第七章 トン商団
どのくらいの間その場で泣いていたのか、シアには自覚がない。泣き過ぎて頭が割れるほどに痛くなった頃、パチンッ、と何かが爆ぜるような音で、現実へと引き戻された。
ぼんやりと顔を上げた直後には、ギクリと身体が強張るのを感じた。
目の前には、朱い海ができつつある。すっかり陽が暮れた、深い森の中であるにも拘わらず、そこは真昼のような明るさだ。
とっさに父――フィギルを、助けを求めるように見てしまう。
多分、まだ逃げられなくはない。自分一人なら――しかし、フィギルを置いて行くのは躊躇われる。
せめて埋葬する暇があれば、と思うが、それも敵わないだろうことは、理性では分かっている。けれど、そうこうする内、頬を濡らした涙が、いつの間にか乾いているのに気付く。この場に留まることができる、限界が迫っている。
改めて、フィギルを見下ろした。
安らかな死顔が、今のシアを余計に追い詰める。猶予は、最早一刻もないというのに、それでも離れ難い。
だが、今ここで自分が死んだら、それこそフィギルは犬死にになってしまうのではないか。ふとそんな考えが浮かび、背筋に何度目かで冷えたものが走る。そんなことになったら、あの世に往っても彼に合わせる顔などない。
キュッと唇を噛み、手を握り締める。せめて、フィギルを担いでいける腕力があればと思うが、どうしようもなかった。
(……父さん……ごめん)
名残を惜しむように、もう一度だけフィギルにしがみつく。まだその身体が温かいような気がした。ただ、周囲の熱と混ざって、判断は付かない。
「……俺も……大好きだ、父さん……!」
口に出せばまた、際限なく涙がこみ上げる。
けれども、涙が涸れるのを待つ余裕など、もうない。歯を食い縛り、未練を振り切るように、シアはその場を駆け去った。
止まらない涙に往生しながらも闇に目が慣れた頃、シアは駆ける速度を緩めて後ろを振り返る。
もう大分遠退いたが、朱く揺れる炎が、森の木々に埋まるようにしてチラチラと見え隠れしているのが分かる。
知らない間に、踊る炎の周辺に多勢の人が集まったのか、かすかな喧噪が風に乗って耳に届いた。人が来たのなら、これ以上の延焼はひとまず避けられるだろう。
濡れた頬を擦って拭い、シアはその場にあった木に沿って、ズルズルと座り込んだ。
***
『――どうしたんだ、シア』
幼い頃、記憶を失くした心細さから、シアはよく泣いていた。
『父さん……おれは本当に、父さんの子だよな?』
『もちろんだよ。どうしてそんなことを訊くんだ?』
『覚えてなくて……思い出せなくて』
それが怖い、と訴えると、父は決まって、困ったように微笑んでいた。
大丈夫だ。いつか必ず思い出せる。
そう言いながら、そっと抱き締めてくれた温もりがなぜか、この日に限って、涙腺を余計に刺激する。
今思えば、彼はその日が遠いことを願っていたかも知れない。けれど、それでも彼は、シアを実の息子として慈しんでくれていた。
(父さん……俺は、本当に父さんの子だよな?)
同じ問いを繰り返して、顔を上げる。
その顔は、いつしか父のそれから、あの男の凶悪な面に変貌していた。
***
「――――ッッ……!」
ビクッ、と身体が震える。いつの間にか、ウトウトしていたようだ。
辺りはすっかり明るくなっていた。
シアが座っていた場所は、木々の切れ間で、ちょうど東側だったらしい。昇ったばかりの朝陽に軽く射られ、シアは反射的に目を細めながら手で庇を作った。
明るさに目が慣れた頃、昨日、あとにして来た方角へ、そうするともなく視線を向ける。白い煙が、うっすらと立ち昇っているのが分かる。
それがまるで、死したフィギルが天へ昇る様にも見えて、否応なく鼻筋の奥が痛んだ。
性懲りもなくこみ上げる涙に往生しながら、瞼を閉じて吐息を漏らす。
頬を転がった涙を乱暴に拭って、目を開けた。
(……とにかく……そろそろ、動かねぇと……)
いくら森の途切れ間とは言え、うっかり寝入って野生動物の餌食にならなかったのは、奇跡としか言い様がない。
それに、いつまでもここにいるわけにはいかないし、座り込んでいても事態は変わらない。
ただ、尚も別れを惜しむように、フィギルの遺体を置き去りにして来たほうへ目を向けると、彼の最期の言葉が強制的に脳裏に蘇る。
『――愛してる。お前は、自慢の息子だ』
「……バカヤロ……ッ」
