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第六章 喪失

 地を這うような粘着質な声音に、身体が地面へ張り付いたような錯覚に陥る。

 シアにとって、これまでフィギルが、この世で最強の男だった。敵が何人いても、何とかして切り抜け、生還できてしまう。

 これまでそういう場面を何度も見て、一緒にくぐり抜けてきた。

 けれど、今目の前では、フィギルがイ軍士に馬乗りに組み敷かれ、状況を打破できずにいる。

 フィギルも平均よりは大柄だが、それと同等の体格を持つ男は、フィギルを簡単に押さえ込んでいるように見えた。

 イ軍士クンサの左手が、フィギルの喉元を締め上げている。空いた右手に握られた短刀の切っ先は、彼の心の臓の上にピタリと当てられていた。

 右足の膝はフィギルの鳩尾に食い込み、左足はフィギルの右腕前腕部を地面へ押し付けている。

 フィギルは自由な左手で軍士の腕を掴み足をばた付かせ、全力で相手を引き剥がそうとしているようだが体勢が悪すぎる。苦しげな顔をこちらに向けたフィギルが唇だけを動かした。

『私に構うな、逃げろ』

 読み取れた言葉に、シアは小さく首を振る。

 できるわけがない。

 確かにフィギルは実父ではないが、これまでシアを実の子同然に育て、時に厳しく鍛えてくれた。シアにとっては、もう一人の父だ。

(……しっかりしろよ)

 自分に言い聞かせながら、瞬時目を伏せる。軽く深呼吸して、上げた目をイ軍士に向けた。

「……何が望みだ」

 腹に力を入れながら、軍士に問う。

 ここからは、シアだけで闘わねばならない。フィギルを――()を救えるのは、自分だけだ。

 すると、イ軍士は油断なくフィギルを押さえ付け続けながらも、ニヤリと唇の端を吊り上げた。

「物分かりがいいな。まずはその手に持った刀を捨てろ。遠くにだぞ」

 ゴクリと唾を飲み込む。ユルユルと相手を刺激しない速度で立ち上がりながら、刀を相手の要求通り放り捨てた。シアの手を放れた刀は、ガサガサッ、と葉擦れの音を立てて茂みへ飛び込む。

「……よし。ゆっくりこっちに来い。それからその上衣チョゴリの前をひらいて見せろ」

 息を詰めた。

 もし、ここで本来の性別がこの男に露見したらどうなるのか、シアには想像する材料が少なすぎる。あまりありがたくない展開になるのは、間違いなさそうだが。

(どうする)

 裂かれた上衣の前を無意識に掻き合わせながら、ジリッと後退あとじさるように足を後ろに引く。

 しかし、早くもイ軍士クンサれたのか、フィギルに押し当てた短刀の切っ先を食い込ませた。

「どうした。親父がどうなってもいいのか」

「……ッ、ァ……!」

 フィギルがどうにか絞り出すように名を呼んで、小さく首を振る。

 来るな、という意味だ。それは分かるが、イ軍士との『取引』を今ここで中断するわけにはいかない。

 逃げるなど論外だ。

 今きびすを返せば、次の瞬間フィギルかシア、どちらかが死ぬことになる。

 この距離なら、背中を向けたシアに、あの男は躊躇うことなく手にした短刀を投げ付けるだろう。そして、その攻撃を外すことはあり得ない。邪魔が入らなくなれば、フィギルも程なく――そこまで考えて、シアは覚えず首を振った。

(落ち着け、まだ生きてるだろ、俺も……父さん(・・・)も)

