第九章 亡霊たちの契《ちぎ》り
ん、と小さく漏れた甘い声が、シアを容赦なく煽った。
本能の命ずるまま、シアはフェイジェンをきつく抱き竦めて、顔を傾け直す。
彼女に対する遠慮も配慮も、掴み戻せない所まで離れてしまった。自分以外の男が、先に彼女を抱き締めたという、それだけの事実に対する嫉妬も手伝い、何度も角度を変えて彼女の唇を貪る。
呼吸の限界を感じて、やむなく啄むように唇を解くと、開いた視界の先で、泣いた所為ではない潤んだ瞳と視線が絡む。
「……ごめんね」
先に、目と同じくらい潤んだ声で、フェイジェンが先に言った。
「……何の、謝罪?」
口づけだけで弾んだ呼吸のまま訊ねると、彼女はシアの耳許へ唇を近付けるようにして、シアにしがみつく。
「……あたし……あんな、勝手なこと言って、あんたから離れたのに……」
言われてそれが、彼女が影契の拠点を離れる際に置いていった文のことだと分かる。
「……来てくれて、嬉しかった。あたし……何でも、一人で切り抜けられるって思ってたし、前は実際、……お祖父様やお祖母様の助けは得てたけど、そうだったし……でも……」
フェイジェンは、シアの首筋に顔を埋めるようにして、震えながら続けた。
「……怖かった……」
「……分かってる。もう思い出さなくていいから」
宥めるように、抱き締める腕に力を込めるが、フェイジェンは一人ごちるように言葉を継ぐ。
「……本当は、あんたの邪魔するべきじゃないって知ってる。あんたに、あたしの事情は関係ないんだから……」
そんなことはない、と言おうとした言葉は、喉の奥に消える。
シアとて、立場が逆なら、彼女に同じ言葉を言っていただろう。
「……分かってるけど、もう離れたくない。もう、あんな……」
あんな目に遭うのは嫌だ。そう、続けられるだろう言葉は、彼女の口の外へは出て来なかった。それがどれだけ自己中心的な考えか、と彼女が思っているのは手に取るように分かる。
「……いいよ」
だから、代わりにシアのほうが彼女の耳許へ口づけながら告げた。
「俺が離さない。俺のほうの事情を全部片付けるまで付き合わせるのが、どんだけお前に負担かは分かってるけど……」
「……いいの?」
涙に濡れた声音に、ユルユルと顔が見える距離まで一度離れる。透明な膜の張った黒い瞳を見つめ返しながら、彼女の頬に手を当て、唇を啄んだ。
「……悪い。負担どころじゃないよな。下手すると、寿命縮むかも知れねぇから、お前は一番遠ざけとくべきだってトコも分かってるけど」
「いい、……いいの」
泣き出しそうな表情で、小さく首を横へ振る彼女に、シアは苦笑して続ける。
「見てないとこで、お前がまたあんな目に遭うかも知れねぇって思うと、考えるだけでこっちの寿命縮むし」
「それは……ごめ、」
我が身も守れない自分に自己嫌悪したと分かる謝罪を遮るように、シアはフェイジェンの唇を塞ぐ。最初の口づけよりも短く切り上げて、額をそっと寄せた。
「……こっちこそ、ごめん。お前を手放したくない、なんて、十割我が侭で自己中だってのに」
「いいの、もう言わないで。――愛してるわ」
率直な告白に、瞬時目を見開いたシアは、苦笑しつつも彼女を抱き締め直す。
「……俺もだ。愛してる」
彼女のこめかみに唇を押し当てて、耳許に囁く。
「なぁ、フェイ」
「ん?」
「このまま、……抱いてい?」
欲望も丸出しの台詞に、さすがにフェイジェンもピクリと肩先を震わせる。再度、ノロノロと離れて見つめた顔は、紅くなればいいのか青くなればいいのか分からないと言った表情だ。
「……冗談だよ。姉上ん家でやることじゃねぇしな、やっぱ」
クス、とまた一つ苦笑しながら、シアはフェイジェンの、向かって左の首筋に朱く浮き上がった痕へ目をやる。
「……ただ、今日はここだけ」
「えっ?」
言いながら、シアはその痕の上へ唇を落とす。
「ちょっ、シア、あッ」
彼女の腰を抱え込んで、キュッと吸い上げると、フェイジェンは反射的にか甘い悲鳴を上げた。本気で続きをしたくなる衝動を、苦労して抑え込みながら、シアは刻印を付けたそこをチロリと舐め上げる。
「……上書きと消毒」
「えっ……あ」
何のこと、と言い掛けたフェイジェンにも、思い当たることがあったようだ。
