第二章 休息と作戦会議
「ひとまず、朝食にしましょう。膳を運ばせるから、皆ここで待っていて」
そう言って立ち上がる貞淑姉に続いて、ミョンギルも腰を上げる。
「翁主慈駕。折角の仰せですが、わたくしは庭先で軽く頂きます。そろそろ、仲間の伝書鳩が届く頃合いなので」
「そう。悪いわね」
「いえ」
短くやり取りして出て行こうとする二人の背に、シアは自分も立ち上がりながら、「ミョンギル」と呼び掛けた。
「何でしょう」
振り返ったミョンギルと、瞬時顔を見合わせる。チラと姉のほうを見ると、姉は小さく頷いて、先に退出して行った。
「何でしょうか、大君様」
改めてシアに問うたミョンギルは、会釈するように顎を引いて、シアに向き直る。
「……あんたも、今からでも手ぇ引きたかったら、そう言ってくれていいんだぞ」
ソロリと踏み込むように言うと、ミョンギルは、キョトンと目を瞠って、首を傾げた。
「どういう意味でしょうか」
「あんたらが俺についてくれてるのって、少しでも俺が王位に就く目があったからじゃねぇのか」
「いいえ?」
更に大仰に目を丸くしたミョンギルは、
「逆に伺いますが、何故そうお思いに?」
と問う。
「……いや……俺は最初っから、王位に就く気は更々なかったんだけど……」
「ええ。分かっておりますが」
まるで当たり前のように答えられ、シアは視線をウロウロさせながら、意味もなく側頭部を掻いた。
「……その理由が、女の為なんて聞いたら、心底ガッカリしたかも知れねぇって、思って……さっき」
尻すぼみになるシアの言葉を聞いて、益々目を見開いたミョンギルは、次いで軽く吹き出した。
「……おい」
「……ッッ……い、いえ、……ッ、失礼致しました」
クックッ、と笑いの残滓を引き摺りながら口許を拳で押さえたミョンギルは、一つ深呼吸して、顔を上げた。その顔には、すでに笑いは残っていない。
「――以前にも申し上げたでしょう。わたくしは、大君様がそういう方だから、お仕えするのだと」
「そういう、って」
「それに、王位に就かれたくない理由は、最初は違ったのでは?」
「そりゃ……まあ……」
むっつりと唇の端を押し下げて、ボソボソと口の中で呟くと、今度はミョンギルは微苦笑を浮かべて、足を引く。
「それと、これはわたくしの個人的な持論ですが」
と挟んで、ミョンギルは、顔だけをシアに向けたまま、ゆったりときびすを返した。
「惚れた相手一人守れない人間が、大勢の民を、延いては国を守れましょうか」
「それは……」
「第一、大君様は、わたくしが見た所、あれもこれもと手を出して守り切れるほど、まだ器用ではおられない」
「なっ」
「ご自身をあまり過大評価なさらないことです。同様に、過小評価も頂けません」
「過小評価って」
鸚鵡返しに言う間に、ミョンギルは出入り口へと歩んでいる。障子戸へ手を掛けた彼は、やはり顔だけを振り向けて続けた。
「一見、ご自分を最優先になさっておられるようで、大君様は目の前で困っている人間がいたら、無視できる方ではない。そういうことですよ」
含みを持たせるような言葉に、覚えず息を呑んだ直後、ミョンギルはニヤリと唇の片端を吊り上げる。
「わたくしが大君様にお仕えする理由としては、それで充分だと思っておりますので」
では、と優雅な仕草で胸元へ手を当てたミョンギルは、一礼すると、今度こそ部屋を辞して行った。
***
ミョンギルが、影契の諜報員からの報せを持って、部屋へやって来たのは、シアが寝起きしていた部屋で、遅めの朝食を片付けた頃だった。
室内には、まだ白い上下のフェイジェンと、貞淑姉も膳を前にして座っている。時刻は、昼に近かった。
「今日の朝議で、綾陽君様とその側近たちの左遷が、それぞれ決定したようです」
綾陽君の運営している妓楼・玉聲楼が捜査を受けたのは、昨日のことだ。
フェイジェンが、慶平君の手の者に連れ去られたのが真っ昼間だったから、それから詳しい調べを始めたとしても、一日近く経っている。大北派お得意の捏ち上げで結論が出るには、充分な時間だ。
「謀反をたくらんでいた、という確証はないながら、よからぬことをたくらんでいたのではという疑いだけで、綾陽君様に賛同していた者らは現在の職を解かれたようです」
「誰が左遷されたかってトコは分かってるのか?」
