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第三章 妓楼

「――瑞華楼ソファルはどうだ? 今なら新しい護衛を捜してるらしいぞ」

 安山アンサンから、一日歩いた先にあったとある手配房スベバンで、番頭が言ったことに、シアは耳を疑った。父も、目を見開いている。

「瑞華楼?」

 どう聞いても、商団の名前ではなさそうだ。父が問うようにその名を繰り返すと、番頭は頷いた。

「そう」

「それはどういった……商団ではないようだが」

「妓楼だよ。この近隣……っても、馬の並足で一日二日、ってトコだけど、まあまあ知れてる」

 馬の並足で二日乃至一日、ということは、距離にして百五十里〔約六十キロ※李氏朝鮮時代は一里=四百メートル〕から三百里〔約百二十キロ〕と言ったところだろうか。

「妓楼?」

「妓楼って、護衛が要るの?」

 父が思う様眉根を寄せたところで、シアはうっかり素朴な疑問を口に出してしまう。慌てて口元を押さえ、チラリと視線を上げると、父の恐ろしい目とガッチリ視線が噛み合った。

(あーあ……あとで説教だわ、こりゃ)

 脳裏でぼやく間に、番頭はシアのほうへ目を向け、面白そうに唇の端を吊り上げる。

「お嬢ちゃん。妓楼ってどんな所か知ってるよな?」

「いや、えっと……女遊びするトコ……でしょ。お金のある男の人が」

 うっかりの口調で喋りそうになって、危うく誤魔化した。語尾を取り繕ったことに、もちろん番頭は気付かないまま苦笑を浮かべる。

「まあ、有りていな言い方すりゃあな。そういう所ではどういうことが起きるか、分かるかい?」

「……具体的な内容は知らないけど」

 言うと、番頭は苦笑を深くした。

「んー、俺が今言わんとするのは、お嬢ちゃんが思ってんのとは多分違う」

「どういう意味?」

「さっきお嬢ちゃんは訊いたよな。『妓楼に護衛が要るのか』って」

「うん」

「じゃあ、お嬢ちゃんが思う、妓楼で起きることってな、どんなことだ? 分かる範囲でいいから答えてみな」

 分かる範囲で、と言われて、シアはしばし考え込んで、口をひらいた。

「……男と女がイチャイチャ?」

 九歳のシアに『分かる範囲』はその程度だ。自分で言っておいてなんだが、『イチャイチャ』の内容だって分かっていない。

 番頭は苦笑を浮かべたまま、「まあ、間違いじゃないな」と頷いた。

「そんな場所なら、男女含めて色んな感情が交錯するもんだ。例えば、男のほうが思い余って妓生キセン〔芸妓・遊女〕を殺しちまったらどうなる?」

「……客の身分によっちゃ揉み消せるんじゃない? すんごく理不尽だけど」

「だよな。だから、お客が剣を抜く前に、止めなきゃなんねぇ。お嬢ちゃんの父ちゃんみたいな、怖い顔で体格のいい人がな」

 シアはチラリと父を見上げた。『怖い顔』などと評された父は、平素でもその厳つい顔を、何とも複雑にしかめている。

「ほかにも一人の妓生を二人の客が取り合ったり、妓生のほうが本気になっちまって、こともあろうに両班ヤンバンの旦那と駆け落ちしようとしたり、妓楼にも色々と揉め事は多い。その為に、なるべく腕が立つ人が必要なのさ。ついでに言やぁ、お嬢ちゃん(・・・・・)自身(・・)も、妓楼なら金になりそうだな?」

 番頭の顔が、初めて値踏みするように嫌らしく歪んだ。瞬間、父が番頭の目からシアを遮るように背に庇う。

「分かった。その妓楼での護衛で手を打とう」


***


 瑞華楼ソファルでの護衛の仕事は長かったが、シアが十三歳になる頃、夜逃げ同然で去ることになった。

 ある時、客として妓楼を訪れた少年に、しつこく言い寄られたのが理由だ。相手は十五、六歳になる、その土地の両班子息だった。普段は裏方専門で働くはずのシアを、偶然楼内で見掛け、一目惚れしたから将来の約束を、と言い出したのだ。