 唇を噛み締め、前を――軍士を見据える。

 彼に真の性別を晒したあとどうなるかは、シアとフィギルが共に助かってから考えればいい。

 詰めていた息を吐き出しながら、足裏に地面を掴むようにして、軍士とフィギルのもとを進める。

 二人の一間いっけん半〔約二・七メートル〕ほど手前でその足を止めると、軍士は「早く前をけて見せろ」と顎をしゃくって催促した。

 どこか、切り込む隙でもあればと相手に悟られないように観察するが、そんな隙は微塵もない。

「早く!」

 他方、苛立ったイ軍士は、短刀でフィギルの頬を容赦なく裂いた。

 心臓の上から短刀が動いたことで生まれた隙に、フィギルは自由の利く左手でイ軍士の短刀を持った右手首を鷲掴わしづかむ。

「チィ……ッ!」

 思わぬ反撃に、イ軍士はフィギルに向き直らざるを得ない。右手首をフィギルの手からもぎ離そうとした所為で、彼を押さえ付けていた箇所は自然、おろそかになったようだ。

 拘束も弛んだわずかな隙に乗じたフィギルは、掴んだイ軍士クンサの右手首を力任せに捻ろうとした。とっさのことで、イ軍士も自身を守ることを優先したのか、フィギルの上から完全に退いて、右手首を取り戻そうとする。

 透かさずシアも、周囲に目を走らせた。倒れた兵士たちが落とした弓矢に飛び付いて拾い、矢をつがえる。

 その直後、勢い余ったのか、フィギルがイ軍士を押し倒した。もつれ合った二人は地面へ転がる。

 呻くような、くぐもった悲鳴を上げたのはどちらだったのか。

 一拍のののち、上にかぶさっていたフィギルが地面へ転がる。明らかに自発的にではなく、下から撥ね退けられてそうなった動きだ。

「ッ、あ……」

 短く漏れた声が、シア自身が発したものか、フィギルのそれかは判断が付かない。

 ただ、松明の薄暗がりで、仰向けに転がったフィギルの胸部に、短刀のが生えているのが、嫌でもはっきりと確認できた。

 父さん、と呼ぼうとするも、舌が凍り付いてしまったように声がうまく出ない。瞬間、ゾクリと背筋をなぞり上げた寒気に、シアはその発信源に目を向けた。

 視線の先では起き上がったイ軍士が、ねっとりとした笑みを浮かべ、腰を落としている。

 考える暇も、フィギルに駆け寄る隙もなかった。つがえていた矢を、相手の胸部へ向けて放つ。しかし、イ軍士はそれを素手で払うようにして叩き落としながら、フィギルの胸部から短刀を引き抜き、シアに向かって地を蹴った。

 次の矢をつがえようにも新しい矢はない。

 かと言って、武器を捜す為に、迫り来る相手から目を離す余裕もない。振り下ろされる短刀を必死で横様に転がって避ける。

 その先に、すでに倒した兵士の使っていた刀が運良く落ちていたのを、拾いながら立ち上がる。

 身構え直した時には軍士は目前に迫っている。今度こそ避けるもなく、蹴り飛ばされる。

 相手の蹴りに合わせて後方へと飛んだが、威力を殺すこと程度の意味しかなかった。

 吹っ飛とばされた先にあった木の幹に否応なく叩き付けられ、息が詰まる。

 歯を食い縛りどうにか顔を上げた時には、まさに目と鼻の先に短刀の切っ先が迫っている。

 鼻筋に刀を吸い込むのをギリギリで回避したシアの左頬に、刀の刃が滑る。先端は、勢い余る形で木の幹に突き立った。

 軍士クンサいた左手で、引き裂いてあったシアの上衣チョゴリの袷を乱暴にひらく。

「ッ……!」

「やはり男……! お前、イ・ウィだな?」

 晒された胸板を見てニタリと笑った顔は、我が意を得たりと言わんばかりだ。

「……そんな名前は知らない」

 低く返したシアは、握ったままだった長刀を、相手の脇腹へ突き立てた。

「ガッ……!」

 目を見開いた軍士の身体を、突き立てた勢いそのまま刀ごと薙ぐようにして自分の前から退けると、あとも見ずにフィギルのもとへ走る。

「父さん! 父さん、起きられるか!?」

 その頃にはフィギルは身を縮めるようにして、何とか四つん這いの状態にまで起き上がっていた。

 しかしその右手は胸の傷を握り込むようにしてあてがわれ、返事の代わりに咳き込んだ口からは、血としか思えないモノが吐き出される。

「父さん!!」

「……い、から……逃げろ、早く」

「置いてくわけにいくかよ! 何とか立ってくれ、早く!」

 フィギルの左手側に、シアは自分の身体を潜り込ませるようにして立ち上がらせようとする。フィギルとシアとでは体格差がありすぎて、果たして支えになれているかも定かではない。

