第一章 亡霊たちの覚悟
本当なら、告げるべきではなかった気持ち。自覚するまでが、そもそも長かった。
けれど、自覚した途端、愛おしくて放したくなくて――結局、こうなるべくしてなったのかも知れない、とも思う。
「やっ……!」
怯えるような声が上がったのは、彼女のチマを掻き分け、下着越しに腿へ手を這わせた時だ。
目を見開いて彼女の顔を見ると、彼女はすぐに「違う」と首を振る。
「違うの、嫌じゃなくて、ただ」
「……こっち見て」
シアは、空いた手で彼女の頬に優しく触れながら、唇を啄む。
「今、ここにいるのは、俺だろ」
「……うん……」
目を合わせると、ホッと安堵したような表情になったフェイジェンは、すでに上衣をはだけたシアの肩先へ、縋るように自身の腕を回してしがみついた。
そして、自分からシアの唇へ、自身のそれを押し付ける。
「……続き、して……」
「言われなくても」
彼女の、脱がせ掛けた上衣の裾から腕を差し入れ、抱え込むようにして、シアは彼女の首筋へ顔を埋めた。
***
彼女に乞われたからか、自分がそう望んだからか――腕の中で眠る彼女の顔を認めた時、夜は明け始めていることに気付いた。
とにかく、慶平君との一件を忘れさせたい、と願ったのは事実だ。しかし、それ以上に、あの兄への多大なる嫉妬があったことも否定できない。
その所為なのか、途中からしっかり加減を忘れていた気がする。
(……やっぱ、無理させたよなぁ……)
腕枕の上に頬を載せた彼女の黒髪をいじりながら、そっと嘆息した。
ほとんど一晩中抱き合っていたのに、寝顔を見ていると、抱き締めて口づけたくて堪らなくなる。
フッと吐息を漏らすようにして、無意識に微笑した直後、室外に人の気配を感じて、シアはゆっくりと身体を起こした。フェイジェンの頭の下からそっと腕を引き抜いても、彼女が目を覚ます様子はない。
普段、武装官庁の茶母並に戦える彼女が、他人の気配に気付かないのは、やはり昨夜、無理をさせすぎた所為だろう。
「……大君様。起きておいでですか」
探るように外から聞こえたのは、ミョンギルの声だ。
「ああ」
見苦しくない程度に身支度すると、シアは布団を抜け出た。フェイジェンの身体に布団を掛けてやり、足音を殺して扉へ向かう。
彼女の身体が、ミョンギルの目に触れないように、扉を開けたらすぐ閉じるつもりだったが、部屋から滑り出る前に、開けた扉を押えた手があった。ミョンギルのそれではない。
「えっ、あっ、姉上!?」
手の主――この家の主の妻でもある、貞淑姉と目が合って、覚えず大声が出る。反射で、色んな意味でチラリと背後へ視線をやってしまう。
「おはよう、ウィ。昨夜はよく眠れて?」
「えっ、えええっと」
「今日、朝餉を持って部屋を訪ねたら、カオンが見当たらないと、侍女が騒ぎながら駆け込んで来てね。ウィは彼女の居場所を知らないかしら」
知らないも何も、一晩中一緒だった。――なんて、口が裂けても言いたくない。言いたくないが、こんなに急に踏み込んで来られては、誤魔化す言葉さえ思い付かない。
言い訳どころか、最早言葉が脳裏に浮かばない。
戦闘で万策尽きた以外で頭が真っ白になる、という体験を、生まれて初めてしながら、シアは同時に目眩を感じた。
「ウィだけが寝ていたにしては、布団がまだ膨らんでいるみたいね」
(……あー、もー……)
眉を盛大に顰め、シアは掌に顔を埋める。
この姉が、武術に精通しているのは、仁城君との一件で分かっていたつもりだったが、完全に実力を見誤っていた。まさか、扉を開ける刹那まで、その気配に気付かないなんて――
「……姉上。申し訳ありませんが、出直して頂けますか」
「あら。わたくしに見せられない者でも隠しているのかしら?」
「見せられない、というか」
「さっきのわたくしの質問に答えてくれない? ウィ。カオンの居場所を知っているでしょう?」
「それは」
「答えられなければ、部屋に入れてくれるだけでいいわ」
(冗談だろ)