せっかく拭った涙が、際限なくまた頬を濡らす。
(自分だけ言い逃げしやがって、クソ親父が……)
歯を食い縛っても涙だけは止めようがない。
(何で、俺の気持ちは聞いてくれないんだよ。俺だって……)
フィギルを父として慕っているのに。
たとえ、彼がシアを殺害するよう江華島へ報せを届けた張本人だとしても――それを、ほかでもない本人の口から聞いたのに、彼を憎む気持ちには到底なれなかった。
『どうか、お赦しください。わたくしたちは、国王殿下の御為とは言え、あまりにも酷なことを大君様に強いようとしました。まだ幼いあなた様に、殿下の地位の安寧の為、死んでいただきたい、など……』
(殿下――兄上の、為に)
だとしたら、きっとシアの命を絶つことは、フィギルの本意ではなかったのだ。
一度はシアを殺す策謀に荷担しながら、結局彼がシアを助け、ここまで育ててくれたことからも、それは明らかだ。
(それに……)
彼に娘がほかにも何人かいたのか、男女問わず、子どもがその娘以外にいたのかはもう分からない。
ただ、子がいるということは、当然妻がいるということだ。
一時の情に絆されて、シアを助けたばっかりに、フィギルは家族を捨てざるを得なかった。家族に自身の安否を報せることもできず、ただシアを守り育てることにその後の人生を費やした。
それで充分すぎるほど、フィギルはシアに対して償っている。どうして、これ以上彼のしたことを責められようか。
『都に、どうか近付かれませんよう……あなた様が生きていると知れば、きっとまたイ大監は狙って参ります』
(イ――イチョム)
ふと、その名を胸中で繰り返す。
(そいつが……俺を殺そうとした男)
無意識に眉根にしわを寄せる。
つまり、江華島を出たあの日から、いや、それよりもずっと前から、本当に追われていたのはフィギルではなく自分だったのだと、今更ながらに悟る。
だが仮に、イ・イチョムがシアを殺そうとした動機が王の為だとしても、なぜシアを殺すことが王の為、つまり王の地位の安泰となるのか、という疑問が浮かんだ。
シアの兄弟姉妹は、早世した者を含めると、全部で二十九人いるのはシアも知っている。
その中で、シアは下から二番目だ。王子だけだと十四人だが、それでも同じである。
シアが生まれた時、すでに三十一歳だった兄は世子〔皇太子〕の地位にいた。いくら何でも、とても兄王の脅威になる生まれ順ではないだろうに、なぜ――
食い入るように立ち昇る煙を見つめ、懸命に目で問うても、もう答えが返ることはない。ほかのどんな問いにも、それどころか他愛のない会話でさえ、もう二度と永久に、フィギルが答えてくれることはないのだ。
「ッ……」
唇を噛み締めるようにして、漏れそうになる嗚咽を必死で堪える。それでも、目から水分が溢れるのを制御できない。
昨日、頭が割れるくらい痛むようになるまで泣いたのに、まだ泣くことができるのかと思ったら、何だかおかしかった。
(父さん……ごめん。父さんの遺言には従えない)
都に近付くなというフィギルの警告を、シアは敢えて無視することに決めた。
イ・イチョムという男が、どうしてシアの命を絶とうとしたのか。それが果たして、兄王の思惑も絡んでいるものなのか。その結果、まだシアが命を狙われ、フィギルまでが死ななくてはならなかった理由を、知らないままでいるわけにはいかない。
加えて、相手の思惑も知らずに逃げ続ける生活は、たとえフィギルが生きていたとしても破綻が近かっただろう。
それに今は何か目的がなければ、生きることすら簡単に放棄できそうだった。誰の目も気にしなくていいこの場所で、できることなら始末なく、いつまでだって泣いて過ごしたいとすら思う。泣く以外に、今やりたいことなんてない。
けれど、そうしてしまったら、本当にフィギルは無駄死にになるのではないかと思える。それが、何よりも怖い。
(その代わり……絶対に、生き延びる)
脳裏でポツリと呟いた。幾度目かで頬を拭って、腰を上げる。
(生きる為に、手段は選ばないから……だから、赦してくれ。父さんの、最期の望みに背くことを)
決然と顔を上げたシアは、身体ごと、フィギルの遺体があった方角へと向いた。そして、左手を上に重ねた両手を胸の高さに上げ、膝を突く。上体を深々と屈め、手の甲に額を付けてから、上体を起こした。右足から元通り立ち上がり、手を腹部の辺りで揃える。
