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第三章 それぞれの始末~明国使節団~

 みはった目と、フェイジェンのそれが噛み合う。どうやら、彼女も同じ気配を感じ取っているらしい。

 そうする意図があったわけではないが、彼女に向けていた目を、集中するように泳がせる。

 正確な人数は、分からない。ただ、かなりの数が、シン家の敷地を囲んでいるのが分かる。

 隠そうともしていない、殺気に似た気配は、いっそ清々しい。

「開門! 開門せよ!」

 響いた大音声だいおんじょうと、乱暴に大門テムンを叩く音は、敷地の奥まった場所にあるはずの離れにまで響いて来た。

 舌打ちをして立ち上がる頃には、フェイジェンは腕の中にいない。と思った直後、彼女は「はい」と言いながら、部屋に置いてあったシアの刀を差し出した。

「……フェイの刀、早いトコ新調しねぇとな」

「その隙もくれないなんて、ケチなお客人(・・・)ね」

 クス、と笑った彼女は、もういつもの彼女だ。あるいは、こんな殺気に囲まれたら、戦闘態勢に入らざるを得なかっただけかも知れないが――。

 瞬時、彼女と目を見交わして、部屋を出る。離れの建物から庭へ降りるが、視界に入った大門は、予想に反してまだひらかれていないようだ。

「早くせぬか! 誰か在宅しているであろう!」

「はっ、はい、只今――」

 最早、恫喝のようになった声に怯えたのか、シン家の私奴サノと思われる男が一人、慌てて門の閂に手を掛ける。が、

「待て!」

 とその場に出て来ていた貞淑チョンスク姉が、私奴に鋭く命じた。

 声だけでも乱暴そうではあっても、何者か分からない来訪者と、主家の奥方とでは、私奴としては当然、後者に従う義務がある。ゆえに、私奴は、また慌てるように手を引っ込め、貞淑姉に一礼した。

 姉は、大門の前まであゆむと、よく通る声で外へ返す。

「その声は、コンであろう。こちらとしては、用件も分からぬのに開く門はない。何の用向きで、兵士まで率いている」

 どうやら姉も、敷地の外をグルリと囲んだ殺気に気付いているようだ。

「貞淑姉上。お久しゅうございます。弟が姉をおとなうのに、理由が要りましょうか」

「白々しい。先程も申したが、そなた、大勢の兵を率いているであろう。戊午ムオの年と同じ轍を踏む気は更々ない。用件を先に述べよ」

 一瞬のののち、「されば、申し上げます」とコン――仁城君インソングンが答えた。

昨日さくじつの昼間、ルクの家からルクの側室をさらって逃げた者が、こちらの屋敷へ入ったこと、大勢の者が目撃しております。ただちに、ルクの側室と、彼女をかどわかした者を引き渡してもらいたい。さもなくば、わたくしは姉上だけでなく、義兄あに上も義禁府ウィグムブへお連れしなくてはなりません」

(はあ?)

 シアは、仁城君の言い分を聞きながら、思い切り眉根を寄せた。隣にいたフェイジェンを、そうするともなく、背後へ隠すようにして誘導する。

 背後へ移動した彼女が、シアの上衣チョゴリの袖を、無意識にか掴んだのを感じながら、シアは、まだ見えない仁城君を見据えるように、閉じたままの扉を睨んだ。

(意外にしつけぇな、バカ兄・その一……)

