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第八章 李曙《イ・ソ》

 殺気の出所でどころを特定するのと、カランが息を詰めるのとはほとんど同時だった。

 彼女の身体が前にかしぐ速度が、嫌にゆっくりとシアの目に映る。

「カランッ……!」

「母様!!」

 倒れ込んだ彼女の背には、矢が一本突き立っていた。

 シアとカオンの叫びがかぶった間合いで、ミョンギルがどこからともなく出した苦無くないを、殺気の漏れた方向へ投げ付ける。

 短い呻きに遅れること一瞬、ガサガサッと何か大きなものが遠くの茂みへ落ち込む音がした。同じ瞬間に、シベクがそちらへ向かって駆け出す。

「チュンホ先生、ここ頼む!」

 素早く言い捨てると、彼の返事を待たずに、シアもシベクを追った。駆ける速度で、周囲の景色が後ろへと流れて行く。

 ひらけた場所でちょうど、見知らぬ人物がシアに背を向ける体勢で、シベクと対峙していた。考えることもなく、シアは刀を鞘ごと、相手の膝裏へ叩き込んだ。

「なっ……!?」

 背後からの不意打ちをマトモに喰らった人物は、悲鳴を上げて膝を突く。

「動くな」

 ここまで駆けて来たのに息をはずませることもなく、シアは刀を抜いて相手の首筋に押し当てた。

「武器を捨てろ。遠くヘだ」

 グイとやいばを首筋に食い込ませながら要求すると、相手は手にしていた刀を、悪足掻わるあがきするようにシベクのほうへ投げ付けた。シベクはいとも簡単に、飛んで来た刀の柄を受け止める。

 シベクは、自身の刀を鞘へ納めると、受け止めた相手の刀を、シアが押さえている反対側の首筋へ突き付けた。

「何者だ。綾陽君ヌンヤングンの手の者か」

 シアが背後から問うと、「無礼な」と、初めて相手が口をいた。

「口を慎め。どなたのことを口にしていると思っている。恐れ多くも、先王・宣祖ソンジョ殿下のお孫様だぞ。ぶんをわきまえよ」

 これを聞いたシベクは、シアにチラリと視線を投げる。その視線の意味は明らかだ。

 だが、シアは小さく首を横へ振って見せる。誰だか分からない相手に、そうホイホイとこちらの素性を明かすわけにはいかない。

 けれど、彼の口振りからすると、綾陽君に近しい者だということは分かる。

「シン・ギョンジンか?」

 試しに言ってみると、相手は沈黙した。声からそうでないことは分かっていたが、シベクが明確にこれに否を示した。

「いいえ。シン殿ではありません。初めて見る顔です」

「そなた、名を何と言う。綾陽君様の使いか」

 口調を改めてたずねたが、相手は更に言い返して来た。

かさがさね、礼儀知らずな……人に名を訊ねる時はせめて、自分からと言うであろう」

「その無礼は承知している。だが、そちらがどこの誰か分からぬ内は、私からはゆえあって名乗れぬのだ。それでなくとも、仲間を傷付けられている。ゆえに、先に確認したい。綾陽君様からは、何と言われてここへ来た。何故なにゆえ、あの女性を矢で射た」

