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第五章 敵か味方か

「――で、早速で悪いんだけど、いくつか訊いてもいいか」

 相手が頭を下げたことで見えている相手の旋毛ツムジを、見るともなしに眺めながら、シアは改めて口をひらいた。

 上体を上げ、顔だけを下へ少し傾けたまま、ミョンギルが答える。

「何でしょうか」

影契ヨンギェって、大元が武装組織だって言ったよな。今もそうなのか?」

「……そうですね。どなたの為の、と決まっているわけではありませんが……いて言えば、今は諜報組織の性格が強いかと」

「諜報組織?」

「はい。主力商品が情報、という商団と受け取って頂いても構いません。情報収集の過程では無論、戦闘になる可能性もありますので、その訓練は構成員の九割がおこなっています」

「じゃ、残りの一割は?」

「残念ながら、人間誰でも、得手不得手はございます。どうしても戦闘に不向き、という人員は、後方支援を担ってもらっていますが……それが、何か」

「うん……」

 シアは、無意識に顎先に緩く握った拳を当てて考え込んだ。瞬時、目を伏せたのちには、その目を上げ、ミョンギルに向き直る。

「じゃ、戦闘要員の強さの階級みたいなの、分かるか?」

「戦闘力の階級……具体的には」

「……あんたに言っても、通じるか分かんねぇけど……」

「聞くだけはただですから、仰ってみては?」

 淡々とした表情で首を傾げられ、シアは覚えず苦笑した。が、すぐに言葉を継ぐ。

「……左補盗庁チャポドチョンのチョン・ハン大将テジャンと同程度か、それ以上の強さのヤツ、いる?」

 問うと、ミョンギルは瞬時唖然とし、「また、ざっくりとした……」とボソリと呟いた。

「だから分かんねぇかもって言ったろ」

「分からないとは申しておりません。ただ、しばしお時間を頂ければと――」

「その必要はない」

 不意に、男の声がしたかと思うと、入室の許しも与えていないのに、障子戸がスッと滑った。

 障子戸の向こうから、面長の男が姿を現す。

「……敦詩トンシさん。いつからそこに」

 驚き半分、呆れ半分のミョンギルの声を、どこか遠くに聞きながら、シアは頬を強張こわばらせていた。トンシ、と呼ばれた男の声が聞こえる間際まで、気配がまったく読めなかったのだ。

 いつもの癖で、周囲の気配に神経を尖らせていたにもかかわらず――

「随分前からかな」

 トンシは、苦笑を浮かべると、肩先を竦めた。それから、シアに目を向ける。

「……大君テグン様でいらっしゃるとか」

「……誰に聞いた」

 低い声で問いながら、シアはミョンギルに一瞬目を投げるが、ミョンギルは小さく首を振った。同時にトンシが、「つい今し方、ここで」と言いつつ、障子戸の外の通路を指差した。

「何の用ですか。ここへは近付かないよう、この里の全員に徹底しておいたはずですが」

 ミョンギルも、思わず漏れたと思われる、疲れた溜息を挟んで、立ったままのトンシを見上げる。

「というか、トンシさん、ここにはいつ来たんです?」

 その物言いから察するに、トンシはこれまで里にはいなかったのだろう。

 シアは、運動の許可が下りてからは、今寝起きに使っているむねと、そこから更に奥まった場所にある鍛錬場の行き来しかしておらず、そもそも組織の構成員とも顔を合わせたことがなかったので、あくまでも憶測でしかないが――。

「いや、ユもお前もこの里にいると聞いたから、都の情報の定期共有にな」

「……っていうのは口実で、どーせ職場にいるのが嫌で休暇取ったんでしょ」

「否定しない」

 クス、と小さく苦笑し、トンシは肩を竦める。

「職場って?」

 ふと感じた疑問を、捻りもせずに口にすると、ミョンギルとトンシが、同時にシアに視線を向けた。ミョンギルと瞬時、目を見合わせたトンシは、苦笑を深くしながら部屋へ入ると、障子戸を閉じる。

 そして、その際で片膝を突き、臣下の礼を取った。

「これは、ご挨拶が遅れまして、申し訳ございません。わたくし、イ・時白シベクと申します。現在、中枢府チュンチュブにて軍士クンサの任にございます。遅ればせながら、先王殿下唯一のご嫡男であられる永昌ヨンチャン大君様に、ご挨拶申し上げます」

