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第六章 安山《アンサン》にて~後編~

 母が出て行ったあと、貞淑チョンスク姉は当然のように立ち上がった。

「姉上」

「大丈夫よ」

 任せて、と一言言い置くと、同じように部屋をあとにする。

 考えてみれば、ここに集まった姉弟きょうだいの内、子を持っているのは貞淑姉だけだ。貞正チョンジョン姉も、早産と早世したとは言え子を産んではいるが、子育て経験があるのは貞淑姉だけである。

 加えて、貞淑姉は現在三十五、母は三十八と、年齢も近い。存外、宥め役には最適の人材かも知れない。

(……それにしても……)

 面倒臭めんどくさ、と小さく呟きながら、シアは行儀悪く、その場へ仰向けにゴロリと転がった。

「シア?」

 びっくりしたように、フェイジェンが目を見開く。その顔を見上げながら、「お前も足崩せば」と告げる。

「どうかしたの、急に」

「……来るんじゃなかったと思って」

 ポツリと呟いて、寝返りを打つ。

「何で」

「だーって、母上には今まで通り、俺を死んだと思わせておけば、お前とのこともアレコレ言われなかっただろ」

 そもそも、最初の貞淑姉の反応から推しはかって、母がフェイジェンとの結婚についてどう言うかは、予測してしかるべきだったのだ。

「王家の嫡男だったら王位が欲しくて当たり前、とか、どいつもこいつも好き勝手言いやがってさー……」

 無意識にした手枕たまくらへ、頬をうずめ、目を閉じる。

「俺の人生だっつの。みーんな俺の意思なんか頭から無視し腐ってよ。大北テブク派もファベク兄上も、俺の血筋が邪魔とか言って殺しに掛かるし、ホン・ソボンはホン・ソボンで、『王家の嫡男に生まれたからには義務を果たせ』とか勝手なこと言うし、母上だって言ってることは似たよーなモンだし、仁城インソン兄上なんて完璧逆恨みだし……たまたま王家に嫡男として生まれたからって、何で一方的に恨まれたり、一生のこと周りに決めらんなきゃなんねぇんだよ。つか、今の王家の嫡男って俺じゃねぇし。そもそも殺され掛けて助かったんだから、あとの人生、完全に棚ぼただろ。好きにやらせろってんだよ」

「……あんたって、お酒が入ったら延々と愚痴る部類の人間よね……」

 呆れたように言ったフェイジェンが、シアの頭をそっと撫でた。チラリと目を開け、視線の先にあった彼女の膝に、よじ登るように頭を乗せる。

「ちょっ……シア」

「ごめん。ちょっとだけ、こうさせて」

「って言われても……」

「ねぇ、ウィ。私たちがまだいるって、覚えてる?」

 フェイジェンの言いたかったらしいことを代弁しながら、不意にシアの肩先を後ろへ引っ張ったのは、貞明チョンミョン姉だ。

 しかし、シアは貞明姉を一瞥し、フェイジェンの膝へ頬を戻した。

「うっせーな。貞明姉上もどーせ、母上と同じ意見なんだろ。っとけよ」

 貞明姉とは、同母の上に年が近い所為か、どうしても口調が気安くなる。それは、貞明姉も同じなのだが――。

「嫌だ、完全にやさぐれてるわ」

「分かってんなら放っとけ。つか、出てけ」

「あのねぇ。断っとくけど、ここは私とお母様が使ってる部屋よ。出て行きたかったら、あなたが出て行って」

 正論だ。一瞬、言葉に詰まったシアは、「分ーったよ」と投げ出すように言いつつ、起き上がる。しかし、立ち上がる直前になって、「待って、ウィ」と貞正姉が呼び止めた。

「……何ですか」

 貞正姉に向けた言葉も、最早投げやりだ。が、貞正姉は構わなかった。

大妃テビ様のお気持ちも……分かって差し上げて、とは言わない。でも、……急に色々分かったから、大妃様も混乱なさっているだけよ。本当は、亡くなったと思ってらした我が子が戻って、心から喜んでらっしゃるわ」

