第二章 炎の傷痕
正門を出て、シアは右手へ進路を取った。
なぜ逃げないといけないのか、外塀の角を曲がって、塀と森の間を走り始めてから、はたと疑問が沸く。が、普段は沈着なチウォンが、あれだけ顔色を変えて逃げろと言うのだから、従うほうがいい、と己を納得させた。
正門のほうからも、幾度か父とチュンホ夫妻が住む離れには行ったことがあるので、道は分かる。ただ、少々距離がある。
身長四尺四寸〔約百三十二センチ〕のシアの並足で、片道一刻〔約十五分〕弱ほどは掛かるのだ。その道のりを、今のシアの全力疾走で、どのくらい体力が持つか――
その時、ふっと空が陰った。
木の影とは違う。と思った直後には、シアはその場に急停止し、頭上へ視線を向けた。後ろへ飛び退いた時には、ほんの今までシアがいた場所へ、刀が突き立っている。遅れてその少し後ろへ、男が一人降り立った。
上げられたその顔は、細面だった。目元は一文字に近く、鼻筋は骨張って長い。
「――やはり生きていたか」
「えっ?」
男の言葉に、シアは状況も忘れて眉根を寄せた。その間に男は上体を上げ、地面へ刺さった刀を引き抜く。
ヒョロリとして見える体躯を持つ男の身長は、かなり高かった。六尺〔約百八十センチ〕ほどある父と、同じくらいだろうか。
シアは無意識に腰を落とし、顎を引く。
「李㼁」
男が、不意にまた言葉を発した。
それが、人の名だということは分かる。しかし、誰のことだろう。聞いた覚えはあるような気がするが、とにかく自分のことではない。そう断じたシアは、早々に男の相手をすることを放棄した。
まともに対戦して、今の自分では勝てる気がしない。かと言って、突破するのも容易ではなさそうだ。
と思う間に、男の持つ刀の切っ先が弧を描き、シアの首筋へ刃がピタリと押し当てられた。
「悪いが、もう一度死んでもらうぞ」
「えっ、ちょっ……!」
何が何だか、さっぱり分からない。はっきりしているのは、大人しくしていたらここで死ぬしかない、ということだけだ。
男が、刀を振り上げる。首筋から刃が離れた瞬間、シアは膝を曲げて跳躍した。
「何っ!?」
男が、その細目を見開く頃には、シアは空中で身体を捻って寺院の塀の上へ着地し、その上を駆け出している。
瞬間、敷地側から風切り音がした。足を止めずに、前方へ飛び込む。手を突いて一回転したシアの視界に映ったのは、まるで見えない力で寸断されたようになった塀だ。直後には、塀の断面から飛び出した何かが、一瞬日に反射するのが見える。
塀に着地しながら、その何かが飛んで来た方向へ目を向ける。視線の先にいたのは、ケシだ。
薄い桃色の上衣と、濃紺のチマという姿になったケシは、房飾りに見えるものから何かを引っ張り出している。チラチラと光って見えるのは、硬質な糸のようだが、ただの糸なら塀は真っ二つにはならない。
「鄭大将!」
ケシが鋭く呼ばわると、先程対峙した細面の男が、ヒラリと塀の上へ現れた。
「間違いないのね!?」
彼女の問いに、チョン大将と呼ばれた男が小さく頷く。それを確認するや、彼女は無言でこちらに向かって何かを投擲した。
シアは、塀から寺院敷地の外へ飛び降りる。勢い余って転がったが、すぐに起き上がって駆け出す。
その後ろで、鋭く尖ったような音がしたが、シアは振り返らなかった。振り返る余裕などない。
背中に殺意を覚え、シアは再度地面へ飛び込んだ。転がり起きながら背後へ目を向けると、今し方、刀を振り下ろした体勢のチョン大将が顔を上げたのと視線が絡んだ。初めて、冷たいものが背筋を伝う。
あのまま走っていたら、今頃背中を綺麗に割られているところだ。
ゆったりとした動きで、チョン大将が背筋を伸ばし、歩み寄って来る。立ち上がったシアは、ジリッと後退りした。顎を引いて、相手を見据える。
怖い、今すぐ逃げ出したい。けれど、背を向けた瞬間、目の前の相手はシアの背中から斬り掛かるか、回り込んで逃げ道を塞ぐかするだろう。死ぬ時が、わずかに延びるだけだ。
(何で)
なぜ、このチョン大将も、そしてあのキム・ゲシと名乗った女も、自分を殺そうとするのか。命を狙われる覚えが、まったくない。それに、『イ・ウィ』とは誰のことなのか。
