第五章 安山《アンサン》にて~前編~
「次」
都を出る為の門の前では、検問が行われていた。
さっきの今では、まだ放火容疑者の手配は解かれていない。手配が解除されるのを待ちたかったが、こちらには生憎時間がなさそうだった。
『――すぐにここを出るぞ』
一旦離れの棟の中へ戻りながら、シアは開口一番、フェイジェンに告げた。
『どういうこと? もう外に出て平気なの?』
彼女が訊ねたのは、無論、シアの放火容疑者としての手配のことだったろう。
『使節団がそれを了承してくれたのは、ついさっきだ。手配が解かれるまで、もう少し掛かるだろうな』
『なら、解除されるまで待ったほうが』
『あんまり時間掛けられねぇ。バカ兄が意外にお前に執着してそうだから、アイツが完全回復するまでに都からは姿を消さねぇと』
『でもっ……』
反論し掛けた彼女は、眉尻を下げたまま、やがて俯いてしまった。彼女の中に渦巻くものが何なのか、シアにも何となく分かる気はした。
あのバカ兄――もとい、慶平君との一件は、フェイジェンの中にまだ影を落としているだろう。できることならすぐにも都を離れたいが、シアの手配のことを思えば自分を優先して欲しいなんて言えない、といったところか。
『……フェイ』
シアは、彼女の名を呼びながら、そっとその両頬へ掌を這わせた。促されるように上げた彼女の顔へ、自分の顔を伏せる。唇を短く啄んで、『気にするな』と告げた。
『だけど、』
『俺が嫌なんだよ』
無意識に鋭く言い捨て、再度、やや強引に唇を塞ぐ。思わず、といった様子で漏れた甘い声に煽られ、つい呼吸の限界まで貪ってしまった。
『ッ、……シア……?』
唇を離し、間近で向かい合った瞳が、口づけの所為で潤んでいるのが分かる。
『……ごめん……俺が、嫌なんだ。今もお前を側室にした気でいるアイツが、同じ都の中にいるなんて、耐えられねぇ』
今は怪我で寝込んでいるかも知れないが、すぐにも現れ得る距離にいるなど、正直言って気が気ではない。
『……一方的な、俺の都合だ。だから、お前は何も気にしなくていい』
案外、シアのほうが、犯され掛けたフェイジェン本人以上に、慶平君のことを気にしているのかも知れない。
『どうとでもなるさ。こういう状況には慣れてる』
彼女を抱き締めて、自分に言い聞かせるように彼女の耳許で呟く。
ただ今回は、どうやって、都を出るかが問題だった。まさか、妓生二人というわけにもいかないが、女の二人連れで怪しまれずに門を出るには、どういう組み合わせがいいだろう。
考え倦ねた頃、貞淑姉が離れを訪ねて来たのだった。
そして、今に至る。
「どなたの輿だ」
「東陽尉夫人、貞淑翁主慈駕だ」
答えたのは、護衛に扮したミョンギルだ。
「これは……ご無礼しました。どうぞ、お通りを」
この衛兵は、輿の中も、付き人の顔さえ検めることなく、すんなり通してくれた。この国の、大抵の人間――王族以外の人間は、王室の権威に弱い。
内人として、姉の輿の傍にいたシアは、ひどく冷めた気分でその様を見ていた。
このあと、自分が起こすか、それとも綾陽君が起こすかは分からないが、反正でも起きた暁には、望めばシアも生きて復位が叶うだろう。
けれど、それを望む気にはなれない。以前からそうだったが、今は特にその気持ちが強かった。
もちろん、フェイジェンとのことも、理由の大半を占めている。だが、それだけではない。
王族だと一言告げさえすれば、ほとんどのことは免じられ、時に一般人なら処罰されることでも罰を免れる。慶平君や仁城君が、いい例だ。
無論、王族を捕らえ、罪に問う機関もあるにはあるが、ほぼ機能していないと言っていいだろう。有名無実と言おうか、それとも絵に描いた餅と言おうか――機関も法律も、官公庁と文書があるだけなのだ。
王室や両班など、実質民に養ってもらっているクセに、その恩を平気で仇で返している。そう思うと、元王族であることが、ただただ恥ずかしい。