「トンシさんの父上であられるイ・グィ殿、それとシン・ギョンジン殿、綾陽君様の従兄に当たられる、具仁垕殿も含まれております」
「それだけか?」
「ほかは皆、役職があっても任地が遠い為、特に重要視されていないものかと」
「ふーん……」
シアは、眉根を寄せて、床へ広げられた、報告と思われる文に目を落とす。
「明国使節団の今の様子って分かるか?」
シアの問い掛けに、フェイジェンが反応するように瞼を瞬かせた。そんな彼女の様子を見るともなくチラッと見て、シアはミョンギルに視線を戻す。
何しろ、シア一人を殺す為だけに、明国使節団を朝議の場に、抜き打ちで突っ込ませるような巻き込み方をしたのだ。
綾陽君が自由ならば、その後の始末も可能だっただろうが、綾陽君もまさか程なく自分に矛先が向くとは思っていなかったに違いない。使節団にしても、よもや喧嘩を吹っ掛けておいて、『あれは間違いでした』と引っ込みも付かなくなっているかも知れない。
といった、シアの言いたいことを呑み込んでいるのだろう。ミョンギルも、小さく頷いて続けた。
「はい、大君様。使節団に、いつも混ざっている者の中に、親しくしている者が何人かおります。加えて、影契の者も、南別宮配属の奴婢として紛れ込んでおりますので」
ということは、ミョンギルは今、南別宮の中に、耳目を持っているも同然だ。
「綾陽君様とその側近の処分の報を聞いた使節団は、正しく蜂の巣を突いたような騒ぎになっているとか」
「だろうな」
クッ、と投げるような嗤いを零す。
相手を殺すのに自分の手を介さないことしか考えない綾陽君にも、朝鮮に来たら、何がどうでも、その朝廷をやり込めることしか考えない使節団にも、呆れるばかりだ。
「ところで、慶平兄上んトコ、何か動きがあったか分かるか?」
ミョンギルに目を向けると、彼も鼻を鳴らすように嗤いを漏らした。
「あの方は、反応が変わり映えしませんから」
「まさか、また内医院に駆け込んだの?」
口を開いたのは、貞淑姉だ。
「また……というのは」
「前にも同じように駆け込んだのよ。理由も同じだったわ」
「えっ」
「そなたが前にやった時よ」
「はい?」
視線を向けられ、シアは思い切り眉根を寄せた。
「覚えてない? そなたは確かまだ、女人として過ごしていた頃よ。ルクに強引に私邸へ連れ込まれて、返り討ちにしたでしょう?」
「それは、覚えていますが……」
あの頃は、公衆の面前で派手に人目を引くことを避けていた。だから、あの兄に目を付けられ、床を共にすることを強要された時、人の目が遮断される私邸の私室までどうにか堪えて、押し倒される前に伸してやった。
「……まさかあのあと、あのバカ――慶平兄上は、内医院に駆け込んだと?」
「バカでいいのよ? ええ。その時はたまたま、お兄様が内輪の宴を開くと言い出して、兄弟姉妹全員にお呼びが掛かっててね。わたくしもその場に居合わせたの」
「それで、姉上も犯人捜しを?」
「少し気になったから、ミョンギル殿にも協力してもらってね」
肩を竦めた姉とミョンギルが、同時に苦笑して顔を見合わせている。
「――で、今回は内医院に駆け込んだあと、どうしたって?」
シアが話を戻すと、ミョンギルは会釈するようにして顎を引いた。
「まあ、腐っても弟君ですから、王殿下がお見舞いに来られたようです。診断結果は、顔面強打による諸々で、碌に口も利けぬ状態だったことから、付き添った群夫人様が証言したところによると、これもまた夫婦喧嘩の果てだと申し上げたとか」
群夫人、とは、王子の正妃に与えられる称号だ。
「ありがたいねぇ」
シアも、覚えず苦笑した。
「今度、義姉上のところへ、贈り物でも持って行くべきでしょうか?」
真面目な顔で貞淑姉に水を向けると、姉は吹き出した。
「そうね。毎度毎度、太任にはそなたの尻拭いで世話になりっ放しだもの。これも、色々落ち着いたら、わたくしも一緒に挨拶に行くわ」
クスクスと笑いを挟みながら、姉はおかしそうに答える。慶平君の正妃は、テイムという名らしい。
「……その口振りからすると、前の時も義姉上が?」
「ええ。自分がやったと、堂々と言ってのけていたわ。ルクの行状には不満を溜め込んでいた様子だから、本当は自分でぶちのめしたかったのではないかしら。ひどくスッキリした様子だったわよ」
「はあ……」
