ました」
振り向かずに告げると、パンシクからは沈黙が返った。
階段を降り切った場所には、所狭しと棚が並べられ、様々な商品が積まれている。適当な棚の隙間で足を止めると、降りて来たパンシクは、階段に腰を落とした。
「さーてと……どっから訊いたモンかねぇ……」
彼は片掌で顔を額から顎先までひと撫ですると、「親父さんは、何で亡くなった」と直線的に口にした。
問われて、再度唇を噛み締める。
「病か」
問いを重ねられ、尚も躊躇った末に、「殺されました」と答えた。嘘は言っていない。
だが、パンシクはどこか疑念に満ちた目でシアを見つめ返す。
「どうしてそんなことになった」
シアは、相手から目線を外すようにして瞼を伏せた。その下で、目を泳がせる。
どう話せば、自分の素性を知られずに事情を話せるだろう。しかし、そもそもが鋭過ぎる目の前の男は、シアにその算段をする時間を与えてくれなかった。
「隠し事は止しにしようや。せっかく、内緒話ができる空間に移動したんだしな。この部屋は、さっきも言った通り、他言無用の場所だ」
パンシクは、自分の横にある壁を、コンコンと拳で叩きながら続けた。
「言わば、商団の心臓の一部を晒したんだ。一時、一緒に過ごしただけで、これから先付き合いがあるかどうかも分からん相手にな。それをこっから生かして出すには、それだけの担保が要る。ま、俺の印象じゃ、お前さんは、この場所のことをベラベラ外向いて話す娘じゃねぇとは思ってるが」
「……何も訊かず、置いてもらうわけにはいきませんか」
試しに言ってみるが、パンシクはさも困ったように眉根を寄せ、唇の端を吊り上げた。
「置いてやるって、商団にかい?」
「はい。お恥ずかしい話ですが、現状資金に窮していまして……ある程度、金が貯まるまでで構いません。働かせていただければありがたいのですが」
シアの声は懇願の響きを帯びていたが、パンシクは無情にも首を横へ振った。
「そいつは無理な相談だな。だって親父さん、殺されたんだろう?」
「……はい」
「だったらそんな物騒な死因、お前さんを置いとくなら尚更知らんわけにはいかねぇや。誰かも分からんヤバい奴から、お前さんを匿うことにもなるかも知れねぇんだからな」
(あー……そっか、そうだよな)
この言い分には納得した。シアがパンシクの立場で、冷静でさえいれば同様に考えるだろう。しかし、ここへ来る前に、立場を逆にして考えなかったなんて、やはりまだ平常心を欠いているとしか言い様がない。
とにかく、希望が通らないのならば立ち去るしかないという結論に至るのは早かった。都で知り合いと言えば、目の前の相手しかいないからと、何の気もなしに頼ったのが性急過ぎた。
諸々の判断の誤りに舌打ちしそうになりながら、パンシクに改めて目を向ける。辞去するには、通り道にいるこの男に退いてもらわなくてはならないのが厄介だ。
それとも、それを見越してそこに座ったのか。だとすれば、誤魔化すのも一苦労だ。
シアが何らかの反応に出るより早く、その厄介な男が再度口を開く。
「どーしても何も話したくねぇ、交渉は決裂だから今すぐここを去る、ってんなら止めねぇし、無理には聞かねぇよ。シアからはな。ただ、そのあと俺がどうしようと、それこそお前さんの口出す権限はねぇってことになるが、どうする?」
現実に鋭く舌打ちしそうになって、どうにか思い留まる。
(こっ……ンの狸オヤジが……!)