 どうにかフィギルが立ち上がったと思えた時、前触れなく背後から抱き締められる。直後、フィギルの身体がビクリと小さく震えた。

「父さん!?」

 フィギルに抱えられるようにしてくるみ込まれているシアには、何が起きているのかまったく掴めない。

 呼び掛けに、フィギルは答えなかった。無言のまま、シアの身体を今度は突き飛ばす。

 否応なく地面へ転がったシアは、夢中で顔だけを背後へ巡らせた。

 そこここに散らばる松明の薄明かりが浮き上がらせた逆行の中、フィギルが自身の左腰の辺りから、何かを引き抜くのが見える。

 それを彼が右手へ持ち替えた時、銀色にはじかれた光で刀だと分かった。

「ギャッ……!」

 悲鳴を上げたのは、フィギルかイ軍士クンサか。

 妙にゆっくりとした動きで、フィギルは更に一歩前へ踏み出す。やがて、そののろい動作のまま、彼が向こう側へ倒れ込んだ。

「ッ……父さん!」

 再度、二人がもつれ合って地面へ転がった瞬間、シアはフィギルに駆け寄る。

 必然、一緒に確認することになったイ軍士のほうは、目と口をカッと開いていた。口の周りには、血が幾筋も伝っている。その胸には、フィギルの持っていた刀が深々と突き立っていた。

 イ軍士の上へのし掛かっているフィギルも動かない。

「父さん!」

 シアは懸命にフィギルの身体を持ち上げようとするが、絶対的な体格差が、思うようにさせてくれない。

 どうにかひっくり返すのが精一杯だ。

「父さん! 父さん!」

 薄明かりの中、目を凝らす。右の胸部がぐっしょりと濡れそぼり、浅い呼吸で上下しているのが分かる。

(早く……早く、手当しねぇと)

 唇を噛み締め、フィギルの胸元を露出させる。溢れた血で、傷口がよく見えない。

「歩けるか、父さん。どこか……川で血を洗い流して……」

 いや、その前に止血だ。

 動転する思考をどうにか落ち着かせようとしながら、シアは自身の身に着けていたチマを裂こうとした。だが、その前に手首をフィギルに掴まれる。

「父さん?」

「……もう、いい……私は、もう、……助からん……」

「何言ってる!」

「聞け、シア……いや、お聞き、ください……大君テグン、様」

 シアは瞠目し、息を呑んだ。

 薄目を開いてはいるが、フィギルの視線は今や定まらず、宙をさまよっている。

「……覚えて……おられぬ、でしょう、が……あなた様は……永昌ヨンチャン、大君様……です……先王殿下、の……唯一の、ご嫡男……」

「な、にを」

 何を、言おうとしているのか。問おうとして消えた言葉尻を単純な疑問と捉えたのか、フィギルは縋るように、シアの手首を掴んだ手に力を込める。

「おゆるし、を……あの日……あの日、大君様を、しいし、たてまつるよう、江華島カンファドめいを届けた……のは、……わ、わたくしで、ございます」

「何……」

 まさか、その命を下したのは『兄』だろうか。シアにとって腹違いの兄であり、現国王である光海君クァンヘグン、ことイ・ホン――

「じゃあ、何で……何で、俺を助けた」

 それまでの説明をすんなり受け入れているシアの反応に、矛盾を感じる余裕もないのか、フィギルは言葉を継ぐ。

「放って……おけなくて」

「は?」

「助けを……呼ぶ、あなた様の声が……燃える、家の前から、立ち去ろうとしても……耳から、離れなかった……大妃テビ〔皇太后〕様や……貞明チョンミョン公主コンジュ〔※公主=王の正妃が産んだ王女〕様を、呼んで泣き叫ぶあなた様の、お声が……同じ年頃の、我が娘の、それに思えて……」