慶平君のことは、いっそ殺したいと今でも思っているが、義姉のことを思えば、色々と複雑でもある。
「それはそうと、もう一つ気になることが」
慶平君の話題が一段落したところで、ミョンギルが改めて口を開いた。
「右補盗庁が襲撃され、イ大将様が投獄されたのは、皆様ご存知のことと思います」
ミョンギルは、その場にいたシア、フェイジェン、貞淑姉を応分に見て、先を続ける。
「あれから十日ほど経ちますが、現在、右補盗庁は機能停止状態。その分の任務も、左補盗庁が担っています」
「補盗庁の大将って、左右それぞれ一人だけだっけか?」
「はい。なので、今は実質、補盗庁すべてが、左補盗庁大将である、チョン・ハンの手にあります。必然、右補盗庁が監視下に置いていた、仁城君様が解放されてからも十日経つ計算になります」
シアと貞淑姉が、同時に息を呑んだ。
「……面倒臭ぇな」
シアは、覚えず舌打ちを漏らす。
「動き出すなら、せめてこっちが使節団のこと片付けてからにして欲しいけど」
「すでに、府院君様と接触されたと、手の者から報告が上がっています」
「府院君?」
「イ・イチョム大監のことです。あの方は、現王殿下即位の翌年、功臣として府院君に冊封〔任命〕されております」
「……功臣、ねぇ。光海兄上即位の翌年ったら、臨海兄上が死んだ年じゃん。大方、臨海兄上暗殺の手柄とかじゃねぇの?」
「否定はできませんね」
クス、とミョンギルが苦笑する。シアも苦笑を返しながら、無意識に側頭部の後れ毛を耳へ掛けながら問いを重ねた。
「――で、その光海兄上は、使節団との揉め事、どう処理するつもりかってトコ、情報あんのか?」
「そうですね……」
ミョンギルは眉根を寄せると、「少し、情報を整理しましょう」と挟んで続ける。
「コトの発端としては、綾陽君様が、大君様を亡き者にする為、使節団を突いたことです。それによってか、それとも綾陽君様と共謀したのか、使節団が慶運宮への放火によって、自分たちの身の安全が脅かされたと、朝廷に言い掛かりを付けに行きます。綾陽君様としては、これによって放火犯として大君様が捕らえられ、あわよくば処刑に持ち込まれることを望んだものでしょう。また、放火と結び付けるようにして、イ・グァル大将様が、放火と関連したという垂れ込みを、やはり綾陽君様が差配し、イ大将様が投獄されました。イ大将様に関しては、折を見て、自分たちに靡くなら無罪の方向へ持って行ってやる、と働きかけるおつもりだったのが、想定外に、慶平君様がまったくの別件――つまり、懐淑公主様を側室にするのだと騒ぎ立てました。これに託けて、イ大監が綾陽君様とその一派を、逆に追い詰めることに成功します。使節団側としては、共謀者を失って、このあとどうすればいいのかを考え倦ねている――といった所でしょうね」
「で、光海兄上は、使節団側の動きをまだ知らずに、使節団とファベク兄上の件を別件として捉えた状態で、どうすりゃいいのかって頭抱えてるわけだな」
シアの纏めに、ミョンギルがおどけるように、
「ご明察でございます」
と言って、軽く頭を下げる。だが、
「どうなさいますか」
と続けつつ、貞淑姉とシアの顔を応分に伺ったミョンギルの顔からは、すでに笑みは消えている。
「……どうしたもんかねぇ……こういう場合って、いつもだったら、使節団を王宮に招いて、宴で機嫌取ったりするよな。もちろん、妓生とか、たらふく侍らせてさ」
「つまり、何らかの理由で、使節団がヘソを曲げた場合、のことでしょうか」
「正解」
シアも、先程のミョンギルを真似るように言って、パチンと指を鳴らす。
「その解決法なら、正直一番手っ取り早いし、潜り込むのも簡単なんだけどな」
ニヤリ、と不敵に唇の端を吊り上げるシアに、ミョンギルは逆に、難しげに眉根を寄せた。
「潜り込むのはともかく、解決が簡単でしょうか」
「ちょっ、ちょっと待って。潜り込むって……まさか、そなたがやる気なの!?」
慌てたように話に入って来たのは、貞淑姉だ。しかし、シアはケロリとしたものだ。
「まさかも何も、そのつもりですが、何か問題が?」
「大アリよ!! そなた、今どういう状態か、分かってるの!?」
「放火の件に関しては、未だ無実の罪で指名手配中、という所は分かっていますが?」