人違いで殺されたら堪ったものではないが、口の中がカラカラに乾いて、問い質そうにも声も出ない。
目まぐるしく脳内が回転する間に、チョン大将はシアから一歩分の歩幅を残して足を止めた。そして、無言で刀を振り上げる。直後、突然チョン大将は刀を取り落とした。
二、三歩後退した彼の腕には、矢が生えている。次いで聞こえた蹄の音に、シアは振り返った。
「掴まれっ!」
疾走してくる馬上にいるのは父だ。シアは父が伸ばした手に、迷わず自身のそれを伸ばし返す。
父は、いとも簡単にシアを馬上へ引き上げ、速度を落とすことなく馬を駆る。必然、チョン大将は道を空けざるを得なかった。
***
「――ッ、何なんだよ、今のは!」
詰めていた息をようやく吐き出すようにシアが言ったのは、乗った小舟が江華島を出てからだった。
寺院が小高い丘に建っていたのも、周囲を囲む兵士のような集団を突破する中で初めて知った。
途中、幾度か馬を替え、その合間に着衣を目立たないもの――その辺の民家から失敬した――に替えた。人里の外れへ辿り着き、江華島にあるどこかの入り江からこの舟を出すまで、父は一切の質問を許さない空気を纏っていた。
迂闊に呼吸することさえ憚られる空気の中、シアの脳内を締めていたのは、解けない疑問だけだ。
「それにこの舟! いつ用意したんだよ!」
時刻はとうに正午を過ぎているだろうことは、太陽が西へ傾き始めていることで分かる。
入り江には、当たり前のように舟が数艘、浜にひっくり返っていた。その内の一つを父が持ち出して、今二本の櫂で操っている。
「壬辰倭乱〔文禄・慶長の役〕については知ってるな」
やっと父が口を開いた。
「……知ってる。倭国〔日本〕から仕掛けて来た戦だろ」
シアは、低い声で答える。
もっとも、その戦は、シアが生まれるずっと前の話で、戦自体のことはよく知らない。そういう戦があったということは、父から聞いたのだ。
「あの戦の際に、江華島に避難した者もいてな。もし、倭国軍が攻め入って来た時にどこから逃れるか、という件も取り沙汰されたらしい。以来、あの入り江には平時でもああして小舟がいくつか用意されているんだ。島でも一部の者しか知らんと思うが」
「ふーん……」
シアは、もう一度深く息を吐いた。
「……でっ、さっきの連中は何なんだよ」
「……追っ手だ」
「追っ手?」
「……都から来たのだろう。今まで黙っていてすまなかった。実は……父さんは、その……無実の罪で朝廷から追われているんだ」
父の言葉は、どうにも歯切れが悪い。
嘘を言っているとは思わないが、まだ何か肝心なことを言っていないような気がする。
「でも、さっきの連中は、俺を捜してたみたいだった。っても、誰かと勘違いしてるみたいだったけど」
「何?」
父の眉根に、しわが寄る。
「彼らと話したのか」
「うん」
「何を」
「一方的に奴らが喋っただけだよ。俺を『イ・ウィ』って子と勘違いしてて、その『イ・ウィ』を殺しに来たみたいだった」
シアの言い分を聞く内、父の眉間のしわが見る見る深くなる。
「父さん、『イ・ウィ』って子のこと、知ってんのか?」
先程の二人――キム・ゲシと、チョン大将の口振りからすると、『イ・ウィ』は恐らく、シアと同じ年頃の子どもだろう。名前から性別は分からないが、シアの現在の姿を見て勘違いしたということは、『イ・ウィ』は少女なのかも知れない。
「父さん」
続く沈黙に答えを促す。だが、父は「いや、知らない」とあっさりと首を横へ振った。
「だが、父さんが追われているのは事実だ」
「嘘だ」
「何が」
「百歩譲って、父さんが追われてんのは事実でも、『イ・ウィ』を知らないのは嘘だろ。知ってるなら、その子を捜すとか知らせるとか、したほうがいいんじゃないか」
純粋に思ったことを告げたが、父は素気ないものだった。
「今我々は他人のことにかまけている場合ではない。己のことで手一杯なのだからな」
「父さん!」
思わず立ち上がろうとすれば、小舟が揺れる。目を見開いた父が櫂を漕ぐ手を止め、シアは息を呑んで浮かし掛けた腰を落とした。
小舟が均衡を取り戻したのを確認して、シアは吐息と共に、父へ顔を戻す。