 問いを重ねると、相手は再度沈黙し、舌打ちした。

「……私の存在を漏らされそうになったからだ」

「なるほど。だが、こうして捕らえられていては、世話はないな」

「まったくだ」

 フッ、と自嘲の笑いをこぼした男は、立てていた膝を突き、居住まいを正した。

「殺すがいい。あるじのことは喋らぬ」

 ある意味、潔い態度に見えなくもないが、と思いながら、シアはチラとシベクと目を見合わせる。

「……これって、言ったも同然だよな、あるじが誰かってトコ」

「ですな」

「何だと、このっ……!」

「じゃあ、師匠」

 男がいきり立つのに構わず、シアはシベクに告げる。

「コイツ、ちゃっちゃと連行しちゃってくれる?」

「分かりました」

 シベクは、顎を浅く引いて答えたが、普段なら続く「大君様」は付けなかった。シアの意を汲み、敢えてそれを口にしていないようだ。

「どのように連れて行きますか」

「そうだなぁ。あんた、さっき俺らがいた所まで、自力で歩く?」

 問いながら、シアはシベクに男の首筋を任せ、自分は刀を引いて男の前方へ回り込んだ。

「それとも、気絶させて運ばれるのがいいか?」

 小首を傾げたシアと視線を合わせた男は、それまで不服そうな表情を浮かべていたようだが、瞬時、ハッと目を見開いた。自惚うぬぼれるわけではないが、初対面の(特に男性は)大抵、似たような表情になる。

(……まあ、この顔だしなぁ……)

 シアは状況も忘れて、無意識に頬をこすった。

 自身の顔の造作には無頓着なほうだが、シアのそれは特に女性寄りで、しかも男受けがいいらしいのは、経験で知っている。しかし、男の反応の意味が、そういった色恋云々(うんぬん)による理由ではなかったことが、男の次の一言で知れた。

「……公主コンジュ、様……?」

「えっ」

 またたいて、思わず声を漏らす。と同時に、男は正座の状態から頭を下げた。

「……まさか……誠に、公主様ですか」

(……やべ……もしかして、貞明チョンミョン姉上と間違われてる?)

 思わず、口許を覆う。それと前後して、以前、貞淑チョンスク姉に言われたことを思い出した。

『気を付けて。そなたの女装姿は、ランファによく似ているから、兄弟姉妹きょうだいなら気付く者がいるかも知れない』――

 確か、貞淑姉はそう言っていた。貞明姉とシアは、互いにそういった自覚を持ったことはないし、母に『二人はよく似ている』と言われたこともない。が、見る人間によっては、似て見えることもあるのだろう、というところは、頭では分かっている。

 けれども、今のシアの格好は、男装だ。それに、素性を知った人間の中だけで過ごしている為、頭髪も染めていない。まさか、この格好を見て、気付く者がいようとは――

「その御髪おぐしの色は、……恐れ入りますが、お訊ねしてもよいのでしょうか」

 こちらの顔を見て、すぐに俯いてしまった所為か、男はまだ、シアを貞明姉と思い込んでいるようだ。

 シベクに目を投げると、彼は思うさま顔をしかめ、しきりに首を横へ振っている。それにどういう意味があるのか、予測できることがいくつかあって、シアには正確なところは分からない。

 だが、シアはそれを無視し、俯いたままの男を見下ろして口をひらいた。

「――わたくしはまだ、そなたに先んじて名乗る必要があるか?」

「いえ! 滅相もない」

「では、名を教えてもらえるな」

 もう一度、顔を確認される前に、引き出せるだけ情報を引き出してしまおう――シアはとっさに、姉になりすますことに決めた。

 男は案の定、顔を上げることなく、「申し遅れました」と答える。

「わたくし、イ・と申します。公式には、長湍チャンタン府使ブサと、京畿キョンギ防御使バンオサを兼任中でございますが、ゆえあって、こちらへ参っております」

 防御使とは、軍事指揮官職の一つだ。

「ゆえとは、ファベク兄様……綾陽君のめいか?」

「は」

 シアにとってもそうだが、貞明姉にとっても、正式な続柄は、綾陽君は甥に当たる。それを、分かっているのだろう。そう呼び捨てても、男――イ・ソはもう文句を言わなかった。

「何を言いつかって来たか、聞かせてもらえるのか?」

「はい、公主様。これは、綾陽君様に、わたくしから聞いたと、くれぐれも漏らさないで頂きたいのですが……」

「無論だ」

「恐れ入ります。それでは、お答えいたします。綾陽君様は、ある不穏分子の許へ送り込んだ間諜の監視をして欲しいと……もし、間諜の対象に、正体を漏らす恐れあらば、速やかに処理するようにと」

