第七章 更なる策謀
移動は、森から森へのそれだった。
言われなければ、方角も捉え辛い。
シアは時折、空が見える場所まで木を登り、星や太陽の位置から向かう方向を割り出そうとしたが、そうするとまるでそれが分かったかのように、ミョンギルは道を引き返したりした。
「急ぐんじゃなかったのかよ」
時折、そう訊ねてみても、ミョンギルは意味ありげな微笑を浮かべるばかりだった。
そんな道行きの事情から自然、鍛錬は森の中でのものとなった。
シアとしても、一番記憶に新しいハンとの対戦が森の中だったので、異論を唱える理由もない。
道中、弓矢を調達し、それらを背に、木々の間を駆け抜け、いつしか真剣で鍛錬を受けるようになっている。
『攻めてくる敵が、「最初の対戦だから」と木刀で打ち掛かって来てくれるとでも?』
と言われれば至極もっともだ。第一、実戦ではシアも真剣で戦り合っているし、今はシベクのほうが圧倒的に強いのだから、傷など負わないだろう。
そう思って、思い切り掛かって行けたのは、最初の半月ほどだった。
急ぐと言っていた割には、いつまで経っても森の中をウロウロし、そうする間に、気付けばシベクもシアの剣を捌き切れないことが出て来た。
次第に、シベクとシア、双方が時に深い傷を負うことが増えた。そうなると、医療関係者であるチュンホ・ソジョン夫妻と、心得のあるユを尚更旅から外すのは難しくなり、里へ着くのはいつか分からないのに、未だに八人で旅をしている。
「――随分、腕を上げられました」
そんな風にシベクが告げたのは、最早前の里を出てから、どのくらい経ったか数えられなくなった頃だ。
ここまで来ると、シアにはもう、ミョンギルがすでに次の拠点へ行くということを放棄しているのだと、何となく理解できている。その理由までは、分からないけれど――。
「そうか?」
「そうですよ。今日辺り、わたくしの命日になるのではと思った瞬間もありましたから」
「……悪い」
ソジョンから渡された薬を傷口に塗って眉を顰めながら、シアは詫びた。シベクが死を覚悟した、ということは、シアのほうがまだ、得た力を加減できるところまで熟練できていない証拠だからだ。
同様に傷の手当てを自分でしながら、苦笑したシベクは「謝る必要はございませんよ」と答える。
「わたくしも、いつしか油断しておりました。今後はもう少し、気を引き締めて掛からねばなりませんね」
お覚悟ください、と付け加えられ、改めて背筋がゾッとする。使っている武器が真剣である以上、命の危険は常にあるのだ。相手にその気がなくても、下手をするといつあの世逝きになるか、分かったものではない。
「火を熾すのにも、慣れて参りましたね」
ミョンギルがそう言った言葉尻に、パチンッ、と火の爆ぜる音がかぶる。
記憶を取り戻してからやっと、その機を捉えたシアは、ミョンギルとシベク、ユに請うて、火の熾し方と管理の仕方を学んでいた。これができなければ野宿もままならず、火のない夜は熊や虎、猪といった猛獣も出るこの国では命取りになる。
「……悪いな。何から何まで世話になりっ放しで……ありがとう、感謝してる」
上衣を羽織って、居住まいを正すと、シアは改めてミョンギルとシベクとユの三人に頭を下げた。
ミョンギルとシベクは弾かれたように頭を上げ、その日の夕食を刻んでいたユは目を丸くしてこちらを向く。
「大君様」
「頭をお上げくださいませ。この国の大君様ともあろう方が……」
お決まりの文句を言い出しそうなシベクに手を上げて、彼の言い分を遮ると、シアも顔を上げる。
「今の俺は、公式には大君じゃない。それはあんたらも分かってるだろ。それに、大君の地位にあったとしても、大君である前に俺はただの人間だ。してもらったことに感謝するのは当たり前だし……まあ、言葉だけじゃ足りないのは分かってるけど」
苦笑して肩を竦めると、今日負った掠り傷が痛んで、シアは頬を歪めた。すると、ミョンギルが同じ間合いで眉根を寄せる。