 大妃はシアの生母、貞明公主はシアの同母姉だ。

「……娘が……いたのか」

 先刻、イ軍士クンサが、『もう一人娘がいたとは知らなかった』と口走っていたのをふと思い出す。

「お赦し、を……どうか」

「もういい、喋るな。続きはあんたが快復したらゆっくり聞く」

「都に……どうか、近付かれませんよう」

「父さん」

「あなた様が……生きている、と知れば……きっとまた……大監テガムは狙って……参り、ます」

「イ?」

 反射で、すでに事切れているイ軍士に目を向ける。彼もイ姓だから、彼のことだろうか。

 もっとも、この国で『イ』というのはありふれ過ぎている姓だ。ちなみに、王室もイ氏である。

 ただ、大監というのは、十八段階ある品階の中の上部、従二品チョンイプムより上の品階にある高官を呼ぶ際の敬称だ。

 最下級、従九品チョングプムの軍士には似つかわしくない敬称だが、深手によって判断が付かなくなっているのか。

「……あの男なら、もう死んでる」

 安心させるように言うが、フィギルは必死でかすかに首を横へ振った。

「違う……イ大監は……イ・爾瞻イチョム大監は……」

「イ……イチョム?」

「その、男は……軍士、は、イ・廷彪ヂョンピョ……かつて……あなた様を、焼き殺そうと図った時、共に、その場に……」

 シアは何度目かで目をまたたく。

 フィギルは、己を奮い立たせるように再度、シアの手首を握り締め、うっすらと笑った。

「……もしかしたら……ほかにも、あなた様、の、生存を、疑っている、者が、いるかも、知れない……ですが……おのが、失策の、一端は、これで……清算、できました」

「父さん」

「どうか……お赦し、ください。わたくし、たちは、殿下の御為おんためとは、言え……あまりに、も、酷なことを……大君テグン様にいようとし、ました……まだ、幼いあなた様、に、……殿下の、地位の安寧の、為……死んで、いただきたい、など……」

「父さん、もういい。もう手当しないと」

 手首を握ったフィギルの手を、手当の為に解こうとすると、彼はそれを追うようにシアの手を改めて握る。

「まだ……父と、呼んで、くれる、のか」

「父さん」

「すまな、い……お前を、一人……置いて、逝く、とは……」

「嫌だ、父さん」

「すまない……烏滸おこが、ましい……と分かって、いる、……が……」

「父さん!」

「……愛してる……」

 不意に手首に巻き付けていた力を弛めると、フィギルはシアの頬にそっと手を這わせた。

「お前は、自慢の……息子、だ……」

 直後、その手から力が失われる。地面に手が落ちる音が、パタリと小さく響いた。

「父さん……?」

 慌てて落ちた手を握り直すが、もうフィギルの手はシアのそれを握り返してはくれない。

「待てよ……父さん」

 ユルユルと首を振る。

「嫌だ……返事しろよ。目、開けてくれよ」

 懇願に反して、満足げに微笑したフィギルの瞼は、もうピクリとも動かない。

 頬を、熱いものが伝う。左頬の傷が染みるが、痛みはどこか、別の場所にあるようだった。

「嘘だ……」

 無意識に呟いて、フィギルの肩を揺する。それでも、彼はされるままになるばかりで、やはり目を開けることはなかった。

「嫌だっ……逝かないで、逝っちゃだめだ、父さんっ……!!」

 一人にしないでくれ、逝っちゃ嫌だ――壊れたように繰り返して、シアはもう動かないフィギルにしがみついて慟哭した。


©️神蔵 眞吹

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