「……つまり、殺害か」

「左様です。ところで、公主様。わたくしも、恐れながらお訊ねいたします。何故なにゆえ、綾陽君様は公主様を不穏分子と……」

「兄様は、わたくしに含むところがあると?」

「いえ、ハキとそう申されたわけでは……ただ、とにかく間諜が、正体を看破された場合は、速やかに口を封じよと、わたくしの任はそれだけにございます」

 シアは、思わずの口調でまくし立てそうになるのを、全力で抑え込みながら、問いを重ねた。

「左様か。ところで、これは余計なことかも知れぬが」

「何でしょう」

「長湍府使と京畿防御使――どちらも、国家防衛の要職であろう。兄様は王族とは言え、そんな要職の者を、私用で動かしてもよいのであろうか」

「恐れながら申し上げます、公主様。只今、綾陽君様は大業のご準備の最中さいちゅうでございます。その大業に、わたくしは心より賛同いたしている次第です」

「ゆえに、万が一、職務放棄で弾劾されても構わぬ、と?」

「大業の為には無論、いざという時に動かせる戦力は必要でございますが、あるじめいとあらば」

(アホか)

 思わず、口に出してしまいそうになり、危うく呑み込んだ。

 自分の欲望(・・)の為に、国の防衛を疎かにするような命令を下すなど、王を目指す者にあるまじき愚行だ。その愚行を諭しもせず、「ハイハイ」と黙って言うことを聞いてしまう、ソもソである。

 つまり、民はどうでもいいのか、と今度こそまくし立てそうになるが、それももう意地で呑み込む。だが、深呼吸が溜息のようになるのは、抑えられなかった。

「あの、公主様?」

「何でもない。それで、そなたが初めてわたくしの姿を見たのは、何処いずこでだ?」

「……恐れ入ります。わたくしが初めて公主様のご尊顔を拝したてまつったのは、先の慶運宮キョンウングンでの火災の折でございます」

「どういうことだ」

「火災の翌日から出回った人相書きを、綾陽君様よりたくされました。行方不明ゆえ、見付けて欲しいと。その任の半分が叶い、わたくし、歓喜に耐えません」

「半分とは」

大妃テビ様も、共に行方が分からぬのです。公主様なら、大妃様の居場所をご存知では?」

 反射のように顔を上げたソと、視線が絡む。だが、再度、マジマジと見た所為か、ソはようやく、シアと貞明姉の造作の、微妙な違いに気付いたようだ。

 続ける言葉を失った、と言わんばかりに、しばらくおかに打ち上げられた魚のように口をパク付かせていたソは、ようやく、「おっ、おっ、おまっ、お前っ……!」と言いながら身動みじろいだ。

 シベクから首筋に刀を押し当てられている為、とっさに立ち上がることもできないソは、震える指先をシアに突き付け、「だっ、騙したな!!」と絞り出すように叫んだ。シアは、呆れたような溜息を一ついて、側頭部に手をやる。

「先に間違ったの、そっちだろ。騙したなんて言い掛かりなんだけど」

「間違いを訂正しなかったではないか!!」

「折角、欲しい情報漏らしてくれそうな取っ掛かり作ってくれたのに、バカ正直に訂正するかっつの」

「やかましい! 恐れ多くも、公主様をかたるなど……!!」

「だーから、あんたが勝手に間違ったんだろ。そんなに似てるか、俺」

「似てるも何も……!!」

 噛み付き続けていたソは、改めて問いただされた為か、そのあとを呑み込み、シアの顔をマジマジと見つめた。

「……逆に訊きたい。何故なにゆえそんなに似ているのだ」

「さぁな。他人の空似ってヤツじゃないのか」

 シアは、あっさり言って肩を竦めた。

 いくら名前や身分を喋ってくれたからと言って、ソを人間的に信用できるかは別の話だ。だが、ソは引き下がらない。

空似それでは済まないぞ。お前、何者だ。それに、その髪の色はどういうことだ」

「こっちを騙り呼ばわりするヤツに、くれてやる情報はないね」

「知らぬ存ぜぬでは通らぬぞ! 長湍府使や防御使が軍事的要職だと知っているのは何故なにゆえだ。それに、綾陽君様のあざなも……ましてや、貞明公主様が綾陽君様をどう呼ぶかなど、知る者は限られていよう!!」