――と、一人自己嫌悪に陥る内に、いつの間にか門を出ている。
今回は、フェイジェンは姉と一緒に輿の中だ。まだ仁城君の目がどこにあるか分からない以上、彼女を外で歩かせるのは危険過ぎる。
目的地は、安山だった。
本当は、都を脱出するのに、姉の手を借りるつもりは微塵もなかったが、シン家を出る前に姉が訪ねて来たのだから、どうしようもなかった。
直接対面すれば、シアが姉の説得を逃れる術など、ないに等しい。
離れを訪ねて来た姉は、予定通り安山へ行くことを主張した。
安山には、貞正姉の営む尼僧院があり、そこへ母と貞明姉を匿ってもらっている。いずれ挨拶はするにせよ、シアにとってはそれは今ではない。だが、貞淑姉は、『どうせいく予定だったのだから』と、頑として譲らなかった(シアとしては、『そもそも自分は、はっきり「行く」という返事はしてない』と頑張ったが、無駄な抵抗に終わった)。
都から安山までは、約百里〔約四〇キロメートル〕程だ。馬で行くなら大して掛かる距離ではないが、輿のまま移動するとなると、徒歩に近いのでやや時が要る。
途中、陽川と始興の境まで来て、姉は乗っていた輿と供を都へ返し、ミョンギルの伝手で馬に乗り換えた。
ついでに、シアは女装を解いた。いくら何でも、これから母と姉たちに素性を明かし、あまつさえ結婚の報告までしなくてはならないのに、内人の格好のままでは情けなさ過ぎる。
髪の毛の染め粉はそのままに、頭部は上から濃紺の布で包んだ。染め粉を落としていたら、乾くのに一日は掛かるからだ。
先頭に立った貞淑姉が、やがて馬の手綱を引いたのは、始興を発ってからしばらく並足で馬を歩かせたのちだった。
長い階段の上に大きな門があり、その門を潜ると広い敷地内に塔や庫裡などの建物が建っている。寺はそんなに訪れたことがないが、規模は大きいのではなかろうか。
広々とした敷地を、貞淑姉について歩いていると、その奥に通じる階段から、僧らしき人間が降りてくるのが見えた。
灰色の上下を身に着け、頭部に白い山形の頭巾をかぶっている。ここは尼僧院なので、尼僧だということは分かるが、知らない顔だ。
だが、その尼僧を見た途端、姉が「チュニョン!」と声を上げた。
チュニョン、と呼ばれた尼僧は、弾かれたように上げた顔を、パッと輝かせる。
「貞淑姉様!」
応えるように貞淑姉を呼んだ尼僧は、残った階段を駆け下り、勢いそのまま走って来ると、貞淑姉に抱き付いた。それを貞淑姉も、しっかりと受け止める。
「姉様、お久し振りです。お元気そうで、何よりです」
「そなたもね、チュニョン。大妃様とランファは?」
「お二人とも元気ですわ。今は、僧房の一つにおいでです。お二人に会いに?」
「ええ。そなたにも立ち会って欲しいの。大切な話があって来たのよ」
貞淑姉が、チラリとこちらへ目を投げると、チュニョン――恐らくは貞正姉も、釣られるようにこちらへ目を向ける。そして、貞淑姉以外の三人に視線を走らせた。
「えっと……そちらはミョンギル殿、よね」
問われたミョンギルは、「はい」と言って頭を下げる。
「ご無沙汰しておりました。貞正翁主慈駕にもご健勝のご様子、何よりでございます」
「その二人は? わたくしは、会ったことがない、……ですよね?」
言いながら、貞正姉は、貞淑姉に視線を戻した。貞淑姉は、微笑して頷きながら、続ける。
「それも含めて、話に来たの。とにかく、大妃様とランファの所へ、案内してもらえる?」
「……はあ」
胡乱な目つきで見られたシアは、無言で会釈を返す。それに特に何か言葉を掛けるでもなく、貞正姉はきびすを返した。
***
案内されたのは、敷地の最も奥まった棟だった。
聞けば、ここにいる尼僧たちは皆、大なり小なり、大北派に煮え湯を飲まされた者ばかりらしい。主には、無実の罪で、夫や家族を殺された者が多いという。