 中枢府とは、一応官庁の体裁を取ってはいるが、そこに籍を置く役人は閑職である。トンシの年の頃は四十過ぎに見えるが、彼くらいの年齢でそこへ行かされるとなると、左遷と同義だ。

「……って、シベク?」

 トンシじゃないのか、という言外に含まれた意味を正確に汲み取ったのだろう。シベクと名乗った男は「『トンシ』はあざなでございます」と答えた。

「ふーん……」

 字で呼んでいて、しかも敬語で話し掛けている、ということは、シベクは、ミョンギルより年上なのだろう。

「で、何で、俺を『永昌大君』だって決め付ける? 大君ってだけなら、現国王殿下の大君かも知れねぇのに」

 すると、シベクは再度、苦笑を浮かべた。

「恐れながら、申し上げます。現国王殿下の御子で、現在ご健勝であられるのは、世子セジャ様と、現在三歳になられる翁主オンジュ様のみ。ほかに、王妃様がお産みになられた王子様が三人おいででしたが、皆、早世されましたので」

「……なるほどな」

「加えて申し上げるなら、先王殿下に遡れば、大君様は永昌大君様お一人だけです」

「世間じゃ死んだことになってるけど?」

「生き延びたかも知れない、ということが、公然の秘密だとお聞きになったことは?」

 シアのほうの手札は尽きた。それを、重い溜息で示すと、溜息と一緒に俯けた顔を上げる。

「で、あんた、この棟には何の用なんだよ」

「ここにいる構成員の一人が、ミョンギルに用があるのに、こちらの棟への接近は禁じられている、と申しますので」

 シベクがチラリとまたミョンギルに視線を投げると、ミョンギルが口をひらいた。

「何の用か、聞いていますか?」

「客人が来てるぞ。何でも、『ここに大君様がおられると聞いた、会わせてくれ』と言われたとか」

「――――!?」

 シアもミョンギルも、今度こそ目を剥いた。


***


 軽く身形を整えて――と言っても、非番の武官か、戦闘のできる破落戸ゴロツキのような上下だが――、客人がいるという棟に入ると、室内には、思ったよりも多い人数が整列し、揃って頭を下げていた。この拠点にいる、影契の構成員だろう。

「あちらが客人そうです」

 シベクが目配せする先には、大柄な男が立っていた。

 端整な顔立ちだが、その造りはややがっしりしている。目元は切れ長で眼光は鋭い。長身で、肩幅が広く、白いものの混じり始めた癖毛は、うなじの辺りで纏めてある。

「どうぞ、上座へ」

 シベクに促され躊躇ためらったが、そこへ腰を落ち着けないと話が進まないらしい。疲れた吐息と共に上座へ歩み、腰を下ろすと、室内にいた全員が会釈するように顎を引いた。

「大君様。いえ、殿下。本日はこちらまでお運びくださり、恐縮でございます」

 シアのすぐ左手へ立った男が、胸元へ手を当て片膝を突く。さっき、シベクが目配せして示した客人だ。すでに、この室内の全員に、シアの素性をバラしたらしい。

「お初にお目に掛かります。わたくし、ホン・ソボンと申します。以後、お見知り置きくださいませ、殿下」

 こいつが、と思ったが、シアは違う言葉を口にする。

「皆、ひとまず座ってくれ」

「はい、殿下」

 室内の全員が斉唱して、各々が床へ座り、胡座を掻く。

「殿下。まずはご無事の帰還、誠におめでとうございます。お祝い申し上げます」

 ソボンが早速頭を下げると、ほかの男たちも全員が唱和した。

「お祝い申し上げます、殿下」

 初めて会う、ホン・ソボンが名乗った時に感じた不快感は、この短い間で早くも最高潮に達している。そんなシアの脳内をもちろん知らないソボンは、「早速ですが」と言葉を継いだ。

