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第二章 かの人の真意と、彼女の素性

 落ちた高さが高さだったからか、水へ落ちたはずなのに、固いものに叩き付けられたような錯覚を覚える。受け身は取ったつもりだったが、ほとんど意味がないように思えた。

 体調が体調だけに、まったくと言っていいほど息が長続きしない。ヤバい、と思った瞬間には、口を開いて空気を求めてしまう。代わりに口腔内へ入って来たのは水だ。

(くっそ……! 焼死の次は溺死かよ、冗談っ……!)

 水中では咳き込むこともできない。必死で水を掻いて水面を目指す。

 あと少しで水面に出られる、という所まで来て、シアの意識は急速に遠退いた。


***


 意識が浮上するまでにどのくらい経ったのか、シアには分からない。

 唐突に胸元から何かがせり上がった、と思った直後には、意思とは無関係に咳き込んでいる。吐き出した液体には、鉄錆びた匂いが混ざっているのが自覚できた。

「……大丈夫?」

 咳の発作が落ち着いた頃合いを見計らうように、そっと声が掛かる。同時に、肩先に柔らかな指先が触れた。

 相手がカオンだということは分かったが、名を呼ぶこともできない。

「シア」

「……ッ、いや……さすがに、……大丈夫じゃねぇ、かも」

 浅い呼吸をしながら、シアは無意識に一層、身体を丸めた。無自覚の内に、負傷した胸部と腹部へ手を当てると、ヌルリとした嫌な感触が、掌を撫でる。

「ごめん、もう少し頑張って。立てる? どこかに隠れなくちゃ」

「ん……」

 いたわるように掛けられた言葉に、最早惰性で頷きながら、差し伸べられた腕に縋るように起き上がる。

「ねぇねぇ、ちょっと」

 膝が崩れそうな足を叱咤し、やっと立ち上がったところで聞こえた、知った声音に、シアの意識は否応なく急速に焦点を結んだ。

「とどめ刺すどころか、助けてどうするのさぁ」

 平時の倍以上、重く感じられる頭をどうにか動かして顔を上げるが、出血で霞んだ視界は、意識と違って中々焦点を結ばない。

「お言葉ですが、綾陽君ヌンヤングン様」

 その前に、意外なことに、カオンが『声』に答えた。

(……綾陽……ファベク、兄上……?)

 脳裏でぼんやりと反芻する内に、カオンが続けて口をひらく。

「あなた様がわたくしに命じられたのは、左補盗庁チャポドチョンへ密告せよという一点のみ。それさえ遂げれば、母の命は保証頂けると」

「いやいや、だって、ここまでの流れでさすがに理解できてるでしょ? 僕の本当の望みはさぁ」

「わたくし如きが、綾陽君様の深いお考えを忖度するなど、恐れ多いことです。とにかく、あなた様ははっきりとわたくしに申しました。左補盗庁への密告が成功すれば、母の命は――」

「君のお母さんって、この人だよね?」

 必死で目を凝らした先には、女性が一人、男に後ろ手に拘束されている。顔は、相変わらずよく見えない。ただ、カオンは微かに身体を震わせた。

「なら、はっきり言うよ。今すぐウィを楽にしてやって(・・・・・・・)

 楽にする――その言葉の意味することは、明らかだ。

(……けど……ファベク兄上が本当にそんな……何の、為に……?)