思わず、僅かに上げた目で、助けを求めるようにミョンギルのほうを見てしまう。だが、彼は苦笑して、肩先を上下させただけだった。
(……密告しやがったんじゃねぇだろな、コイツ)
無論、ミョンギルには、唐突に始まったこちらのコトについて、事前に明かしてはいない。ただ、ミョンギルにとっては、シアよりも貞淑姉との付き合いのほうが長いだろうし、問われたら何か答えないわけにいかなかったのだろう。
「……お言葉ですが、姉上。私がカオンの居場所を知っているという、確証でも?」
悪足掻きとは思ったが、ダメ元で一応問うてみると、貞淑姉は、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
「この離れは、複数部屋があるとは言え、さして広くはないわ。わたくしの所に駆け込んで来た侍女も、カオンとそなたとミョンギル殿の使う部屋以外を隈無く捜索したと言っている。彼女が見落とした可能性もあったから、もちろんミョンギル殿を起こした上で、彼と一緒にもう一度離れと、念の為にシン家の敷地すべてを捜索した。そなたが昨日、カオンを連れて駆け込んで来た理由からして、カオンが一人でまた姿を消す確率は高くないと思ったの。調べてないのは、そなたの部屋だけよ。何か、弁明があって?」
シアは沈黙を返したが、完敗である。論破の隙など、微塵もない。
そも、この姉に口で勝とうというほうが、土台無理な相談だというのは、先刻承知だ。
はあーっ……とやや長い溜息を吐いたシアは、「分かりました」と答えた。
「降参です。逃げも隠れも致しませんから、少し時間を下さいませんか」
「何の?」
「身支度のです。私はともかく、カオンは人前に出られる格好ではないので」
「それは、そなたたちの勝手でしょう。捕われる罪人に、身支度させる官公庁がどこにあって?」
「私はともかく、カオンはそんな、人様に後ろ指を指されることはしておりません。それと、厚かましいお願いで申し訳ありませんが、湯殿の用意をして頂けるとありがたいですね」
「それも、そなたの都合ね。繰り返すようだけど、罪人に湯を使わせるような親切な官公庁はないわ」
「なるほど。では、姉上の理屈だと、私も罪人ですね」
「もちろんよ。そなたが幼い頃にかぶせられた、無実の罪とは別だわ。一つ言っておくけど、ここは妓楼じゃないのよ?」
一番後ろめたく思っている所を、寸分の狂いなく刺され、シアは瞬時沈黙した。
「……そこだけは、仰る通りです。本当に申し訳ございません」
普段より低くなった声を絞り出すようにして、姉に深々と頭を下げる。
「ですがせめて、弁明の機会は頂けませんか」
「身支度はできないと思いなさい。今すぐ、そこに寝ている彼女も起こして」
「分かりました。ただ、その前に、もう一つだけ」
「何?」
シアは、ここで顔を上げると、淡々とした無表情で姉を見た。
「元はと言えば、慶平兄上が関わっているという所を、酌量頂けるとありがたいのですけど」
『揉め事製造機』の異名を持つ兄――貞淑姉にとっては異母弟に当たるが――の名を出すと、姉の表情が初めて動く。
軽蔑すべきことをやらかした弟と、その相手に対しての冷え切った感情が、ほんの少し、和らいだように見えた。
貞淑姉は、どう返すべきか、考えたと思しき沈黙を挟み、「分かったわ」と呟くように言う。
「身支度だけは許可するわ。湯殿の用意はできないけど。ここで、一刻〔約十五分〕だけ待ちます」
「感謝致します、姉上」
平板な口調で感謝を告げ、シアはピシャリと障子戸を閉じた。
***
これは心から申し訳ない気持ちでフェイジェンを起こし、彼女の身支度を手伝い、姉が予告したきっかり一刻後。
シアとフェイジェンは、まさにこれから取り調べを受ける罪人宜しく、白い上下姿で、貞淑姉とミョンギルの前へ座った。
「さて、訊きたいことや言いたいことは山ほどあるのだけど、まずはそちらの弁明を聞きましょうか」
相変わらず、貞淑姉の口調は冷ややかだ。
それはそうだろう。