「口づけの痕、付いてた。ウチのクソ兄貴にやられたんだろ」
「ごめ……」
彼女に非のない謝罪を封じるかの如く、シアは彼女の唇を自分のそれで塞ぐ。
「……お前は、悪くない。……俺の勝手な、嫉妬混じりの八つ当たりだよ、半分以上」
自嘲気味に言いながら彼女の身体に改めて腕を回す。フェイジェンも、シアの肩へと腕を回し返し、どこか愛おしむようにシアの頬に自身の頬を擦り寄せた。
「……ところで、シア」
「ん?」
「何であんた、あたしがあそこにいるのが分かったの?」
彼女に見えない角度になった顔の中で、キョトンと目を瞠り、ごく自然に互いに顔が見える所まで離れる。
「……言ってなかったっけ」
「聞いてない」
「そっか、悪い」
もう何度目か分からない謝罪の言葉を繰り返し、シアは彼女の腕を引いて、床へ腰を下ろした。そしてそのまま、彼女を背後から抱え込む。
「えっ、ちょっ、シア!」
「何だよ」
「話するだけでしょ、こんな……」
「もうちょっとこうしてて欲しい、って言ったのお前だろ」
「それはっ……!」
そうだけど、とモソモソと続けながら、フェイジェンも早々に諦めたように、シアの胸元へ背を預けた。彼女からほぼ見えない角度の顔に、うっすらと笑いを浮かべながら、シアは口を開く。
「影契の拠点出た時から、お前には影契の構成員が常に張り付いてたんだよ。お前の行方が分かってから、すぐくらいに俺らも都に戻って、俺だけ女装で右補盗庁に潜り込んでた。茶母としてな」
「えっ、右補盗庁に?」
フェイジェンは、振り返ろうとしたらしく身動ぎしたが、実際にはほとんど顔を動かせず、代わりに目だけをシアのほうへ向けた。
「何で茶母として?」
「まだ慶運宮放火の件が片付いてないっぽかったからな。俺、『男』として手配されてたから、女装すりゃ多少は誤魔化し利くし」
誤魔化し利くどころじゃないと思うけど、とフェイジェンがポソリと零した言葉は、軽く受け流した。シア自身、自分の顔が(良く言えば)中性的(率直に言ってしまうと、女顔)で、男受けがいいらしいことは承知している。
「でも、どうやって……」
「前に、ミョンギルとクァルの間に、お前が渡り付けてくれてただろ? そこがまだ生きてたからな」
「そっか……」
納得したように言ったフェイジェンは、ハッとしたように今度こそ上半身を捻る。
「そう言えば、右補盗庁に手入れがあったよね?」
「ああ。何か、言い掛かり付けられたみたいで、クァルが連行されてった。アイツが隠し通路に逃がしてくれたから、俺は上手く外に出られたんだ。その頃、お前が右補盗庁の近くでキョンジンに引っ張って行かれたって、ミョンギルの配下から報告あったから、そのあと、玉聲楼から連れ出す隙を窺ってたんだ。まさか、慶平兄貴が、公的機関引き連れて首突っ込んでくるとは思ってなかったけど」
はあ、と溜息交じりに付け足すと、フェイジェンも視線の先で苦笑を浮かべた。
「その、玉聲楼にあった手入れのことって、何か分かってるの?」
「ミョンギルが調べてくれてるけど、さっきの今だからな。でも、右補盗庁のほうは分かってる。さっきもチラッと言ったけど、慶運宮への放火に関して、一旦俺の手配は解除されたはずが、蒸し返されてるんだ。明国から、光海兄上に対して、物言いが付いたらしい。ファベク兄上の差し金でな」
「明国から!?」
故国の名が出た所為か、フェイジェンの顔色がサッと変わった。
シアは、フェイジェンを宥めるように、軽く握った拳で彼女の頬を撫で、口を開く。
「で、今また俺の手配が再開されて、放火には右補盗庁が一役買ってるって、左補盗庁に垂れ込みが入ったのが、右補盗庁に手入れがあった原因みたいだな。どうも、反正の準備のことで、ファベク兄上はクァルにも声掛けてたらしいけど、中々靡かないから潰しに掛かったんじゃねぇか、ってのがミョンギルの推測だ。多分そのあと、またどっかに手ぇ回して、反正に協力するならって条件付きで、クァルを解放させる方向に動かす用意もあったんだろうけど……」
「玉聲楼は、綾陽君の拠点よね。イ大将様を助ける前に、自分も手入れ受けるって……」
フェイジェンは、自分の疑問の言葉に、覚えずと言った様子でプッと吹き出した。自業自得的に、しっぺ返しを喰らったのが、おかしくもあり、溜飲が下がる気もしたのだろう。