 『童妓トンギではないから身請けされる謂われもない』と父から断ったが、『童妓ではないのなら尚更、妓楼に縛られる理由はないだろう。妓楼への義理が気になるのなら、行首ヘンス〔組織のおさ〕に直接掛け合う』と返された。

 身分や国の掟を盾に重ねて断ろうとしたが、権力尽くで迫られたので進退窮まり、ある夜、瑞華楼を無断であとにした。

 その、その両班ヤンバンや妓楼から、追っ手か何かが出たかは分からない。父は敢えて街中を進んで、噂を拾おうとしていたようだ。シアも、シアなりに耳を澄ませたが、自分たちの指名手配のような話は、この時は聞こえてこなかった。

 瑞華楼のあった土地を離れ、ひたすら南下し、瑞華楼の名前も届かなくなった辺りで、父はその土地の手配房スベバンに駆け込んだ。

 今度こそ商団護衛の職を紹介して欲しいと父は言ったが、手配房では父が子連れで、しかもその子どもが極上の美貌と見ると、妓楼の護衛職しか紹介してくれなかった。

 それから瑞華楼の時と似たようなことが幾度も起き、幾度も夜逃げを繰り返した。そのかんに、商団護衛に入れてもらえることもあった。手配房を通さず、たまたま行き合ったトン商団に、父が売り込んだことがあったのだ。

 だが、トン商団は、拠点のある都へ戻る所だった為、都に着く直前でその商団を離れざるを得なかった。

 トン商団と別れて今度は北上し、最初に目に付いた手配房へ入ると、やはり紹介されたのは妓楼だった。


***


「――シアよ。例の件だが、考えてみたか?」

 あれから数年。十五歳になったシアの目の前には、幾度目かで流れ着いた妓楼・彩映楼チェヨンル行首ヘンス大華テファが座している。

 シアは、伏せていた瞼の先にある長い睫を震わせ、視線を上げた。磨き抜かれた黒曜石と見紛う瞳が、静かにテファを射る。

 九歳で江華島カンファドを出た時と比べ、シアの輪郭は鋭角になりつつある。元々、これ以上ないほどだった美貌は、凄絶さを増していた。

 子猫のようだった目元は切れ長に近付き、鼻筋は綺麗に通っている。薄く引き締まった唇は、桜の花弁のようだ。

 ただ、白銀になった髪はやはり色が戻ることはなく、相変わらず染め粉で黒くしてある。

 記憶もそうだ。八歳より前の記憶――自分が本当はどこで生まれ育ったのか、何者なのか、本当に父の息子なのかはシア自身には判然としない。しないままに時だけが経ち、相変わらず妓楼を渡り歩く日々が続いている。

「シア」

 沈黙が長すぎたのか、テファが答えを促すように名を呼んだ。彼女と絡んだ視線を再度絶つように目を伏せ、吐息と共に口を開く。

「……ご存じでしょう。わたくしは、妓籍に名を載せるような身ではありません」

 シアは困ったように眉尻を下げ、さり気なく衣服に隠れた腕をさすって見せた。

 この彩映楼チェヨンルに来た当時、父と共に行首ヘンスの前で挨拶したシアは、すでに肌に残る火傷の痕を行首に晒していた。それで大抵の行首は、シアを妓生キセンとして育てることも、客の前へ出すことも諦める。

 だが、テファは違った。

 彩映楼に来てから二年。ことあるごとに彼女は、シアに『童妓トンギとして修練を始めろ』『妓籍に名を載せろ』と迫って来る。

「以前から申しておるが、大したことではない。そんな傷は、妓生としては、むしろ武器だ。そなたの場合、幸い顔にはほとんど火傷痕が残っていない。その美貌を腐らせておくのも惜しいことだ」