姉からすれば、以前に一度、顔を合わせているとは言え、ほとんど人となりを知らない少女――つまりフェイジェン――と、可愛い(かどうかは自意識過剰かも知れないが)異母弟が、一晩同じ部屋で過ごしたのだ。
それも年頃の男女が、人目に付かない密閉空間で一緒にいて、何事もないと考えるほうが、姉にとっては不可能だろう。
(……実際、コトに及んじまったら、言うことなんざねぇんだけど)
脳裏で呟き、上目遣いに伺った視線と、姉の視線がカチリと重なる。慌てて目を逸らすが、「ウィ」という温度の低い声が、シアを追った。
「弁明させて欲しい、と言ったのは、そなたよね」
「……はい」
そうは言ったが、先程脳内で思った通り、本当は言い訳などしようもないのだ。
姉の家でコトに及んだのが、そもそもの間違いだったと、後悔しても遅い。
「そなたももう、年齢的には一人前の男の子なのだから、女遊びの一つや二つ、わたくしとて、とやかく言うつもりはありません。でも、それにも限度があるわ。経緯はどうあれ、ご本人がご存知ないとは言え、今わたくしは、大妃様に代わり、そなたを母として預かっていると思っている。ゆえに、言わせてもらう。遊びたいのなら、時と場所と、相手を選びなさい。コトが選りに選って、わたくしの邸宅で起きたなど……わたくしは、大妃様に顔向けできないわ」
自身の躾を憂えているのか、はたまた自分の立場を心配しているのか分からない言い分に、シアは若干、反省の気持ちが目減りするのを感じた。
母の名を出されると、また後ろめたい気分にもなるが、母にしろ姉にしろ、そもそも彼女たちに大半の教育をされた覚えはない。
(だからって、じゃあ妓楼で遊んだのが耳に入ったら、同じように説教するのかって口に出したら、倍になって返って来そうだしな……)
第一、シアは個人的には、妓楼で遊ぶという行為を、あまりよくは思っていない。
妓生だろうが、一般人だろうが、女性はモノではないのだから。ましてや、慶平君のように、美人と見れば手当たり次第に強姦していくような男には、もっと腹が立つ。
「ウィが弁明しないのなら、そなたはどうなのです。ペク・ガオンと言ったな」
「……はい」
シアと違って、気持ち身を縮めるようにして隣に座っていたフェイジェンは、俯いたまま小声で返事をした。
「そなたの素性は知らぬが、茶母をしていたのなら官婢であろう。そなたが誑かしたのは誰だと思っている。今はその身分を剥奪されているとは言え、恐れ多くも、先王殿下唯一の嫡男ぞ。どういう下心から、ウィを誘惑したのだ」
「姉上!」
「シア」
フェイジェンを侮辱するような言い方に、さすがに聞き捨てならないと口を開いたシアを、フェイジェンが制する。
姉は、それをまた聞き咎めた。
「何だ、その呼び方は。ウィの素性を知っているのなら、それなりの礼を取らぬか」
フェイジェンは静かな表情で目を伏せていたが、直後には意を決したように立ち上がる。
そして、シアに初めて素性を明かした時と同じように、左手を拳にし、それを右手で包んだ。合わせた両手を左の腰へ当て、軽く膝を折り、浅い辞儀――万福で、貞淑姉に頭を垂れる。
「この国の翁主慈駕に、改めてご挨拶いたします。申し遅れました。わたくし、明国先帝・泰昌帝が第一皇女・懐淑公主、諱をジュ・フェイジェンと申します」
朝鮮ではあまり見られない礼と、突然告げられた彼女の素性に、貞淑姉は目を見開く。
「……何だと? そなた、一体何を……」
「姉上。彼女は、いたずらに身許を偽るような人間ではありません」
素早く口を添えたシアは、フェイジェンに座るよう目で促す。
だが、彼女は、貞淑姉に視線を据え続けた。姉の許しがなければ、腰を下ろすことはできないと思っているようだ。
姉にも、それは伝わったのだろう。
「……座るがよい」
固い声で姉が告げると、フェイジェンも「恐れ入ります」と答え、元通り腰を下ろす。
「……姉上。まずは、私の不始末をお詫び致します。確かに、私にとってここは他人の――姉上のお宅です。公衆宿屋のように、自由に振る舞っていい場所ではなかった。それは重々お詫び致します。申し訳ありませんでした」