「先日、惠民署ヒェミンソへの襲撃以来、奴らは殿下を亡き者にしたと思い込んでいるようです」

「それは確かですか」

 名を知らない男が、身を乗り出す。

「確かだ。よって、イチョムを始めとする大北テブク派の手の者が、こちらへ乗り込んで来る可能性は当面ない。だが、決起を急がねばなりません。殿下」

 男の質問に答えたソボンは、シアに向き直る。

「この上は、一日も早い反正パンジョンの決行を。支度は万事整っております。ご決意いただければ、我々は殿下に従います」

「……誠か」

「はい、殿下」

「ではまず、その呼び方はやめてもらおうか」

「殿下!?」

「やめろと言った傍からそう呼ぶとは、そなたは耳が遠いのか。そんな年齢には見えぬが」

 冷ややかに言うと、ソボンはばつが悪そうに伏せた瞼の下で視線をウロウロさせる。

「そなた、ホン・ソボンと言ったか」

「はい、殿……いえ、大君様」

「噂には聞いている。どうやら高い精度の情報網があるらしいな」

「は」

「そなたはどこから私のことを嗅ぎ付けた」

 やはり冷え切った声音で訊くと、ソボンは目を見開き、顔を上げた。

「嗅ぎ付けるなど、滅相もない。情報筋から突き止めただけです。あなた様が亡くなられたとされた年から、必死でお捜し申し上げ、辿り着きました」

「なるほど。それで? かつて王として担ぎ上げられたという捏造で庶人ソインに落とされ、流刑にまでされた私に、此度は本物の謀反人になるようそそのかすのは何故なにゆえだ」

「大君様は謀反を起こされるのではありません。先王殿下のご遺志に従い、ご自分が手にされるはずだった王座を、取り戻すだけです」

「悪いが私にそのつもりはない。反正を起こしたい王族ならほかにもいるから、そちらを当たってくれぬか」

「大君様。生きておられる以上、ご自分の義務を果たされませ。漢城ハンソンの王宮と玉座が、大君様をお待ち申し上げております」

「そもそも私は自分の生存をおおやけにするつもりは、今のところないのだ。頼むから、公式通り死んだ者と思って、そっとしておいて欲しい」

「大君様。我々がお助けしますのでどうか、お心強くお持ちになってくださいませ。大君様は、先王殿下の唯一のご嫡男であり、先王殿下がお決めになられた正当なお世継ぎです。何も、恐れることはございません」

(……だめだ。話が通じねぇ)

 シアは、早々に匙を投げた。

「あのさぁ。どうしたら分かってくれる? 俺は端っから王位に座る気はねぇんだよ、ホントに」

 ガラリと口調が変わった所為か、ソボンは眉根を寄せて首を傾げた。顔には『怪訝けげん』とデカデカと書いてある。

「俺の目的は、あくまで七庶獄事チルソオクサをたくらんだ連中に報復することだった。だけどそれじゃ、母上と貞明チョンミョン姉上の無実が証明されないし、お二人の窮状も救えないって今は分かってる。だから、何とかしてイチョムたちに七庶獄事がでっち上げだったことを認めさせて、俺への断罪を撤回させたい。俺の名誉が回復できれば、母上たちの名誉も身分も回復できるからな」

「でしたら」

「だからって、王位に就きたいなんて更々思ってない。あんな所、尻乗せたら最後、兄弟姉妹きょうだいまで徹底的に痛め付けないとやってられない座だってことは、光海クァンヘ兄上見りゃ一目瞭然だからな。おまけに、兄弟姉妹や功臣が相手だったら、間違ってても断罪できないとか、有り得ないだろ。俺には到底無理だ。うっかり座ったら、気が触れちまう」

「しかし」

「あんたが反正を起こしたい目的は何だ? 先王殿下の嫡男である俺を王位に就けるのが肝要か? それとも、慶平キョンピョン兄上当たりにしょっちゅうしいたげられる民をなくしたり、朝廷にはびこってる不正を正すほうがしゅか?」

 端的に問うてやると、ソボンは呻くような声を喉の奥で発して、唇を噛んだ。

「もし前者だって考えなら、残念だけど、俺の配下にあんたみたいなのは要らない。脊髄反射で身分に敬礼するよーな、頭空っぽのヤツはな。そういう人間は、得てして身分で人間を判断する。民の一人一人じゃなく、身分を相手に国を治めるのは、火を見るより明らかだからな」