いや、体型からすると、狸と狐の合いの子だろうか、などというどうでもいい訂正が頭をよぎる。
瞬時、噛み締めた唇を解き、息を吐いてパンシクに目を据える。
「……要は、私がこの場では黙って去ったとしても、独自に調べる。そういう意味合いですか」
そういう手蔓が、いくらでもあるのが商団だ。この点、妓楼にも同じことが言える。フィギルが、妓楼の用心棒の職でも甘んじて受けていたのも、大半はこれが理由だったのは、シアも知っている。
「それこそ好きに取れや。まあ、何でもかんでも知りたがりは情報収集も商品にしてる商人の性だから、どう転ぶかは分からねぇよ。それと、ウチの情報網なら可能だとだけ言っとく」
予想通りの言葉を返され、今度は実際に舌打ちが漏れるのを止められなかった。
「ッ……あーっ、クソッ! 疲れるな、狐と狸の化かし合いも!」
苛立ちのままに言葉遣いを素に戻し、側頭部を掻き毟る。口調がガラリと変わった所為か、さすがにパンシクも唖然と口を開けた。
「……えー……っと?」
「隠し事はなしで、だろ? じゃ、こっからバラしていかねぇと話進まないんだよ」
言いつつ、シアは自身の上衣と下着の結い紐を乱暴に解いた。
晒した胸板が少女のそれではないことは、パンシクにも分かったはずだ。その証拠に、目をこれ以上ない程一杯に見開いている。
「あんたも情報通なら、俺の本名がイ・ウィ……永昌大君って呼ばれてた時もあるって言ったら、大体のことは察してもらえるか?」
結い紐を元通り結びながら問うが、まだパンシクの驚きは去らないらしい。むしろ、驚愕が増したような顔になった。
「まあ、礼は別に尽くさなくっていいぜ。俺は今、正真正銘、庶人〔平民〕だし、平民生活長いから。『身分的目上に対して礼を尽くせー』なんて、今更堅苦し過ぎて逆に疲れるしさ」
「……証拠はあんのかい」
「何の」
「お前さんが、廃された大君様だっていう証拠さ」
シアは、呆れたように肩先を上下させる。
「あんたも見ただろ。この火傷の痕が証拠にならなきゃ、ないって答えるしかない」
立てた親指で胸元を示しながら、続けた。
「だけど、『実は永昌大君です、生きてましたー』なんて騙って、得があると思うか? 生きてりゃ大人しく江華島か、移配〔公的機関の都合で、流刑先を移動すること〕先の配所〔流刑先〕にいなきゃなんない身なんだぜ。素性が露見してみろ。即刻捕縛から流刑先に戻されるだけで済みゃまだマシなほうで、そのままあの世逝き、とか、シャレになんない結末だって待ってるかも知れねぇのに」
畳み掛けるように言い募る内、パンシクはさっきまでの飄々とした様子が嘘のように、静かにシアを見つめていた。が、やがて口を開いた。
「……なーるほどねぇ……」
クッ、と苦笑とも自嘲とも取れる笑いを漏らしたパンシクは、掌を額に当てた。
「確かに八年前、江華島から流れてきた情報があった。『都から流刑にされて来た幼い王子様のお住まいから火の手が上がった。お付きの女官や内官〔宦官〕たちは焼け死んだらしいけど、王子様のご遺体だけが見つかってねぇ』ってよ」
掌に顔を伏せたままのパンシクを、シアも凪いだ瞳で見つめる。
「そん時ゃあ、まさかとは思った。事実として残ってんのは、ご遺体がなかったってことと、それを調べに来た奴が何人かいたってところだけだ。つっても、王室のゴタゴタには違いねぇし、敢えて追跡調査はさせなかったんだが、まさかこんなところで真相と相見えちまうとはねぇ……」
クックッ、という笑いを合いの手に独りごちていたパンシクは、おもむろに顔を上げる。その表情は、真顔とも『無』そのものとも言える。
彼は、立ち上がって頭を下げると、流れるような動きで階段を示した。
「お引き取りくだせぇ、大君様」
瞬時、呆気に取られたシアは、次いで細めた目でパンシクを見た。
「それで道理が通ると思ってんのか? こちとら、心臓そのものを抉り出してくれてやるに等しい秘密、暴露したんだぜ。それも、あんたがどーっしても、って駄々捏ねるから」
「あっしが知りたいと申し上げたのは、お父上……いえ、イム・フィギルの死に関する事情のほうですが」
「俺の素性の暴露抜きに話せねぇから、前置きするしかなかったんだよ」
「つまり、大君様をお助けした為に、フィギルは殺されたと」
「結果的にはな」
またも、パンシクとの間に、沈黙が落ちる。が、再度の沈黙を破ったのも、彼だった。