 覚えず舌打ちが漏れる。ちなみに、『バカ兄・その二』は、たった今扉の向こうにいる仁城君だ。

「どこからそのような話を聞いた」

 あくまでも冷静に問い返す姉に、仁城君はまた、サラリと応じる。

広昌クァンチャン府院君プウォングンが、過日貸し与えてくれた者が、情報収集して教えてくれたのです。裏も取れておりますゆえ、速やかにお引き渡し願いたい」

 はっ、と投げるような溜息が出た。

 一体、イチョムは何を考えているのか。まさか、シアの生存が、彼の耳に入っているということはないとは思いたいが――。

 他方、姉も唇を噛み締め、沈黙を守っている。ムキになって否定するのは、その実、仁城君の言うことを、肯定することになるからだ。

 こちらからの返答がないと見たのか、仁城君は、「一刻〔約十五分〕だけお待ちします」と、早くも最後通牒を突き付けた。

「一刻を過ぎても開門しなければ、門を破壊しますゆえ、お覚悟を」

「コン! 先日も、この姉に狼藉を働いておいて、二度までも左様なことをすると申すか、許さぬぞ!」

「王子の側室を拐かした者が、姉上のお宅の私奴であれば、法を犯しているのはそちらのほうです。わたくしは、あくまでも、宗簿寺チョンブシ都提調トヂェジョとしてここにおります。そこを、お忘れなきよう」

「~~~~ッッ!!」

 姉は、喚き散らしたい衝動を、何とかこらえているように見えた。

 唇を噛み締め、盛大に舌打ちし、チマをからげてきびすを返す。振り返った途端、シアと目が合い、一瞬その動きを止めた。

 やがて、姉は眉根を寄せ、眉尻を下げて、こちらへ歩み寄って来る。

「姉上」

「大丈夫よ。そなたも、懐淑ファイシュ公主ゴンジュ様も、決してコンに渡したりしない」

 姉は、フェイジェンの肩へ手を置き、シアの頬に空いた掌を滑らせた。

 だが、仁城君が宣告した猶予は、一刻しかない。

「姉上。一つ、お伺いしますが」

「何?」

「以前、姉上は、私が女の姿なりをすると、貞明チョンミョン姉上に似ているとおっしゃっておいででしたね」

「えっ?」

 今のこの場に、あまりにも明後日あさっての問いだったのだろう。貞淑姉は目をみはったが、すぐに頷いた。

「え、ええ」

「今の、この姿もですか」

 問いを重ねられ、シアの格好をあらためた姉は、もう一度首肯する。

「……そうね。今まで一度もそなたを見たことがない兄弟姉妹きょうだいなら、間違える可能性もあるけれど……」

 それが今それほど重要か、という含みを持った答えに、シアはニヤリと不敵に唇の端を吊り上げた。

「ならば、私が出ます」

「何ですって?」

 頓狂な声を上げた姉に、シアは微笑を浮かべたまま告げた。


***


「――そろそろ、一刻経つでしょうか」

「構わん、門を破れ」

「はっ!」

 短いやり取りのあと、兵士たちが数名で抱えた丸太を、門へと打ち付け始める。

 同時に、城攻めでもするように、シン家の敷地を囲んだ兵たちは、塀へと梯子を立て掛けた。

 最初に塀の天辺へと昇り詰めた兵士は、顔を塀の上へと出した途端、「あっ!」と声を上げる。直後には、彼は敷地前の道路へと、蹴り落とされていた。

「何!?」

 陣頭指揮を執っていた仁城君――コンは、目を見開く。

 兵を蹴り落としたと思しき人物は、そのまま塀を跳び越え通路へと降り立つと、チラリとコンへ視線を投げた。

 チマを履いているということは、女だろうか。顔の上半分が、頭からかぶった外套スゲチマに隠れていてよく見えない。しかし、女性であんな動きのできる人物を、コンは貞淑姉しか知らない。

 兄弟姉妹きょうだいの中に選択肢を広げるなら、確か異母妹に当たる貞和チョンファ翁主オンジュ、ことイ・春蘭チュルランも武芸の真似事ができたはずだが、彼女は今ここにはいない。

 となると――

「姉上! 逃げるおつもりか!?」

 馬首を返し、追う素振りを見せると、貞淑姉は身を翻した。

「追え! 逃がすな!」

 指揮棒トゥンチェを振ると、数で押せと言わんばかりに、その場にいた兵士たちは、残らず姉に群がるように追い縋る。スゲチマに兵士の内の一人の指先が引っ掛かりそうになった刹那、それを阻むような間合いで、もう一人、敷地内から人が飛び降りて来た。

 こちらは男だ。身なりからして私奴に見えたが、その私奴は、飛び降りながら兵士数名をあっという間に伸した。

 無事な兵士たちとのあいだに距離ができると、男も姉のあとを追う。

「待て!」

 コンは、馬の腹を蹴った。兵士のほとんどが、自分のあとについて走り出すのを感じながら、ふと眉根を寄せる。

(……待てよ?)

