第四章 それぞれの始末~仁城君《インソングン》~
随分長いこと考えているように見えたイーは、やがて吐息と共に、「分かりました」と告げた。
「誠ですか」
「と仰いますと?」
「誠に……わたくしへの嫌疑と手配再開を、取り下げて頂けると?」
シアが、慎重に問うと、イーは穏やかな表情で頷いた。
「私も、長いこと官界におります。官界では、騙し騙されのやり取りも数多く経験しましたが、その経験上、あなた様のお言葉に嘘は見出せない。私も、個人的には国同士の対立を煽るようなやり方を、好んでいるわけではありませぬ。誤解だと仰るのなら、公主様のお言葉を信じましょう」
「ありがとうございます! 心より、感謝申し上げます」
シアは、これは本当に心底から礼を述べ、深々と頭を下げた。
「ただ、あの……一つだけ、お願いがございます」
「何でしょうか」
ゆっくりと頭を上げつつ、シアは言葉を継ぐ。
「使節団から、究明を取り下げて頂く際、わたくしの名は出さないでくださるとありがたいのですが」
なぜだ、と問いが続いた上、口止め料的に無理難題を吹っ掛けられることも半ば覚悟していたが、意外にも、イーは「分かっております」と首肯した。
「王殿下に、『何故急に、何の取引材料もなく要求を引っ込める気になった』と問われた場合、公的には王族としての地位を剥奪された公主様のお言葉を優先したとなれば、さすがに王殿下も面白くないでしょう。そうなれば、逆にこちらが、王殿下への不敬を問われ、明国に不利な形で新たな火種を蒔くことにもなり兼ねませぬゆえ」
「では」
「先の質問を王殿下からご下問あった時には、私の手の者の調べにより、誤解と行き違いがあったことが判明した、と申し上げます。どうぞ、ご安心を」
チラリとミョンギルに目をやる。
イーとの付き合いは、ミョンギルのほうが長かろう。果たして、イーの言葉を、額面通りに受け取っていいものか――その意を、ミョンギルは正確に汲んでくれたらしい。
小さく、目だけで頷くのを確認し、シアは「ありがとうございます」と改めて頭を下げた。
***
「時に、公主様」
「何でしょうか」
敷地内、門前まで見送りに出て来たイーが、ふと思い出したという調子で口を開く。
「先程、公主様は身を隠しておいでだと仰いましたな」
「はい」
「いずれに?」
「申し訳ございません。どこから情報が漏れるか、昨今分からぬもので……決して、ジェン殿を疑うわけではありませぬゆえ、何卒お察しくださいませ」
シアは、肩先に引っ掛けていた外套を、元通り頭からかぶり直しながら答えた。すると、(本心はどうだか分からないが)嫌な表情一つ見せず、イーは「いいえ」と首を横へ振る。
「単に老婆心から、お泊まりになる場所はおありなのかと思っただけです。どうぞ、お気になさらず」
「お気遣い、ありがとう存じます。お気持ちだけ、ありがたく頂戴致しますゆえ」
では、と互いに頭を下げ、シアとミョンギルは南別宮をあとにした。
正門から出たので、そうするともなく周囲の気配を探る。少なくとも、視界に入る範囲に、仁城君はいなさそうだ。
「……ミョンギル」
「は」
正門から真っ直ぐ歩いて、来た道を引き返すような経路で貞淑姉の家を目指しながら、シアは小声でミョンギルを呼んだ。
「使節団、このあと何か動くと思うか」
「シア様について、調べるかどうか、ということですか?」
「ああ。明国が朝鮮の王室に首突っ込む絶好の機会だ。俺が連中なら逃さないね」
「……そうですね。楽観的になるにはまだ早いとは思いますが……わたくしなら此度は、行動したとしても、調べて情報を得るまでに留めるかと」
「どうしてだよ」
「普段、明国は自分の国の大きさに飽かせて、使節団派遣の度に、無理難題を吹っ掛けることに余念がありません。ですが、さすがに此度は、いくら皇帝陛下の名代という名分があるとは言え、非公式に朝議の場へ殴り込みを掛けるようなことをしました。懐淑公主様のお話から推察するに、今は皇帝の権限はウェイという太監が握っているようですが、その太監にしろ、此度の件は一つ間違えば戦に発展する、という辺りは分かっているはず」
