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第四章 再炎

「――悪いが、あんたに仕事は紹介し兼ねるよ」

 この日、何軒目かで当たった手配房スベバンの番頭にそう言われ、父とシアは目を丸くした。


 あれから――彩映楼チェヨンルをあとにしてから、更に一年が経っていた。

 一度去った妓楼の辺りにはあまり近寄らないようにする為、あれからチウやカオンがどうしているか、シアには分からない。

 特にチウは、シアたちが去るのを見逃しているので、無断外泊以上に何か折檻を受けてないといいが、などと、シアはしばらくは気にしていた。けれど、気にしたところで知るすべもない。

 いつしか、それも次第に、日常――父と共に妓楼へ潜り込んでは、似たようなこと(執着男の困った求愛か、行首ヘンスによる童妓トンギになるようにという執拗な誘い)が起きるたびに、その妓楼を無断であとにする――を送る内に、記憶の隅へと追いやられていた。

 ただ、こんな生活も数年に及ぶと、弊害が起きて来るのはどうしようもなかった。

 今回もまた、付き纏い執着男に困った挙げ句に逃亡を決め込んだのだが、朝鮮国内は広いようで狭い。そろそろ、数年前に渡り歩いた地方へ舞い戻る羽目になった。そうなると、当時九歳そこそこだったシアはともかく、すでに成人して久しい父のほうは、外見に特段の変化はない為か、覚えている者もいたらしい。

 現在地である義州ウィジュ付近の手配房は、この数日たらい回しで、ちっとも潜伏先が決まらない有り様だ。

 そして、今日最後に辿り着いた手配房・番頭がついに率直に発したのが、先の一言である。

「……あの、どういう意味か、訊いても?」

 父が、怖ず怖ずと口を開くと、番頭は呆れたと言わんばかりに目を細めた。

「どの口が言うのかねぇ、図々しい。あんた、ここらじゃ有名だよ。『夜逃げのイム・フィギル』って」

 名指しの上に、有り難くない二つ名がくっついている。

 有り難くはないが、事実でもあるので、父は二の句も継げずに黙るしかなかった。

手配房スベバンってな、民間の組織だが、それだけに信用が公的機関より大事だいじなんだよ。いつ何時なんどき、フラッと消えるか分からんようなの、用心棒には使えねぇ。たとえ、あんたが望んでない妓楼の護衛でもね。悪いが、ほか当たっとくれ。もっとも、あんたを仲介してくれる手配房があるかは分からないけどねぇ、もう黒表〔ブラックリスト〕に載っちまってるから」

 冷え切った笑みで見られ、更にそれはほかの客の目にも晒されている為、シアとしても居心地の悪いことこの上ない。

 あまりガラのよくなさそうな客たちは、見る者を不快にする笑みを浮かべて、チラチラとこちらへ視線を投げる。

 父は、そっと溜息をいて、小さく会釈すると、無言でシアを促す。そんな父に、シアも黙ったまま小走りに続いた。

「待ちな」

 だが、店の外へ出掛けた二人を、そんな一言が呼び止めた。

 振り返ると、番頭の後ろに、先程までその場にいなかった男が立っているのが目に入る。

 カッを目深にかぶっている為、目元はよく見えない。黒々とした髭を生やした男は、格好は中流両班(ヤンバン)に見えなくもないが、違うだろう。

行首ヘンス様」

 番頭が、椅子から立ち上がって頭を下げる。察するに、この手配房のおさだ。

 行首様、と呼ばれた男は、番頭に構わず、父に向かって手招きした。

 父は、訝しげに眉根を寄せたものの、来た道を引き返す。

「一つだけ、商団なら紹介できる所がある」

「商団?」

 父は眉根を寄せたまま、鸚鵡返しに問うた。

「それは誠か」

 これまでは、商団への希望を出しても、紹介される先は必ずと言っていいほど妓楼だった。理由の第一は、父がシアという子ども連れであること、第二に、その連れている子が、見た目なよやかな美少女にしか見えないことだ。