シアも同意するように苦笑したが、笑いのほうはすぐに顔から消える。
「ファベク兄上が何かしたからって可能性は低いだろうから、……これは完全に俺の憶測だけど、大北派が何か動いたのかも知れねぇな」
言いつつ、シアが立ち上がると、フェイジェンがどこか不安げな表情でその動きを目で追ってくる。それにまた苦笑を返して、シアは先程、自身が置いた盥に手を入れ、湯の温度を確かめた。
突っ込んだままにしてあった手拭いを絞って、フェイジェンに目を向ける。
「ほら」
「えっ?」
「足袋脱いで、足出せって。拭くから」
「えっ、そんな……自分でできるよ」
「俺がそう言った時、お前は素直に譲ったか?」
淡々と問うたシアの流し目に、フェイジェンはまた、小さく肩先を震わせた。
昔、まだ彩映楼にいた頃、シアのほうは『男だとバレた』と認識した、小さな事件があった(あとから聞いた話では、フェイジェンはその前からシアの正しい性別を知っていたらしいが)。
つまり、最初に、彩映楼の妓生に嫌がらせを受け、酒を頭から引っ掛けられて、髪から染料が落ちてしまった時のことである。湯殿まで来て、『あとは自分でできるから』と頑張るシアの言い分を、彼女は右から左へ受け流し、シアの上衣の結い紐を遠慮なく解いてくれた。
女性同士なら、コトの持って行き方によっては、事件にもならず問題にもならなかったかも知れない。実際、先からシアの性別を知っていたフェイジェンには衝撃でもなかっただろうが、当時のシアには、色々と思う所があったものだ。
――というシアの思考はともかく、出来事としてのそれをもちろん、フェイジェンも覚えているのだろう。
指摘されて、ばつが悪そうに視線を泳がせた末に、「分かったわよ」と唇を尖らせて、足袋を脱ぎに掛かった。
***
その夜、シアとフェイジェンは、一度は別室で休んだ。
シン家の離れには、部屋が複数あった為、最初は別の部屋へそれぞれの床が延べられていた。
昼間のこともあり、シアもフェイジェンを一人で休ませるのは少し心配だったが、彼女自身が「大丈夫だから」と言った為、ひとまずフェイジェンの部屋を辞した。
それが多分、亥時の正刻〔午後十一時〕頃だったと思う。
シアも、意識はしていなかったが、疲れていたのかも知れない。ウトウトして、どのくらい経った頃か、傍らに人の気配を感じて飛び起きた。布団の傍に膝を突いていたのは、フェイジェンだった。
名を呼ぼうとして、顔が強張るのが、自分でも認識できる。
明らかに、彼女が泣いているのが暗闇でも分かったからだ。
「……フェイ?」
そっと頬に手を這わせると、やはりそこは濡れている。
どうしたのかと訊ねるより早く、彼女はシアの腕の中へ飛び込んで来た。
「……ちょっ……どうしたんだよ」
「……ごめ……ごめんね、何でも」
「何でもないわけないだろ、ちょっと落ち着けって、今灯り点ける――」
「いいから!」
しがみついた彼女の身体は、誤魔化しようもなく震えているのが分かる。
嫌な夢でも見たのだろうか。原因として、思い当たることなど、一つしかない。
(……あんのクソ兄貴……本当にあの場で殺しとくんだった)
顔に似合わぬ物騒なことを脳裏で呟きながら、彼女の身体にそっと腕を回す。
「……ここで休むか?」
宥めるように肩を叩いてやりながら、小さく訊ねる。
いつだって気丈だった彼女が、こんな風に怯えている姿は初めて見た。彼女自身で思うよりも、精神が傷付いているのかも知れない。
心に付いた傷による影響は、シアにも覚えがある。シアの場合、火事に遭った恐怖から、髪からは色が抜け落ち、記憶が一時飛んでいた。
他方、問われて我に返ったのか、フェイジェンはシアの胸元に手を突っ張って、身体を離そうとした。
「……ごめん。もう、平気」
「平気なわけないだろ。こんな時に意地張るな」
「もう大丈夫だってば。ごめん、起こして。部屋、戻るね」
まだ震えているにも拘わらず、フェイジェンは立ち上がろうとする。が、シアは離さなかった。
やや強引に彼女の顔を引き寄せると、最初から深く口づける。
「ッ、んぅ」
漏れた甘い声に煽られるように、舌先で彼女の唇を割って、口腔へ潜り込む。