隙のない正論に聞こえたが、シアは眉根を寄せる。
「だけど、それこそ明国は国の大きさと軍事力の差で、いっつも朝鮮に圧力掛けて来てんだぜ。明国にしてみりゃ、戦なんて怖くないだろ。絶対に自分たちが勝つと思ってるだろーしな」
「シア様は、サルフの戦いをご存知で?」
「へ?」
一瞬、まったく明後日の話を振られた気がして、シアは足を止めないまま、眉間のしわを深くする。
「何だ、それ」
「万暦四十七〔西暦一六一九〕年――今から三年程前の話です。それより更に三年前の万暦四十三〔西暦一六一六〕年、それまで女真族と呼ばれていた彼らが、国を建てました。それが、後金と呼ばれていることは?」
「……風の噂、くれぇには」
自分の無知に踏み込んで来られた気がして、シアはある種のばつの悪さを覚えつつ答える。
「サルフの戦いは、明国と、その後金の間に起こった戦です。その際に、この両国は、こぞって我が国に使者を送って来て、それぞれに要求を我が国に突き付けました」
明国からは『加勢せよ』という要請、後金からは『明国に加勢したら、次は朝鮮の番だぞ』という脅迫が届いたという。
「両国の板挟みに遭った現王殿下は、奇策を実行に移されました。ちなみに、シア様ならどうなさいますか?」
「え」
更にまた、思わぬ問いを振られ、シアは一瞬固まった。
「……それ、俺が兄上の立場だったらって話か」
「左様です」
「えー……」
シアは、しばし考え込んだ。明国の要請に応えれば後金が黙っておらず、後金の要請に頷いて援軍を出さなければ明国が黙っていない。
「……どっちに付いても地獄だったら、両方の言うこと聞いてみる、とか?」
「具体的には」
「んー……まず、明国の要請に応える為に出兵だけしといて、後金の要請にも応える為にテキトーなトコで白旗振っとく」
答えながら、シアは横目でミョンギルの顔を窺う。
そうは言っても、今のシアは発案するだけだ。本当にその場で、しかも民のことまで考えなくてはならない『王』の立場なら、あまりにも命懸け過ぎる綱渡りである。しかも、自分の命だけでなく、下手をすれば民も巻き込む。
しかし、『杜撰過ぎる』という呆れた表情を予想していたのに反し、ミョンギルは唖然と口を開けていた。呆れよりもひどい、という意味かと思えば、彼は「ほぼ正解です」と、やや呆気に取られたように呟く。
「正解?」
「現王殿下も、シア様が仰ったのと、まったく同じ方法を採られましたよ」
「……マジで?」
「マジです」
「それ、上手く行ったわけ?」
「取り敢えず、両国と直接、大きな戦にはならずに済んでいます。国内大半の平穏を守った、という意味では成功でしょう。ただ、要請があった直後には、臣下の八割は、壬辰倭乱の時に援軍を送ってもらった恩を盾に、明国に味方するよう進言したそうですから、当時、援軍を率いる都元帥に任じた姜弘立様に、シア様の仰る『テキトーなトコで白旗を振る』よう指示するのは、かなり大変だったそうです」
「……で、戦の結果は?」
「明国側の完敗です。お陰でカン都元帥様と、副元帥・金景瑞様が捕虜となられ、未だお戻りではありません」
何と言っていいか、分からない。国王としては、民は守れたのかも知れないが、カン・ホンリプやキム・ギョンソ、彼らの家族にはとんだとばっちりという奴だ。
「そういう事情で、明国としては今、朝鮮とコトを構える余裕はないはずです。皇室と朝廷も一枚岩ではないと推察できますし、よしんば開戦を唱える者がいたとしても、そんなことをすればすぐに後金から背後を突かれる可能性が高い。ジェン殿は、それが分からぬ男ではありません。朝廷にも我々にも、これ以上の追及は今回、ないと思って差し支えないと存じます。全力で安心、とは行きませんが」
その場凌ぎってトコか、と、シアも溜息を吐く。だが、『その場凌ぎ』でもないよりはマシだ。
そう思った直後、シアは目を見開いた。殺気に似た気配に総毛立った瞬間、前触れなく右手を掴まれ、路地へと引きずり込まれる。