「お褒めのお言葉はありがたく受け取っておきます、ですが」

「もう反論は聞かぬ。近々、掌楽院チャンアグォン〔宮廷楽団〕へ推薦する選上妓ソンサンギ候補を連れて、地方にある各妓楼の行首が、都へとのぼる時期だ。わたくしも当然、都へ上る予定がある。わたくしは、そなたも連れて行くことにしている。今日から修練へ入れ」

 シアは、それ以上言葉を返さなかった。否、と答えたところで彼女が聞かないのは分かっている。

 黙って会釈だけして、シアはテファの前を辞した。

(……ここは、それでも長かったな)

 そっとまた溜息を吐いて、何気なく庭先に視線を転じる。その先には、この妓楼に所属する童妓たちの中の数名が、顔を揃えていた。

 その内の首領格――チョン・硯枝ヨンジという名の少女が、シアを見据えて、顎をしゃくる。

(……あー……マジ面倒臭ぇ)

 それを口に出すことなく呟き、シアは三度溜息を漏らした。

 しかし、もう彼女に従う筋合いはない。自分はじきに、ここを出て行く予定だ。

 ヨンジの無言の誘いを無視し、シアは通路を自室へ向けて引き返す方向へ足を向ける。

「ちょっと!」

 直接声を掛けられるが、名を呼ばれたわけではないので足は止めない。けれども、右手へ曲がる寸前で、数人が駆けて来るのが、背を向けていても分かる。

 歩く速度を上げるが、その時には肩先に一人の手が掛かった。これが、刀か何かを持った相手なら、シアは遠慮なくその手を捻り上げ、振り向き様蹴りでも入れていただろう。だが、相手は素人女だ。

 狭い通路では、相手に傷を負わせないように反撃するのが難しく、まごまごする内に数人掛かりでシアは庭先へ引きずり下ろされた。何とか足を捻らないように、相手の動きに合わせて自分から庭へ降りるしかなくなる。

 両脇を、力自慢の少女たち――容貌が妓生キセンの基準には届かない、妓楼の下働きだ――にガッチリと押さえられ、シアは不本意ながら妓楼の裏手へ引きずって行かれた。


 行き着いた先は、井戸端だった。

 ヨンジの形相にされたのか、そこで洗濯をしていた顔見知りの下働きの少女――名は、志祐チウという――が、怯えた顔で立ち上がる。

 ヨンジが、やはり無言で顎をしゃくると、チウは慌てて頭を下げ、洗濯物はそのままに駆け去った。残されたシアと、目が合うことはない。

 両脇にいた少女たちは、シアを無理矢理井戸端へひざまずかせ、頭をグイと押し下げた。

「……何か、言うことがあるんじゃない?」

 前置き抜きにヨンジの声が降ってくる。

「……思い当たりませんが」

 一応、ヨンジのほうが一つ年上だ。年齢に遠慮しただけで、彼女を敬う要素など微塵もないが、ひとまず敬語で返す。

 一拍のを置いて、今度は水が降って来た。反射で目を瞑る。

「ふざけないでよ! 何で妓籍に名前も載ってないあんたが、選上妓ソンサンギに指名されるの!?」

 頭部から滴る水を、口に入れないように小さく吐き捨てた。すでに、髪から染め粉が溶け落ちているのか、地面に落ちた水には黒いものが混ざっている。

 けれど、周囲の少女たちはそれには気付かなかったのだろう。ヨンジの甲高い声が、異変に気付いていない間合いで響く。

「こないだ、あんたに言ったわよね! 今度、行首ヘンス様からお話があったら、あたしを推挙しなさいって!」

 ヨンジは、シアほどではないが、妓生の基準から言ってまあまあの容姿の少女だ。そればかりか、童妓トンギとしての技量にも自信があるらしい。都へ上って掌楽院チャンアグォンへ入るのは自分だという自負があるようだ。