 商団の護衛と言えば、大抵が行商へ出る際の用心棒で、拠点にいる時にはあまり出番はない(拠点にいればまったく揉め事がないと決まっているわけでもないが)。

 そういう事情から、いざ戦闘になった場合、連れている子が足手纏いになるという手配房スベバン側の独断で、難易度が低そうな妓楼へ回されていた。

 江華島カンファドを出てからの数年で、商団へ雇ってもらったことは、たったの一度しかない。

「本当に、商団を紹介してもらえるのか」

 父が重ねて問うと、行首ヘンスは小さく頷いた。

「ああ。私の名を出せば、大抵は首を縦に振ってくれる商団だ。心配は要らない」

「しかし、行首様」

 制止し掛けた番頭を、行首は睨みだけで黙らせる。

 ここは、ある意味での独裁体制か、行首の資質だけで保っている手配房なのかも知れない。

「すぐに紹介状を書く。少し待ってろ」

「ありがとうございます」

 礼を述べる父に、軽い会釈を返した行首は、一度店の奥へと引っ込んで行った。


***


「――ふーん……行首の紹介か」

 高手配房行首・コ・ウンの紹介状を持って訪ねた先は、ペン商団と言った。

 その商団の行首・ペン・揆汎ギュボムは、父が差し出した紹介状をひらいて、父を見上げる。

「ま、あいつの紹介なら是非もない。今日からよろしく頼むよ」

「お世話になります」

 父は、深々と頭を下げた。

 キュボムは、うんと一つ頷くように顎を引いたあと、シアに目を向けた。

「お嬢さんかい」

「はい。お世話になります」

 シアも、父と同様に頭を下げる。だが、顔を上げた時、キュボムと絡んだ視線に、覚えず背筋がゾッとした。

 キュボムは、冷たくくらい欲望のようなものを秘めた瞳で、シアを値踏みするように見ていたのだ。それは、シアが父に連れられて初めて入った手配房の、番頭のそれを思わせた。

 が、彼が一つまばたきしたあとには、その欲望は掻き消すように見えなくなっている。

「悪いが、特別扱いはしねぇよ。炳模ピョンモ

「はい、行首様」

「こいつら、護衛の使う大部屋へ案内してやりな」

「はい」

 ピョンモ、と呼ばれた男は「付いて来い」と言って顎をしゃくった。

 商団の中はもちろん、護衛の使う大部屋も、雰囲気はあまりいいとは言えなかった。商団そのものが、その気になればすぐにもならず者に転職できそうだという印象だ。

 シアは、できるだけ顔を隠して――と言うより、手配房スベバンへ出向く時は必ず、目から下は薄布で覆っているが――、父に続いて入室し、与えられた隅の寝台へ駆け寄った。

 部屋自体の広さは、大の男が十数人は横になって寝られそうな広さだ。その壁際に沿うように、二段の寝台が全部で十数台設えられている。

 父とシアに与えられたのは、入り口を入ってすぐ右手に進むとある、隅っこの寝台だった。

 シアは二段目に行く為に掛けられている梯子を身軽く上がり、天井から下がった布の内へ滑り込んだ。そこが、謂わば私的な空間というところだ。

 荷物を壁際に置いて、一息()いた時だった。足下にしたほう、つまり壁の反対側の垂れ布が、前触れなく跳ね上げられた。

 目を見開くと、室内にいただろう男たちの中の数人が、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべてこちらを覗き込んでいる。