 そもそも、そこ(・・)にいるのは、本当に綾陽君なのか。声のよく似た、別人ではないのか。

 シアの考えが纏まらない内に、綾陽君は「さあ、早く」とカオンを促す。

「あと、とお数えるまで待つよ。その間にウィを楽に(・・)しないなら、僕は先に君の母上を楽に(・・)しないといけない。できればやりたくないけどね」

「ッ……!」

 シアは、唇を噛み締めた。

 目の前にいるのが、綾陽君本人だろうが、そうでなかろうが、どうでもいい。今重要なのは、そこではない。

 問題なのは、早く行動しなくては、目の前の女性の命がすぐにもなくなることだ。

「やりたければ、あなた様がご自分でなさって下さい! わたくしは、この子に何の恨みもございません」

 切羽詰まった声音で、カオンが叫ぶ。が、綾陽君と思しき人物は「関係ないよ」とクスリと嘲笑混じりに答え、制限時間の勘定を再開する。

 シアは一瞬目を閉じ、そのに一つ深呼吸した。

 目を上げ、視界に焦点が戻ったのを確認すると、歯を食い縛ってカオンから離れる。名を呼ばれた気がしたが、構っている暇はない。

 出し抜けに地を蹴り、一足飛びに綾陽君に肉薄し、背後に回り込んで飛び付く。

「えっ!?」

 完全に不意打ちを食った格好になった綾陽君の首に、腕を絡み付かせる。綾陽君の身体ごと強引に反転し、女性を拘束している男――ここで初めてそれが、綾陽君と再会したあの日、綾陽君に『キョンジンおじ上』と呼ばれていた人物であることが分かった――と向き合った。

「……キョンジン……って言ったな」

「綾陽君様!」

「今すぐ、あんたが拘束してる、女を、放せ。さもないと、ファベク兄上の首、へし折れるぜ」

「貴様ッ……!」

「早く、しろ。悪いが今、こんな、状態だから、加減が利かない。力の入れ具合、間違えて殺した、なんて、我ながら、目も当てらんねぇからな」

 キョンジンは、微かに唇を噛んだように見えた。しかしすぐに、ニヤリと唇の端を吊り上げ、ただ頷く。その首肯の先にいるのは、間違いなく綾陽君だ。

「早くせよ、カオンとやら。母親の命が惜しくないのか」

「何っ……」

「……悪いね、ウィ。残念だけど、君のそれ、全然脅迫になってないよ。僕を殺す気がないって、言ったようなモノじゃない」

「……何が、目的だ」

 ギリ、と締め上げる手に微かに力を込めながら、シアは綾陽君の耳許で囁く。

「何?」

「俺を、殺して、あんたに、何の得がある。……本当は、俺が、憎かったのか。生還を、泣いて、喜んでくれたのに……あの涙は、嘘だったのか」

「……そう、だねぇ……」

 くくっ、と低く笑った喉の動きが、腕に伝わる。

「別に、憎くはないよ。再会した時には『生きていてくれてよかった』って思ったのもホント。だけどねぇ、直後にはもう『死んでてくれたらよかったのに』って思ったのも確かさ」

 クス、と自嘲するような笑いを挟んで、綾陽君は穏やかに言葉を紡ぐ。

「先王殿下の孫って言っても、僕の父は所詮、側室腹の王子だからね。血筋的には君のほうが王位に就くのが正しいってことも、分かってる。だから正直、君の『嫡流』って血統は、今の僕には邪魔でしかない。君が王位を狙うなら、死んでもらうしかないんだよ」

「……俺は……別に、王位なんか、要らない」

「じゃあ、君が都でなすべきことって何?」

「カオンの、母上を、解放しろ。そのあとで、なら、教えてやる」

 瞬間、目眩がして、シアは奥歯を強く噛み締めた。

(……ヤバいッ……!)

 血を流しすぎた。早くこの場の決着を付けなくては、意識のほうが先になくなりそうだ。

「もういいよ、キョンジンおじ上」

 その時、不意に綾陽君が口をひらく。

「とっくに約束の時間は経ってる。カオンもウィを殺す気がないみたいだし、彼女の母親共々、用なしだから。おじ上がれそう?」

「は」

 キョンジンは軽く顎を引くと、躊躇いもなく拘束した女性に刀を振り上げる。

「やめろ!」

「母様!」

 シアとカオンの叫びがかぶる。直後、おろそかになった拘束を振りほどかれ、シアは地面へ突き倒された。とっさに受け身を取ったが、ほとんど意味はないように思えた。

 倒れ込んだ衝撃に、瞬時(つぶ)った目を上げた時には、文字通り眼前に、刀の切っ先がある。

「……ごめんね。本当は僕の手で殺すのはけたかったし、上手くれる自信がないけど」

(……ふざけんなよ)