「ッ、――――!!」
息を詰めるような、声にならない声が、どちらから上がったものか。
路地を構成する塀へと叩き付けられ、シアは思わず一瞬目を閉じた。上げた視線の先には、高位の武官の着る、黒が基調の軍服がある。
「……姉上。一体何をお考えです」
スゲチマの上から、仁城君のものと思しき声が振って来た。
どこかで監視しながら、人目に付かずにこちらを拘束できる時を待っていたのだろう。
右手を掴まれる刹那までその気配に気付かせないとは、さすがというしかない。
「あそこがどこだとお思いで? 南別宮で、使節団と何を話して来たのですか!!」
激高したように叫んだ仁城君は、力尽くでスゲチマを毟り取った。首を竦めるようにして、またも瞬時目を瞑ったシアの開けた目と、こちらを直視し、初めてこちらが誰かを確認した仁城君の見開かれた目が交錯する。
「そなた……いや、お前、は」
「どなたです」
とっさに、貞明姉を装う口調で告げた。
仁城君は、シアの女装姿を見るのは初めてのはずだ。ならば、誤魔化し切れるかも知れない。
見抜かれたかどうかも分からないのに、こちらから正体を暴露するなど、愚の骨頂だ。しかし、口を開いたのが失敗だった。
「その声……貴様、ウィか」
「……何だ、もうバレたか」
舌打ちと共に言って、塀へ縫い止められた腕を取り戻そうとする。だが、仁城君とも――というか、そもそもシアは、平均的な体格を持つ男たちと比べて小柄過ぎる。その為、相手が仁城君でなくても、押さえ込まれたら容易には振り解けない。
「何故、貴様があそこから出て来た」
「あんた、シン家から俺らを追ってたんだろ? だったら南別宮に入って出て来たのも見てただろーが。何今更、何故とか言ってるわけ?」
「屁理屈を捏ねるな」
早くも苛立ったのか、仁城君がシアの手首を握った手に力を込める。今にも骨をどうにかされそうな痛みがかすかに走り、シアは唇を噛んだ。
「私が訊いているのは、何故お前が貞淑姉上の家から出て来たのだということだ」
「それがあんたに関係あるのか、よっ!」
言うなり、シアは仁城君の爪先を思う様踏み付け、次いで向こう臑に蹴りを入れる。
短い悲鳴を上げた仁城君は、反射的にシアの手首を放した。透かさずシアは、相手と距離を取る。
「~~~~ッッ……貴ッ様……!」
屈み込むような体勢で自身の臑を押さえた仁城君は、歯軋りしながらこちらを睨め上げた。
シアは、油断なく身構えながら、ふん、と鼻先を鳴らす。
「あんたがシン家に押し掛けて来た経緯はどうでもいい。即刻、シン家の包囲を解け。それから、もう二度とシン家に押し掛けて来るんじゃねぇ」
「ッ、きっ、貴様に指図される謂われはない!!」
「あっ、そ。じゃ、これから南別宮に垂れ込むぞ」
「何をだ」
「俺は今のトコ、使節団に貞明姉上だって認識されてる。今さっき、お暇して来たトコなんだけど、引き返して、仁城兄上に殺されそうだから助けてくれ~、って言ったら、どうなると思う?」
不敵な笑いを口許へ浮かべて問うと、さすがに仁城君の顔色が変わった。
「何を……貴様、何を考えている」
「何をって?」
「そんなことをしてみろ! 下手をすれば、明国に王室にまで介入される!! 今でさえ、対等な関係を保つのが難しいというのに、完全に隷属状態になるぞ!!」
「へぇ? あんたもその辺は分かってんだ」
「ふざけるな!!」
怒りが、臑の痛みを忘れさせたのか、仁城君は勢いよく立ち上がる。だが、シアは無表情に仁城君を見つめた。
「ふざけてなんかいねぇよ。俺にだって分かってる。明国との対等な関係なんて見せ掛けで、今もうすでに思いっ切り隷属状態だってことくらいはな」
「ウィ!!」
「やって欲しくなきゃ、あんたがシン家から撤退しろよ。それで万事解決だ」
仁城君の眉間が、ピクリと震える。
「貴様、本当に分かっているのか。表立って隷属状態になれば、貴様の大事な西宮やランファも無事では済まぬのだぞ」
「そうやって慌てて俺を牽制するトコ見ると、あんたにはいるんだな。大事な人間ってヤツが」