「……だから、何なんです」

「だから……このまま、大妃様と疎遠になってしまうようなことだけは、できれば避けて欲しいの。折角生きて再会したんだから……」

 チラリと貞正姉を見ると、彼女は自身の下腹部へ、そっと手を当てた。

「もし、私の生んだあの子が生きていたら、今六歳よ。六歳になったあの子が、実は元気で生きていたって、今も時々夢に見るの。目覚めたら、もちろんあの子は亡くなった子なんだけど……でも、生きて、元気で育っていてくれたらそれだけでいいのにって……そうしたら、もうそれ以上は望まないのにって、思わない日はないわ。大妃様も同じだったはずよ」

 シアは一瞬、沈黙した。

「……つまり、私が誰を伴侶にしようと、どんな人生を選ぼうと、認めてくださる、ということですよね」

 けれど、実際には、母はフェイジェンに、シアを忘れて去るよう要求した。

 暗に含んだことに、貞正姉は気付いたらしい。彼女はフッ、と小さく苦笑する。

「……そうね。私ならそうするかな」

「でも、母上は私と生きて再会した途端、『死んだと思っていた』あいだのことは綺麗に忘れたわけだ。ある意味平和だけど」

「ウィ」

 貞正姉は、宥めるようにシアの手の甲に、自身の掌をそっと載せる。

「そんなことを言わないで。そなたもきっと苦労しただろうけど、大妃様もランファも、そなたが流刑にされてからこの寺に来るまで、ずっとご苦労なさってたわ。それは分かってあげて」

「だから、このあとの人生を、私に諦めろと?」

 自分でもゾッとするような、低くて冷たい声が滑り出る。貞正姉だけでなく、貞明姉も、フェイジェンでさえも息を呑んだのが分かった。

 これ以上言うべきじゃない、と思ったが、口が勝手に動く。

「分かっていますよ。母上も貞明姉上も、私が冤罪で流刑にされてから、これ以上ないくらい苦労なさった。そんなこと知ってる。食べ物も安心して食べられない、住む場所も着る物も碌に整わない暮らしをしていたことは分かってる。それに対して、私だって苦労して来た、なんて苦労を張り合う気もない。お二人に安心して暮らして頂く為にも、俺の冤罪を晴らすのは俺の義務だって分かってる。だけど、それとこれとは話が別だろ。母上の苦労をおもんぱかって、そのあとの人生、犠牲にしろってのか。好きでもない女を妻にして、座りたくもない王座に座れって? 冗談だろ」

 口調がいつしか、に戻っている。だが、改める余裕もない。

「ウィよ」

「真っ平だ! 今だって、俺は俺の選びたくない人生歩いてる!! この先、ずっとそうして生きろってのか!? やっと義務から解放されたあと、今度は母上の選んだ人生をあゆんで、母上の操り人形になれって!? 絶対嫌だ!! 王座になんて座ったら、母上でなくても誰かの操り人形にされるのが分かり切ってる!! それくらいなら、いっそ九年前に死んでたほうがマシだったよ!! やりたきゃ、母上が女王にでもなればいい!!」