「……わたくしには、そのような権限はありません。そもそも、しがない下働き兼化粧師ですから」

「そんな権限がないなら、選上妓ソンサンギへの推挙も妓籍に載るのも辞退するのが筋でしょ!?」

「何度もいたしましたよ」

 ただ、テファが聞かないだけだ。けれども、ヨンジにはシアの言い分は聞こえないらしい。再度、水が容赦なく降って来る。

 頭を押さえ付けられてさえいなければ、さすがにとっくに反撃に転じているだろうが、この体勢では無理に動くと首の骨が折れる。どうするべきか、内心で舌打ちした直後、ふっと首元と右腕が軽くなった。次いで、左腕も解放される。

 と思った刹那には、敷布が視界を覆った。

「な、何!?」

 敷布に隠された視界の外で、ヨンジの戸惑った声がする。

「いい加減にしてください」

 凛とした声音が、ヨンジに告げた。

「あんた」

「何の用よ。あんたには関わりないでしょ」

 周囲の童妓たちが居丈高に応じる様子から、相手はシアと同じ下働きの地位にあることがうかがえる。だが、声のぬしは動じずに反論した。

「シアが選上妓候補に挙がってるのは、ご存知でしょう。それがどういうことか、考える頭もないのですか?」

「何ですって!?」

 気色ばんだヨンジに、声の主が小さく嘲笑する。

「つまり、シアは行首様のお気に入りですよ。こんなことしてるのがお耳に入ったらどうなるか、想像できませんか?」

 ヨンジは答えない。だが、穏やかな丁寧語で嫌みを言われ、悔しげに歯軋りしているのが見えるようだ。

 声の反応はなく、ただ複数の人間がその場から立ち去るのが、気配で分かる。

「……大丈夫?」

 敷布の外から安否を訊ねる声に、シアはそろりと敷布を持ち上げた。

「……助かったよ」

 言いながら、彼女以外にその場に人がいないのを確認すると、敷布を跳ね上げる。手にしたままの敷布で、顔を一通り拭った。

 そのあいだに、救いのぬしであるハン・佳瑥(ガオン)は、シアの頭に目をやり、眉根を寄せる。

「……あーあ、また染め粉が流れちゃってる。来なさい。近所の知り合いの所で、お湯使わせてもらお」

「悪い」

 の口調で言うと、カオンは苦笑を浮かべ、肩を竦めた。

 彼女はシアよりも二つ年上で、やはりこの妓楼の〔女奴隷〕だ。逆卵形の輪郭に、意志の強そうな黒目がちの瞳、通った鼻筋、山桜桃ユスラウメのような唇が品よく配置されている。この容姿であれば、童妓トンギになるのも容易たやすかろうに、彼女もシアと同様、妓籍に名を載せるようテファに誘われているのをずっと断っているようだ。

 彼女には、ふとしたことから性別を知られていた。

 その時は、この妓楼一の妓生キセンから嫌がらせを受けていたところを助けてもらった。酒を頭からぶち撒けられた為に染料が落ちたのを見たカオンは、(シアが固辞したにも拘わらず)湯殿の世話までしてくれて、そうこうする内にあっさりバレたのだ。