「大君様。我々は決して、何か見返りが欲しくてここにいるわけではございません」
「そうです。どうか、お気遣いなく」
とどめに、ユが無言で頭を下げるのに、シアは再度苦笑する。
その時、視界の端に、女性の後ろ姿が森の奥へ消えるのが捉えられ、シアは目を見開いた。注視しようと、ゆっくりとそちらへ顔を向けると同時に、彼女の後ろ姿は闇の中へ溶ける。
「大君様?」
おもむろに立ち上がったシアに不審を抱いたのか、シベクが声を掛けて来た。シアは、掌を彼に向けて上げることで、それ以上の発言を遮ると、気配と足音を殺して彼女のあとを追った。
誰かが無言で付いて来るのが分かるが、敢えて放置する。
程なく捉え直した後ろ姿は、カオンのものだった。彼女は時折周囲を気にしながら、自身もまた足音も気配も殺して歩いて行く。相変わらず、身のこなしは現役の武官並だ。
やがて、彼女の行く先に、人の姿が見えた為、シアは距離を置いて彼女の脇に当たる場所へと回り込む。
視界に二人を捉える形になって、シアは瞠目した。
彼女と相対している人物が、シン・ギョンジンだからだ。
(嘘だろ、何で……)
状況がこうなったからには、もうとっくに綾陽君とカオンたちは切れたものだと、シアは思い込んでいた。だが、冷静に考えれば、彼女たちは恐らく戸籍上は、未だ綾陽君の私婢だ。
いつ推奴〔逃亡奴婢を捕らえる為のハンター〕が差し向けられても、不思議ではない。それを心配したからこそ、シアも彼女たちを傍から離すことを躊躇っていたのだ。
だが、長いことその気配もなかった為、すっかり失念していた。
唖然と見遣る視線の先で、キョンジンのほうがカオンに、何かを促すように顎をしゃくる。カオンは、俯き加減に目を伏せたまま「特に変わったことは何も」とだけ告げた。
「本当にそうか?」
「嘘だと思うのなら、母に聞き合わせてください。齟齬はないはずです」
「フン、どうだかな。一度裏切ったお前たちを、綾陽君様はすっかり信じてはおられぬ」
「ならば、この場で殺してください。そのほうがお互い、後腐れも面倒もなく、よろしいでしょう」
投げるように言うカオンに、思わずその場に飛び出しそうになるが、後ろから来ていた誰かに動きと口許を封じられる。
静かに、と耳許で囁いた声音は、シベクのそれだ。
息を詰めて、視線を戻す合間に、キョンジンは「私もできればそうしたいのだがな」と挟んで続けた。
「主に断りもなく、勝手なことはできぬ。処断の命が下れば、即座に望み通りにしてやるゆえ、まあ精々残された寿命を楽しむのだな」
クッ、と喉の奥で嗤うと、キョンジンはきびすを返す。
彼の気配が遠退き、完全に気配が捉えられなくなるまで、カオンはその場に佇んでいた。が、やがて、そっと吐息を漏らして、元来た道へと足を向ける。
シアは、弛んだ拘束から抜け出し、追い付いた彼女の腕を掴んだ。
身体を震わせた直後、振り向いた彼女は、目を一杯に見開いた。同時に開かれた唇から、声が上がる前に、素早く掌で蓋をする。
絡んだ目線だけで静かにするように促すと、彼女が小さく頷くのを見届けてそっと手を放した。
***
野宿の場所に戻る間も、戻ってからも、カオンは終始無言だった。
カオンだけでなく、シアもシベクもだ。
シアたちがカオンを連れて戻ったのを見て、その場に残っていた内のチュンホとソジョン夫妻は、驚いたように目を丸くしていた。
夫婦が顔を見合わせた頃、同様にやや瞠目したミョンギルとユは、少しの間を挟んで、手許の作業に戻っていった。まるで、何事もなかったかのように、だ。
「……座れよ」
シアは先に座って促すと、カオンが従う前に、シベクが彼女の膝の裏を、鞘に納めたままの刀の腹で叩いた。
「シベク!」
「恐れながら、大君様もご覧になったはずです。この女の、裏切り行為を」
「状況だけじゃ判断できねぇだろ! 話をちゃんと聞いてから」
