第五章 起爆
“……だ、具合は……”
“――――た……”
切れ切れに人の声がする。
瞼が重くて中々持ち上がらない。以前にも、同じ体験をした気がする。どこでだったろう。それとも、これは夢の続きだろうか。
“大君様! お気が付かれましたか!?”
(父、さん……?)
ぼんやりと問い返した声が、果たして音になったかどうか。
“ホ医官! どうなのだ、大君様のご容体は!?”
確かに、父の声だ。けれども父ではない。厳密に言えば、父はシアの物心付く前に亡くなった。その為、声はおろか、顔も覚えていないはずだ。
“お気が付かれましたか?”
視界に映ったのは、老齢に差し掛かった男だ。
(チュンホ、先生……?)
彼は――ホ医官、ことホ・ヂュンホと、彼の夫人であるカム・ソジョンとは、シアの火傷が完治する頃、一度別れている。彼らの身の安全の為だ。ならば、やはりこれは夢の中なのか。
(火傷……)
記憶を失うのと時を同じくして、シアは大火傷を負った。そして、チュンホの元へ担ぎ込まれ、九死に一生を得たのだ。
ホ夫妻は、その当時、朝鮮一と謳われた、ある宮廷医官の直弟子だった。彼らの医術がなかったら、シアは今頃ここにいないだろう。
まだぼんやりとした意識の中で、幾度か瞬きすると、視界は徐々に焦点を取り戻していく。
“大君様。お分かりになられますか?”
(……テグ、ン……?)
パキン、と何かが砕ける音に、もう一度目を瞬く。
視界は暗く、闇に沈んだ視線の先には、地面にもぐる途中の木の根が見えた。
「ッ、……ん……」
無意識に身動ぎ、幾度目かで瞼を上下させる。口許に、誰かの大きな手が覆い隠すようにかぶさっているのが分かる。
「気が付いたか。大声を立てるなよ」
耳元で聞き慣れた父の声がし、同時に掌がそっと離れた。
「ここ、は……」
強張った身体をノロノロと動かし、背後にいた父から少し離れて辺りを見回す。そこは、どこかの森の中らしい。
商団へ入ったのは午後になってからだったが、今はすっかり陽が沈んでいるようだ。意図せず手を突いた地面は、ヒンヤリとしていた。
「細かい場所までは特定できない。随分闇雲に走ったからな」
「どうなったんだ……」
「シッ!」
鋭く問いを遮られ、シアは反射的に口を噤んだ。
その数瞬後、人が多勢いると思える気配が近付いてくる。相手は足音を殺すよう努力しているようだったが、人数が人数だからか、成功しているとは言い難い。
「クソッ……! どこ行った!」
吐き捨てるように叫んだのは、さっき聞いたばかりの、ガサガサとした荒んだ声音だ。恐らく、大刀を持ったあの男だろう。
「李軍士様。もう陽も落ちました。これ以上の探索は危険です」
(軍士?)
シアも必死で息と気配を殺しながら、眉根を寄せた。
軍士とは、武闘系官庁に所属する最下級の兵士だ。どこの所属かは知らないが、あの年齢で軍士となると、よほどの事情でこれまで昇進できなかったか、何かしでかして降格になったかのどちらかだ。
そして、そんな最下級の兵士を敬称付きで呼んでいるということは、あの男の周囲の人間は、官職にも就いていない者たちだろう。
(……にしては、全員腕は立ちそうだったけど……)
「ふざけんな!」
思索を遮るような怒声に、思わず首を縮める。
「目の前にいたんだぞ! そう遠くへは行ってないはずだ、何が何でも捜し出せ。今日明日中に決着を付ける!!」
「ですが、ぐぁ!」
反駁し掛けた男が悲鳴を上げ、次いでドサリと何かが地面へ落ちる音がする。
「……反論は聞かない。命が惜しかったら今すぐ捜し出せ。もう俺は八年も待った。やっと見つけたんだぞ。ここで取り逃がして、また何年も待つことになるのは御免だ」
「……は……直ちに」
手下の男の、別の声が従順に答え、続いて配下を割り振っていく。茂みに潜むシアたちに気付かず遠ざかって行く男の一人が、松明を携えているのが見えたが、もう以前のような恐怖に近い混乱は起こらなかった。
(どうする)
シアは松明の明かりが照らす薄闇の中、フィギルにチラリと目を向ける。
相手とこんなに近い場所にいては、見つかるのは時間の問題だ。
こちらから打って出るか――視線に込められたその意味を正確に汲み取ったのか、フィギルは小さく首を横に振った。『まだだ』の意だろう。
向こうに気取られないよう、静かに深呼吸して、腰の刀を掴み鯉口を切る。
体勢を整える為のわずかな動作の音さえ聞こえそうで、向こうが動くのに合わせてそろそろと行うしかない。
それでも、フィギルはできるだけ身を縮め、やり過ごすほうを選んでいるようだった。
(相手は一、二……七、八人くらい、か?)