「オマケに癸丑の年の冤罪も上乗せされるかも知れないのに……!」
「お言葉ですが、姉上」
シアは、無表情に、貞淑姉へ流し目をくれる。姉は、息を呑んだように、瞬時身体を引いた。
「はっきり申し上げますが、使節団の件の解決は待ったなしです。と言っても、あくまでも私の都合上は、ですがね」
「そなたの都合ですって?」
「ええ。姉上も聞いたでしょう。どっちから接触したかは知りませんが、仁城兄上が解放された上に、イチョムと接触してる。話の内容までは分かりませんけど、こっちに火の粉が降り懸からない保証なんてないんですよ。あの厄介な二人組がこっちに仕掛けてくる前に、使節団との揉め事をどうにかする必要があるんです」
「それはそうだけど」
「姉上はご存知ないかも知れませんが、私は記憶のない間、ほとんどずっと妓楼にいました。専門は化粧師ですけど、ただぼんやり妓楼にいたわけじゃない。即刻、妓生として座敷に出ろと言われても、シレッとやり通す自信はありますよ」
瞬時、唖然とした姉は、直後には「自慢になりますか!」と金切り声を上げた。
「第一、そんなこと、本気で言ってるの!?」
「本気も本気です。というか、実際にやれますよ? もっとも、今回はその策自体が難しいかも知れませんけど」
「そうじゃないわよ! 仮にも一国の大君が、選りに選って妓生の真似事なんて卑しいことを……!」
両班階級以上の人間にとっては、当然であろう価値観が姉の口からこぼれ出るのを聞いて、シアは心のどこかが、スッと冷め切るのを感じた。同時に、クス、と自嘲気味の笑いが漏れる。
「……姉上。これもお言葉を返すようですけど、私が身も心も王族だったのは、長くても八歳までです。そのあとは記憶が全部すっ飛んで、養父に武術その他を叩き込まれながら、身分的には最下層で生きて来ましたからね。今更、大君だったと言われても、実はあんまり実感はないんですよ」
苦笑交じりに言って肩を竦めると、シアは姉の表情を確かめることなく、ミョンギルに目を戻す。
「とにかく、今回は、そもそも宴の『う』の字も言えなそうだよな」
「そうですね。口にした瞬間、火に油を注ぎそうですから、妓生として潜り込む策は厳しいかと」
「だよなぁ……となると、難易度高いけど、直接王宮に潜り込むか……」
緩く握った拳を口許へ当てながら、目を伏せて呟く。
「どうやって?」
フェイジェンに問われ、「そこが問題なんだけど」と返した。すると、フェイジェンは問いを重ねる。
「王宮へ潜り込むのは、王殿下に会う為よね。でも、王殿下と会ってどうする気?」
「非公式に使節団の団長と会うように頼んでみる。非公式でなら、団長のほうも今なら承諾してくれるんじゃないかな」
言いながら、ミョンギルに問うように目を向ける。ミョンギルは、今度は考え込むようにして瞼を伏せた。
「お答えする前に伺いますが、大君様は殿下と使節団長を引き合わせて、どうされるおつもりで?」
「光海兄上に臨席して貰わねぇと、仮にもこの国の王なんだから、面目が立たねぇだろ。肝は使節団長だ。使節団長に納得してさえ貰えれば、あとは団長が上手くやると思ってる」
「つまり、実質的には、殿下のご臨席は必要ないと?」
「そう言っちゃ、身も蓋もねぇんだけど……」
言外に肯定すると、ミョンギルは、うっすらと笑った。
「であれば、直接南別宮へ乗り込みましょう。王宮にももちろん伝手はありますが、潜り込むとなればそれなりの手間は掛かります。その点、非公式に使節を訪ねるのなら、南別宮へ乗り込むほうが手っ取り早いかと」
「なるほどな」
「ならば、わたくしも行くわ」
「はい!?」
透かさず姉が口を開いたので、シアは目を剥いた。
「ちょっ……待ってください。どうして姉上が行く必要が!?」
「必要はないけど、わたくしが行くほうが話の通りはよくてよ。そうじゃない?」
姉は、最後の言葉をミョンギルに向けるように、彼のほうへ視線を投げる。
ミョンギルには、姉の言う意味が分かったのだろう。しかし、素直に「はい」と言えない様子で、目をウロウロさせている。
「どういう意味です」
姉に問う声に、半ば苛立つような音が混ざってしまうが、仕方がない。本来、この件は、使節団に放火犯として疑われているシアの問題だからだ。
すると、姉は唇を面白そうな笑みの形にした。