 指摘されて初めて、シアは盛大に舌打ちした。しまったと思っても、遅い。

 その辺の破落戸ゴロツキでも、百歩譲って、軍事的要職の内容は知っている者もいるかも知れない。が、綾陽君に限らず、王族の字など、確かに知っている者は限られる。貞明姉が、綾陽君をどう呼ぶかを知っている者は、その中でも更に限られるだろう。

 唇を噛み締めていると、「あなた様の負けですな」というとどめを刺すような言葉が、頭上から降って来る。

 ジロリとめ上げると、シベクが半ば呆れたような表情で、シアを見下ろしていた。

「お言葉ですが、わたくしの責任ではありませんよ?」

「ッ、分かってるよっ」

 再度、舌打ち混じりに吐き捨てる。と、シベクが不意にシアに顔を寄せ、声をひそめて続けた。

「もうバラしてもいいんじゃありませんか?」

「はあ? 何を」

「あなた様のその真っ直ぐバカなところ、わたくしは嫌いじゃありませんけどね」

「バカって何だよ、バカって」

「相手の性質に便乗して、情報絞れるだけ絞るのも手ですよ」

「……~~~~ッッ……」

 返す言葉に困って、何度目かで黙り込む。だが、シベクの言いたいことは分かった。

 察するに、ソも相手の人間性よりも、身分に脊髄反射で敬礼する類型の男だ。そういう人間は、ある意味で信用ならないし、『この身分の人間は、こう考えるに違いない』という先入観で気を回すから、非常に厄介だ。あのホン・ソボンが、いい例である。

 けれど逆に、身分を笠に要求すれば、考えなしに情報を吐き出してくれることは、シアも知っている。それを裏付けるように、先刻まで貞明姉を相手にしていると思っていたソは、面白いように喋ってくれた。

 しかし、その性質を、自分の都合によっていいように利用するのは、この種の人間と同じことをするようで、正直気が進まない。

若様(・・)

 まだシアの許可を得ていないからか、シベクが名前でも『大君』でもない、別の呼び方でシアを呼んだ。

「何だよ」

「あなた様が守りたいのは、何です?」

「あ?」

「あなた様のある意味、真っ直ぐバカな信念は、為政者としては賞賛にあたいします。ですが今この瞬間、しんに守りたいものとその信念、天秤に掛けてみてください。どちらが大事です?」

「そりゃっ……!」

 考えるまでもなく、前者だ。

 反射でシベクのほうを向くと、横目で彼は頷いて見せる。一瞬で、腹は決まった。

「……イ・ソ」

 シアは、ソに視線を戻し、口をひらく。ソは、未だ平民だと思っている相手に名を呼ばれ、噛み付かんばかりに歯を剥き出した。

「貴様っ、どこまで無礼を重ねれば」

「そなた、自分でそれだけ論拠を並べておいて、まだ答えが出ぬのか」

「何?」

()が長湍府使や防御使が軍事的要職だと知っているのは何故なにゆえか。綾陽君の字を知っているのはなぜか。更に、貞明姉上(・・)が綾陽君をどう呼ぶか、知っているのはどうしてなのか……」