人数は分かっても、各々の正確な力量は分からない。である以上、可能ならやり過ごすほうが賢明だということはシアにも理解できている。
見える範囲に姿を現したのは、全部で四人。二人一組に分かれたようで、相手は一人一本松明を持ち、あちこちの茂みの陰を確認していた。
明かりの範囲がこちらまで届きそうに思えて、心臓が勝手にドキリと跳ね上がる。
いくら相手の力を計り兼ねる状況だからといっても、こんなに緊張するのは初めてだ。或いはそれは、相手の力が生半可でないと無意識に悟っている証拠だろうか。
そっと後退りすれば、そのまま闇に紛れられないかと、それを覚えず行動しそうになるのを懸命に理性で押さえ込む。実行するには、まだ距離が近すぎる。
やがて、大人数だった気配がバラけ、完全に消えたように思えた。ホッと息を吐いた瞬間、突き飛ばされる。
それがあまりにも唐突だった為、避けられず地面へ転がる。瞬時に臨戦態勢に戻りながら起き上がると、つい先刻までいた場所に、大刀が突き立っていた。
突き飛ばしたのはフィギルだと悟ると同時に、背筋に冷たいものが這い上がるのを感じながら、息を呑む。
「……やっぱり近くにいたなァ」
クックッと漏れる笑いは、ひどく冷たく昏い響きを含んでいた。
松明を持った男を従えた大男――イ軍士の表情は、笑い声と同じく陰湿だ。
「もう一人娘がいたとは知らなかった。シア、だっけ? 全然似てねぇなぁ、親父と」
シアと大刀の間に立ち、ジリジリと後退るフィギルに、イ軍士は視線を向ける。
「と言っても、奥方とも似てないが……よその女に産ませたのか? 今度奥方に報告しておかないとなぁ」
悠然と茂みを掻き分け、投げた大刀を引き抜いた男と距離を保つように更に後退したフィギルが、シアを背に庇うように立つ。
直後、軍士と共にいて松明を持っていた男が呼び子笛を吹いた。甲高い、追われる者にとっては耳障りな音が、静寂の闇を裂いて追跡者たちを集めようとしている。
全員が集合する前に撤退したいが、目の前の男がそうさせてはくれない。後ろを見せた途端、あの大刀が飛んで来そうだ。
だが、次の瞬間、フィギルが大刀の男に突っ込んだ。
「はっ!」
イ軍士も吐き捨てるように嘲笑を漏らし、応戦する。
「全員が集まる前に俺を片付けようって魂胆か! 甘いぜ!」
軍士の操る大刀が、フィギルに襲い掛かる。持ち手が長い分、間合いは大刀のほうが広い。
フィギルは弧を描いた大刀の刃をしゃがみ込んで受け流し、相手が体勢を立て直す前に軍士の足下を払いに掛かった。透かさず軍士は跳躍でそれを躱し、落下の勢いと共に大刀を振り下ろす。
転げるようにして大刀を避けたフィギルは、再びシアの前に立った。
同時に着地した軍士が、ニヤリと勝ち誇った微笑を浮かべるのが、より増した松明の明かりで露わになる。
「残念。時間切れだな」
クックッと昏い笑いを漏らしながら、イ軍士は己の肩先に大刀を預けた。
彼の部下と思しき七人が全員、抜き身の刀をシアとフィギルに向けている。
「……私はハン何某ではない、人違いだ」
フィギルは、シアを背中に抱き寄せるようにして庇いながら、刀をイ軍士に改めて向ける。すると、軍士は面白がるように問うた。
「人違い?」
「そうだ」
「ふぅーん?」
相変わらずニヤニヤと笑いつつ、滑るように間合いを詰めた軍士は、シアを強引に引き寄せると顎先に手を掛け仰向かせた。
「何をっ……!」
フィギルが、その手からシアを抱えるように奪い返し、一歩下がる。すると、顎先から外れた手を持て余すようにして、軍士は小首を傾げた。
「他意はないさ。ただ、本当に女かと思ってな」
「何だと?」
シアは、内心ギクリとした。
自分で言うのも何だが、この容姿だ。今まで女装をしていて、見た目の性別を疑われたことは一度もない。下手をすると、本来の性別の姿をしていてさえ、(自慢にはならないが)女性と間違われないことはなかったというのに。
軍士は、シアとフィギルを応分に見ながら、開いた距離を詰めるようにしてフィギルに顔を近付けた。
「お前、『イ・ウィ』を知らないか?」
息が、止まったかと思った。
守られるように抱えられている為、シアにはフィギルの表情を確認できない。だが、自分がとぼけた表情を保てている自信はなかった。
怯えている少女を演じるように、必死で顔を俯ける。
(何だ、こいつ……何で俺の本名を……いや、それよりどうしてその名前が今この場で出るんだ?)