 ソボンは再度、何か言いたげに口をひらいたが、言いたいことが纏まらないのか、結局ばつが悪そうな表情で俯いた。

「あんたが後者を主として反正起こしたいなら、さっきも言った通り、準備してる王族がほかにいる。そいつに従ったらどうだ。勧誘も来てんだろ」

「……ですが、その方は傍流の方です。嫡流の大君様が生きておられる以上、その方には資格がございません」

「だったら尚更、綾陽君ヌンヤングンに従えばいい。これもさっきも言ったけど、身分や血筋で王を決めるような人間は、俺には必要ない」

「……わたくしの情報網が、ご入り用ではありませんか?」

「別に? だってあんた、そもそも影契のおさでも何でもないんだろ?」

「では今後、睡蓮楼スリョンルはお貸しできません」

「何で睡蓮楼が出て来るんだよ」

 ソボンはうっすらと頬を緩め、唇の端を吊り上げる。

「ご存じないようですが、あそこはわたくしが、反正準備の為に立てた情報拠点の一つです。あそこの現・行首ヘンスは、わたくしの手の者でございますれば」

 それを聞いたミョンギルは、かすかに頬を震わせた。ソボンの手前か、それ以上の反応は見せなかったが。

「んじゃ、別に睡蓮楼も今後は利用しなくていい。ここまでで、あそこにいたことによって俺が得た情報の代金とか宿代が必要なら、払う用意はあるから安心しろよ」

 ソボンが顔を強張らせたのを見て、シアはクッ、と喉の奥でわらう。

「何だ? 俺が『それは困る~』とか泣き付いた挙げ句に、『分かった、王位に座るから、これからも睡蓮楼を利用させてもらえると有りがたい』とか言うと思ったわけ?」

 言いながら、立てた膝に肘を突いて、ソボンに流し目をくれた。

「まさか俺を、十六年間王室でヌクヌク育ったボンボンと一緒だと思ってたのか? 甘いな。つーか、慶平兄上辺りと一緒にされてるかと思うと、情けなくて涙も出ないけど。江華島カンファドで焼き殺され掛けてから、完全に荒野こうやに放り出されて育ったのに、一個拠点がなくなったくらいで狼狽うろたえるとでも?」

 クックッ、と面白がるような嘲笑を挟みながらソボンを観察する。彼が握った拳を震わせ、唇を噛み締めているのを見澄ますと、とどめを刺しに掛かった。

「手札が尽きたならもう帰れよ。言っとくけど、影契の連中引き連れてってくれても俺は文句言わない。俺は最初から一匹狼みたいなモンだからな。外からの助けは端から当てにしてないんだ」