「な――」

 ソが、ポカンと口をける。あるしゅの間抜けヅラに、シアは畳み掛けた。

「極め付けに、貞明姉上に似通った容貌と、両班ヤンバン以上の階級(かん)に流れる公然の秘密(・・・・・)――それらを考え合わせても、まだ答えが出ぬと申すか」

「あ、ま……まさか……」

 驚愕の表情を浮かべたソは、徐々に青ざめつつ、またもおかに打ち上げられた魚と化した。そして、首筋に刀を突き付けられたままなのに構わず、ガバリと平伏ひれふす。

「まっ、まさか、永昌ヨンチャン大君様とは存じ上げませず、失礼の数々、お許しくださいませ!!」

 シアは、フンと鼻を鳴らしながら、無意識にうなじへ手を当てた。

「それで? そなたもまさか、血筋云々(うんぬん)の問題で、私を殺すべきと?」

「さっ、左様なことは決して……!」

「綾陽君――ファベク兄上から、()のことは何も?」

「おっ、恐れながら、綾陽君様は、あくまで監視の対象は不逞のやからとしか……!」

「ふーん……」

 溜息交じりに言いながら、シベクに向かって顎をしゃくる。シベクは、会釈するように顎を引くと、ソの首筋から刀を退けた。

「それで、そなたはこのあとどうするつもりだ」

「……ど、どう、とは……」

()のことを、兄上に報告するか?」

「いえ、あの」

ことわっておくが、兄上は私のことはうにご存知だ」

「えっ!」

 ソが、伏せていた顔を、またガバリと上げる。

「ごっ、ご存知なら、何故なにゆえ――」

何故なにゆえ、私の命を狙うのか、か?」

「さっ、左様です! 綾陽君様にとって、年齢は下とは言え、大君様はれきとした叔父上に当たられるというのに……」

「私の血筋が邪魔だそうだ」

「まさか!」

「はっきりと、面と向かって言われたぞ。私の母は、父の正妃。引き換え、綾陽君の父、つまり私の兄は、側室腹だ。ゆえに血筋上、正当に王位に近い私の、存在自体が邪魔なんだ、とな」

 ソは、何度目かで唖然とした。最早、言葉もないようだ。

 シアは、嘲るような笑いを漏らした。何に対する嘲りかは、シア自身にも分からない。

「改めて問うぞ。そなた、このあとはどうするつもりなのだ」

 ソは、尚も呆けたように、ポカンと口を開けていた。が、やがてその唇を、ユルユルと閉じ、目を伏せる。

「……そなたの本職に戻るよう、大君として命ずれば、従うか?」

「……大君様……」

 間を持たせるように呟いたソは、膝の上へ置いていた手を握り締めた。

「……わたくしは……わたくしは、今は綾陽君様を将来の王殿下として迎えるべく、仕えております。ゆえに、綾陽君様の御許おんもとおもむき、わたくしが監視役として見たこと、聞いたことをあるじにご報告するのが本分ほんぶんと、斯様かように考えております。ただ――」

「ただ?」

「恐れながら、今一度お伺いします」

 と挟んで、ソは目を上げる。

「今し方、大君様がおっしゃったことは、誠に事実でございますか?」

「というと?」

「つまり……綾陽君様が、大君様の存在を否定なさるようなことをおおせになったと言うのは……」

「私とて、人伝に聞いたデタラメか、夢であればどんなによいかと思っているところだ。もうふた月ほど前のことになるが、確かにこの耳で聞いてしまってな」

「では、僭越ながら、わたくしみずから、やはり一度綾陽君様の御許へ伺い、ただして参っても宜しゅうございますか」

「そなたに誠のことを言うわけがないであろう。あまつさえ、私を『永昌大君』を騙る偽物だと申すやも知れぬ。――というか、私がそなたに騙っている可能性もゼロではないのだが、何故なにゆえ信じた?」

 試しに訊いてみると、ソは一瞬、キョトンと目をみはった。そして、苦笑交じりに軽く吹き出す。

「……恐れながら、先刻、大君様ご自身が仰いました。わたくしが、端から大君様が大君様であられるという論拠を並べ立てたと……それに、現状で第三者が大君様を騙ったとしても、旨味はほとんどございませんでしょう。朝廷からご本人であると認定されてしまえば、よくて江華島カンファドへ連れ戻され、悪くすればそのあと毒薬を賜ることになります。また、朝廷に存在を知られずとも、綾陽君様のように、大事だいじをお考えの方に、存在を煙たがられる可能性もあるのでは?」