 いくら扉が開くまでがあるからとて、我が子を大事にしているあの姉が、兵士に突っ込まれそうな状況で、子どもたちを置いて敷地外に出るだろうか?

 しかし、目標の男女の姿を視界に捉えると、たちまち疑問は頭の隅へと追いやられた。

 兵士たちが全員、自分について来たとは思わない。残った兵士がいるのなら、仮に兵士たちが独断で門を破ることがなくとも、包囲はできている。自分が戻るまで、シン家からは何人なんぴとも出られまい。

 目の前にいる、武芸達者の姉は別だが、姉が外へ出た今、シン家に残るのは武術に関しては素人しろうとばかりだ。

 今は惣領娘となった姪・キョンガンも、たしなみはあるようだが、実戦経験はないと思っていい。多勢の敵を相手に、どう戦っていいか、分かるはずもない。

 兵士がシン家を囲んでいれば、大丈夫――そう思い直したコンは、フン、と鼻を鳴らし、男女の追跡に集中し直す。何をたくらんでいるか、捕まえれば分かることでもある。


 コンが、広昌府院君――イ・イチョムを私邸へ呼んだのは、昨日のことだ。私邸の包囲が解かれたのは、右補盗庁ウポドチョン大将テジャン、イ・グァルが投獄されたことが原因だったが、その理由を知る為だ。

 現状、今はイチョムに事情を訊ねるのが、一番手っ取り早かった。


『イ前大将は、どうも、綾陽君ヌンヤングン様とよからぬことをたくらんでいたようでしてな』

 クァルの投獄理由を、そうサラリと答えたイチョムに、コンは鼻を鳴らした。

『建前は要らぬ。私が聞きたいのは、事実(・・)だ。そなたたち大北派がでっち上げた話ではなく、な』

 イチョムは、伏せていた目を少しだけ上げ、瞼をピクリと動かした。

『さて。わたくしは事実(・・)を申し述べておりますが?』

『知らぬとでも思うのか。臨海イメ兄上もウィも、綾昌君チョンも、そなたたちが殺したのであろう』

 単刀直入に斬り込むと、イチョムはもう冷ややかな瞳を隠さなかった。

 コンは、静かにイチョムを見つめ返し、彼の答えを待たずに口をひらく。

『断っておくが、そなたたちが三人を殺したからとて、恨んでなどおらん。ウィについては、寧ろ感謝しているくらいだしな。しかし、今度の標的である綾陽君チョン如き、そなたたちが取り立てて恐れる者でもあるまい?』

『災いの芽は、どんなに小さくとも、早い内に潰す。それが、官界で生き延びるすべでございましょう。わたくしが申し上げるまでもないと存じますが』

『それで? イ前大将を潰したのも、同じ理由か』

『左様ですねぇ……綾陽君様とは関係ありませんでしたが、イ前大将はイ前大将で、目障りだったもので』

どう(・・)目障りだった?』

臨海君イメグン様ご逝去の件から、先程仁城君様が仰った永昌ヨンチャン大君テグン様の件、綾昌君ヌンチャングン様の件に関しても、洗い直している様子でした』

 さすがに、コンもピクリと眉尻を跳ね上げた。

 永昌大君、ことウィの件に関しては、洗い直されればコンも少々面倒にはなる。

『それで? チョンのほうは一体何を』

『綾昌君様の実の兄君です。いつ何時なんどき、弟君のかたきを討とうとするか、動向には目を光らせておりましたゆえ』

 クス、と小さく笑うと、イチョムは言葉を継いだ。

『この機にどうにかイ前大将と綾陽君様を結び付けて潰せぬかと思っておりましたが、中々口実が見付からなかったので、困り果てておりました。そうこうする内に、意外にもかの方が、切っ掛けを作って下さいましてな』