 言い募るあいだに、視界が歪んだ。叩き付けるように言い切った時には、呼吸が荒くなり、頬はいつの間にか溢れた涙で濡れていることに気付く。

「……自分の思い通りになる人形が欲しけりゃ、作ればいいだろ。玉座には死体でも載せときゃいい。俺は、誰かの思う通りになる抜け殻じゃない」

「知ってる」

 言ったのは、フェイジェンだった。彼女の腕が、後ろから回って、シアを背後からそっと抱き締める。

「分かってるから、少し落ち着いて。大丈夫。あたしはあんたがどうなっても、傍にいるから」

「ッ……」

 名を呼ぼうとしても、もう声が出ない。ただ、縋るように、胸元へ回っている彼女の手を握り締める。

 彼女は、黙ったまま、一度手の力を緩めたと思うと、シアの前に回り込んだ。隠すもなく、彼女の両掌が、シアの頬を包む。

「……何、見てんだよ」

「ん? 超稀少(きしょう)な、シアの泣き顔」

「……はっきり言うなよ」

 恥ずかしい、と言おうとした唇は、彼女のそれで塞がれる。

 もう、姉二人が見ていることも、フェイジェンには関わりないようだ。しばし、啄み合った唇を放すと、彼女はシアの目をしっかりと見つめて口をひらく。

「……ねぇ」

「……何だよ」

「大妃様にああ言われて、あたしが離れると思った?」

「……えっと……」

 離れるかも知れない、という危惧はあった。彼女はとこを共にしてからも、どこか、シアと一緒にいることを遠慮しているような素振そぶりを見せる時がある。

 だが、彼女はシアの肩へ腕を回すと、不敵に笑った。

「放すモンですか。やっと、自分の気持ちにも素直になれたのに」

「……フェイ……」

「あたしの人生も、大概似たようなモンだから。せめて、一緒に歩く男は、自分が惚れた男にしときたいのよね。あんたも、そうでしょ」

「……否定しねぇよ」

 クス、と自嘲するような笑いを零して、彼女の肩先にひたいを載せる。

「……ごめん。すっげぇ恥ずかしい八つ当たりした」

「……それは、お義姉ねえ様方に言ったら?」

「聞こえてるから、もういいわよ」

 言うなり、シアの背に、負ぶさるように貞明姉が抱き付いて来る。それこそ、幼い時分に返ったようだ。

「で、私はいいけど、お母様にも謝ったら?」

 促されて、ぅぐ、と言葉に詰まる。

「……って言われても……」

 今謝罪したら、フェイジェンとの結婚は諦めます、母上の仰る通り玉座にも就きます、と言っているのと同義にならないだろうか。と思った直後、閉まっていた障子戸がスッとひらく気配に瞠目する。

「……謝るのは、わたくしのほうだ」

 反射で顔を上げると、視線の先には、障子戸を開いた母が立っている姿がある。

「あ……」

 母上、と言おうとするが、やはり言葉にならない。そのに、母は膝を突くと、シアの手を取った。それまで母が座った場所にいた貞正姉は、いつの間にかその場から退いている。

「すまなかった。つい……そなたが戻って、ときも九年分巻き戻った気がしてしまった。そうしたら、あの頃の感覚で物を言ってしまって……」

 母の、伏せられた目から、透明な雫が転がり落ちる。

「チュニョンの言う通りだ。そなたが亡くなったとされていた日から、そなたを思わぬ日は一日足りとてなかった。年が経つごとに、生きていれば今年で九つ、今年でとお、と毎年数えては溜息をいた。とにかく元気で育っていてくれたら、それ以上は望まなかったのにと、幾度思ったか知れぬというのに……」

「……母上……」

江華島カンファドへ移される為に別れた折の、まだ七つのそなたを前にしているような気がしてしまったのだ。どうか、許しておくれ」

 縋るようにシアを見上げた母の掌が、頬に触れた。

「そなたの気持ちは、よく分かった。死ぬくらいなら、玉座になど座らなくともよい。王妃にならぬのなら、公主ゴンジュ様を妻に迎えるのも構わぬ。だから……これからも、母を避けずにいてはくれぬか」

「……ファベク兄上のことは」

「それは、よく調べてから答えを出そう」

 シアは、そっと吐息を漏らした。

 江華島へ移されてから、あれほど母と貞明姉に会いたい、二人が懐かしいと思っていたはずの感情が、とてつもなく遠い。思えば、あのあとすぐに記憶を失って、すぐ傍で育ててくれたのはフィギルだった。

 時に厳しく鍛え、基礎的な教育を施してくれ、慈しんでくれたのは――父であり、母でもあったのは、シアにとってはもうフィギルしかいない。生みの親より育ての親、という言葉を、今ほど実感したことはなかった。

「……では、改めて、フェイジェンを私の妻としてお認めくださいますか」

「無論だ」

 泣き笑いの顔で頷いた母は、フェイジェンに視線を移す。

「……すまなかった。公主様にも、改めて詫びる。どうか、ウィのことを宜しく頼む」

「……お義母かあ様」

 母がフェイジェンの手を取り、深々と頭を下げると、フェイジェンもまた同じように両手で母の手を握ってこうべを垂れた。

「……どうか、『公主』ではなく、『フェイジェン』とお呼びください。公主としての名は、現皇帝陛下である弟が諡号として付けてくれたものに過ぎません。公主としての自分は、六歳で死にました。わたくしにはもう、明国には帰るよすがもございませぬゆえ」