 あれから一年になるが、彼女はシアの性別を妓楼中に触れ回ることはしなかった。それどころか、今日のように、ことあるごとに庇ってくれるようになっている。

 どうして見返りもないのにそこまでしてくれるのか、訊ねたことがあるが、彼女の答えはあっさりしたものだった。

『だって、事情があるんでしょ』

 そう軽く言った彼女は、肝心の事情のほうは、根掘り葉掘り訊くようなこともしなかった。

『事情がなきゃ、女の子の振りなんてしないでしょ。まあ、男にしとくのが勿体ないくらい似合ってるけど』

 などと、余計な一言もくっつけていたが。

 先を歩いていた彼女が、不意に足を止めて振り返る。漆黒の髪を結い上げた赤いテンギ〔リボン〕が、彼女の動きに合わせて蝶のようにクルリと舞った。

「その敷布、ちゃんとかぶってなさいよ」

 片手に持った敷布を指さされ、慌てて言われた通りにする。今、シアの頭は恐らく、黒と白のまだらになってしまっているだろう。それはそれでかなり目立つ。

 それを確認したカオンは、シアに歩み寄り、敷布をより目深になるように、端をグイと引っ張る。前髪も多分、斑になっているからだ。

「ごめん。長衣チャンオッ〔庶民の使う女性用の外套〕でも持って来ればよかった」

「いいよ、別に。それより、何で都合よく居合わせたんだ?」

「都合よくなわけないでしょ」

 答えながら、カオンはきびすを返して歩みを再開する。

「チウが知らせに来てくれたのよ」

「なるほどな」

 駆け去って行ったチウの後ろ姿が、チラリと脳裏を掠めた。

「で、その知り合いのトコは遠いのか?」

「ううん、すぐそこ……」

 答えたカオンは、シアのほうへ視線を残しながら裏木戸を開けた。そこから出ようと足を踏み出した彼女は、誰かにぶつかって小さく悲鳴を上げる。

「何をする!」

 直後、カオンとぶつかった相手が、声高に叫んだ。

「すっ、すみません!」

 前方不注意だったという自覚があるのか、カオンは首を縮めて頭を下げる。

 私奴サノ〔個人所有の男奴隷〕らしき者を一人連れている相手は、どこぞの両班ヤンバン子息のようだった。

 絹製で薄い梅色の中致莫チュンチマク〔両班の着る普段着〕に、カッと呼ばれる円筒状の帽子をかぶっている。笠の止め紐のほかに玉飾り(カックン)を付けているところを見ると、かなり身分は高いようだ。