男性としての拝礼を終え、顔を伏せると、また一つ、透明の滴が頬を転がった。
濡れた頬を拭う動作を繰り返し、目を瞬く。深呼吸をして、未練も悲しみもその場へ振り払うと、シアは右手へ視線を投げた。
今、シアがいるのは、切り立った崖のような場所だった。あと数歩でも前へ歩めば、投身自殺が叶いそうな高さである。
下を見下ろせば、道があるのが分かった。
夜が明けて間もない所為か、人通りはない。だが、道があるということは、そこを使う人間が少なからずいるということだ。どこか、下りる道を探して左右どちらかへ進めば、人里に出られるだろう。
シアは、もう一度だけチラリとフィギルの眠る方角へ視線を投げた。
ここを立ち去るのは、もうやぶさかではない。何とか、気持ちは吹っ切れたと思う。けれど、今のシアは丸腰だ。
先刻、あの大刀使いの男――イ・ヂョンピョに刀を捨てさせられたことをすっかり忘れ、迂闊にも探すこともせずにここまで来てしまった。
刀を探しに戻ってもいいが、余計な人目に付く可能性のある行動は、今は避けたい。
それに、と自分の身体を見下ろす。まるっきり、強姦に遭い掛けたあとの様相で、胸元が晒け出されている。考えた末に、チマを外して頭からかぶり、下る為の道を探す為に足を踏み出した。
***
どうにか人里に下りたあと、最初に目に付いた民家から、上衣だけをひと揃い、無断借用した(と言っても、返す当てはないが)。
それで身支度を整えたのちに、規模が大きめの店幕〔民間の宿屋〕を見つけ、行商人が通るのを待った。規模が大きいということは、無断でそこの従業員として紛れ込んでも、簡単にはバレない。
接客をする振りで商団や都へ行く人間を見定め、護衛として雇ってもらいたいと直談判した。
ただ、扮装は相変わらず女装のままだった。追っ手の様子が分からないし、『永昌大君』が生きていると考えている連中がいるかも知れないことを加味すれば、まだ女の振りをしているほうがいいと思ったからだ。
その上、自慢ではないがこの容姿だ。チラリとよぎった嫌な予感通り、初めはにべもなく断られた。
「ならば、試験をしてください。それでお気に召さなければ、潔く身を引きます」
と言ってもせせら笑っていた商団の男だが、強引に外へ連れ出して挨拶代わりに放り投げてやると、態度が若干変わった。
仕返しとばかりに突進して来た男を、素手で薙ぎ倒してやると、あっさりと及第した。もっとも、シアを雇うと決めたのは、その男ではなく、俄に始まった対決を見ていた、商団の行首だったが。
シアは最初、「都まで一緒に行ければそれでいい」とだけ頼んだ。が、行首は「それは報酬ではない。力に見合う対価を払うのが自分のやり方だ」と言い、都へ着いて商団を辞す際には、数日商団の仕事をしていた相応分の謝礼をくれた。
多分これでは、刀の新調代には遠く及ばないだろうと思いつつも、数日分と少しの宿を取るには足りる金額に感謝し、その商団に別れを告げた。
目的の、トン商団へ辿り着いたのは、その微々たる資金が底を突く寸前のことだった。
都の郊外、西大門市場近郊にある『トン商団』の幟旗は、何年か前にこの商団を辞した際に見ているので間違いない。ホッと安堵の息を吐いたが、次の瞬間にはもう不安が襲っている。
何しろ、トン商団と別れたのは、シアが十三の時だ。十六になったと言っても、あまり容姿は変わっていないだろうとは思うが、人によっては驚くほど面変わりする者もいないわけではない。
シアにとっては、自分の顔は鏡などで時折は目にするもので、そうすると、丸三年見なかった人間の目線とは印象が違うだろう。
とにかく階段を登り、開きっ放しになっている商団の正門を潜る。
時刻は未時の初刻〔午後一時〕頃ということもあり、敷地内には疎らに人がいた。
「――あの」
すぐ傍を通り掛かった、女性に思い切って声を掛けると、振り返った女性は目を見開いた。
「え、もしかして……シア?」
「え、あ、はい……あの」
幸い、相手はすぐにシアを思い出してくれたようだったが、シアのほうではまるで記憶がない。
急いで記憶の引き出しを開け閉てするが、焦っている所為か、中々目の前の女性と結び付く名前が出て来ない。
すると、女性は苦笑と共に、シアへ歩み寄った。
「覚えてないかも知れないわね。私、陳美宙というの。久し振りね。それに随分綺麗になって」