『誰のことだ』

慶平君キョンピョングン様ですよ』

『ほう?』

『何でも、かの方が側室にと望まれた女人を、綾陽君様が連れ去ったと騒いだのでね。その調査に託けて。お陰で、綾陽君様と周辺の側近を、一掃できました。ですが――』

『ですが?』

『此度、慶運宮キョンウングンの件で、綾陽君様と明国使節団が結託していたようでして。後始末が若干面倒になっております』

『そこからは、私には関係のない話だな。用が済んだら、早々に引き取れ』

『つれないですねぇ。ここからが面白い話ですのに』

『何だと?』

『慶平君様は、お目当ての女人を連れ去ってから、程なく内医院ネイウォンに担ぎ込まれましてな。付き添った群夫人クンブイン様によると、夫婦喧嘩の果てだという話でしたが、わたくしの手の者の報告に拠れば、慶平君様のお宅から、怪しい三人が密かに脱出し、貞淑翁主慈駕(チャガ)の邸宅へ逃げ込んだようです――』


 内、一人は女性で、二人は黒い装束に身を包んでいて性別は分からなかったという。

 その三人が、脱出しただけなら興味も湧かなかったが、それが貞淑姉の家へ逃げ込んだというなら話は別だ。

 戊午の年の庭請チョンジョンからこっち、あの姉とは険悪なままだ。険悪になった原因と言えば、あの姉夫婦が、ウィの生母である西宮ソグンの降格について、変に抵抗した所為だが、以後、事あるごとに反目し合っている。

 その姉の許へ、慶平君、ことルクの家から逃げ去った誰かが匿われているとなれば、何もないと判断するほうが難しい。

 姉の家へ踏み込むのに、ほかの理由は要らなかったが、イチョムとしては別の思惑があったようだ。

 曰く、

『綾陽君様と繋がっていたかも知れない女人が、翁主慈駕の家へ匿われているとしたら、放っておくと面倒になります。今なら、仁城君様が兵を動かされるほうが、角が立ちません。相手は、降嫁されたとは言え王妹ですし、宗簿寺の都提調であられる仁城君様には、寧ろ適役では?』

 ということだった。

 そこと慶運宮の件がどう繋がるのかとただしたところ、『綾陽君様と慶運宮の件が絡んでいるので、まずは綾陽君様(がら)みのほうをどうにかしたい』という答えが返って来た。

 上手く丸め込まれた気も、しなくはないが――

(……それにしても、どこへ行く気だ?)

 コンは、再度眉根を寄せる。

 こちらがそもそも、わざと一定の距離を保って追っていることもあるが、追っている二人も本気で走っていないように思えた。

 当然、どこかへ逃げ込むつもりだろうが、王宮に行っても無駄なことは分かっているだろう。何しろ、今の兄王は、身内を罰することをひどく恐れている。

 何を訴えたとて、コンを処罰することはしないと考えて間違いない。とは言え、貞淑姉にしろ、兄王にとっては異母妹だから、兄王は彼女にも罰は与えないだろう。

 はあ、と溜息を吐いたところで、男女は足を止め、姉と思しき女が一瞬こちらを振り向いた。見えた口許が、微笑の形に歪む。

 それを認識したと思った直後、彼女は彼女の目の前にある門を叩いた。


***


「開けて下さい!! どなたか、いらっしゃいませんか!?」

 全力より若干遅い速度でここまで駆けて来て、シアは一瞬だけ呼吸を整えると、大声で叫びながら扉を叩いた。

「恐れ入ります! チェ・ミョンギルでございます!! どなたか、扉をお開け下さい!!」

 続いて、ミョンギルも名乗りながら叫ぶ。

 すると、程なく閂を抜く音がして、そっと扉がひらいた。

 隙間から顔を覗かせた男は、シアからミョンギルに目を移すと、その目を見開く。

「これは、チェ殿。どうなさったのです」

「説明はあとで。とにかく、中へ入れて下さい」

 切羽詰まった様子のミョンギルに、男は二人が入れるだけの隙間を空け、二人が滑り込むと、扉を閉じる。

「閂を掛けて下さい、早く!」

 鋭く言われた男は、やはりミョンギルの指示通りに、閂を挿し直した。

「一体、何があったのです」

「使節団長様は、今おられますか」

「はい。チェ殿がご存知かは分かりませんが、今はとても、使節団の全員が外出どころではなく……」

「どうか、団長様にお目通りを」

 男は、相変わらず困惑した様子ながら、「こちらへ」と言って、建物へ先導して行った。

 意外にも、このかん、改めてこの南別宮ナムピョルグンの門が叩かれることはない。ほかの建物か家だったらどうなったか分からないが、さすがに仁城君も、ここがどこだかは分かっているのだ。