「トンシさんの言う通りよ!」
強制的に膝を突かされたカオンが、遮るように叫ぶ。
「……カオン」
「何も違わないわ。あたしも母様も、もうずっと、里とシアの偵察をさせられてる。綾陽君の指示で」
「何の為に」
「彼の本当の目的はあたしにも分からないけど」
「いつから」
「里を出る、数日前から。あたしと母様の暮らす棟に、あの日綾陽君がキョンジンを連れて忍び込んで来たの。これまで通り、間者を続けるなら、二人とも命は助けるけど、拒否するなら今度こそその場で殺すって」
「それで、命惜しさに、再度大君様を裏切ったわけだ」
「あたし自身の命だけなら惜しくなかった!」
泣き出しそうな声音だったが、シベクはまったく動じない。しかし、カオンも彼の反応には頓着しなかった。
「だけどあの人たち、何て言ったと思う? まず母様を籠絡しに掛かったのよ。もし、協力を続けるなら、綾陽君が王位に就いた暁には、姉様たちを無罪放免にしてやるって」
「……姉上?」
シアは、眉根を寄せた。
「そう言えばお前、『四女』だって言ってたよな。てことは……」
「そうよ。一番上の佳月姉様は、末端だけど大北派の両班のお宅へ嫁いでるわ。二番目の佳珠姉様は、提調尚宮付きの筆頭内人だし、三番目の佳映姉様は今の世子様の良媛様よ」
良媛とは、世子の側室の地位だ。シアは、盛大に眉間のしわを深くした。
「……マジか」
なぜ、カオンの姉たち三人が、フィギルの連座を免れたのかは、想像が付く。彼女たちの環境によって、目こぼしされたのだろう。
だがもし、今反正が起きて、光海兄と大北派が引き下ろされたら、まず彼女たちは全員無事には済むまい。
「念の為に訊くけど、今の提調尚宮って、キム・ゲシか?」
すると、カオンは「さあ」と首を傾げた。
「姓が『キム』なのは間違いないと思うけど……」
「キム・ゲシです。間違いございません」
答えたのはシベクだ。
「只今、わたくしの異母妹である叡純が、キム・ゲシの下で半房子として出入りしておりますゆえ」
「え、そうなのか?」
「はい。異母妹は、彼女の夫亡きあと、水賜〔後宮で雑事を担当する下女〕をしていたのですが、その過程でキム尚宮の目に留まったようで」
「……じゃ、イェスンがケシの房子になったのは、反正を見据えてとかじゃなく、たまたまか?」
「左様です。大君様のお考え次第では、そうしてもよいと思っておりますが……」
「いくら兄妹だからって、それをあんたが決めていいわけないだろ。たまたまコトを起こすのに都合のいい場所にいるからって、利用していい理由にはならねぇぞ。人間は駒でも道具でもないんだからな」
即座に言い放つと、シベクはハッとしたような顔になり、次いでミョンギルにチラと目を向けた。そして、ばつが悪そうな表情で、ただ俯く。
ミョンギルのほうも、どこか苦い色をその顔に浮かべていた。無理もない。
かつて、彼の姉・モンフィも、何の罪もないのに、ケシの房子だったという理由だけで、口を封じられたのだ。ケシが恐れたのは、モンフィの口から、シアの父である先王・宣祖の死の真相が漏れることだろう。それを、モンフィが知っていたかどうかも分からないのに――
どこか、緊張を孕んだ空気の中、シアは敢えて、「で?」と話を続けた。
「お前は自分の命以外の何を質に取られた?」
「……あたしは……どっちかって言うと、綾陽君よりも母様に強要されてるんだけど……」
「何を」
「綾陽君から要求されてるのは、とにかくシアの動向を逐一報告すること。もし、シアが王位に就く気になったら、……あ、あたしの手であんたを……」
言う間に、彼女の目には涙の膜が張り、握った拳が小刻みに震える。その拳に、シアはそっと手を置いた。
「分かった。もういい」
彼女の唇は、何か言いたげに戦慄いたが、やがてキュッと引き結ばれた。そして、きつく目を閉じ、力一杯首を横へ振る。『よくなんかない』と言いたいのは分かったが、もう言葉にならなかったのだろう。