「ご挨拶ね。わたくしは降嫁したとは言え、腐ってもこの国の王妹よ。慶運宮のことで来た、と言えば、少なくとも話だけはしてくれる確率は高い。それで目通りできなければ、王殿下に頼まれたと言えば、ひとまず対面はできるでしょうね」
「理屈は分かりますが、だからと言って……」
「この件に関しては待ったなし、と言ったのはそなたよ?」
正論と自分の発言で畳み掛けられ、シアは反論を喉の奥に押し戻されるように呻いた。
やはり、この姉には口では勝てない。
再会してから何度目かでそれを痛感したシアは、長い溜息の末に白旗を揚げた。
***
「はい、できた」
「ん、ありがとな」
「染料が乾くまで、少しそのままでいてよ」
後ろで、髪に黒い染料を載せてくれたフェイジェンに、「わーってる」と返しながら、シアは目の前の化粧箱から紅を取り出した。
姉が出掛ける支度をする間に、シアも身支度をしていた。
さすがに、姉が『王女』の名で南別宮を訪問する以上、シアも妓生として行くことはできない。
(本当は妓生のカッコのほうが、厚化粧で誤魔化すのが簡単なんだけどなー……)
必然、姉の侍女という体で行くことになったシアの格好は、内人としてのそれだ。髪はうなじの辺りで纏めた髪を二つに分けて、それぞれを三つ編みにして楕円形に整えて結い上げ、二つのお団子を纏めた上からテンギ〔リボン〕を結んでいる。
降嫁した翁主の供であれば、本来なら尚宮のほうが自然だが、それを装うにはシアは若過ぎるし(正攻法だと、尚宮になる頃には、三十代半ばだからだ)、だからと言って、姉付きのイン尚宮に加えて内人を伴うのは、お忍びの面会にしては供が多過ぎて怪しまれる。
紅の蓋を開け、鏡を覗き込んだ所で、こちらをジッと見ているフェイジェンと、鏡越しに目が合った。
「……何だよ」
シアは、一度紅に蓋をし直し、鏡台の前に座ったまま、顔だけを彼女に振り向ける。
髪を染める為の道具を片付け途中で動きを止めていたらしい彼女は、「別に」と言って目を伏せた。
「何でもない割にはヒトの顔、ジッと見てたみたいだけど?」
「相変わらず綺麗だなぁって思っただけよ」
刷毛を桶へ突っ込みながら、投げるように言うフェイジェンに、瞬時唖然としたシアは、身体ごと彼女に向き直った。
「なあ」
「何?」
「やっぱり拗ねてる?」
「別に拗ねてない」
という言葉とは裏腹に、フェイジェンは思い切りそっぽを向いてしまう。
フェイジェン自身、南別宮に同行しないことに、納得はしているけれどしていない、という矛盾した心境なのだと思う。
ひとまず、抜き打ちで南別宮に行くと決まってすぐ、『お前はここに残っとけよ』と告げると、割合あっさり『分かってる』とは言っていたが――。
そっと息を吐くと、シアはフェイジェンの腕を掴んで引っ張った。頑なにこちらへ顔を向けようとしない彼女の顔のほうへ回り込んで後頭部を捕らえ、少し強引に口づける。
触れるだけのそれで一度唇を離すと、びっくりしたように見開いた彼女の目と、視線が重なった。
「……大丈夫だよ。すぐ戻るから」
「……分かってるってば」
涙声で答える彼女を、半ば力尽くで抱き寄せて、腕の中に捕らえる。
もうそれで、碌々逸らすことのできなくなった顔には、案の定、涙が伝っていた。
「……ごめ……」
「いいよ」
少し迷ったが、白粉が落ちるのを承知で、シアは彼女を抱き竦める。
言われなくても、彼女の気持ちは分かるような気がした。
尋常ならざる状況で再会して、ほとんどすぐ離れるのは、やはり不安なのだろう。これが、慶平君との一件がなかった状態で再会していたなら、彼女の精神状態も違っていたかも知れない。
(……まあ、あのバカ兄の介入がなきゃ、コイツへの気持ちの自覚ももっと遅れてたろうけど)
それを思うと、正直心情はもう、複雑なんてものではない。
「……ごめん。そろそろ本当に支度終わらせねぇと」
「あ、うん……あたしこそ、ごめんね。もう平気」
無理をしたとしか思えない、泣き笑いの顔が、初めて見るものだからか、どこか痛々しい。色々面倒臭いことを起こす輩がいなければ、彼女と離れる必要などないのに、と頭の隅でぼやきながら、もう一度だけのつもりで、唇を彼女のそれへ押し付ける。
外の空気が変わったような気がしたのは、名残惜しく離れた直後のことだった。
©神蔵 眞吹2026.