 年の頃は、二十歳前後。顔かたちは整っているが、軽薄そうな性格が見て取れる面立ちだ。

 カオンの、清楚な百合を思わせる容貌に目を留めた青年は、わずかに頬を弛めた。

「ここの妓生キセンか?」

「いえ、あの……下働きです。では、急ぎますので失礼します」

 行こう、と促すように、カオンはシアの手を取って青年の脇をすり抜けようとする。

「待たぬか」

 カオンを引き止めようとした青年の指先は、シアのかぶっていた敷布に引っ掛かった。

「あっ」

 思わず声を上げた時には遅い。白と黒がまだらになった頭と、冴え凍る月のような美貌が露わになる。

 どちらが目に入ったものか、青年がその細い目元を見開いた。

 彼が何かを言う前に、シアは落ちた敷布を拾う。頭からかぶり直しながらカオンを急き立て、その場をあとにした。


***


 洗った髪が乾き、染め直すあいだに、カオンの知人宅の離れで夜を迎えてしまった。

 カオンは、ひとまずシアの父と行首ヘンスに外泊を知らせると言って、シアをその場に残し、妓楼へ戻って行った。

 次にやって来たのはチウで、一緒に父を連れていた。

「父さん」

 離れの扉を引き開けた父とチウに、目を丸くしたシアは立ち上がって二人に駆け寄る。

「チウも、どうしたの」

 チウの手前、口調は少女としてのそれに戻し、シアはチウに視線を向けた。

「あ、そうだ。昼間はありがとう。カオン姉さんを呼びに行ってくれて」

 チウは小さく首を振って、「姉さんに頼まれたから」と答える。

「姉さんに?」

 チウは、今度は小さく頷いた。

「おじ様の道案内」

「父さんの?」

 鸚鵡返オウムがえしに訊ねながら、シアは父に視線を戻す。

「シア。すぐにここを発つぞ」

「えっ」

 どういうことだろう。その音にしない問いを察したように、父が言葉を継ぐ。

「先程、行首に呼ばれた。選上妓ソンサンギの話はなくなったが、代わりにお前の身請け話が持ち上がっている」

「はあ?」

 またかよ、と心の中で呟くシアに、父は続けた。

「先刻、お前をたまたま見て、一目惚れしたという両班ヤンバン子息から申し入れがあったそうだ」

 言われて『あいつか』と思い至る。ついさっき、妓楼を出る時にすれ違った、あの軽薄そうな男だ。

「破格の言い値でということで、さすがに行首も心が動いたらしい。元々童妓(トンギ)でないことや身分と国の掟、さらにお前の火傷痕のことなど持ち出して断ったが、埒が明かない」

 こうなったら、早々にその者から距離を取るしかない。

 ただ、珍しいことでもなかった。自惚れるわけではないが、どうも自分の顔は男受けがいいらしい、ということは、経験で知っている。

 妓楼にいれば男の目に触れる機会もなくはないので、やれ『一目惚れした』だ、やれ『妻になってくれ』だ、という申し入れも飽きるほど聞いて来た。もっとも、向こうがシアの性別を知らないゆえに起きることではあるし、こちらとしても同性である男を恋愛の相手として選ぶような指向はない。

 よって断るしかないが、それで諦めてくれる男は、妓楼に来るような人間の中には希少と言っていい。

「カオン姉さんが、おじ様が通路を歩いているのに出会って声を掛けたんだけど、気付かなかったらしいの」

 チウが口を挟む。

 シアは、そっと息をいた。多分、父は気付かなかったわけではない。その振りをしただけだ。

 どういうわけか、父はカオンとは顔を合わせないように避け回っているのは、シアにも分かっている。

「それで、何があったか聞いてきてって言われて。おじ様から聞いたことを姉さんに教えたら、シアの居場所を伝えてくれって頼まれたから」

 恐らく、カオンとしてはそれだけのつもりだったのだろう。だが、父としては、二度と妓楼へ戻るつもりはなさそうだ。その証拠に、シアの荷物まで纏めて持って来ている。

「行くぞ」

 父は、有無を言わせず、シアに荷を差し出した。

 シアは躊躇ためらった。散々世話になったのに、カオンに何も言わずに行くなんて――けれど、父は許してくれないだろう。

 せめて別れの挨拶だけでも、などと告げたら、カオンがシアの性別を知ったことまで話さなくてはならなくなる。そうしたら、カオンの命の保証はない。

 ここまでで、口封じと称して相手を殺したことも、数え切れない。だが、カオンまで手に掛けるのは嫌だった。父が彼女を殺すのも、見たくない。

 瞬時、唇を噛み締め、シアは父の差し出した荷と刀を受け取る。カオンを守る為だと、自分に言い聞かせながら――直後、父がチウに目を向けた。

「案内、ありがとう。お前は、夜が明けてから妓楼へ戻りなさい。夜道は危ない」

 しかし、チウは首を横へ振る。

「いえ、大丈夫です。それに、無断で外泊したら大変な目に遭うので」

 チウの言葉には、どこか刺がある。何も考えず、夜道の危なさを説くな、と言いたげなそれだ。

 この国では、チウのような、いわゆる奴婢ノビは『物』だ。奴婢は、人であって人ではない。物は考えてはならないし、人であることも主張してはならない。

 その為、理由の如何いかんを問わず、所有者(主人)の言いつけに背けば、ただでは済まない。届け出が必要にはなるが、最悪、主人は奴婢を殺しても罪には問われないという、とんでもない法律もあるのだ。

 当然父も、その法律を知っているし、それゆえ強要するつもりはなかったのだろう。小さく頷いて、シアを促す。

 シアも短く「ありがとう」とだけ告げて、父に続いた。


©️神蔵 眞吹

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