「大妃様。いらっしゃいますか? ランファ」
棟の入り口の前で、貞正姉が訪いを告げると、ややあって、扉が開いた。
二十歳前後と思しき女性は、恐らくランファ、こと貞明姉だ。
慶運宮が炎上したあの日から比べると、大分輪郭がふっくらして来た。やっとまともに、安心して食事にありつけるようになったことと、暗殺の精神的負荷から解放されたことが大きいだろう。
「貞正姉様。貞淑姉様も?」
貞明姉は、貞正姉と同様、顔を輝かせると、急いで降りて来て二人に頭を下げた。
「お久し振りです、貞淑姉様。お元気そうで何よりです」
「そなたもね、ランファ。大妃様は、中に?」
「はい。どうぞ、お入り下さい。母も喜びます」
笑顔でやり取りしたあと、貞明姉はふとこちらへ目を向ける。視線がかち合い、シアは黙って会釈した。
貞明姉は記憶を探るような顔をしたが、思い出せないらしい。それはそうだろう。慶運宮が焼けたあの日、シアは女装していたし、髪の毛は、必要に迫られてとは言え水をかぶった所為で、白と黒の斑という、ちょっとひどい格好だった。
数瞬、粘ったようだが、やがて貞明姉は記憶を探り当てるのを諦めたらしい。改めて、姉二人に向かって「どうぞ、中へ」と屋内へ上がるよう示した。
部屋へ通された四人の内、貞淑姉と貞正姉は、揃って右手を上にして両手を重ねた。右膝から両膝を突き、頭を深々と下げ、右足から立ち上がる。
その動きを三度繰り返す礼を終えると、下腹部へ両手を揃え、浅く辞儀をした。
「二人とも、座るがよい」
「はい、大妃様」
上座に座った大妃――シアの母に言われ、二人はまた揃って答えると、下座へ腰を下ろした。
「久しいな、ミョンフィ。元気そうで安心した」
「恐縮でございます。大妃様もお変わりなく、何よりでございます」
貞淑姉が、会釈のように顎を引き、母に挨拶する。
「うん。慶運宮が焼けたのは何とも残念だが、こちらへ参ってからようやく人心地が着いた。チュニョンには誠、世話になっている。ミョンフィにも、改めて礼を言う」
「勿体ないお言葉、傷み入ります」
貞明姉同様、血色のよくなった母の顔を見ながら、シアはどことなく違和感を覚えていた。
母が、母でなくなった、ということではない。何というか――まるで遠い世界の、知らない人間を見ているような気がした。
その視線に気付いたのだろう。貞淑姉と一通りの挨拶を済ませた母が、フェイジェンと二人、立ったまま部屋の隅に控えているシアに目を向ける。
「……そなたは……」
声を掛けられ、シアは浅く腰を折った。同時に、微笑を浮かべた貞淑姉が、こちらへ顔だけを振り向ける。
「こちらへいらっしゃい、ウィ。そなたもご挨拶を」
シアは、「はい」と言ったあと、瞬時躊躇った末に、「姉上」と付け足した。途端、母と貞正・貞明両姉の視線が集中する。三人が三人とも、「えっ?」という顔をしていた。
若干の居心地の悪さを覚えつつも、部屋の隅に立ったままだったシアは、貞淑・貞正両姉の後ろへ歩んだ。そして、左手を上にして重ねた両手を、目の上まで持ち上げる。そのまま両膝を折り、床へ突いた手の上へ額を付けた。
立ち上がって深々と頭を下げる動きを三度繰り返し、立ち上がって浅く一礼する。
「母上、貞正姉上、貞明姉上、お久し振りです。ご挨拶が遅れ、申し訳ございませんでした」
挨拶を受けた三人は、まだ唖然としている。シアを『ウィ』だと、まだ認識できていないのだろう。
「大妃様」
一人、事情を心得ている貞淑姉が、母に向き直る。
「お知らせするのが遅くなり、申し訳ございません。ウィ本人が、大妃様とランファだけでなく、ほかの兄弟姉妹にも知らせるのを、どうしてもと拒んだもので、ここまで本人の意思を尊重して、ご報告を控えておりました」
「……貞淑姉上。まるきり私一人が悪いような仰りようは、おやめ下さい。思いっ切り誤解招くじゃないですか」