 言いながら、シアは自分のほうが立ち上がり、元来た道を戻り始める。

「大君様。どちらへ」

 シアを追うように立ち上がったのは、ミョンギルだ。

「今知ったけど、ここの拠点もどうやらソボンの私物みてぇだからな。俺が出てったほうがいいと思う」

「ですから、どちらへ」

「当てなんかねぇよ。でも、もう歩く走るくらいは問題ないし、まあ適当に野宿でもするさ」

 シアが肩を竦めると、ミョンギルはソボンのほうへ目を向けた。その傍へ歩み寄り、片膝を突いて頭を下げる。

「……フィセ殿。どうか、お引き取りください」

 ソボンは、目を見開いてミョンギルを見つめた。

「何を言うのだ。我々と、反正を共にするのではなかったのか」

「そう申した覚えはございません。フィセ殿が、『こちらに大君様がいるのだろう、会わせて欲しい』と仰ったというので、お引き合わせしただけです」

「しかし、大君様の無罪を証明する為にも、反正は必要だ」

「その為に、大君様が王位に就かれる必要はございますまい」

「そなたは、大君様に王位に就いていただきたくないのか」

 問われると、ミョンギルは一瞬言葉を途切れさせる。立ち上がったままのシアは、ミョンギルを上から見る位置で二人のやり取りを見ていた為、彼の表情は分からない。

「答えよ、ミョンギル殿。大君様は、王位に相応しい方ではないと?」

 ソボンが重ねて問う。ややあって、ミョンギルは「そうですね」と口を開いた。

「まず、王位に相応しいか否かだけを答えるなら、大君様は相応しいとわたくしは考えます。それは、大君様のお生まれやご身分からではなく、大君様の資質によってです」

「ならば」

「しかし、大君様ご自身は、それをお望みではありません」

「血筋から言っても申し分なく、資質も相応しいのであれば、王座についていただくしかないだろう。大君様が望まれぬと言うが、それを説得するのも臣下の務めだ」

「ご覧になったはずです。どうなだすかしても平行線です。となれば、その気のない方を玉座にお迎えしても、我々の望む治世は得られません。仮に大君様を玉座に座らせ、我らが望む政治を行えば、それは大君様を傀儡かいらいとして扱うことですから、大変な不敬に当たります」

 身分を重んじるソボンに、『不敬』という単語が若干響いたらしい。今度はソボンが押し黙り、何度目かで唇を噛んだ。

 しばらく反論を待っていたらしいミョンギルが、穏やかに言葉を継ぐ。

「フィセ殿。今更申し上げるまでもないとは思いますが、大君様の誤解を解くために申し上げます。この影契という組織は、元々は我が父が、壬辰倭乱イムジンウェランの際に義兵を組織した時の延長にあるもの。よって、フィセ殿の望む反正を成し遂げる為の組織ではございません。そして、我が父が加平カピョンへ隠棲した折に、この組織はわたくしが譲り受けました。ゆえに、今はわたくしが指揮を執っております。ですので、この影契の契首キェスとして、申し上げます。大君様は我らがしかとお守りし、今後大君様がどのような決断を下そうと、我らは大君様に従います。主君の御心みこころに沿うようお助けするのもまた、臣下の務めですから」

「……おいおい、いーのかよ。それで俺が、何でも『はい、はい』って言いなりになる臣下しか要らねぇって言い出したらどうするつもりだ?」

 思わず口を挟むと、ミョンギルはこちらを振り仰いで、ニヤリと笑った。

「言いなりになる臣下しか要らぬと言い出すお方は、左様なことはお訊ねにはならぬかと」

「は、随分買いかぶられたな」

 シアが呆れたように肩を竦めるが、ミョンギルは動じた様子はない。

「では、賭でもいたしましょうか。勝てると分かり切っている賭では、面白味もありませんが」

「負けたらどうするよ」

「別にどうもいたしません。ただ、お仕えするのを辞めれば済むことです」

 クス、と笑ったミョンギルはソボンへ向き直った。

「フィセ殿」

「……何だ」

「あなた様の選択肢は、三つあります」

 ミョンギルは、ソボンの前に、自分の掌を上げ、親指から折り数え始める。

「一つ、綾陽君様の計画される反正に参加される。二つ、我々と共に大君様にお仕えする。この場合、大君様ご自身の決定を尊重するのが大前提です。そして三つ目。反正も大君様にお仕えするのも止めて、隠棲する」

 ソボンは、目を見開いて、中指まで折ったミョンギルを見つめた。そしてまた唇を一瞬引き結び、シアを見上げる。

「大君様に一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「何だよ」

「誠に反正は起こされないと仰いますか」

「主導して王座に座る気がねぇだけだ。協力しないとは言わない。母上たちのこともあるしな」

 シアは腕組みして、ソボンのほうへ身体の向きを戻した。

「いかなる意味か、伺っても?」

「そこまであんたに喋ってやる義理はない。俺はまだ、あんたのこと全然信用してねぇんだよ。こっちに無断でヒトの素性、ベラベラ喋りやがって」

「それに関しては、何卒ご容赦を」

 ソボンもまたシアに向き直り、胡座を掻いた膝の脇へ拳を突き、頭を下げる。

「しかし、さすがに鳥に文を付けるなどする迂闊な報せ方はしておりません」

「じゃあ訊くけど、俺の素性、ほかに報せた奴は?」

「今は影契ヨンギェの――ここにいる者のみです」

「あんたはあんたの情報筋から俺のことを突き止めたって言ったな。その情報筋が誰のことか、教えてもらおうか」

「睡蓮楼の行首、シム・ギウォンです」

「やっぱりか」

 ふん、と鼻を鳴らして、シアはうなじを掻き上げるように手を添えた。

「じゃあ、あんたが今のとこ配下にしてるのは?」

「配下……というのは語弊があります。我々はあくまでも同志ですが、そんなに数の多い集団ではありません。キウォンとキム・リュ殿――冠玉クァノク殿とパク・東善ドンソン殿……仲間内と呼べるのは、わたくしを含めて四名くらいでしょうか」