シアは、居住まいを正し、胡座を掻いた膝の両脇へ、握った拳を突いた。そして、深々と頭を下げる。
「ただ、フェイジェンは決して遊び相手ではありません。私は真剣に、彼女を妻にと望んで、昨夜床入りを致しました」
「ウィ!」
言い終えるなり、貞淑姉が金切り声を上げた。
「そなた……何を言っているか、分かっているの!?」
腰を浮かせて膝行して来た姉は、シアの両上腕部を掴むようにして、顔を上げさせる。
「彼女が、この国の民なら民で問題はあるけど、仮に彼女の言う通りの素性だとしたら、そなたが妻に迎えられる女人ではないでしょう!!」
「彼女も、国ではすでに亡き者として認識されております。公主の任命は、現皇帝陛下から、諡号として成されたものだと」
「だからって安心しろと!? 彼女が亡き者とされた経緯によっては、尚更認められないわ! ウィだって、分かっているのでしょう!?」
シアは瞬時、唇を噛んだ。が、直後には口を開いている。
「……何もかも、すべて覚悟の上です」
「覚悟ですって!? 場合によっては外交問題になるのよ。いくらそなたがこの国の大君だとて、そなた一人の覚悟で、どうにかなるとでも!?」
「ですから」
怒鳴り立てる姉を、シアはあくまで静かに見つめた。
「生き返らぬ覚悟です」
「……何ですって?」
姉は、眉根を寄せて、シアの上腕部を掴んだ手を震わせる。
「これは、フェイジェンとこうなる前から、決めていたことです。私は、公式に生き返るつもりはございません」
「……つまり……王位にも就かぬ、ということ?」
「……そうですね。ファベク兄上にも委ねるのも不安しかありませんが、人材はほかにおりませんし」
反正の話は、やはり貞淑姉も知っていたようだ。ミョンギルと繋がっていれば、当然かも知れないが。
「何を言っているの。あの子に王位を任せることが、どれだけ無謀か……それならまだ、お兄様が王位にいるほうが億倍マシだわ」
「同感ですよ。ですが、私はそもそも、国に人生を破壊されています。民に罪はありませんが、どれだけ考えた所で、そんな国に、折角取り戻した人生を捧げる気持ちにはなれませんね」
自分でも、思わずゾッとしたほど冷え切った声が出た。
チラリとミョンギルを見遣るが、彼の表情は動いていない。彼が何を考えているか読めないまま、シアは姉に目を戻す。
姉のほうは、目を見開き、表情を強張らせていた。呆然とした彼女は、当面言葉を発しそうにないと見たシアは、自分が言葉を継ぐ。
「ただ、私が冤罪人のままでは、母上と貞明姉上を助けられません。貞淑姉上も貞正姉上も、不自由で、いつ何があるか分からない生活を強いられることになる。ですから、私の冤罪を晴らし、名誉を回復する所までは、責任を持ってやり遂げます。でも、そのあとの人生は、私の自由だ。私は、彼女と共に生きていく」
「そんな」
「わたくしも」
貞淑姉が何か言うのを遮るように、フェイジェンが口を開いた。
「……わたくしも、大君様と同じです。最早、国へ戻る気も、公式に生き返るつもりもございません」
「そなたは……一体なぜ、国を逐われることになったのだ」
フェイジェンは、シアにしたのとそっくり同じ話を繰り返した。
父帝の皇太子位を、祖父帝が中々認めなかったこと。祖父帝の側室が、自身の産んだ第三皇子を皇太子に、延いては帝位に就けたいと願っていたこと。
それゆえに、父帝は常に命を狙われていたこと、その飛び火がついに母后と自分に及んだこと。娘をそれ以上の危険に晒すことを危ぶんだ両親が、フェイジェンを死んだこととして皇宮から逃がしたこと――
「……わたくしが国を出たのは、六歳の時です。ですが、今、皇帝となった弟の側近であるウェイ太監は、なぜか執拗にわたくしを追って参ります。わたくしは……生涯、彼の追っ手から、逃げ切る覚悟を決めました。逃亡の最中、命を落とした母方の祖父母、命懸けでわたくしを皇宮から逃がしてくれた両親の為です。その運命に、大君様を巻き込むことは、申し訳なく思っておりますが……」
「フェイ」