「分かった。しかし、そのいみなでは、明国からの追っ手の手前、支障もあろう。字は、どのように書く?」

 フェイジェンは、少し考えた末に、「失礼を」と断って、母の手を取った。その掌に、『徽娟』と綴ると、母は小さく頷く。

「……左様か。この字は、この国では『フィヨン』と読む。そなたを、これから『フィヨン』と呼ぼう。人に訊かれたら、今後はわたくしの母の姓を取って、ノ・徽娟フィヨンと名乗るがよい」

「はい、お義母様。ありがとうございます」

「時に、そなたの母御は?」

「……わたくしが、国で死んだとされてから、程なく亡くなったと聞いております。父の暗殺未遂の巻き添えを食って、その時負った傷が元で……」

「そうか……」

 母は、痛ましげに眉根を寄せると、フェイジェンの手を両手で包んだ。

「何とも、お気の毒なことだ。そなたさえよければ、わたくしを実の母と思って構わぬ。できることなら何でもするゆえ、遠慮なく頼っておくれ」

いたみ入ります」


***


(……掌返し、傷み入るぜ、ホンット)

 フェイジェンと姉二人と共に、母と貞明姉の部屋を辞してから、シアはモヤッとした感想を脳裏に呟いた。

 まったく婉曲することなく、直線的な感情をぶち撒けてしまった直後は、我に返れば子どもっぽいことをしてしまったと、恥ずかしくなった。が、それを聞かなかったら、母も自分の意見を曲げることはしなかっただろう。

 そう思うと、どうにも複雑な気持ちだ。

「――大君テグン様」

「え」

 棟のきざはしを降りると、それまでその場にいなかったミョンギルが、シアを呼んで頭を下げているのが目に入った。シアたちと共にここまでは来たが、礼儀として部屋までは入らず、ずっと外に控えていたらしい。

「え、あの……もしかして、聞い、てた?」

 ずっとここにいたということはそうかも知れない、と思いつつただすと、ミョンギルは、「はて、何のことでしょうか」とシレッと返す。

経緯いきさつはどうあれ、とにかく公主様とのことをお認め頂けたのなら、万々歳ではありませんか」

「……聞いてたんじゃねぇか……」

(うわー、恥ずっ……!)

 フェイジェンはともかく、まったくの赤の他人(ミョンギル)に聞かせるには、恥ずかし過ぎる爆発だ。掌へ顔を埋めると、ミョンギルは「忘れますゆえ、お気になさらず」と、ある意味とどめを刺しに掛かった。

「……っとに、嫌なヤツ……!」

「恐縮でございます」

「褒めてねぇっつってんだろ!」

 ガバリと顔を上げるが、ミョンギルは涼しい顔で、「時に」と早々(そうそう)に話題を転じた。

綾陽君ヌンヤングン様のことは、わたくしにお任せくださいませ」

「任せるって何をだよ」

 シアたちの泊まる僧房へ案内するという貞正姉に付いて歩き始めながら問うと、ミョンギルもあとに続く。

「大妃様に、ご理解頂けるように、わたくしからご説明申し上げます。このあとのことを考えれば、綾陽君様の大君様への感情を、ご理解頂く必要がありましょう」

「……ああ、うん……そうだな」

 このあとのこと――つまり、誰が主導するにせよ、反正パンジョンを起こしたのちのことだ。

 母は最初、綾陽君がシアに王位をくれると思い込んでいた。

 シアは、王位に就く気は毛頭ないが、綾陽君はそうは思っていない。そこが、綾陽君のシアに対する殺意の動機であり、言葉が通じないところでもあるのが面倒臭い。

 そして、反正のあとの、新王を任じる権限を母が握っている、というところが、更に面倒臭い。

 一応、母はシアの、王位に関しての意思は理解してくれたと思う。が、母の、綾陽君に対する認識がしっかりしていないと、新王が即位したあと、結局シアが命を狙われる展開にもなり兼ねないのだ。