 そうは思うけれど、もう口に出す元気もない。唇を噛み締め、ただ相手をめ上げる。

 今相手に感じている感情が、怒りなのか恨みなのか、それとも悲しみなのか落胆なのかも分からない。

 再会した時とは、顔が瓜二つの別人を相手にしているような錯覚に陥る。

「安心して? なるべく苦しませないようにしてあげる」

 切っ先が、弧を描いて振り上げられるさまが、ひどくのろい動作に映った。身体さえ万全なら、けるのは容易たやすいように思える程――

「じゃあね」

 どこか楽しげな中にも憂いを含んだ微笑を浮かべた綾陽君の唇が、あまりにもあっさりとした別れの挨拶をかたどる。

 だが、シアはそれこそ、あっさり殺される気はなかった。刀が振り下ろされるのに合わせて地面を転がり、可能な限りの素早さで起き上がる。

 カオンと彼女の母親の安否は気になったが、他人ひとを気にしている余裕はない。

 すぐさま、綾陽君が襲い掛かってくる。立ち上がろうとするも、最早、足のどこにどう力を入れれば立ち上がれるのかすら分からなくなっている。

 終わりか、と半ば覚悟したその時、視界が塞がれた。

 と思ったが、実際には、綾陽君とシアとのあいだに馬が立ちはだかっている。もちろん、馬が自分で勝手に割って入ったのではなく、馬上には人がいた。

 馬上の人物は、綾陽君とシアが、一瞬呆気に取られた隙に馬首を返す。腹を蹴られた馬は、一直線にシアに向かった。

 反応できずにいるシアの腕を掴んだ(恐らく)男は、力業ちからわざでシアを馬上へ引き上げ、そのままその場を離脱する。

「……待て、カオンと母親が、」

「ご心配なく」

 振り絞った声にこたえたのは、聞き覚えのある声だ。

「カオンと母御は、別の者が保護しております」

 ミョンギル、と相手の名を無意識に口にし掛けたが、音にならない。そこが限界だったかのように、シアの意識は、スルリと滑り落ちて行った。


***


 パチッ、と何かがはじけるような音がして、シアは無意識に目をけた。

 いつの間に移動したのか、そこは床に敷かれた布団の上だった。

(……どこだ、ここ……)

 ぼんやりと、視線だけで周囲を見回す。それは、どこかの山小屋のようだった。少し離れた場所には囲炉裏があり、そこには赤々と炎が燃えていいる。

 炎の上には鉄製の鍋が掛けられ、中からは湯気が上がっていた。

 起き上がろうとして走った痛みに、小さく呻く。それを切っ掛けに、一気に記憶が巻き戻った。

(……生きてんのか、俺……)

 呼吸を乱しながら、呆然と脳裏で呟く。今度ばかりは、八割方死を覚悟したのに。

 その時、足下に誰かの気配がした。

 反射でまた起き上がり掛けるが、やはり痛みに遮られる。身体が、ひどく重い。

「シア?」

 声で、気配のぬしがカオンだと分かる。

「よかった、気が付いたんだ」

 明らかに安堵の色を宿した声で言った彼女が、囲炉裏とシアとのあいだに腰を下ろす。

「……ここ、どこ」

「ごめん。あたしにもよく分かんない。チャギョムさんとそのお仲間に連れて来られたから……どこかの隠れ里みたいだけど」

「お前の、母親は」

「……ありがとう。無事よ」

「……カオン……お前――」

 なぜ、彼女は綾陽君を知っているのか。彼との会話の内容から推測するに、カオンは綾陽君の配下のように行動していたと判断できるが、それはどうしてなのか。

 疑問は次々に脳裏に浮かぶが、言葉にならない。

 動かそうとした唇に封をするように、彼女の指先がそっとシアのそこへ触れる。

「……今は休んで。ソジョンさんとチュンホ先生もすぐいらっしゃると思うから」

 その手を反射で掴んで、必死に彼女を見上げる。

「お前も、まだここにいるよな?」

「えっ」

「逃げるなよ。訊きたいことが、山程あるんだからな」

 目を丸くしたカオンは、やがて苦笑しながら、無言でシアのひたいに、いた手の指先を這わせた。その温度が心地好くて、シアは目を伏せる。途端、重くなる瞼に抗う余力はない。