彼女の言葉を制止するように、シアは彼女の手を握った。ハッとしたように、フェイジェンがこちらへ目を向ける。
「お前が気にすることなんて、何もない。俺が選んで、望んだんだ。お前と、生きることを」
「シア……」
「お前といられるなら、一生逃げ回る人生だって後悔しない。元々、俺もそうなるかも知れなかったしな」
不敵に唇の端を上げて見せると、フェイジェンは泣き出しそうに顔を歪めた。
彼女の手の甲を、ポンポンと叩いて、シアは姉に向き直る。
「姉上」
「……何」
姉は、もう脳内が飽和状態だと言わんばかりの顔だ。それに苦笑を返しつつ、口を開く。
「姉上に、私たち二人のことを、理解して欲しいとは申しません。私を気遣って下さるお気持ちは姉上の本心だと思っておりますし、姉上も私が流刑にされてからは苦労なさったと承知しております。私の冤罪に連なって、ご長女まで亡くされたのですから、少なからず私を疎ましく思われるお気持ちもありましょう」
「そんなことっ……!」
シアの言葉の後半を否定したい。けれど、その気持ちをどう言葉にすればいいか分からない、という顔で、姉はただ首を横へ振る。
シアは、それに構わず静かに続けた。
「姉上。ここが潮時です。姉上は、私の件から手をお引き下さい」
「ウィ!?」
「断っておきますが、私は何も、彼女とのことを咎められた腹いせに申しているのではありません。以前からそうして欲しいと思っておりました」
「そんな……ウィよ」
「ですが、姉上の性格からして、簡単にそうしては下さらないのも分かっておりました。どうしたものかとは思っておりましたが……」
クス、と無意識に苦笑する。
「まさか、自分で機会を作れるとは思ってもいませんでした」
「待って、分かった、彼女とのことを認めるわ。大妃様にも、わたくしからお許しを請うから、だから」
「姉上」
立て板に水と畳み掛ける姉に、苦笑を深くしながら、シアは手を挙げて姉の口上を阻む。
「言ったはずです。彼女とのことを認められない腹いせではないと」
眉根を寄せ、眉尻を下げて、縋るようにこちらを見る姉から、目を逸らしたくなる。が、敢えてそれをせず、シアは努めて穏やかに姉を見つめ返した。
「私の冤罪を晴らすことは、記憶を取り戻してからの――いえ、母上や姉上方が、私の冤罪に巻き込まれていると知ってからの宿願でした。ですが、それを姉上にお手伝い頂くことは、以前より心苦しく思っていたのです。その上、今や姉上のご理解を頂けないことをやっているのに、手を貸して欲しいなど、厚かましい。だから、手をお引き下さいと申し上げているのです」
「いいえ、引かないわ。わたくしは、そなたと再会した時に決めていたの。もうヒェスンのようなことは繰り返さない。そなたは、何としても守ると」
いつの間にか、シアの間近に腰を下ろしていた姉は、そっとシアの手を取った。
「……分かった。そこまでそなたが……そなたたちが覚悟を決めているのなら、もうわたくしから申すことはないわ。すべてが落ち着いたら、二人の祝言を挙げましょう。大妃様たちにも、きちんとお伝えして」
「姉上」
姉の目線に釣られて、シアは思わずフェイジェンと目を見交わす。姉のほうへ視線を戻すと、姉は微苦笑しながら小さく頷いた。
「カオン……いえ、懐淑公主様。あなたは生涯、ウィ以外の人間の前で、真の名を名乗ることができなくなるでしょう。本当に、その覚悟がおありですか?」
姉に目を向けられたフェイジェンは、瞬時瞠目したが、すぐに「はい」と首肯する。
彼女にも、頷き返した姉は、シアに向き直った。
「この国の倣いとして、式と床入りの順序が逆転するのは、正直褒められたことではないけれど……仕方がないわ。そなたたちの状況が特殊なのだから。大妃様には、その点、わたくしからご説明するわね」
「いえ、そんな」
「それこそ潮時よ、ウィ。状況を整理してからになるけれど、近い内に安山の寺へ参りましょう。大妃様とランファ、チュニョンにも、事情を話さなくては」
©神蔵 眞吹2025.