「……大君様の素性と、フィギルの死の真相が、密接に絡んでるとなりゃ、確かに知りたいと申し上げたのはあっしということになりやしょう。大君様からすりゃあ仰る通り、こっちが大人げなく延々と駄々を捏ねまくったから、仕方なく教えてくだすったのに、知った途端掌を返したことも事実ですわ。しかし、あっしらはしがない商人。王室や両班の方々から見りゃ、ゴミ屑も同然です。そういった方々に関する情報は、嗅ぎ回っても、いいことなど一ッつもありやせん。たまたま知ったとしても、商品にはしないのが鉄則。知った途端、命がなくなるような情報は、そうと嗅ぎ取って手を出さないのもまた然り。ただ、残念ながら、今回は完全に見誤りやした。どうか、お察しくだせぇ」
シアはもう何度目かで呆れたような、それでいて諦念の気分で溜息を吐いた。
「……俺は基本的に、人がそいつの価値観で下した、自分の身を守る為の選択と行動を責めるつもりはねぇ。だけど今回の、あんたに限っては別だ。ここは商団の心臓部だから、口外しない確実性を見せろとか、それが無理なら勝手に嗅ぎ回るとか言われたら、俺にしてみりゃ刀の切っ先が喉元に迫ってるみてぇなもんだった。だから、俺の素性が商団全部に知れる危険より、あんた一人だけに漏れる危険を選んだんだ」
「大君様」
「悪いな。この部屋の秘匿性だけじゃ、俺の素性を知る対価としては安過ぎたんだよ」
冷え切った温度の声と流し目を、同時に投げる。その視線の先で、パンシクは、苦々しい表情で唇を噛んでいた。己の見通しの甘さを、心底悔やんでいるのだろう。
ただ、さすがにシアの倍以上の人生を、情報も切り売りするらしい商団の長として生きてきた男は、切り替えも早かった。
「……分かりやした。何をお望みで?」
「話が早くて助かる」
クス、と小さく笑いを漏らし、顎を引く。
「あんたにしてみりゃ、難しいこっちゃない。俺が知りたいことで、あんたが今知ってる限りの情報全部寄越せ。あと、着替え一式と刀一振り、ついでに湯も使わせてくれるとありがたいな。これで一切貸し借りなしだ。俺は二度とあんたに関わらない。コトが終わるまではな」
「コトが……とは」
「そこまであんたに教えてやる義務も義理もない。もっとも、俺が奴らにされた仕打ちを考えりゃ、俺が何しようとしてるかくらい、あんたには分かると思うけどな。それとも、はっきり確認した挙げ句に、今後も仲良く命懸けで俺と連むのが望みか?」
すると、パンシクは一瞬息を呑むようにして唇を噛む。が、すぐに「分かりやした」と答えた。
「ただ、念の為に確認させてくだせぇ。本当にこれで一切の貸し借りはなしなんですね?」
「ああ」
「命も免じていただけると?」
「今のところはな。但し、どこかから何か漏れたら、それはあんただと判断する。俺はあんた以外に、俺の素性を都では話してねぇからな。その時にあんたを殺したって手遅れも甚だしいけど、意趣返しくらいはさせてもらうから、そのつもりでいろよ」
温度の下がり切った目で見据えるが、パンシクは落ち着き払っている。
「では、すぐにあっしを殺さねぇ理由は何です? そのほうがずっと安全でしょうに」
その問いには、虚を突かれた。数瞬逡巡したが、結局「死人を増やしたくねぇんだ」と率直に答える。
「……死人を増やしたくない?」
眉根を思い切り寄せたパンシクが、鸚鵡返しに問いを重ねる。本気で何を言っているか分からない、と言いたげだ。そんな彼から、目を伏せるようにして逸らしながら、シアは言葉を探した。
「……どう言やいいか分かんねぇけど……他人の都合で人生強制終了させられる人間を増やしたくねぇんだよ。俺自身がそうだったから、被害者側の気持ちは痛いほど分かる。但し、斬り掛かって来る相手を返り討ちにするのは躊躇わねぇ。その場合、相手だってこっちを殺す気なんだから、お互い様だ。だけどそれ以外の場合は、必要だから即始末する、なんてことは、考えたくねぇんだ」
脳裏に、フィギルの最期と、自身がしようとしていることの矛盾性が、忙しく去来する。
「……俺の言ってる理屈が、ある意味で噛み合ってねぇのは分かってるよ。でも……」
たとえば、自分はなぜか、『兄王の地位の安寧の為』という、ただそれだけの理由で殺され掛けたらしい。それは、シアに言わせれば、人一人を殺す、正当な理由ではない。