 キム・リュという者をあざなで呼んでいるところを見ると、リュはソボンより年上なのだろう。

「で? あんたがここへ来たのは、頭数が欲しかったからか」

「当初の予定としては、大君様をお迎えに上がりました。大君様をお守りしているということは、影契も大君様を王殿下と戴くつもりがあると判断いたしましたし、綾陽君様の軍勢と比ぶれば、わたくしたちは個人に等しいので」

「ふーん。でも繰り返すようだけど、俺は王位に就くつもりはない」

「しかし、反正を起こすおつもりはある?」

「これもくどいようだが、あんたに答える義務はない。俺のヒトに対する信頼基準、教えてやろうか?」

「……何でしょうか」

「ヒトに訊かずに、そいつが秘匿してることを暴露するヤツと、あくまでも身分を基準に、ヒトに頭下げるヤツは信用ならねぇって思ってる。そーいうヤツは、相手の中身を見てねぇってことだからな」

 温度の感じられない声音に、ソボンの拳を握ったままの手が、かすかに震える。ややあって、彼は一言も発さず、ただ深々と頭を下げて立ち上がった。


 ソボンの姿が消えたあとの集会場は、シンと静まり返っていた。

「――さて」

 ミョンギルが、パンと一つ手を打ち鳴らし、立ち上がる。

「ひとまずこの場は解散とする。尚、ここで見聞きしたこと、大君様の素性は一切他言無用だ。この場にいる者には当面、この拠点への逗留を命ずる。以上だ」

「はい、契首」

 その場にいる全員が斉唱し、ミョンギルとシアに黙って会釈して、一人、また一人とその場をあとにする。

 やがて、ミョンギルとシア、シベクの三人だけが室内に残ると、ミョンギルとシベクも、シアに向かって頭を下げた。

「大君様。今少し、お時間よろしいでしょうか」

 口をひらいたのは、ミョンギルだ。

「ああ、構わないけど」

 何? という含みを持たせ、首を傾げる。

「まずは、キウォンの不祥事についてはわたくしがお詫びします。申し訳ございません」

 不祥事とは、シアの素性をソボンに暴露バラしたことだろう。

「いいとは言えねぇけど、あんたの責任じゃないだろ。あんたが気にするこっちゃない」

「恐れ入ります」

 ミョンギルは、また小さく会釈して言葉を継ぐ。

「キウォンとは、キム・自點ヂャジョムという者を通じて知り合い、反正の計画について話しておりました。ただ、わたくしとしては、反正などという大それたものでなく、せめて大北テブク派を一掃できればと思ってはおりましたので……」

「キム・ヂャジョム?」

 初めて聞く名だ。

「俺は会ったことないよな?」

「はい。チャジョム殿も、廃母論ペモロンに反対して官職をわれております。その関係で知り合いまして」

 チャジョムに関して、簡単に語ったミョンギルは、一度言葉を切り、シアを静かに見つめた。

「大君様に一つ、お伺いします。もっとも、わたくしが信用できないのであれば、答えられないとおおせられても結構です」

「何だよ」

「大君様は……反正計画について、どのようにお考えでしょう。改めてお聞かせいただくことは、可能でしょうか」

 つまり、身体状態がすっかり回復したあとのことを訊かれているのは、シアにも分かった。シア自身、考えなくてはならないことだからだ。

 というより、意識がしっかり戻ってからは、ずっと考えていた。

「……答える前に、一ついいか」

「何でしょう」

「あんた、さっきソボンに言ってたよな。あんた以下、影契は俺に従うって」

「はい」

「あれ、本気か?」

 眉根を寄せて問うと、ミョンギルは一瞬キョトンと目を丸くし、次いで苦笑した。

「冗談か、フィセ殿を追い払う為の方便だとでも?」

「生憎だけど、そこまで自意識過剰じゃないつもりだし、王子だったら当たり前に助けてもらえるとも思ってねぇからな。それに、今は逃亡罪人だって自覚くらいある。それ、助けたヤツは逃亡幇助に問われるってトコもな」