「……ッ、あ、あたし……最初は、断った。気に入らないなら殺せばいいって。だけど、そうしたら母様が、そ、そんなこと許さないって……」
「カオン!」
叫んだのは、今その場に姿を現したカランだ。
シアたちがここへ戻った時、彼女だけはいなかった。察するに、彼女も定時連絡の為に、どこかへ行っていたのだろう。
「何をしているの! まさか全部話したの!?」
「カラン!」
シアは、立ち上がるなり、カランからカオンを庇うように、彼女たちの間に立った。
「カオンを責めないでくれ。俺たちが無理矢理聞き出したんだ」
「……大君様」
「……あんたは、どうしたい?」
カランを正面から見据えて、静かに問う。大君様、とシベクが呼んだが、シアは無視した。
「正直に答えてくれ。あんたの意思や行動を、強制するつもりは俺にはない。そもそも、他人が誰かの言動を強制する権利なんてないんだからな」
「大君様」
カランは、途方に暮れたように呟くと、そっと両脇に両手を垂らし、簡易式の辞儀をするように、膝を突いた。
「申し訳ございません。夫が大君様に働いた罪を、その深さを、一度足りとて忘れたことはございません。ですが、娘たちの命を盾にされれば、母親は弱いものです」
「だから、裏切りを正当化すると?」
低く、威圧するような声音で割り込んだシベクに、シアは目を向ける。
「悪い、シベク。今は俺とカランが話してるんだ」
「ですが」
「いいって言うまで口挟まないでくれるか。話が進まない」
冷え切った流し目をくれると、シベクは息を呑んだように目を見開いていた。が、やがて、無言で半歩下がって、顎を引く。
それを見届けてから、カランに向き直ると、カランはこちらを見上げてやはり驚いたように瞠目していた。その心中を推し量ることは敢えてせず、シアは彼女と目線を合わせるように、自分も膝を突いた。
「カラン」
「はい、大君様」
「今は俺を大君だと思わずに、正直に答えてくれ。あんた自身は、どうしたいんだ?」
カランは目を伏せると、何か言いたげに唇を震わせる。言い淀む様を見て、シアは尚も言葉を重ねた。
「今もらった答えで、あんたを後々処罰するようなことはしない。そんな権限は俺にはないし……何より、あんたはフィギルの奥方だ。父さんが愛して、あんたも父さんを愛した。多分、今も愛しているんだろ。そんな方を、どんな理由であれ、罰するなんて考えられない」
「大君様……」
唖然とした呟きののち、カオンは居住まいを正すと、「それでは、恐れながらお答えいたします」と挟んで続けた。
「先にも申し上げた通り、夫が大君様に犯した罪は、わたくしが生涯掛けて償うべきものです。それは重々承知しております。ですが、思惑はどうであれ、綾陽君様がわたくしたち母娘をお助けくださったことも、紛れもない事実です。その恩は、お返ししなくてはなりません。そして、戸籍上は未だ、わたくしも娘も、綾陽君様の私婢なのです。婢は、どんな理不尽であれ、基本的には主の命には逆らってはならぬもの。まして、王殿下が変わったのちの、ほかの娘たちの身の安全を保証していただけるなら、是非もありません」
「その恩返しと、フィギルが命懸けで助けた俺の命、天秤に掛けてもらえるのか?」
カランは、ビクリと地に着いた手を震わせ、「いいえ」と答えた。
「恩返しも大君様のお命も、天秤には掛けられません」
「俺が死んだら、フィギルの死が無駄になる、ってところ、分かって言ってる?」
「申し訳ございません。わたくしにとって大事なのは、我が子たちの命です。我が子が目の前で命絶たれようとしていれば、母親は何でもする生き物です。仮令それが、夫の死を無駄にする行為であっても……」
シアは、眉を顰めた。
本来なら、彼女の言い分に、腹を立てて然るべきなのかも知れない。だが、ここに至っても、シアはカランの言葉に、何の感慨も抱かなかった。