「……もし『イ・ウィ』って子が狙われてるなら、その子だけのことじゃ済まねぇぞ。今日だって、俺がその子と間違われて殺され掛けた。ほかにも間違われる子がいて、殺されたらどうするんだよっ。人違いで殺されたんじゃ、そいつが浮かばれねぇじゃん」
「巻き込んだことは、すまないと思っている。いずれ時が来たらすべてを話すから、今は黙って従ってくれないか」
「はあ!?」
見当違いの答えが返され、覚えず声がひっくり返る。
「どういう意味だよ! 今俺が話してんのは」
「シア!」
大上段から叩き斬る鋭さで名を呼ばれ、シアはもう一度息を呑んで口を噤んだ。
父の表情は、何かの痛みに耐えながら、縋り付いて来るようなそれだった。
「……頼む。いずれ時が来たら、父さんもすべてを話す。約束する。だから……すまないが、今は……これ以上訊かず、知ろうとしないでくれ。頼む……」
見たことのない父の表情と、どこかから絞り出すような声に、シアは言葉を失った。
知りたいことがあるのに、唯一事情を知っている父は、これ以上教えてくれそうにない。どうしたら父から情報を引き出せるのかも、分からなかった。
シアが沈黙する内に、父は櫂から手を離し、シアのほうへ乗り出すようにしながら言葉を継ぐ。
「それと、今後はなるべく人との接触や、揉め事は避けるよう努める。お前は特に、人目に付かぬようにしなさい。もし何かあれば、場合によっては相手の口を封じなければならない」
「……どういう……」
シアは眉根を寄せた。
人目に付かないようにする。つまり、引き籠もって暮らせということだろうか。そんなことは、無理に決まっているのに。
しかし、父はそれ以上口を開こうとせず、櫂に手を戻して漕ぎ始めた。
***
シアはその日、ほとんど生まれて初めて朝鮮国本土の地を踏んだ。シアには八歳までの記憶がない。だから、本土にいたことがあるのかも知れないが、父から、自分は江華島で生まれ育ったと聞いているから、多分初めてなのだろう。
父は、当たり前のように シアには地名も分からない土地の山奥へ分け入り、辿り着いた山小屋でその日の宿の支度を始めた。
その頃には陽が落ち掛け、山小屋に入ってしまうと薄暗い。
「……父さん、ここどこ?」
「分からないが、安山かどこかだろう。まだ都が近いから油断はできない。今夜はもう遅いから、明日早く発つ」
(……そーゆーこと訊いてんじゃねぇんだけど)
誰のものかも分からない小屋を、無断拝借していいものかを訊きたかったのだが、思えば、今着ている衣服も無断拝借しているので、シアは早々に質すことを諦めた。
そもそも、父は隠し事が多過ぎる。『大君』についても『イ・ウィ』についても、あれからいくら質しても、ついぞ教えてくれなかった。
ただ、ケシが持っていた不思議な武器については答えてくれた。
あれは、鋼線らしい。糸状の武器で、携帯するにも軽量で隠し持てるという点での利便性で、持ち武器として選ぶ者もいるようだ。よほど動体視力が優れていなければ避けられないという点で、相手にするにも骨が折れる。
それに、扱いが中々難しい為、使い手になるにもある程度の鍛錬は必要だと。
けれど、そのこと以外については、貝の口だった。
吐息を漏らすのと、カチンッ、という硬質な音がするのとは、ほぼ同時だった。
音のほうへ目を向けると、父が火打ち石を打ち鳴らしていた。
室内は、一間の部屋のようになっている。出入り口を開けてすぐが土間で、その奥には腰掛けられるくらいの高さの床が設えられていた。
床の上には中央に囲炉裏がある。父はそこにいつの間にか積んだ短い丸太の上に布を掛け、火を熾そうとしているようだ。
カチンッ、とまた一つ音が鳴り、火花が散る。途端、頭のどこかがズキリと痛んだ。
(何?)
とっさに頭に手をやる。
父が幾度か火打ち石を打ち付けると、火花が布先に飛び降り、炎が大きくなった。その炎に照らし出されて、室内がわずかに明るくなる。
同時に、なぜか息が詰まった。
脳裏に、何かが閃く。
「ッ、ア」
無意識に胸元を掴んで後退る。
踊る朱が、意識と視界を交錯する。
“熱いよぅ! ……開けて……!”