 額にあったカオンの指先が、そっと髪を掻き上げてくれる感触に追い打ちを掛けられるように、シアの意識は再度、闇の中へ沈んで行った。


***


 やっと意識がはっきりしたのは、それから十日後。起き上がれるようになったのは、更に十日ほどした頃だった。

 ――という日付のあれこれは、あとで聞いたことで、シア自身の認識としては、日付の感覚さえうに消し飛んでいる。

「今日ですか? 七月五日ですが」

 と答えたのは、ミョンギルだ。

 どうぞ、という彼の声と共に差し出されたのは、やっと先日縁が切れたと思っていた煎じ薬である。

 ハンとり合った際に負った傷は、はっきり言って仁城君インソングンとの戦いのそれと甲乙付けがたい――いや、ハンにやられた傷のほうが深かったようだ。

 治療が始まってからの数日については、シアはよく覚えていない。そのあいだに、チュンホ夫妻が合流して、持國チグク――本名はチャン・という人物で、『チグク』はあざならしい――と協力し合っての治療態勢になったようだ。

 意識がはっきりしてからの治療は、チュンホ夫妻に主導権が渡った為、シアの認識としては、チグク、ことユとは、一、二度しか顔を合わせたことがない。

(……それに、……カオン……)

 受け取った薬の器へ口を付けながら、ぼんやりと彼女のことを思う。

 意識がちゃんと戻ってから、彼女とも顔を合わせていない。

「お口直しです」

 いつの間にかカラになった器が持って行かれ、小さな砂糖菓子の載った盆が差し出される。彼女のことを考えていた所為か、薬の苦みも感じていなかった。

 盆の上を、やはりぼうっと眺めながら、つい、「カオンは?」と訊いてしまった。

「は? カオンですか?」

 聞き返されて、しまったと思ったが、あとの祭りだ。

「あ、えっと……」

 慌てて目線をウロウロさせるが、あの貞淑チョンスク姉が信頼し、認める男だ。簡単に誤魔化されてはくれない。どころか、ミョンギルは盆を一旦、シアの枕許へ置くと、居住まいを正した。

「カオン嬢とそのお母上、ペク・佳蘭ガラン殿は、隠れ里の一角に幽閉しております」

「……は? え、何、幽閉?」

 途端、シアは彷徨さまよわせていた視線を、反射的にミョンギルへ向けた。

「どういう意味だよ。カオンが何したってんだ?」

 自然、口調は詰問の色を帯びてしまう。けれど、ミョンギルは動じなかった。

大君テグン様。仁城君インソングン様と左捕盗庁チャポドチョンのチョン大将テジャン様。此度こたび、このお二方が、不意打ちで大君様を襲うことが可能だった理由は、何だとお考えで?」

「何……?」

 シアは、眉根を寄せる。

「調べたところ、左捕盗庁には垂れ込みがあったようです。『慶運宮キョンウングンへの放火犯が、惠民署ヒェミンソにいる』と」

「……まさか……俺が療養してるのを知ってた誰かの密告……?」

 つまり、惠民署で療養していた頃、シアの病室に出入りしていた者か、右捕盗庁ウポドチョンの兵士か――

「それとも、……もしかして、仁城兄上か?」

 あの兄なら、充分に考えられる。何しろ、あんな利己的な理由でシアを逆恨みしていたのだから。

 しかし、ミョンギルは「いいえ」と静かに否定した。

「仁城君様が密告したと仮定した場合、かのお方ご自身が大君様の居場所を嗅ぎ付けた理由が説明できません。かのお方は今、右補盗庁が護衛と称して厳しい監視下に置いておりますゆえ。そして、惠民署で大君様の病室に出入りしていた者は、密告犯と仮定もし兼ねます。一人を除いて(・・・・・・)