否定する気持ちも、フィギルの死を無駄にするなんて何を考えているのかと糾弾する気持ちも湧いてこない。
「大君様の仰ることは、分かっております」
挟まれた沈黙に不安を覚えたのか、カランは、焦燥の色を滲ませた声で言葉を重ねた。
「しかし、夫が万が一にも蘇る保証もない限り、わたくしには残された、生きている娘たちのほうが大切なのです。何卒、ご了察くださいませ」
突いた両膝の前へ両手を重ね、まさに叩頭という姿勢になった彼女の頭頂部を見ながら、シアは「分かった」と答えた。
「大君様!?」
ついに、堪り兼ねたかのように、シベクが口を開く。
「発言をお許しください。分かったとは、如何な意味で!?」
「如何なも何も、そのままだよ」
吐息と共に立ち上がり、シベクに向き直る。
「さっきも言ったけど、俺には誰かの言動を強制する権利はないし、そのつもりもない。だけど、一度巻き込んだ以上、俺にはあんたたち全員の、身の安全を保証する義務がある」
その、守らなければならない対象には、カランや、カオンを始めとした、カランのほかの娘たちも含まれる。
そこまで無意識に考えて、シアは唇を噛んだ。
(……何で今まで気付かなかったんだ)
今までは、自分の家族や、大事な人を守れればそれでいいと思っていた。極めて狭いと考えていた範囲でさえ相当の人数になるというのに、その家族のことまで頭が回っていなかった自分に愕然とする。
考えてもみなかったのだ。
もちろん、七庶獄事の筋書きでさえ、充分に卑劣だ。捏ち上げの数々の上に、連座で広範囲の人間の息の根を止めるという念の入りようには、呆れを通り越して吐き気さえする。
だが今、綾陽君がやっていることは、その斜め上を行く。
選りに選って、シアにとって大切な人間にシアの間諜をさせ、あまつさえいざとなったら、その反撃できない相手にシアを殺害させようと目論む。卑怯、などという一言では、到底表し切れない。
そんな下劣な策を考えたのが、あの綾陽君だなんて、未だに信じられない思いだ。
自身より目下の者を、身分に飽かしていたぶるような人ではなかったのに――。
「……大君様」
沈んだ思考の中へ、そっと差し込むように、ミョンギルが声を掛けてくる。
「如何なさいますか」
いつの間にか立ち上がった彼は、静謐な瞳でシアを見つめた。
何を返せばいいか、とっさに判断できない。どうしたらいい、と反問しそうになって、開き掛けた唇をすんでで閉じる。もう一度、唇を噛むように引き結び、軽く深呼吸した。
「……行くぞ」
「どちらへ」
「ファベク兄上……綾陽君と話を付ける」
***
シベクとの鍛錬を続けながら、やるべきことをやる為の、今後の方針として、ミョンギルは「里の一つに向かいましょう」と改めて告げた。
最初にそう言っておいて、いつまでも森の中をグルグルと彷徨いていたのは、今になれば、ミョンギルも、カランとカオン母娘の行動を不審に思っていた為だったと分かる。そしてその、彼女たちの処遇をどうするかが、最大の問題だった。
移動を始める前に行われた話し合いの中、シベクは「二人を殺してしまうべきだ」と主張した。
「そもそも、何故里を出る時にそうなさらなかったのですか。綾陽君様の間諜だということは、分かっていたことでしょう?」
「カオンは惚れた女だし、カランはこないだも言ったけど、恩人の愛した女だから、って理由じゃ不服だよな」
試しに言ってみると(但し、掛け値なしの本音だが)、シベクは頬を引き攣らせながら、普段よりも低い声で「不服以前の問題ですが」と答えた。
「去るなら止めねぇぞ。最良の師匠を失うのは痛いけど、あんたも人間なんだ。俺に従うのを強制する権利は俺にはない」
「だからっっ……!」
シベクが何を言わんとしていたのかは分からないが、反論を失ったのは確からしい。苛立った溜息を吐いて、口を噤んだ。
「……ハン夫人」
シベクとの間で言葉が途切れたのを見計らったように、今度はミョンギルが口を開いた。