「……とにかく……本人が全然納得できない理由で殺される奴を、俺自身の手で創るのは避けたいんだよ。あんたがこの説明で納得するかは分からねぇし、俺も言ってることが支離滅裂だって自覚はあるけど……」
今思っていることを、これ以外に言葉では説明しようがない。上手く言えない自分に、シアは焦れるしかなかった。
続く沈黙の重さに早々に耐え兼ね、下げていた視線をチラリとパンシクに向ける。
すると、瞬時唖然としていたパンシクは、やがてまた苦笑のような笑みを、その口元へ刻んだ。
「……分かりやしたよ。あっしの知る限りのことでよろしければお教えしやす。どうぞ、こちらへ」
「……本当に、いいのか」
あっさり情報を得られそうな流れに、覚えず反問してしまう。
パンシクも刹那、キョトンと目を瞠った。次いで、元通り苦笑を浮かべる。
「何て言うか……あまりにも大君様が素直でいらっしゃるんでね。これ以上は、こっちが大人気ねぇ意地悪してるみてぇだと思ったまでですよ」
一つ肩を竦めると、パンシクは先導するように地下室の奥へと進んだ。
かなり念には念が入れられているようで、隠し地下室の最奥の本棚を動かすと、隠し部屋の奥に更に隠し部屋があった。
そこは、手前の隠し部屋より若干広々としている。同じように本棚が乱立していたが、中央に広い空間があり、そこに広々とした机が置かれていた。椅子も、何脚かある。
「――で、大君様が知りたいってな、何の情報で?」
パンシクが本棚の側面へ設えられた蝋燭立てに立てられた蝋燭へ火を灯すと、薄暗かった室内が朱い明かりに浮かび上がる。
「朝廷の近況と……俺が癸丑の年に流刑にされた事件について何か知ってることがあれば。それと、当面の宿の確保ができれば頼みたいんだけど」
「心得やした」
パンシクは頷いて、蝋燭の一つを手に、いずこかへ姿を消す。しばらくしてから机のある空間へ戻ってきた彼は、片手に大量の書物を抱えていた。
それを机に置くと、パンシクは忙しく書物を開きながらシアのほうへ向ける。
「まずは、順を追って話やしょう。大君様が陥れられた件は、俗に『七庶獄事』とも呼ばれておりやす」
「七庶獄事?」
「はい。この辺は、王家のゴタゴタですから、あっしとしては先程も申し上げた通り、あまり深入りはしていやせん。よって手持ちの情報はないに等しいですが……管轄は義禁府でしたから、そこに行けば記録があるかも知れやせん」
義禁府とは、国事犯や、王族で犯罪を起こした者を、王命で調査、処罰する官公庁のことだ。
「分かった。その辺はこっちで何とかする」
「それと、宿とは関係ありやせんが、頼られるなら申翊聖様をお勧めしやすよ」
「えっ?」
目を瞬かせると、パンシクは無表情にシアを見つめ返した。
「東陽尉様――シン・イクソン様は、貞淑翁主〔※翁主=王の側室が生んだ王女〕慈駕〔降嫁した王女の敬称〕のご夫君で、遺教七臣の一人・申欽様のご子息ですがね。お父上と違って、義理と筋は通されるお方です」
東陽尉、とは、王女の夫としての呼称だ。
揀擇と呼ばれる、王族の伴侶選びの儀式を経て、王女と婚姻した場合、その男には『尉』の称号が与えられる。その『尉』の前の尊称は、各自で異なる。
「遺教七臣って?」
「大君様のあとをくれぐれもと頼まれた、宣祖殿下の七人の忠臣でさぁ」
宣祖は、シアの実父で、この国の先代王だ。
「実は、四年ほど前に、西宮様の廃位のことで、朝廷で議論が開かれやしてね。今、その議論は戊午庭請と呼ばれておりやすが」
「西宮?」
シアは眉根を寄せた。すると、パンシクは「ああ、失礼」と言って一つ咳払いを挟んで続ける。
「西宮ってぇのが、王室の別宮である慶運宮の別名だってぇのは、大君様もご存じでしょう。今は、廃位された大妃様のお住まいであり、かのお方の呼び名になっておりやす」
「廃位されたって……母上がか!?」
質す声が、覚えず頓狂なものになる。
シア自身が失脚した事件――七庶獄事という名が付いていると分かった事件の余波で、親類に何かしら、累が及んだのではという懸念はあった。だが、いくら何でも王の嫡母〔側室の子から見た、父親の正妻〕たる母が廃位にまでなっているとは思っていなかった。
パンシクは、シアの動揺に頓着なく「左様で」と頷いた。
「その時、東陽尉様は庭請に参加するよう脅迫半分強要されたそうですが、『正しいことをして処刑されるなら、それも本望』と仰って、敢然と拒否なさったと聞いておりやす」