「一人……?」

 眉間に刻んだしわを深くしたシアは、次の瞬間、目を見開いた。

「まさか、カオンが!?」

 ミョンギルは、深刻な表情で頷いた。

「いや、だって――」

「大君様もお聞きになったのではありませんか? 彼女が、綾陽君様の使いをしていたことは」

 シアは唇を噛んだ。

 否応なく、あの時カオンと綾陽君のやり取りしていた言葉が脳裏をよぎる。


『あなた様がわたくしに命じられたのは、左補盗庁へ密告せよという一点のみ。それさえ遂げれば、母の命は保証頂けると』

『あなた様ははっきりとわたくしに申しました。左補盗庁への密告が成功すれば、母の命は――』


 仕方なかった、とすぐに割り切ることはできなかった。

 けれども、立場を逆にすれば、シアとて脅迫に屈したかも知れない。

 例えば、人質に取られたのが、母か仲のいい兄弟姉妹(きょうだい)の誰かだったら――養父フィギルが亡くなった時だってそうだった。

(だけど)

「……ミョンギル」

「はい、大君様」

「カオンと話はできるか」

「え、あ……しかし」

「カオンだって悪気があったわけじゃないんだ。あんたにだって分かってるだろ」

「ですが」

だから(・・・)彼女を幽閉はしても殺してないんじゃねぇのか」

 肝心な所を突かれたのか、ミョンギルは唇を噛むようにして押し黙る。

「とにかく、彼女をこっちに連れて来るか、それとも俺が出向くか。どっちか選べ」

 その隙に踏み込むようにきっぱりと言って、ミョンギルを見据える。無表情の睨めっこに白旗を揚げたのは、ミョンギルのほうだった。


***


 カオンとその母・カランが、シアの寝起きする部屋に顔を出したのは、程なくのことだった。

 カオンは、シアを見るなり、泣き出しそうに顔を歪ませる。駆け寄って来そうな彼女を、カランであろう女性が引き留め、彼女は肘を持ち上げ、右手を上に両手を重ねた。

「えっ、何を」

 シアは、ギョッとして、立場が上の者に対する挨拶をしようとするカランを止める。

「顔を上げてくれ。俺はそんな、大それた挨拶を受ける立場じゃない」

「ですが、大君様であられます」

 カランが答えたのへ、シアは思わずカオンを睨む。

「……まさか、喋った?」

 カオンは無言のまま、ブンブンと首を横へ振っている。

「わたくしでございます」

 と告げたのは、彼女たちを部屋へ連れて来たミョンギルだ。

「あんたなっ……!」

「お話したほうがよいと判断しましたので」

 シアの苛立ちを、冷たい水の張った桶ででも受けるように答えたミョンギルは、凪いだ瞳でシアを見て続けた。

「この方は、ハン・フィギル元大将の奥方ですから」

「えっ……」

 一瞬、思考も呼吸も、停止したような気がした。

「……父さん……フィギルの……奥方だって?」

「左様です」

 ミョンギルとほぼ同時に、同じ言葉を発したカランは、再度、手を重ねて右膝から床へ膝を突き、深々と礼をする。右足から立ち上がり、もう二度、同じ動作を繰り返したカランは、下腹部へ手を当て、会釈するように頭を下げた。