「何でしょうか」
「以後、定時連絡には立たないで欲しい、とお願いするのは、難しいでしょうか?」
「無理です」
今度は、ハン夫人、ことカランが、にべもなく即答した。
「百歩譲って、娘は……カオンのことは大君様にお任せします。ですが、ほかの三人の娘のこともあります。わたくしは、今後も定時連絡を欠かすことはいたしません。ご不満なら、殺してください」
「無理だ」
カランの言い分を叩っ切る勢いで、シアが口を挟む。
「自分の都合が悪いからって人殺しするのは、俺の主義じゃない」
「お言葉ですが、大君様」
またもや、シベクが割り込んで来た。
「では、斬り掛かって来る敵にまで、そうやって温情をお掛けに? 命がいくつあっても足りませんよ」
「それとこれとは話が別だろ」
「いいえ、同じです」
「違うね。例えば、ファベク兄上本人が斬り掛かって来るなら、仕方ねぇから応戦するさ。でも、カランに間諜させて、カオンに俺を殺させようとするのは筋違いだ。兄上がそれを実行したのは……マジで考えたくねぇけど、カオンが相手なら特に、俺が反撃し辛いのを見越してるからだ。だけど本来、カランもカオンも、俺らのやろうとしてることには関わりのない人間だ。フィギルが俺の暗殺の命令を受けたのを差し引いても、二人はフィギルの家族だったってだけだ。フィギルの職務放棄の連座で官婢になって、その環境で窮してたのを救ってやったって恩着せてるみたいだけど、それだってファベク兄上の都合だろ。巻き込まれただけの二人を殺すのは、絶対に違う」
きっぱりと言って、見据えた視線の先で、シベクが口を開いた。が、実際に言葉を吐き出すことなく、空気を呑むように呼吸し、押し黙る。
彼が沈黙したのを確認すると、シアはカランに向き直った。彼女の顔もまた、シベクと似たり寄ったりの、何とも表現し難い表情だ。
「カラン」
「はい、大君様」
「じゃあ、とにかく、上の娘三人の身の安全が保証されれば、こっちに付いてくれるか?」
それがまた、完全に予想の斜め上だったのだろう。最早、『困惑』と顔にデカデカと書いてある。
「……如何なる意味でしょうか」
眉根に、これ以上ないくらい深いしわを刻んだ彼女が、思い切り首を傾げる。
「大君様の大業に、戦力として参加せよと?」
「そうじゃない。第一俺は、仮に反正を起こしたとしても、王位に就くなんて微塵も考えちゃいない。俺たちの行動を、逐一あっちに報告するのをやめてくれれば、それでいい。こっちの要求を呑んでくれるなら、あんたの娘たち三人の、反正後の身の安全は、俺が保証するよ。綾陽君じゃなくな」
「……具体的には、どのようにして?」
「母上に話を通す。俺の母上が誰かは、知ってるよな?」
カランが、目を見開いた。
シアの生母――すなわちそれは、今は廃位された先王の正妃、キム・シランだ。
もし、綾陽君が反正を起こせば、現王の王妃も廃位され、母は恐らく復位される。そうなれば、母は大王大妃〔太皇太后〕の地位に就くだろう。
年長者を敬う教えのある儒教が国是のこの国では、実質的な最高権力者は、生きていれば先々代王の王妃であることも、珍しくはない。その大王大妃の一言なら、あるいは融通が利く確率は高い。
ただ、その為には、シアが『ウィ』であることも母に明かさなくてはならないが、事態がこうなっては、選択肢はほかにない。
「……どうかな。考えてもらえないか?」
目線を合わせて、半ば懇願するように彼女を上目遣いに見る。
眉根にしわを寄せていたカランは、今度は困ったように眉尻を下げた。引き結ばれた唇が、震えるように波打つ。
そして、やっと口を開いた彼女は、意外にも、「……申し訳ありませんが……」とシアの交渉に乗らない返答を口にした。
「ほかに、何が不安?」
辛抱強く問い掛けると、カランは益々心底困ったような表情になる。その彼女が、唇を動かそうとした刹那、漏れ出た殺気にシアは反応した。
©️神蔵 眞吹2025.