八年前のあの日――炎の中で気を失い、次に目覚めた時には見知らぬ場所にいた。
はっきりと、まともに意識を取り戻した時、傍にいたのはこの、今は養父だと分かったイム・フィギルと、火傷の手当をしてくれた医師夫妻だけだった。
彼らは、シアの失った記憶について一切口を噤んでいたので、今この時までシアは、八歳以前の自分についてはまったく知らなかった。
けれども、すべて――自分が本当は誰の子だったか、かつて何と呼ばれていたかを思い出した今になっても、どうしてこのイ軍士と呼ばれる男もまた自分を追っているのか、なぜ自分が追われなくてはならないのかは分からない。そもそも、江華島へ移り住まされた理由さえ見えない。
「知らない。初めて聞く名だ」
フィギルが、シアの思考を遮るように口を開く。
「なぜ、そちらがこうも執拗に我々を追い回すのかは分からないが、もうやめてくれないか。私はイム姓の者で、この子は我が娘だ。『イ・ウィ』というのが誰かも知らない」
「そうか? だったらなぜ、さっき商団で出会った時、俺を突破しようとした?」
「すまないが、正義の味方には見えなかった。話が通じると思わなかったし、商団を襲撃してきた賊だと思ったから逃げることにした。何か、不自然か?」
フィギルの切り返しに、状況にも関わらず吹き出しそうになるが、どうにか堪えた。
それまで調子よくポンポンと言い返していたイ軍士の弁舌が、ふっと途切れる。
チラリと盗み見た相手の形相は、地獄の鬼か、閻魔でもこうはなるまいと思うほどだった。しかも、その恐ろしい目としか言えないそれと、しっかり視線が合ってしまう。
慌てて目を逸らし、フィギルにしがみつく振りをする。
「……ふん。筋は通っているようだがな……」
軍士がそう言っても、周りを囲んでいる男たちは刀を下ろさない。この場の長である軍士が、刀を下ろしてシアたちを解放するよう命じないからだ。
どうしても、ここにいるフィギルが『ハン・フィギル』であるという疑いが、軍士には拭えないのだろう。彼の言からすると、八年もハン氏を追い回していたらしいから、やっと本人と思しき人間を捜し当てたのなら、無理もないが――
(……待てよ。八年……?)