掻き回すような口づけを繰り返す内、彼女の身体から緩やかに力が抜けていく。それを見計らって、シアはやっと彼女の唇を解放した。
「……落ち着いた?」
「……う、ん……」
どこを見ていいか分からないとでも言うかのように、フェイジェンは視線をウロウロと左右させる。
やがて、フェイジェンは意を決したように目を上げ、自分からも唇をシアのそれに押し当てながら、シアの寝間着の結い紐を解いた。
彼女の行動に、目を見開いたシアは、思わず唇を離してフェイジェンを見つめる。
「……フェイ?」
「……このまま、抱いてって言ったら……軽蔑、する?」
消え入りそうな声で問われ、シアは尚のこと目を丸くした。
今度はシアのほうが、どんな表情をすべきか、逡巡する。「……あー……」と呻くような声を漏らして瞬時、掌に顔を伏せた。
「……それ、こっちが軽蔑されそうだから、昼間は本気だって言えなかったんだけど」
「そんなことっ」
「シッ!」
思わず高くなりかけた彼女の声を、掌で遮る。室外の気配を探って、誰も踏み込んで来ないのを確認し、そっとフェイジェンの口許から手を離すと、彼女に向き直る。
「……本気で言ってる?」
「……ごめん……でも最初は……あんたじゃないと、嫌だから……」
目を伏せ、尻すぼみに答える彼女の頬へ、そっと触れる。視線をこちらに戻した彼女の目に、自分の顔はどう映っているだろう。
「……大前提として、ここ、姉上の家だしっていう遠慮はまだあるんだけど」
口を開いたシアは、フェイジェンの肩先をそっと押した。そして、上からのし掛かるような格好になりながら、彼女の顔を覗き込む。
「本当は、すぐにでも欲しくておかしくなりそうだなんて、とてもじゃねぇけど言えなかった。丸っきり、あのクズ兄貴と同類みたいな気がしてたからな」
「そんな、」
恐らく否定の言葉を言おうとしただろう唇に、そっと指先が押し当てる。
「……だけど、お前から言ってもらえば、それが免罪符になるような気もしてたんだ。……卑怯だよな。ごめん」
「……あたしだって、同じよ」
唇に当てた手をそっと外した彼女は、自分からその指先に口づける。
「……あの男に、無理矢理奪われ掛けた記憶を消したくて、全部なかったことにしたくて……ごめんなさい、シアが抱いてくれないのはもしかして、あのことで何かわだかまりがある所為かも、とも考えちゃって……」
「それは違う。ただ、俺が怖かったんだ。無闇に抱いたら、傷を抉るかも知れねぇって」
フェイジェンは、シアの顔を見上げて、必死の様子で首を横へ振った。
「あたしは、シアがいいの。シアじゃなきゃ、駄目なの」
「だったら」
フェイジェンに取られた手を握り返し、シアはその指先に口づけながら、続ける。
「今夜……今これから、俺の妻に、なってくれるか?」
フェイジェンは瞠目した。と意識する間もなく、彼女の目に、水面ができる。
「フェイジェン」
答えを促すように、改めて彼女の名を呼んだ。瞬きした彼女の目尻から、雫が一筋伝う。
「……引き返すなら、今だぞ。多分……一度抱いたら、もう絶対手放せないし、そのつもりもない。だから――」
シア自身、まだ葛藤していることがある。それは、多分フェイジェンもそうだろう。
自分たちは、ただの男と女ではない。
片や、暗殺を逃れた、公式には死んだはずの王子で、片や国から逃げて来た、これまた公式には死んだとされている皇女だ。
結ばれたあと、仮にそれぞれの故国から生存と復位を認められたら、考えるだけでも面倒なことになる。それこそ、外交問題にも発展し兼ねない。
きっと、彼女にもそれは分かっている。けれど――。
「……あたしの夫に、なってくれる?」
「俺が先に訊いてんだけど」
「なるわ。あんたの妻に、喜んでなる」
小揺るぎもせずに告げられ、シアは再度、目を見開いた。直後には、苦笑を浮かべる。
「……分かった。俺も、本気で肚括るよ」
すると、彼女も苦笑した。
「それは答えじゃないでしょ。あたしの夫になる気があるの?」
シアは、苦笑を深くしながら、彼女に顔を近付ける。
「なるよ、喜んで。――公主様」
おどけるように答えて、彼女の唇を自分のそれで塞ぐ。
忙しなく口づけを交わしながら、シアは彼女の上衣の結い紐を解いた。
©神蔵 眞吹2025.