 瞬時、息を呑んだが、それを悟られないように息を吐き出す。

「……何のご用です」

「何のご用たぁ、ツレねぇなぁ」

「お嬢ちゃんはお疲れだろ。オレたちが癒してやろうと思ってよ」

 分かり易く鼻の下を伸ばした男たちは、シアのチマの裾からいきなり手を入れた。

 シアは間髪入れずに足を蹴上げる動きで男の手を払い除け、そのまま男の横っ面に遠慮のない蹴りを入れた。

「うがっ!?」

 か弱い少女とばかり思っていた相手の思わぬ反撃を、モロに食らった男は、潰れた悲鳴を上げて外へ倒れる。

「この――」

 仲間をやられたもう一人の男が伸ばす手も住なし、拳を相手の鼻筋に叩き込んだ。

「ぐぅ!」

 やはり悲鳴と共に後ろへ蹈鞴を踏む男を追って、シアは素早く垂れ布を引きけた。その頃には、騒ぎを聞きつけたのか、部屋中の者たちがこちらを注目している。

 下の段にいた父が、垂れ布を掻き上げ、うっそりと立ち上がった。

「……何の騒ぎだ」

 静かに言ったのは、父だ。

「何の騒ぎ、じゃねぇよ」

 答えた男に、父とシア以外の全員が道を譲る。そうして歩み寄って来た男が、どうやらこの場の頭だ。

「お宅のお嬢さん、一気に二人も使いモンにならなくしてくれて、どうしてくれるんだ?」

 問うたのは、室内の頭目らしい男だった。肉薄すると、父と同じくらいの背丈と肩幅を持っているのが分かる。

「使いモノにならなくされる前に、彼らが私に何をしたか、お教えしましょうか?」

 冷えた口調で言いながら、シアは梯子を使わず、床へ飛び降りた。

 着地の際に曲げた膝と腰を伸ばし、男を見る。

「父さん。私、間違ったことした?」

 視線は男に向けたまま、シアは父に問うた。

「お前に不埒なことでもしようとしたのだろう。ならば、正当防衛だ」

「何が正当防衛だ」

 当然のように返答した父に、頭ではない、ほかの男が吼える。

「あんたらの噂は聞いてるぜ? 新入りとして来る奴は、『夜逃げのイム・フィギル』って言われてるってな」

「それを仲間として迎え入れるんだ。相応の見返りはないとな」

「その見返りに、なぜ私が伽をする必要があるんです。女が欲しければ、妓楼にでも行くんですね」

 カチャ、というかすかな音と共に、シアは寝台に置いてあった刀を引きずり出した。

 もっとも、妓楼で女を商品にするという慣習も、シアはあまり好きではない。男であれ女であれ、同じ人だ。人をモノと同じに考えることが、そもそも納得はできないが、それを今ここで論じる余裕はない。

(……ここは仕事する前に逃げ出さなきゃなんないのか)

 はあ、と溜息をく。周囲からも殺気が放たれるのが分かる。身構えた、その時だった。突如、扉が蹴り開けられ、室内へ吹っ飛んだ。

「何っ!?」

「誰だ!」

 大部屋にいた男たちが口々に叫ぶ。だが、扉がなくなった入り口から入って来た複数の男が、抜き身の刀を手に、無言で彼らを威圧した。

「シア!」

 不意に呼ばれて振り返ると、男たちの中から、一人の男が駆け寄って来るのが目に映る。明らかに殴り込んで来た男たちや、元々護衛としてここにいた男たちとは異質な人物だ。

 見るからに甘やかされて育ったボンボンで、なよなよしい――それが誰かに思い至り、思わず上げそうになった声を、シアはどうにか呑み込んだ。

「ああ、シア! やっと見つけた。我が妻よ」

 両手を取られそうになったが、何とか刀を持ったほうの手は死守する。右手を握られて掛けられた言葉に、思わず吹き出しそうになった。

「……どなたです?」

 一応、初対面であると言葉では示したが、目が呆れたように細まるのはどうしようもない。

「去年、一瞬会ったきりだから、無理もない。だが、私は一度そなたと会っているのだよ」

 同性に優しく愛おしげに見られても、呆れと嫌悪感しか沸かない。

「私は、キェ・同玖ドングと言う。彩映楼チェヨンルで一目惚れした日の内に、私はそなたを妻にと身請けを申し入れた。彩映楼の行首ヘンスに、明朝迎えに来ると告げたのに、行った時にはもうそなたはいなかった。一年中捜し回ったのだぞ」

(……それはそれはゴクロウサマで)

 思わず口から出そうになった言葉を、また苦労して呑み込む。

「もう安心だ。さ、行こう。早く祝言を挙げねば」

「お断りします」

 シアを引き連れて行こうとするその手を、素早く振りほどいた。

 一瞬、驚いた顔をした男――トングは、せっかく救出したシアの手を性懲りもなく握り、うっすらと笑う。

「駄々を捏ねてはならぬ。身請け金を支払ったのだから、そなたの意思は関係ない。そなたはもう、我が妻だ。ただ披露目をしていないだけでな」

「それでは、心は要らぬということですね。であれば、人形でもめとられてはいかがです。私にそっくりな、等身大の人形を作るご協力なら、喜んでいたしますから」

「黙らぬか!」

 突如、激昂したトングは、片手を振り上げた。彼の掌が頬を打つより早く、シアは彼の足下を払う。

 短い悲鳴と共に、トングは無様に床へ倒れた。次いで喚き散らす。

「何をしている! この者を早く連れて行くのだ!」

 しかし、トングが連れていた男たちは、その言葉を無視するように、父に肉薄した。一番前にいた、凶悪な顔をした男が、父にズイと顔を近付ける。そして、持っていた大刀――刃物の部分が大ぶりな槍のように見える武器――を半回転させ、父の首筋へ突き付けた。

「――ハン・希吉フィギル。やっと見つけた」

(ハン・フィギル?)