「あら。わたくしは、嘘は言っていなくてよ?」
貞淑姉は、また背後にいるシアを振り返り、苦笑した。確かに、彼女の言うことは十割嘘ではないが、それにしたって、とシアは内心眉根を寄せる。
「大妃様」
それに構わず、貞淑姉はまた母のほうへ顔を戻し、膝行した。
「どうぞ、お側に」
と言いながら、母の手を取る。
「あなた様の愛しい息子が、生きて戻ったのです。どうか、お言葉を」
「ミョンフィ……」
母は、見る間に涙で目を潤ませ、呆然と貞淑姉を呼ぶ。
「まさか……誠に? 誠に、ウィが、わたくしの子が、生きて、戻ったと?」
うわごとのように繰り返しながら、母は貞淑姉とシアの間で、視線を行き来させた。
「誠ですよ。どうか、ご自身でお確かめを」
「ああ……!」
シアを見上げるように顔を上げた母の頬に、涙がボロリと転がる。それに頓着することなく、母は立ち上がったかと思うと、ぶつかるようにシアに抱き付いた。
「ウィ! そなたは……誠に、ウィなのね!?」
「……母、上」
「ああ、夢ではないのか? よく、顔をお見せ」
もう放すまいとするかのようにきつく抱き竦めたかと思うと、腕を緩めた母の掌が、両頬を包む。
「大きくなって……立派になって……ああ、よかった……そなたが亡くなったとされた日、夢を見たのだ。そなたが炎の中で、わたくしに助けを求める夢を……あれきりだと思っていたのに、よく無事で……」
もう、母の言葉は支離滅裂と言ってよかった。繰り言のように呟いたかと思うと、再度抱き締められる。
「ウィなの? 本当に?」
母の後ろから、いつの間にか立ち上がっていた貞明姉も、シアの顔を覗き込んだ。
「どこかで見た顔だと思ってたの……割と最近だと思ったけど、違ったのね。ウィだったから……」
「いえ、あの」
「最近だったはずよ」
貞淑姉が、横から割り込む。
「えっ?」
「大妃様もです。慶運宮が燃えたあの日、お二人を炎の中から救い出したのは、ウィだったのですわ」
瞬時、シアの身体に絡めた腕を緩め、貞淑姉の顔を見ていた母は、またノロノロとシアのほうへ顔を戻した。
「そう、だったの……」
呆然と言った母が、シアの頬へ手を滑らせる。
「すまない。何故、気付かなかったのだろう。すぐ傍にいたのに……」
(そりゃー、気付かれないように立ち回ってたし変装もしてたし?)
そう簡単に気付かれたら困る、と思うが、わけの分からないばつの悪さで目が泳ぐ。しかし、泳いだ先にいた貞正姉とも目が合った。
「よかった……やっぱり、生きていたのね、ウィ」
貞正姉は、シアの空いた手を、自身のそれで握る。
「……やっぱりって仰いました?」
思わず確認すると、貞正姉は苦笑した。
「だって、公然の秘密みたいなものだったから」
彼女がシレッと告げると、貞明姉が「嘘!」と噛み付くように貞正姉のほうを向く。
「そんなの、私もお母様も知らなかったよ!」
「ごめんね? 確定事項じゃなかったから、やっぱり亡くなってたってなったら、言ってもガッカリさせるかと思って」
「ひどい、貞正姉様!」
「よい……よいのだ。こうして無事に戻ったのだから……それが分かったのだから……」
母の、抱き締める腕に力が籠もる。母の嗚咽を耳許で聞きながら、シアはそっと彼女の背に腕を回した。
***
ひとしきり抱き合った(と言うより、シアが一方的に母と姉二人に、ほとんどもみくちゃにされた)あと、やっと落ち着いた様子の母が、改めて上座に座り、すぐ傍へ座らせたシアの両手を握った。
「それで、ウィも当分、こちらにいるのよね?」
そう思って当然だろう。
何しろ母は、シアが死んだとされた年以降、記憶を失っていた上、武装官庁の元・長に容赦なく武術を叩き込まれながら、ほとんど武術修行と男をたらし込んで受け流す術を身に着けながら育って来ているなど、夢にも思うまい。