「……否定しねぇよ」

 堅苦しい言葉遣いが面倒になって、シアは吐息混じりにの口調に戻り、ソの言ったことに頷いた。ソは、シアの口調が変わったのに構わず、「更に言えば」と続ける。

「仮に偽者と仮定した場合、偽者ならわざわざたずねぬでしょうね」

「かもな」

 それを見越して、わざと訊く詐欺師もいないとは限らないが、そこを言い出すとキリがなくなる。

「……わたくしは、このまま綾陽君様にお仕えしていてよいのか、迷い始めております」

 不意に告げられたことに、シアは目を丸くした。

「何でだよ。たったあれだけの俺とのやり取りで、随分早い変わり身だな」

「この国の根幹は、儒教でございます。儒教は、年長者や、続柄上目上の者への『孝』を重きの一つに置く教え。その根幹をつかさるはずの王が、りにって、生きて戻った叔父上を殺そうとするようでは、……残念ながら、王たる資格があるとは申せぬかと」

「したり顔で講釈垂れてるけど、あんたも人のことは言えないぜ。もう一つ教えといてやるけど、光海クァンヘ兄上も、俺の生存は知ってる。俺が出したって分かるような匿名で、あんたの洒落にならない職務放棄、上奏してやろうか?」

「ッ、それは」

「あんたがどう考えようが、今の国王は光海兄上だ。まあ、光海兄上の差配も甘い時があるから、処罰免れる可能性もないじゃないけど」

 返す言葉もないらしい。ソは押し黙ったが、彼の表情には、元の身分だけが高い子どもが、自分の意のままにならないことによる苛立ちは見えなかった。

しんから反省したなら、とっとと任地に帰れよ。ファベク兄上に今後も付いてるつもりならそれは止めねぇけど、本来の職務から外れるよーな命令には従えないって、次からちゃんっと断るんだな」

 何度目かの溜息と共に告げると、いつしか顔を俯けていたソは、はじかれたようにシアをあおぎ見る。

「……お見逃し……頂けると」

「今んトコ、特に混乱が起きてねぇみたいだから、殊更騒ぎ立てる必要もねぇだろ。何も起きない内に帰れって言ってんだ」

「宜しいので?」

 訊ねたのは、シベクだ。

「ああ。こいつなら真っ直ぐ任地に帰るだろ。根はちゃんとしてるっぽいし」

 つまり、綾陽君の所へは立ち寄らないだろう、という意味だ。ソも、それに頷くように、膝の前へ拳を突き、頭を下げる。

「感謝致します、大君様。確かに、大北テブク派政権も、その間違いを正さぬ現殿下も廃するべき、とは思っておりましたが、だからとて、現在の勤めを怠っていい理由にはなりませぬ。――不正を改めることができるという大業を前に、いささか浮かれていたようです」

「言っとくけど、二度目はねぇぞ」

「は。肝に銘じます」

「二重の意味でだ」

「……とおっしゃいますと」

「このあとソッコーで綾陽君のトコに寄り道したら――、それが俺の耳に入った時。それと、次に俺に剣を向けた時は、敵として遠慮しない」

「承知致しました。つきましては、大君様。最後にいくつか、お訊ねしても宜しいでしょうか」

「答えられることならな」

「ありがとうございます。その、御髪の件ですが……」

「ああ、これ。八歳の時に焼き殺され掛けたんでな。恐怖が振り切れた結果だ。半年くらい前まで、自分が王子だったって記憶もなかったな」

「……左様でしたか」

 探るように言葉を選んだ、という口調で吐き出したソは、「恐れながら」と言葉を継いだ。

「大君様は今後どうされるおつもりか、お伺いしても?」

「王位を狙う気だけは更々ない、とだけ言っとく」

 まだソを信用し切れない。バカ正直に答えて、それが綾陽君の耳に入ったりしたら目も当てられない。

 その考えが、ソにも何となく伝わったのだろう。

 悲しげに微笑したソは、黙って再度、頭を下げてから立ち上がり、きびすを返す。

「忘れ物だ」

 シベクが、手にしていたソの刀を、彼に向かって放り投げる。振り返って刀を受け取ったソは、最後にもう一度会釈するように腰を折った。


©️神蔵 眞吹2025.

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