「あ、……すみません、あの……ご無沙汰しております」
チン・ミジュと名乗った女性に、ひとまず頭を下げて挨拶する。
「あの……行首様は今いらっしゃいますか?」
問うてから、いないかも知れないと思い至り、シアは内心で臍を噛んだ。ここは商団の拠点で、謂わば定住の本店のようなものだが、行首が自ら行商に出ない理由にはならない。
どうしてその可能性を考えなかったのかと、今更ながらに自分を殴りたくなる。あれから随分冷静になったつもりだったが、頭が回っていない部分があるということは、フィギルを失った動揺はまだ続いているのだろう。
だが、ミジュはニコリと微笑んで「ええ」と、幸いなことに肯定の意を示した。
「いらっしゃい。多分、執務室においでだから」
彼女はきびすを返そうとして、ふとシアに目を留め、眉を顰める。
「……何か」
「……こっちの台詞よ。何かあったの? ひどい格好だし……お父様は? ご一緒じゃないの?」
シアは、息を詰める。
父のことを話すには、やはりまだ時が足りないようだ。
「……少し……事情がありまして」
硬い声で、それだけやっと告げると、ミジュはそれ以上詮索せずに、今度こそきびすを返した。
シアを先導したミジュは、ある棟の前で足を止めた。彼女は靴を履いたまま階を上がり、「行首様」と声を掛けた。
上がり切った所にある扉は開け放たれ、室内中央には広い机が設えられている。
机の上には雑然と、巻物や冊子のような書類が置かれ、向かって左端の椅子に、がっしりとした体型の男が座っていた。
逆三角形の輪郭に太い鼻筋が配され、鼻先は逆三角形に尖っている。六十前後の年頃に見合った皺が目元と口元に刻まれ、薄い髭が申し訳程度に生えていた。
大雑把に頭頂部で結い上げられた髷はボサボサで、纏まり切らない短い髪がピョンピョンと飛び出ている。額には幅布〔鉢巻き〕が巻かれていた。
商団の行首と言えば、両班と同じように絹の普段着を身に纏い、頭には笠と呼ばれる鍔の付いた円筒状の帽子をかぶっている者も少なくない。規模が大きめの商団であれば、行首は格好だけでは両班と区別が付かない者も多い中、この男はその気になればすぐにでもゴロツキの世界へ行けそうだ。
声を掛けられた男――董邦植は、うっそりと目を上げる。そして、丸い目元に縁取られたその目を、ミジュに向けた。
普通の女性なら、おののいて後退りするだろうが、ミジュは頓着することなく続けた。
「行首様。面会です」
「面会だ?」
「シアですよ」
ミジュが、シアのほうを振り返る。シアは、黙って会釈した。
ミジュには(彼女には本当に申し訳ないことに)覚えがなかったが、パンシクとは父と度々やり取りがあったので覚えている。パンシクのほうも同様と見え、シアを目にした途端、その目を大きく瞠った。
「では、私はこれで」
この場で用のない者に長居は無用とばかり、ミジュは一礼してその場をあとにする。
それを見送ったパンシクは、シアに視線を向けた。
「驚いたな。久し振りだ。元気にしてたか」
「はい。行首様もご健勝のご様子、何よりです」
小さく会釈すると、パンシクはまたも息を呑むように一瞬沈黙した。
「……何か」
先程、ミジュに言ったのと同じ言葉を発すると、パンシクもまた「ひでぇ格好だな」と痛ましげな表情で呟いた。
ミジュやパンシク曰くの『ひどい格好』という評も、当然だ。
フィギルが亡くなってからこっち、碌に湯も使えていない。特に、都へ着いてからは着た切り雀だったので、着衣も相当汚れているはずだ。
「何があってぇ。親父さんはどうした」
父のことを問われると、やはり瞬時、息が詰まる。だが、ここへはパンシクを頼りに来たのだ。さすがに、ミジュにしたのと同じ沈黙を守るわけにはいかない。
軽く深呼吸して、脳内をできるだけ空にするように努めながら口を開く。
「……亡くなりました」
「何? 亡くなった?」
「はい」
「いつのことだ」
「……半月ほど前でしょうか」
何しろ、都へ来る用事のある商団へ辿り着くまでに、数日要したのだ。更にそこから都まで、十日ほど掛かった。
単純計算で恐らく半月経っている(と思う)のだが、もうずっと遠い昔のような気がする。
パンシクは、しばらく眉根を寄せてシアを眺めていた。が、不意に立ち上がり、それまで座っていた椅子の背後にあった扉を開ける。
「入んな。ちっと込み入った話になりそうだ」
©️神蔵 眞吹