 耳慣れない呼称に、シアは眉根を寄せる。父の名は、『イム・フィギル』だ。ハン姓ではない。

 けれど、肝心の父本人は、無表情に顔を強張らせている。

 父が浮かべた表情に対する疑問も解けない内に、大刀を父へ突き付けた凶相の男は、薄い唇をニィッと吊り上げた。それが自分に向けられたものでもないのに、背筋が凍り付く。先刻、この商団の行首ヘンス・キュボムに感じたものの比ではない。

 男は、大刀を握った手に力を込める。その刃が、自身の首筋を撫でる前に、父は持っていた刀を抜き放ち、大刀を跳ね上げた。

「娘を捕らえろ!」

 大刀男が号令するや、その背後にいた男たちがシアに殺到する。

「待て! 人殺しを命じた覚えはない!」

 身体を起こし掛けていたトングが慌てたように言うと、大刀の男の配下の一人と思しき者は、容赦なくトングの喉に刃を立てた。

「何をっ……」

退け!」

 不意に色めき立ったのは、この部屋を根城にしていた住人たちだ。

 殺意が自分たちに向けられたものでなくとも、唐突に入って来た部外者が、内輪揉めの果てに一人死んだのだ。いくらならず者スレスレの人種でも、状況を把握する必要があると思ったのだろう。

 だが、大刀男の一派は聞く耳も持たず、出入り口へ殺到した男たちを次々に斬り捨てた。

「シア!」

 父に呼ばれてそちらへ目を向けると、彼は大刀男を蹴り飛ばしたところだった。吹っ飛ばされた男と父とのあいだに、一瞬距離が空く。そのに、父は素早くきびすを返した。

 シアは自分へ伸びて来る手を、鞘へ納めたままの刀ではじく。戸口を突破する父の背に、迷わず続いた。

 商団内はすでに騒がしくなっていた。

 ここへは来たばかりで、まだ部屋までの順路しか知らない。それは父も同様で、逃げるには来た道を戻るしかなかった。

 だが、外へ通じる行首ヘンス執務室まで来て、シアの足は床へ張り付いたようになってしまった。そこは、いつの間にか火の海になっていたのだ。

 意思とは無関係に呼吸がせり上がり、揺らめく炎が覚えていないはずの遠い記憶と重なる。

(怖い)

 ――いや、違う。怖いのではない。単純な恐怖とは違う。けれども、一番近い言葉を使うなら、やはり怖ろしいということになるのだろうか。

 シアは、燃える火が苦手だ。というより、揺らめく炎は恐怖の象徴に近い。

(落ち着け)

 必死に自分に言い聞かせながら、心臓を宥めるように胸元を鷲掴わしづかむ。拳を中心に、上衣が複雑なしわを刻んだ。脂汗が滲んで、意識が遠退きそうになる。

 深呼吸しようとしても、炎の存在が気になって、うまくいかない。

 混乱と折り合いを付けようとしていたのが、一瞬のだったのか、それとももっと長い時間だったのかは分からない。不意に、シアは父の肩に抱え上げられ、外へ出ていた。

 反射で父の背へしがみつき、逆さになった頭を上げて周囲に目を投げる。視界に飛び込んで来たのは、炎上する建物だった。

 商団員が悲鳴を上げ、逃げ惑う喧噪が遠い。

 火が踊るさまに、胸がざわつく。息が苦しい。

 こんな中を、以前に自分も逃げ惑ったことがある気がした。いや、違う。

 逃げ道がなくて、右往左往して、助けてと叫んでも誰も来てくれなくて。

 異様な熱に発狂しそうになる中で酸素を求め、熱くなった木枠を掴んで揺すった。

“――けて……”

(え?)

 不意に耳の奥に蘇った声に、シアは目をまたたいた。

 途端、視界がクルリと回る。気付けば足の下に地面を踏んでいた。

「立てるか!?」

 父の声が現実から聞こえて我に返る。

 どうにか頷いた瞬間、父に手を取られて走った。何を考える暇もない。

 商団敷地を抜け、通りへ走り出た直後、飛んで来た矢がチマの裾を捉えた。

「わっ!」

 それに足を取られて、転ぶまいと足掻くにも地面が迫る。手を突いて衝撃を和らげようと試みるが、胸部をしたたかに打ち付けて、一瞬息が詰まる。

(……ったく、コレだから女の服は!)

 そう脳内で毒づきながら起き上がる動作は、意思に反してひどくのろいものだった。炎さえ見ていなければ普段通りの動きができただろうが、今はまだ動揺のほうが大きい。

 倒れたシアに駆け寄った父が、矢に縫い止められたシアのチマを破く。そのわずかのに、数人の男たちが追い付き、二人を取り囲んだ。

 それを認識はできても、すべてが遠い出来事のように、シアには思えた。これは現実なのに、夢の中のようにどこかフワフワとしている。足下が心許ない。

 平時なら容易たやすく父の援護に回れるというのに、今日に限ってそれはできなかった。父の背に庇われ、本物の少女よろしく震えるばかりだ。

(くそっ……!)