 貞淑姉の家と違い、不用意に殴り込めば、下手をすると外交問題に発展する、辺りを考える頭はあったらしい。

(……けど、こっちはこっちで、楽観はできねぇんだよな)

 シアは、門のほうへ向けていた視線を、前方へ戻しながら、そっと溜息を吐いた。


***


「おお、チェ殿。無沙汰を致しましたな」

「団長様はあなたでしたか、ジェン・イー様」

 団長――ミョンギルがジェン・イーと呼んだ男が滞在していると思しき部屋に通されるなり、イーとミョンギルは、互いの顔を見て瞠目した。

「何やら、立て込んでいるとお聞きしましたが」

 ミョンギルは、事前に情報を掴んでいたとは一切言わずに、そう切り出す。イーは、ミョンギルに椅子へ掛けるように促すと、自分も上座に腰を下ろした。

「そうなのです。実は……」

 言い淀んだイーは、チラリとシアのほうへ視線を向ける。外部に漏らされたくない話なのだろう。

「わたくしは、席を外したほうが?」

 まだスゲチマをかぶったままのシアは、単刀直入に、ミョンギルに問うた。

「いえ、公主コンジュ様」

 ミョンギルは、サラリと言って頭を下げる。

「公主様も、どうぞお座りに」

「チェ殿。そなた今何と……」

 この者が公主様だと? と続きそうなイーの空気を遮るように、シアはそこで初めてスゲチマを外した。

 イーの目が、またも見開かれる。こちらを『女』と認識している男の、いつもの反応だ。

「申し遅れました。今は、王族としての地位は剥奪されておりますが、かつての王女名を貞明公主、いみなはイ・ランファと申します」

 シアは、スゲチマを腕に掛け、浅く辞儀をして続ける。

「ゆえあって、慶運宮の火災からこちら、身を隠しておりましたが、それに関して、使節団様がわたくしをお疑いと聞き及びまして……身の潔白を証明したいと、非公式ではありますが、こうして参じた次第です」

 イーは、しばし唖然としてシアを見上げていたが、やがてのろい動作で、ミョンギルに視線を移した。

「……つまり……その……」

 その者、とでも言いそうになったのか、イーは気まずげに一瞬口を閉じ、改めて続ける。

その方(・・・)は、我々が捜していた、慶運宮放火容疑者で、しかも、本人は無実と主張しており、あろうことか慶運宮におられた公主コンジュ様だと」

「左様です」

 頷いたのは、ミョンギルだ。

 シアは、あくまでも無表情を装っているつもりだが、どこまで素知らぬ仮面をかぶり続けられるか、というところだ。

 欺く相手が同国民なら、ここまで緊張しないのに、と思う。だが、背に腹は代えられない。

 もし、使節団が慶運宮の火災の件でおかしな言い掛かりを付けていなければ、南別宮(虎の口)に手を突っ込む必要もなかったのだが――シアは、イーに気取られないように軽く深呼吸すると、いつしか伏せていた目を上げた。