仁城君は、今度は眉尻を跳ね上げた。が、唇をきつく噛み締めるだけで、答えない。
「言っとくけど、俺は本気だ。あんたがシン家から撤退しないなら、家族全員と心中する覚悟くらいある」
「何だと?」
明らかに狼狽した仁城君に、シアは前触れなく肉薄し、胸倉を掴んだ。
「なあ、こんなこと、何でもねぇだろ? あんた、覚悟があって貞淑姉上の長女、斬り殺したんじゃねぇのかよ」
額を付き合わせるような距離で、瞬時睨み合う。忌々しげにこちらを睨め下ろす仁城君は、何か言い返す気配はない。
「貞正姉上の旦那殺して、姉上のお腹の御子も、結果的には流産させたろ? 自分が同じ目に遭うかもとか、考えなかったわけ」
「あれはっ……! 姉上とチュニョンが悪いのだ!! 大人しく西宮とランファの降格に同意しないからっ……!!」
「で、俺の件――七庶獄事についても捏ち上げだって知ってたクセに見逃したんだろ? あんた、自分が気に入らないヤツを殺すのは躊躇わないクセに、自分の周囲の人間に危害加えられるのが嫌って、どんだけ質悪い自己中なわけ」
「調子に乗るなよ、クソガキが!!」
仁城君も、ついに実力行使に出た。シアの手首へ、素早く自身の手を伸ばす。
だが、シアは仁城君の手に掴まれる前に、相手の胸倉を引っ張り、その動きに合わせて仁城君の足許を払った。もんどり打って倒れた彼の腰にあった刀を鞘ごと奪い取り、引き抜く。
流れるような動きで彼の首筋へ刃を当てると、仁城君が息を呑むように、起き上がろうともがいていた動きを止めた。
「……こっちの台詞だよ、クソ兄貴」
滅多に出さない低い声音を落としながら、無感情に相手を睨み据える。
「三度目は言わねぇ。今すぐ、シン家に行って、兵士を連れて引き上げろ。そんで、二度とシン家に危害を加えるな。それを約束しねぇなら、俺は即刻、南別宮に駆け込む。これも三度目は言わねぇぞ。俺は本気だ。何しろ俺は今、公式には死んだことになってて、何の権限もないし、あんたを一捻りにできるような権力持った味方もいない。だから、利用できるモンは全部利用する。結果的にそれで国と心中することになっても、自分が一人で死ぬことになるのと、俺には大差ねぇんだからな」
こちらの本気度合いを、ようやく呑み込んだらしい。
彼の私邸で一戦やらかした時と同じ人物とは思えないほど青ざめた仁城君は、脂汗を流しながら、やがて悔しげに項垂れた。
***
シアと南別宮付近で出会した際、仁城君は一人だった。
聞けば、ついて来た兵士は、一旦シン家へ帰したらしい。
刀は没収したまま、仁城君を小突きながらシン家へ戻ると、彼は兵士に、引き上げるよう指示を出した。
馬上に乗った彼は、悔しさと、どこかシアに対してのある種の恐怖をない交ぜにした表情で、シアを見下ろしている。
「じゃあな。くどいようだけど、二度と貞淑姉上に手ぇ出すなよ。ほかの兄弟姉妹にもだ」
「……さあな」
「そんなこと言っていいのか? 今からでも俺は南別宮に行くぜ。あんたが約束できねぇってんならな」
「お前の息の根を止めれば済む話だが?」
「喧嘩なら、いつでも受けて立つぞ。顔通りの腕だと思ったら、オオマチガイだぜ」
「前に私と戦り合ってコテンパンにされたのに、まだ懲りぬのか」
「あん時と同じ腕だと思ってたら、オオマチガイだっつってんだ」
仁城君は、フン、と鼻を鳴らした。
「使節団が去ったら、また来ればいい話だ」
「それ実行して、無傷で済むと思ってる辺り、やっぱあんたも箱入り王子だな」
冷えた視線が、静かに火花を散らす。
やがて、仁城君は再度鼻を鳴らし、馬首を返した。
「使節団の滞在中は手を出さん。それだけは確約しよう」
「ドヤ顔で言ってんじゃねぇよ、クソ兄貴がっ」
シアは、それまで持っていた仁城君の刀を、彼に向かって放り投げる。
すでに背を向けていたはずの仁城君は、上半身だけ捻ってこちらを向くと、その刀を片手で受け止めた。自身が手にした刀に、見開いた目を向けている。
「忘れ物だ」
舌打ちしながら告げて、シアもシン家の門へ歩を踏み出した。