その妻たる貞淑――シアの異母姉の一人である李明稀も、大概そういう真っ直ぐバカな性格だったはずだ。図らずも似たもの同士で夫婦になったわけだと思うと、何だかおかしかった。
「それで、今イクソン義兄上はどうされてるんだ?」
「未だ無期限謹慎を申し付けられて、自宅にお籠もりのはずでさ。当時、本人の希望通り処刑してやれって過激な意見は、大北派〔当時の与党〕からは上がったそうですがね」
「大北派って?」
「朝廷にある党派の一つで、今は筆頭でさ。で、東陽尉様については、殿下が『駙馬だから』という理由で退けられたとか」
駙馬とは、王女の夫のことだ。
「……わけ分かんねぇ……」
目眩を覚えて、溜息と共に片掌へ顔を埋める。
片や、血の繋がった弟でもないのに、『妹王女の夫だから』という理由で助命したかと思えば、片や、腹違いとは言え血の繋がった弟だというのに、流刑にした挙げ句に暗殺しようとする。
光海兄の考える処罰の基準が、本気で分からない。一体、何を考えているのだろうか、あの兄は。
「……ところで姉上……貞明姉上がどうされてるか、あんた知ってるか?」
母が、先王の正妃でありながら廃位されたことは、はっきり言って、『孝』を大切にする儒教国家である朝鮮の王室に於いては異常事態だ。だからこそ、イチョムたちの横暴を兄王が目こぼししていたとしても、そこまで許容すると思っていなかった。
だが、その暴挙が許されたとなれば、シアにとって唯一の同母姉である貞明が、無事で済んだとは考え難い。
「公主様は庶人にまで降格されて、西宮様と一緒に慶運宮にお住まいでさ」
パンシクは、ある意味予想通りの答えを口にした。
舌打ちが漏れそうになって、危ういところで呑み込む。代わりに、唇を噛み締め、拳を握り締めた。
どうしてそこまでするのかは分からないが、イチョムは徹底して、シアの直接の血縁を潰しに掛かっているらしい。
(どうしてそんな……てめぇら、どこまでやれば気が済むんだよ!?)
知った以上、母たちの安否が急に気になり出した。
言い掛かりとは言え、罰則として降格されたのだ。であれば、住居こそ王室の別宮だとしても、今まで通りの優遇された、王族としての生活をしているとは思えない。それどころか、平民としての普通の生活すら、できているかどうか。
(くっそ……!)
無意識に側頭部を掻き上げて、苛立った溜息を漏らす。
(どうする……どこから手を着ければ)
落ち着け、と自分に言い聞かせながら、シアは深呼吸した。
事態は手に余っている気がしたけれど、頼れる人間はいない。何がどうでも、自分一人で片付けなくてはならないのだ。
「……悪い、パンシク。もう一つ、追加だ」
「何でしょう」
「即刻、慶運宮に潜り込める伝手はあるか」
「……まさか、西宮様方を救い出すおつもりで?」
「必要ならな」
躊躇いもなく言い放つ。
何よりもまず、母たちの現状を把握したい。それには結局、最初に慶運宮に入るよりほかに手はなかった。
「残念ですが、直接、しかもすぐに慶運宮に潜り込める伝手はありやせん。あそこも王室搦みですし、気を悪くしねぇで聞いて欲しいんですが、今の朝廷の現状では、取り入っても商団に百害あって一利なし、の場所ですから、最初から道筋は作ってやせん。ただ、潜り込める伝手のある可能性が高い所を一つ、ご紹介することはできやす」
「ホントか」
「はい。但し、あくまでも可能性です。そこへ入り込んだら、あとは大君様のやり方次第。そこから先は、あっしも面倒は見れませんが」
「構わない。……ありがとう、恩に着る」
顔を上げると、虚を突かれたようなパンシクの表情に行き当たる。
「……何だよ」
「……いや。宿はこれで解決でよろしいでしょうか」
「ああ」
「では、あとは着替えと刀一振りですね。それと風呂と……以上で、ご用命はすべてですか」
ここを出たら、恐らくもうパンシクを頼ることはない。このあとも、そうしょっちゅう訪ねることは、いずれパンシクをも巻き込むことにもなり兼ねないからだ。
シアは、焦る気持ちを捩じ伏せ、脳内を探る。
「……多分、もうねぇと思う。思い出してもあとは自分でどうにかするから、追加で訪ねることはないと思ってくれていい」
「左様ですか」
パンシクは、どこか寂しげに微笑すると、「当商団のご利用、まことにありがとうごぜぇやした」と言って、頭を下げた。
©️神蔵 眞吹