 これも、一時の感情で爆発したあとで言うのも何だが、少なくとも反正がひと段落するまでは、何が何でも母を味方に付けておく必要がある。

 ――と、そこまで考えたところで、覚えず自嘲の笑みが浮かんだ。

「……シア?」

 それを、隣を歩いていたフェイジェンが、目敏く気付いたらしい。問うように名を呼ばれ、今度は苦笑する。

「……俺も、血は争えねぇなって思っただけ」

 母は、無意識にシアを王位に就ける野望を持ったのかも知れない。

 そんな母に反感を抱きはしたが、シアもまた、母を戦略の駒としか考えていない自分に気付いて愕然とした。自己中心的だという自覚はあったつもりだが、無意識に考えたことで更に自覚させられ、底なしの自己嫌悪に沈みそうになる。

(……あーあ……王族ってマジ、嫌な生き物だよなー……)

 一般人より低い身分階層の人間として育ち、民間の感覚にどっぷりひたって育ったつもりでも、ふとした場面で『王族』としての自分が顔を出す。正味、六年ほどしか王室では育っていないにもかかわらず、だ。

 これが逃れられない血筋というヤツか、と思うと、自分で自分を張り倒したくなる。

 後ろ向きになりそうな思考に気付いたように、フェイジェンがシアの手に、そっと自分の手を触れさせた。そのまま、指先を絡めるように手を繋ぐ。

 瞠目して彼女を見下ろすと、こちらを見上げた彼女が微笑した。微苦笑を返しながら、繋がれた手を握り返した時、「庵主アンジュ様!」と呼びながら、一人の尼僧が貞正姉のもとへと駆けて来た。

 彼女はやはり、灰色の僧衣を纏い、頭には山形の頭巾(コッカル)を身に着けている。

「何事です」

「あの……あの、門前に男の方がお見えです」

「男?」

 そのやり取りを聞いて、シアは眉根を寄せた。次いで、ミョンギルと目を見交わす。

 尼僧院は基本、男子禁制だ。

 シアやミョンギルが、普通に招じ入れられているので聞き流しそうになったが、二人は特に、貞正姉と特別なえんがあるからここにいられる。つまり、例外だ。

「分かりました。すぐに向かいます」

「あっ、あの」

 尼僧院の管理者として、当然の対応を取ろうとしていた貞正姉を、その尼僧が引き留めるような声を上げる。

「何?」

「それが、その……その男性は、ホン・ソボン様と名乗りまして」

「ホン・ソボン?」

 シアは、思わずその名を鸚鵡返オウムがえしになぞった。次いで、貞淑姉が、を踏み出す。

「そなた、今、ホン・ソボンと言ったか?」

「えっ? は、はい」

 突然、あまり馴染みのない女性に話し掛けられた所為か、尼僧はオドオドとした様子で頷いた。

 貞淑姉はそれに頓着することなく、シアとミョンギルのほうを振り返る。

 まさか、シアがここにいることを嗅ぎ付けて訪ねて来たのだろうか。その予想を確定づけるように、尼僧が言葉を継いだ。

「イム・シアという方に会わせろと」

「……あの野郎も、結構しつこいな」

 舌打ち混じりに呟くと、ミョンギルもそっと溜息をいた。

「まだ、大君様を王に、ということをお諦めでないのでしょう」

 どうやってこの尼僧院を探り当てたのか、という疑問は、愚問だ。

 あの男の情報網も、半端ではない。

 以前、反正の為の仲間はさしていないようなことを言っていたが、使える手勢はそれなりにいると思っていいだろう。最初にシアと決裂してから、ソボンがどうしているかは知らなかったが、あちらはシアの動向に目を光らせていたのかも知れない。

「……あーあ、マジ面倒臭めんどくせぇ……」

 側頭部に手をやり、深い溜息を零す。だが、あの男との決着も避けて通れないことは、薄々分かっていたことだ。

「……貞正姉上」

 目を上げて、貞正姉に視線を向ける。彼女は、「何?」と言うように、まばたきした。

「申し訳ありません。私はすぐにここを出ます」


©神蔵 眞吹2026.

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