「開門! 誰かいる?」
扉を叩くと、閂を外す音がし、シン家の私奴が顔を覗かせる。
「ウィ……シア!」
私奴の手前か、あとからやって来た貞淑姉が、慌てて外向きの呼称に直し、その割にはシアを躊躇いなく抱き締める。
「よかった……無事で戻ったのね」
「……ご心配お掛けしました」
「本当よ。ランファになりすますと言い出して実際に出て行った時は、肝を潰しそうだったわ」
「こちらは無事ですか」
「何とかね」
短いやり取りを済ませ、姉はようやく身体を離す。
そして、シアの背後へ目を向けた。
「そなたもご苦労様、ミョンギル殿。首尾は?」
「上々でございます」
振り返った先で、ミョンギルがシアにとも姉にともつかぬ様子で頭を下げている。
「詳しいお話は中で。シア様も、細君がお待ちでしょう」
細君、と言われると、何だか気恥ずかしい。苦笑して、肩先を竦めると、シアは元いた離れへ足を向ける。
しかし、程なく離れの中へ入る、という間合いで、ミョンギルが「大君様」と小声でシアを呼び止めた。
「何だよ」
「先刻のことですが」
「いつ?」
「仁城君様と言い合っていたことです」
「……ああ」
ミョンギルの顔は、普段通りの無表情に見える。が、どこか強張っているようにも思えた。
「……本気では、ございませんよね?」
「どの点に言ってる?」
「国と心中する、と仰っていた」
「あのクソ兄貴が、こっちの要求呑まなきゃ、本気でやってたぜ」
冷えた目で彼を見つつ、同じ温度の声で答えると、ミョンギルは息を呑んだように瞠目する。が、シアは構わなかった。
「今更取り繕っても意味ねぇだろ」
再度、肩先を小さく上下させると、苦笑交じりに続ける。
「前にあんたも聞いたと思うけど、俺は一度朝廷に殺され掛けてる。そんな朝廷が治める国に、命捧げる気なんか更っ々ない。光海兄上に対しちゃ、尚更だ。仁城兄上にしてもそうだけど、あいつら、今の俺にとっちゃ、『兄』って名前の付いた他人なんだよ。兄弟姉妹を平気で殺しちまう仁城兄上もそうだろうけど、あいつらに対して兄弟の情なんてないのはお互い様だ。仁城兄上みたいなのがのさばってんの、放置しとく光海兄上も光海兄上だ。あんな連中が蔓延り続けるなら、いっそ一度ぶっ壊すのも手だろ。もっとも、何もしてない民にまで迷惑掛けるのは本意じゃないけど」
言いながら、シアは髪に纏わり付いていたテンギを解いた。
「これも前に言わなかったか? 俺ほど自己中な男はいない。手ぇ引きたかったら、いつでも引けよ」
だが、強張っていたミョンギルの表情は、どこか泣き出しそうな苦笑へ変わる。
「……いいえ」
シアの予想とはやはり真逆の答えを口にした彼は、胸元へ手を当て、頭を下げた。
「それを伺ったら、益々放ってはおけません。今後も、お供致します」
「あんたも物好きだな」
クッ、と笑うと、ミョンギルも苦笑を返す。改めて、深々と辞儀をした彼が去って行く背を見送り、離れのほうへ顔を向けると、階の上にフェイジェンが立っていた。
「……いたのか」
どこから聞いていたのか、という、恐怖にも似た疑問よりも、無事な彼女の姿を確認できた安堵が先に立つ。ホッと息を漏らすと同時に、靴も履かずに階を降りた彼女は、ぶつかるようにシアに抱き付いた。
「……悪い。残っててくれて、感謝してる」
ここを出る時、彼女には結局シン家へ残るようにという提案しかできなかった。行き先が、明国から来た使節団の滞在所だったのだから、仕方ないことは彼女にも分かっていたようだ。
貞淑姉が共に行く予定だった時と変わらず、素直に頷いていたが、表情にはやはり不安げなものがあった。
仁城君が、慶平君の名と、彼がまだフェイジェンを側室として認識していることを口にしたのが気になっていたのだろう。
シアが抱き締め返すと、フェイジェンは小さく首を横へ振った。顔を上げた彼女は、シアの首筋へ腕を回し、後頭部を引き寄せる。
彼女にされるまま身を屈めたシアは、彼女の要望通り、その唇を彼女のそれへ重ねた。
©神蔵 眞吹2026.