誰かが耳元で叫んだような気がして、シアは耳を塞ぐようにして頭を抱えた。
ふと顔を上げて、目を見開く。室内が、知らない内に、朱い揺らめきで埋まっている。
(嘘だろ)
たった今まで、立地も分からない山小屋にいたはずなのに。そう思って目を瞬き凝らしても、恐ろしい炎舞は視界から消えない。
“嫌だ、死にたくない! ここ、開けてよぉっ……!”
その叫びを上げたのが、知らない誰かなのかそれとも自分なのかの判断が付かなくなる。
「――ア」
“熱いよ、助けて!”
「シア?」
視界の中で、誰かが振り返るのが分かる。けれど、呼び掛けに答えられない。
“怖い”
“死にたくない”
“死にたくない”
“死にたく……ない”
朱く染まった視界と叫びが交錯し、最早それ以外の認識ができなくなる。
「っ……あ……!」
頭が内側から破裂しそうに痛む。膝が抜けたようになり、土間へしゃがみ込む。父が名を呼ぶのを遠くに聞きながら、シアは小さく身を縮めた。
***
気付いたのは、翌日早くだった。
父は、ほとんど一睡もせずにシアを看ていてくれたようだ。
朝の光がまだ射さない中、父は薄暗い室内で、気分が悪くないか、身体に痺れはないかなどをシアに質した。こういう質問は、チュンホにも時々されていたことを思うと、父はチュンホに医術の切れ端でも教わったのだろう。
「……どこも……何ともないよ」
シアは起き上がって、頭をそっと押さえた。
「いったいどうして……倒れる前のことを覚えてるか?」
「……いや……」
随分頭が痛んだような気がしたが、その前後の記憶がなくなっている。
そう答えると、父は難しい顔をして、眉根を寄せた。
その日は大事を取って、出発を見合わせた。だが、陽が暮れて、昨日と同様に父が火を熾し始めた時、シアはやはり前の晩と同じように、動悸がせり上がり始めた。
この時は過呼吸になっただけで意識を失いはしなかったが、父は「火を見ることによって精神的な混乱が起きるのだ」と結論付けた。
どうしてそんな混乱が起きるのかは分からないが、とにかく火を見るのがよくないらしい。
記憶にはないものの、火傷を負っていたのだから、火事に遭ったことは事実だということは、シアにも分かっている。それに起因する、精神的な後遺症だろうと父は言った。
原因がはっきりしたのはよかったが、そのことで新たに問題が発生した。父の言うところの『人目に付かない生活』が難しくなったのだ。
野宿から野宿へ渡り歩くのなら、できなくもなかったかも知れない。だがそれは、シアが火の番ができるということが前提に成り立つ生活だ。
火を熾せない野宿生活ほど、危険なことはない。特に、野生動物に対してだ。朝鮮国は、大陸と地続きな為、狼や熊などの猛獣が出没する。場所によっては、虎も出る。
そして、火の番ができる人間が一人しかいない、ということは、父がずっと眠れないことを意味していた。
父は、元武官という経歴から、身体は壮健であり、今は元気だ。が、どんな人間でも睡眠が摂れなければ体調を崩し、場合によっては死に至る。
倒れた原因が判明してから小屋へもう一泊し、翌日その小屋を発つ時、父は「手配房を訪ねる」と言い出した。
「手配房って?」
「各職の仲介業のようなものだ。もっとも、公的なものでなく、民間の組織だがな。そこで商団の護衛でも紹介してもらえば、何とか隠れていられるだろう」
商団は、時に行商として全国を回る。常に移動するような商団に混ざれば、確かに追っ手の目を誤魔化すことも可能だろう。
「でも、人目に付かないようにって」
「仕方がない。だが、商団に潜り込めさえすれば、我々を目にするのは商団の団員だけだ。もし何かあれば、その時その時で対処するよりない」
「……ごめん」
自分が火に弱いばかりに、追われる父に余計な負担を掛ける。そう思うと、父と目を合わせていられず、シアは視線を俯けた。
父は小さく息を吐いたのち、シアの頭に掌を乗せる。
「気にするな。誰でも得手不得手はある。まして、精神的な傷なら治りようも分からない。お前の所為ではない」
「でも」
「大丈夫だ」
父に抱き寄せられ、ポンポンと優しく頭を撫でられると、口から出掛かった再度の謝罪は、喉の奥でわだかまった。
©️神蔵 眞吹