何も身を守る術を知らない幼い息子が、命辛々、ここまで逃げおおせて来たと思っているのだ。母と姉に会いに来たのなら、ここで当面、心安く過ごさせてやりたいというのが母心だろう。
だが、シアは無情とも言えるほどあっさりと、首を横へ振った。
「いいえ、母上。少し休んだら、二、三日内にはここを発ちます」
「そんな」
母は、分かり易く落胆した表情になる。
ガッカリさせるのは申し訳ないが、色んな意味で面倒ごとに決着を付けるのに、今はあまり時間を掛けてはいられない時だ。
「つきましては、母上」
「何?」
「その……」
シアは、フェイジェンのほうへ、チラリと目を向けた。
どう切り出したらいいだろう。つい最近、妻にしたと紹介するのは簡単だが、今の母にはもしかしたら、受け入れられる精神的な許容量を超えているかも知れない。
だが、フェイジェンは、もう覚悟を決めたという顔で、歩を踏み出した。室内のすべての者の下座に当たる場所で、万福の礼を取る。
「この国の大妃様、公主様、翁主慈駕に、ご挨拶いたします。申し遅れました。わたくし、明国先帝・泰昌帝が第一皇女・懐淑公主、諱をジュ・フェイジェンと申します」
「えっ?」
と思わずといった様子で声を上げたのは、母だ。貞正・貞明両姉も、今日二度目の『唖然』を披露している。
しかし、驚愕は一度に済ませてしまおうというのか、フェイジェンは畳み掛けた。
「そして、事後報告になりましたが、このほど、そちらの永昌大君様とわたくしは、夫婦の契りを結びましてございます。何卒、お許し頂きたく」
「はあ?」
これは、貞明姉だ。
「……えっと……ちょっと待って」
さすがに、シア(とフェイジェン)を除けば、この中で一番若いだけあって、立ち直りも早い。
「ねぇ、ウィ」
「はい」
「確認していい?」
「……どうぞ」
と言いつつも、目が泳ぐ。何を質されるのか、予想できるようで、できない。
「今、この子は、自分のことを、明国先帝の皇女だって言った?」
「言いました」
「で、あなたと結婚したって言った?」
「……言いました」
「本当なの?」
「掛け値なしに本当です」
「何でそんなことになってるの? そもそも、どうして明国の皇女様がここに、この国にいるの? 明国は何も言わないの?」
矢継ぎ早とはこのことだという、手本のような質問の仕方だ。
しかし、礼をしたままのフェイジェンをまずどうにかしなくては、とシアはフェイジェンに顔を向けた。
「……フェイ、座れよ」
「いいえ」
「母上が、衝撃から立ち直るまでそうしてる気か?」
「それは……でも」
「懐淑公主様。とにかく、お座りに」
見兼ねたのか、貞淑姉が口を開く。
フェイジェンは、貞淑姉とシアの間で、しばし視線を行き来させた。が、二人で辛抱強く、無言で促し続けると、フェイジェンは諦めたように再度会釈し、その場へ腰を下ろした。
それを確認した貞淑姉は、正面へ顔を戻す。
「大妃様」
「……何だ」
「あとの説明は、わたくしから申し上げます。宜しいですね、公主様」
貞淑姉が、フェイジェンに確認を取る。彼女が頷くと、貞淑姉は母に向き直り、フェイジェンから聞いた彼女の過去、彼女が国を脱した経緯、彼女が未だに国の隠密機関から追われていることを、そっくり母(と貞正・貞明両姉)に話した。
貞淑姉が口を閉じると、気まずいとしか言えない沈黙が、室内に落ちる。
母は、随分長いこと、四方枕に凭れ、指先を額へ当てていた。が、やがてユルユルと顔を上げる。
「……懐淑公主様、と言ったか」
「はい、大妃様」
「そなたの申すことは、本当に事実か?」
「事実でございます」
「なれば、尚のこと、我が息子と一緒になる意味を考えるべきであろう。契りを交わしたのなら仕方がないと言える次元の話ではない」
「母上!」
「そなたは黙っていよ、ウィ」
母は疲れたような目を、フェイジェンにだけ据えている。
「公主様」
「はい」