シアは、俯けた顔の中で目を瞬く。
八年――それはちょうど、シアが記憶を失くした頃と符合する。
そして、このフィギルは、シアの実父ではない。実父は、二歳の頃に亡くなっている。
シアの知る限り、フィギルが『父』と名乗って傍に居始めたのは、恐らく八年前からだ。同時にふと、江華島から出たあの日にも、本名で呼ばれたことを思い出す。
それは一体、何を意味するのか――
(……いや、考えるのはあとだ)
今はとにかく、この場を離脱しなくてはならない。話が通じないのだから、もう腕尽くでいいのではないか。
大丈夫、俺は戦える。まずどうにか、フィギルにそれを伝えなくては。
そう思った瞬間、フィギルの体勢が不自然に崩れた。
「父さん!?」
瞬間、この八年で馴染んでいた呼称が口を突く。
しかし、直後には胸倉を誰かに掴まれ、フィギルから引き離される。遠ざかるフィギルは両肩を二人の男に押さえ込まれ跪かされていた。
その手からもう一人の男が容赦なく刀を弾き飛ばす。フィギルの様子を見られたのはそれが最後で、シアはシアで強引に顔を掴まれ、その向きを変えさせられた。
無理矢理上げさせられた視線の先には、イ軍士の蛇のような目が、ねっとりとした視線をくれているのが見て取れた。
「ッ……何を」
「まずはお前からだ」
直後には、別の男に腕を取られ、後ろ手に拘束される。
反射的に目の前の男の鳩尾に蹴りを入れるのと、上衣の袷を引き裂かれるのは同時だった。
「ッ……!!」
息を呑んだが、身体の自由を取り戻すほうを優先する。
力任せに拘束を振り解いて身体を反転させ、背後にいた男の足下を払う。不意打ちをまともに喰らい、転倒した男の喉へ踵を叩き込んだ。
短い悲鳴と共に、男が悶絶する。
その時、横合いから新たに悲鳴が上がった。チラリとそちらへ視線を投げると、フィギルが自身の周囲にいた男三人を片付けたのが分かる。
刹那、膨れ上がる殺気に、シアはイ軍士へ向き直った。
「……ガキが!」
軍士は、手放していた大刀をいつの間にか握り直し、頭上高く振り上げている。
「シア!」
とっさに地を蹴って右斜め後方に飛んだ直後、フィギルが名を呼ぶ。
意味を悟ったのは、首に誰かの腕が絡み付いたと自覚したあとだ。
「ッ、ぐぅ……!」
防ぐには遅い。喉が締まる。首をへし折られる前にと、夢中で踵を、背後の男の向こう脛へ叩き下ろした。
息を詰めるような音を漏らして男の腕の力が弛む。
シアは、前のめりになって男の腕から逃れつつ、咳き込みそうになるのを何とか堪え、刀を抜き様反転した。
逆袈裟に斬り上げられた男から上がる血飛沫を避けるように、目を庇いながら相手の身体を蹴り飛ばす。
刹那、身体が意図しない方向に押された。反射で足を踏ん張り、背後だったほうへ視線をやると、フィギルがイ軍士の大刀を受け止めているのが分かる。
だが、背筋を震わせる余裕もなく、意識が放たれた殺気に反応する。身体が動くまま刀を振り抜く。叩き落としたものは、火矢だ。
視線を前方へ投げると、新たな火矢をつがえた男が目に入る。しかも、残った二人ともがこちらへ狙いを定めていた。
シアはさっと辺りに目線を走らせると、相手が矢を放つ瞬間、横様に地を蹴った。手近にあった木のほうへ走り、跳躍して枝に掴まる。
刀を素早く左手に持ち替えながら右手だけで身体を持ち上げ、枝の上へ飛び乗った。
けれど、次の瞬間には己の愚行に舌打ちする。そうしてしまうと、茂った枝葉が邪魔で、射手もフィギルたちの戦いがどうなっているかも見えなくなってしまった。
「クソッ……!」
覚えず、自身に対する悪態が漏れる。
衝動的にすぐに下へ降りそうになるのを踏み留まった直後、真下へ駆け込んできた男たちは、枝の上へいるシアに、火の着いていない矢を向けてきた。
透かさず枝にぶら下がり、振り子の要領で一人を蹴り倒す。
吹っ飛んだ男に着地しながら止めを刺し、残った男が射た矢を躱すと、相手に向かって突進する。
相手は弓を捨てて刀に持ち替えるべきか迷っていたようだった。その隙に男の背後に回り込み、背中を斬り付け、返す剣で首筋を撫でる。
倒れる相手の返り血から距離を取りながらフィギルを目で捜し当てた時、彼がイ軍士にのし掛かられている姿が見えた。
とっさに刀を捨て、落ちていた弓に矢をつがえる。すると、軍士は振りかぶっていた大刀を迷わずこちらへ投擲した。
「ッ……!」
息を呑んだが素早く弓矢を手放し、地面へ飛び込むように横様に転がった。捨てていた刀を拾い、片膝を立てて起き上がると同時に、「動くな!」と鋭い声が飛んで来た。
「動くなよ。お前が迂闊に身動きすれば親父の命はない」
シアの視線の先では、フィギルに馬乗りになった軍士が、片手でフィギルの喉元を締め上げるように握っていた。
©️神蔵 眞吹