 唇を噛みしめるが、まだ朱色が残った脳内が、シアから正気をことごとく奪っている。

 そうこうするに、大刀男もやって来て、男たちの前に出た。

 男の年の頃は、六十歳前後。体つきはがっしりとしており、父のそれよりも頭一つ分は背が高い。輪郭は角張った楕円形で、眉はなく、鼻筋は太く唇も分厚い。瞳は濁り、向かって左側の頬から鼻の上には、派手な傷跡が走っていた。

「久し振りだなぁ、ハン・フィギル大将テジャン。元気そうで何よりだ」

「……何を言っているのか分からない。私はあなたとは初対面だ」

 父の声音が硬い。嘘を言っているからなのか、相手の男を警戒しているからなのかは、シアには分からなかった。

 早く――せめて、自分の身は自分で守らなければ。自身を抱き締めるようにして抱えて、深呼吸しようとする。が、商団敷地から多少離れているはずのこの場所も空気が熱くなり始めているような気がして、息を吸うのも怖い。

 前にもこんなことがあった気がして、シアは一瞬呼吸を忘れた。

 その隙に、容赦なく近寄った男の一人に腕を取られる。父から引き離されそうになるのを避けようと身を捩った時、すぐ傍で短く悲鳴が上がり、拘束が弛んだ。気付いた時には、視界一杯に、銀に煌めく刀身がある。

 そんな場合ではないのに、ドサリと重い音を立てて倒れる男を、シアはただただ眺めることしかできなかった。頭の中が白くなっている。

「シア! しっかりしろ!」

 父の声と共に、再度腕を引っ張られる。

 まさか、唐突に仲間が斬り伏せられるとは思わなかったのだろう。とっさに反応できずにいた数人の男たちを強引に突破した父に、半ば引きずられるように足を動かす。

 だが、脳裏の隅で踊る朱い光は、シアを混乱させたままだ。

“――助けて”

 瞬間、幼子の声が脳裏に響いて、目を見開く。


 踊る、あか

 恐ろしく残酷な舌先が、部屋中を舐め回し、逃げ場はない。

 あれは、いつのことだったろうか。自分が経験したことなのだろうか。


“熱いよぅ! ……けて……!”


 掴んで揺すった木の枠さえも熱くて、どうしても外へ出て行けなくて。

 室内を見回せば、どこもかしこも、朱い揺らめきで埋まっていた。


“嫌だ、死にたくない! ここ、開けてよぉっ……!”


 涙も瞬時に蒸発するほど熱くなった空気に、どんどん息が浅くなる。

 飛ぶように過ぎる景色も、惰性で動かす足も、現実のすべてが遠かった。ただ、朱い色がちらつくたびに、呼吸がせり上がる。


“熱い”


“怖い”

“死にたくない”

“死にたくない”

“死にたく……ない”


 嘆きが、助けを呼ぶその声が、シアの中で膨れ上がって、身体がバラバラになりそうな錯覚に陥る。

(――誰だ)

 自分の中で、助けを求めるその幼子は。

 しケシ、過去の出来事と思える映像の中を探っても、どこにも声のぬしはいない。

 見えるのは、酷薄に舞うあかと、その舞に合わせて爆ぜる音と、寄り掛かった木枠に縋る、幼い手――

(えっ?)

 目をまたたいた時、いつしか周囲には朱い光がなくなっていることに気付く。それでも、思考はまだ落ち着きを取り戻さない。

(……父、さん……)

 ぼんやりと脳裏で父を呼ぶ。前を走るその背と、誰かのそれが一瞬重なった。


“――兄、上”


(……な、に……?)

 何度目かで目をしばたたいた。

 兄とは誰のことだろう。

 自問するが、答えを見つけるよりも早く、普段の混乱状態の比でない速度で、次々と脳裏に炎の記憶が浮かんでは消えた。

「っ……あ、……!」

 頭が内側から破裂しそうに痛む。膝が抜けたようになり、地面へ手を突いた。父が名を呼ぶのを遠くに聞きながら、空いた手で頭を抱えた。


 目を覚ますなり飛び込んできた、火の海。焼け焦げた、布団のふち

 助けを呼ぶ為に開いた口から吸い込んだ熱い空気。咳き込みながら掴んで揺すった障子の木枠。


「ッ……ぁっ……!」


 助けを呼ぼうとしても、熱い空気が入るのが怖くてもう声が出せない。


“誰か、けて……開けてよぉ!”


 揺する木枠を必死で握る、幼い手。

 息ができない。苦しい。助けて、誰か……――


「――あぁあああああ!!」


 その絶叫を発したのが、夢だったのかうつつだったのか。それを判断するより早く、シアの意識はブツリと途切れた。


©️神蔵 眞吹

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