「一夜の契りなれば、どうか、間違いであったとして、黙って去ってくださらぬか」
「母上!」
「黙っていよと申したはずだぞ」
「いいえ、黙りません。私は、彼女を愛して妻にしました。身分も国も、関係ありません」
「ウィ!」
「彼女がこの国の民で、最下層の身分の者であったとしても、私は妻に娶りました。彼女は、私が記憶を失っていた頃から、」
「黙りなさい!!」
ついに金切り声を上げた母の手が、シアの上腕部を掴む。
「自分が何を言っているか、分かっているの? そなたは生きて戻って来た。その内チョン……綾陽君がきっと反正を起こし、我らを救い出してくれよう。そうなれば、そなたも大君として復位するのだ。いや、そなたが生きているとなれば、道義上、チョンはそなたに王位を譲ってくれるだろう。その時、その者を王妃として迎える意味を考えなかったの?」
(……結局、母上もこういう人種か)
シアは、失望にも似た感情を、溜息と共に胸の内へ畳み込む。同時に、先程感じた違和感の正体を、何となく悟った。
一度記憶を失い、身分的に最底辺で育ったシアは、王室とはかけ離れた所で価値観を育てて来た。その所為で、ずっと王室の内側で生活していた家族とは、家族でありながら価値観がズレにズレて、修正不可能になっているのだと。
特に母は、王の正妃として、また夫亡きあとは新王の嫡母として、一時とは言え王室の頂点に君臨した女性だ。その地位に就いた女性なら、一度は抱くのかも知れない。
己が腹を痛めて産んだ息子を、王位に就けるという野望を――。
「――母上。ほかの者には食傷するほど言った言葉ですが、私は公式に生き返るつもりも、王位に就くつもりもありません」
「何だと?」
「それと、ファベク兄上が母上に何と申したかは知りませんが、兄上は私に王位を譲る気など、毛ほどもありませんよ」
「何?」
母は眉根を寄せた。
「そんな……チョンは、筋は筋として通す子だ。母は、幼い頃からあの者を見て来たゆえ、そなたよりはあの者をよく知っている」
シアは、思わず嘲るような嗤いを零す。
「母上のご記憶にあるファベク兄上がどうだか知りません。……いえ、幼い時分の私の記憶にいる兄上と、大差ないでしょうね。ですが、私は都に戻ってから一度、兄上にも会っています。そのあと、程なく殺され掛けましたよ。王位に就くのに、私のこの身体に流れる血筋が、邪魔で仕方ない、という理由でね」
「バカな」
「誠です」
口を挟んだのは、フェイジェンだ。
「わたくしは……あの者の手先となって、大君様を死に追いやる働きをせざるを得ませんでした」
「何と!?」
「彼女自身、追われる身だというのは、今し方母上もお聞きになったはずです。身の安全を担保すると兄上に唆され、途中までは兄上に従っていましたが、瀕死の私を助けてくれたのも彼女なのです」
「白々しい! 一度そなたを殺す策謀に加担した者を信ずると!?」
「彼女ほど信用できる他人は、私の人生経験上、数えるほどしかおりませんよ。時に、母上」
「何だ」
「その口振りですと、ファベク兄上の変心は信じて頂けるのですか?」
矛盾点を寸分違わず突いてやると、母はグッと言葉を詰まらせる。その隙に、シアは遠慮なく踏み込んだ。
「とにかく、私が公式に生き返らなければ、王位に就く可能性は零です。ゆえに、フェイジェンが王妃になるという心配も無用。加えて、彼女も最早、国に戻る気も公式に生き返るつもりもありませぬゆえ、彼女との結婚をお認めくださるのに、支障はございませんよね?」
とどめに、ニッコリと満面の笑みを浮かべて母を見つめる。
母は、陸に打ち上げられた魚の如く、口をパクパクとさせていたが、やがて長い長い諦念と取れる溜息と共に立ち上がり、無言でその場を去ってしまった。
それを見送り、シアと見比べた貞明姉が、なぜかボソリと「末っ子って怖」と呟いた。
©神蔵 眞吹2026.