「ご挨拶が遅れました。大君様には初めて御意を得ます。左補盗庁の先の大将、ハン・フィギルが妻、ペク・ガランでございます」

「ペク……って」

 シアは、とっさにカオンに目を向ける。

「じゃあ、お前の姓って」

「……逃亡中だったから。偽名として、母の姓を名乗ってたのよ」

 カオンは、肩先を上下させると、母親と同じように腹部へ手を当て、会釈する。

「改めて、ご挨拶申し上げます。ハン・フィギルが四女・ハン・佳瑥ガオンと申します」

 ならば、フィギルが死に際に話していた、火の中で泣き叫ぶシアの声と重ねた我が子とは、恐らくカオンのことだろう。

(……そう言えば)

 フィギルは、彩映楼チェヨンルにいた頃、カオンを分かり易く避けていた。あれは、多分カオンが自身の娘だと分かっていたから避けていたのだと、今になって腑に落ちる。

「大君様には夫の不正、及びそれによって大君様を害そうとしたこと、妻としてお詫びを申し上げます」

 頭を下げる母親カランの横で、カオンは、目を伏せたまま黙っていた。普段からあまり表情を動かさない少女だったが、今はそれに輪を掛けて無表情すぎて、彼女の心情は推し量れない。

「……座ってくれ」

 吐息と共に言うと、カランとカオンは、揃ってシアの布団の少し手前で腰を下ろした。

 だが、二人と話をする前に、とシアはミョンギルに目を向ける。

「……それで、ミョンギル」

「はい、大君様」

「訊く間合い外した気がするけど」

「何でしょうか」

「俺、あんたにフィギルとの関係について、話してねぇよな?」

「貞淑翁主慈駕(オンジュチャガ)のお申し付けで、わたくしは大君様の行方を追っておりました。その過程で、ハン元大将様が、恐らくは大君様をお連れしているのだと、推測は可能でしたが……」

「~~~~……分かった、もういい」

 病み上がりの所為か、頭が回っていなくて、間抜けな質問をしてしまった。

 そんな気分で、掌に一瞬顔を埋めたシアは、一つ溜息を挟んで顔を上げる。

「ミョンギル」

「はい」

「悪いんだけど、席外してくれるか」

「えっ」

 今度は、さすがにミョンギルも、一瞬瞠目した。だが、すぐに「お言葉ですが」と言いつつ、これまで立ったままでいた彼は、片膝を突いて続けた。

「承服致し兼ねます」

「理由は?」

「カオンは、母御を人質に取られていたとは言え、大君様を手に掛ける策謀に加担しました。そんな女を、見張りもなく大君様と同席はさせられません」

 途端、カオンはミョンギルから見えない角度に向いた顔を、苦しげに歪めた。

「なるほど」

 シアは、フンと鼻を鳴らしながら、立てた片膝に肘を突く。

「つまり、自分ではどうにもならない理由でも、罪を犯したら罪人。信用できねぇってことか」

「左様です」

「じゃ、俺は?」

「はい?」

「俺だって、殺され掛けた挙げ句に記憶がぶっ飛んでたとは言え、厳密に言えば配所から逃げ出した逃亡罪人だぜ? それを、王家の血筋だからってだけで信用するわけだ」

「大君様。それとこれとは話が違います」

「違わないね。それに、カオンだって、俺を殺す策謀だとは知らずに加担してたし、俺を殺す意思はなかった。だろ?」

 チラリと彼女に視線を投げると、カオンはまた泣く寸前のような表情を浮かべる。しかし、頷きも首を横へ振りもしない。

 シアは構わずに、ミョンギルへ目を戻す。

「あんたにそのつもりがねぇのは分かってるけど、あんたみたいな偏見持ってる人間がいたら、カオンもカランも自由に話ができない。口挟まないって約束するなら、部屋の外で聞き耳立てるくらいは構わないけど」

 どうする? と伺いを立てるように、シアは小さく首を傾げてミョンギルを見た。

 少なくとも彼は、この場で聞いた話を、おいそれと吹聴する人間ではない。その程度には、シアもミョンギルを信用している。

 言葉にしないその意図を正確に汲み取ったのか。しばらくシアと目を合わせていたミョンギルは、やがて諦めたような吐息と共に立ち上がった。


©️神蔵 眞吹2025.

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