 はあ、と吐息を漏らして無意識にまたうなじに手をやる。

 ミョンギルが口をひらいたのは、少しの沈黙を挟んだのちだった。

「――では、改めてお伺いします。大君様は今後、どうされるおつもりですか?」

 シアも真顔で、ミョンギルに流し目をくれた。

「……結論から言うと、……正直、そっちに関しちゃ、まだ答えが出てねぇ」

「ですが、考えていらっしゃることはおありでは?」

 綺麗に核心を突かれ、シアは苦笑する。

「……まあな」

 少し考えたが、目の前の男を上手く誤魔化す言葉を思い付けないまま、シアは口をひらいた。

「俺も正直、もう光海兄上を王座に置いとくのはどうかって思ってる。ほかの業績は知らないけど、放浪してるあいだには国が大きく乱れたことはない。だから、光海兄上もそこそこ王として、国の統治自体は巧くやってるってことだと思う。けど、慶平兄上や仁城インソン兄上と一悶着したあとも、その件について光海兄上は処罰する気はなさそうだった。仁城兄上に関しちゃ、百歩譲ってやらかしたことは家族の内輪揉めって言っちまえばそれまでだ。死人が出てるから許容できるトコは越えてるけどな」

 一気に言って、呼吸を置くと、シアは言葉を継ぐ。

「ただ、慶平兄上はもう放っといたらだめな水準だ。ファベク兄上の口振りだと、ああいうことしょっちゅうやらかしてるのに、一向に光海兄上が処罰してない感じだからな。この先も光海兄上が王でいたら、王族ってだけでほかの兄上たちものさばってく可能性はある。俺の件で大北派を一掃するなら、仁城兄上だって処罰対象だけど、光海兄上を王にしといたら、仁城兄上だけが放免される可能性が高すぎる」

「つまり、王殿下と大北派、共に朝廷を去っていただく必要がある、と?」

「……さっきも言った通り、光海兄上は国の統治自体は巧くやってる印象だから、兄上ごと一掃ってのもちょっと不本意だけどな。だからって、そのあと空位になった王座に座るのも冗談じゃねぇんだけど……」

 言いして、シアは口を閉じた。

 伏せた瞼の下で、視線をウロウロさせていると、ミョンギルがシアの言葉を拾い上げるように唇を開く。

「……ご自身が王位に就くおつもりはない。しかし、今現在反正を主導している王族――つまり、綾陽君様の下に付くのもお気が進まない。そんなところですか」

 俯けていた目を上げると、シアは思わず、ミョンギルを半ばめ上げた。

「……あんた、ホンット嫌なヤツだな」

 吐き捨てるように言うと、ミョンギルも苦笑する。

「申し訳ございません。まだお気持ちに整理が付いておられないのでしたら謝罪いたしますが……悩んでおられる時間があまりないことは、大君様が一番ご存知では?」

 シアは無言で舌打ちを返した。

(……言われなくても分かってるよ。……頭では)

 すでに、綾陽君はシアの知っている綾陽君ではない。それは分かっている。

 彼は最早もはや、王位に就くことに固執し、『シア(ウィ)の存在が邪魔だ』と、りにってシア本人に向かってはっきりと言い放った。綾陽君にとって、シアはうに、倒すべき敵なのだ。

 そして彼は多分、シアが死んでいないことも把握している。ここに襲撃して来ないのは、事実、居場所が分からないからに過ぎないだろう。

 あちらがそういう考えである以上、こちらとしてももう、綾陽君を『敵』として認識し、行動しなくてはならない。仮に、シア自身が主導して反正のようなコトを起こすとしても、綾陽君と合流することは難しい。理性では、そう分かっている。

 だが、最悪殺すという結論には至れない。

 幼い頃、実の兄のように接してくれたこと、再会した直後の、彼の涙と抱擁もまた、記憶に刻まれている。簡単に切り換えられない。

(クソッ……!)

 もう一度、盛大に舌打ちした直後、「ところで」と空気を読まないような、のんびりとした声音が投げ入れられた。


©️神蔵 眞吹2025.

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