 その目線が、イーのそれとぶつかる。

 視線を噛み合わせて、しばし沈黙したが、それを破ったのはイーのほうだった。

「どうぞ、……お掛け下さい、公主様」

 拱手礼をするイーに、「恐れ入ります」と返し、シアはミョンギルの隣へ座る。

「……それで、ジェン様。立て込んでいるというのは」

 シアが座ったのを確認し、ミョンギルがイーに話の続きを促した。

「……チェ殿にも公主様にも、この件はここだけの話とさせて頂きたく」

「無論です」

 ミョンギルが答え、シアも小さく頷く。

 すると、イーはまた目をウロウロと泳がせ、自分たち三人以外に人がいないのを確かめてから口をひらいた。

「実は……」

 イーの口から語られたのは、およそミョンギル配下の間諜からの報告と一致していた。

 朝議に使節団長とその配下二人が乗り込んだ前日、綾陽君が訪ねて来たこと。彼が、『この国の者として、またこの国の王族として、明国使節団に失礼があったのを黙っておけない』という前置きののち、南別宮からほど近い慶運宮が炎上したこと、それが実は南別宮を狙った放火であった、と告げたこと。

 更には、特段の理由もないのに、犯人の手配が打ち切られた、とも言っていたと。

「……まったくの出鱈目です」

 イーが口を閉じるなり、シアは腹立ちを抑えようと努力しながらも吐き捨ててしまう。

 驚いたように目を見開いたイーから、シアはばつの悪さから瞬時、視線を逸らした。が、すぐに彼に目を戻す。

「……ジェン殿。綾陽君が何を考えているか、わたくしには分かり兼ねますが、彼の言ったことは事実無根でございます。手配されていたのはわたくしに間違いありませぬが、わたくしは火の手が上がった慶運宮に幽閉されていた身。何故なにゆえ、そこに火を放つ必要がありましょうか」

 切々と訴えるが、そこに媚びる色は混ざっていない。こういう時に、下手に色仕掛けに訴えるのが逆効果だということは、直感で分かっている。

 イーは、しばしシアを観察するように見つめていたが、眉根を寄せて小首をかしげた。

「……ちなみに、幽閉されていたというのは、如何いかなる理由で?」

「わたくしの同母の弟が九年前に無実の罪で王族の地位を剥奪され、流刑ののち、殺害されました。わたくしと母は、その連座でやはり地位を剥奪され、幽閉されております」

「となれば、あなた様の狂言だったのでは?」

「狂言で火を付ける利点はありません。兄……王殿下は、自身の地位に固執するあまり、幼かった弟を助けもしませんでした。王殿下にとって、兄弟姉妹きょうだいの命の価値は、その程度のもの。仮にわたくしの狂言だとしても、幽閉されていたわたくしが、外へ出て南別宮を狙うことが可能だったとでも? その動機もございませんが」

 冷え切った流し目をくれると、イーがたじろいだ様子で身体をかすかに震わせる。

「ジェン殿。どうか、放火の件、使節団のほうから追及要請をお取り下げくださいませんか。話を持って来た綾陽君の処断が決まった今、あなた方が綾陽君と結託する旨味などないはず」

 畳み掛ければ、イーの目は分かり易く泳いだ。

「抗議の件に関して言えば、明国にはまだ伝わっておらぬはずではありませぬか? 非公式の話なれば、お取り下げくださるのに支障はありませんでしょう。何卒なにとぞ

「……取り下げて、使節団、延いては明国に得は?」

 シアは、瞬時目を見開く。そして、うっすらと微笑した。

「得と言えるほどの得などありませんが、そもそもは誤解による行き違いでしょう。どちらが悪いという話でもありませぬ。であれば、内々に手打ちにしても、どちらの損にもならぬかと」

 表面上は余裕さえある様に装っているが、その実心臓がドクドクと、普段とは違う速度で脈打っているのが嫌でも分かる。

 上段に振りかぶって、相手をねじ伏せるのは簡単だ。しかし、それでは遺恨を残す。

 兄王を差し置いて、慶運宮の件で何とか和解を取り付けようとしている今の状況では、争いに発展するのは凄まじく宜しくない。寧ろ、全力で避けたい事態だ。

 それとも、一度振り上げた刀は振り下ろさねば気が済みませんか、と口に出したい衝動を、それこそ全力でねじ伏せながら、シアはイーの顔を見つめ続ける。

 イーは、唇を噛み締めるように紡ぎ、視線をウロウロと左右させていたが、やがて「分かりました」と答えた。


©神蔵 眞吹2026.

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