第九章 王との邂逅
「――なるほどな」
シアの話を聞き終えると、クァルは口許へ握った拳を当てた。瞬時考え込んだと思ったら、いくらもしない内にシアへ目を向ける。
「分かった。鍵はとにかくその、モ・ヂュンファンという女だな」
「偽名かも知れねぇけど。あと、チェ・ミョンギルって奴もモ・ヂュンファンを捜してるはずだから、情報共有するか?」
「そうできれば望ましいな」
ただ、ミョンギルはシアの配下ではない。チラリとカオンに視線を移すと、彼女は肩を竦めた。
「チャギョムさんに渡り、付ければいいんでしょ」
「悪いな。借りがどんどん増えるってホントだわ」
すると、彼女は思い切り顔を顰める。
「……何だよ」
「何でもない」
「ところで、シア」
「ん」
彼女の表情の謎が解けない内に、クァルから声が掛かって、シアは目線を上げる。
「お前さん、一度、殿下にお会いする気はないか」
「はい?」
それまで普通だったはずの表情が、盛大にひん曲がるのが自分でも分かる。
「……あー……あんた、気は確かか?」
無意識に前髪を掻き上げながら、自身の腕の陰からクァルを睨め上げた。しかし、クァルは動じない。
「確かも確かだ。お前さんこそ、さっきの俺の話、頭に入ってるか?」
「どの話だよ」
「俺は今、七庶獄事の再調査も請け負ってる。それは、殿下のお指図だ」
シアは沈黙した。兄王の指図というところは、クァルは嘘を言っていないだろう。しかし、兄王の真意は分からない。
「何か引っ掛かることがあるか」
「……引っ掛かるって言うか……そもそも何であんた、光海兄上に会うかなんて言い出したんだよ」
「先刻も言った通り、今朝廷では、『慶運宮に火を着けた人物を弾劾せよ』との上奏と、大北派の『冤罪だ』という反対上奏が上がっている。殿下としては、弾劾上奏のほうを通したいお考えだ。できれば、今本当に冤罪を着せられている人物にも、直接お会いになりたいとも仰っている」
今、本当に冤罪を着せられている人物――と言えば、シアのことだろう。
シアは唇を噛み締め、考え込んだ。
あの日――仁城君邸で重傷を負ったあの日、もうほとんど身動きはできなかったが、仁城君が喚いていたことは聞こえていた。
“真相など明らかにはならない。そうしたら、光海兄とて王位には座っていられないのだから、再調査なんてされない”――と。
仁城君はそう言っていたが、クァルは今、光海兄の指示で、七庶獄事の再調査をしているという。
都に戻る少し前から今まで、光海兄は自身と、座る玉座がとことん大事だと思っているような人物像しか伝わって来なかった。けれど、シアの思い出の中にいる光海兄は違う。
もちろん、幼い頃にたった何度か会っただけのそれを指標にするのも、どうかとは思う。人間は、年月を経れば、変わってしまう時もあるからだ。
シアの記憶にあるのはすべて、大妃であるシアの母に、兄が挨拶に来た折りのことである。嫡母への挨拶すらも、兄の妻である現王妃が、なぜかあまりいい顔をしなかったので、妻の手前か、兄がシアに構ってくれたのは、その何度かの内の、更に少ない機会だった。
ただ、相手をしてくれる時の兄は優しかった。
『――おお、ウィか。大きくなったな。ランファもこっちへおいで』
ある時、兄王が母に挨拶に来ている間、宮殿の庭に出ていたことがあった。確か、貞明姉も一緒だったと思う。
兄が声を掛けて来たのは、その帰り際だった。
『お兄……いえ、殿下。どうして滅多にこちらにいらしてくださらないの?』
シアより三つ上の姉は、丸みを帯びた頬を膨らませ、唇を尖らせて、愛らしく兄を詰っていた。
『すまないな。国事が忙しくて』
困ったように姉に答えた兄は、シアをおもむろに抱き上げた。
『重くなったな。ウィは幾つになった?』
『いつつです』
『違うわ。こないだ六つになったでしょう?』
『はは、そうか。もうウィも六つか。では、来年からは宗学に通わねばな』
もうそんな年か、と感慨深げに兄が呟いたのを覚えている。宗学とは、王族の子弟が教育を受ける場のことだ。
但し、シアが宗学に通う日は来なかった。代わりに、記憶を失くしたシアに基本的な教育を施してくれたのは、フィギルとチュンホ夫妻だった。
『殿下。今度はいついらっしゃいますか?』
帰り際の兄が身に着けている常服の裾を捕まえて問う姉に、兄は優しく笑って『近い内にまたな』と頭を撫でた。
『ああ、そうだ。二人共、周りに人がいない時は、“兄”と呼んで構わないぞ』
地面に下ろされたシアは、姉と瞬時見合わせた顔を兄に向けた。
『はい、あにうえ』
『ホントに? じゃあ、お兄様!』
『何だ?』
『呼んでみただけ――――……』
弾けた笑い声が、耳の奥で尾を引く。
温かく柔らかな光に包まれたような、平穏な日の一幕だ。
そんな思い出の中にいる兄と、人の口から聞く兄の印象は、かけ離れ過ぎている。どちらが本当の兄なのか、シアは記憶を取り戻してからこっち、答えを出せずにいた。
直接会わずに答えが出るわけがないので、今までそれは保留になっていた。考えてみれば、絶好の機会とも言える。
「……分かった。会うよ。ただ、俺がウィ……永昌大君だってことは伏せといて欲しいんだけど」
「承知した」
***
「ああ、ウィ。よかった。目が覚めたのね」
貞淑姉が訪ねて来たのは、クァルが『殿下との対面の場所や方法についてはまた連絡する』と告げて辞して行った、二日後のことだった。
貞淑姉は、せかせかとした足取りでシアの寝台へ歩み寄り、腰を下ろしてシアの手を取った。
「本当によかった。ごめんなさいね、来るのが遅くなって」
「いいえ。翁主慈駕もお忙しかったでしょう」
姉への呼称が余所余所しくなるのは、キョンガンがいるからだ。そう、なぜか、同い年のこの姪も一緒だった。彼女はまだ、シアの素性を知らないはすなので、その手前、姉を姉と呼ぶわけにはいかない。
その割に、姉のほうはシアを諱で呼んだのが、気にならなかったわけではないが――
他方、姉も早々にそれを察したらしい。チラリと娘のほうを見て、「きちんと挨拶なさい」と促した。
「先日は……ご無礼をいたしました」
促されたキョンガンは、深々と頭を下げる。
「ご挨拶が遅れまして、申し訳ございません。わたくし、貞淑翁主慈駕と東陽尉が次女、シン・ギョンガンと申します。改めて、永昌叔父様にご挨拶申し上げます」
シアは唖然とした。
環境はかなり特殊ながら、シアとて十六歳の少年だ。十一年上の綾陽君からさえ、『叔父上』と呼ばれたことはないのに、同い年の少女の口からそう呼ばれることによる(主に精神面に与えられる)破壊力にも愕然とした。
が、目下の問題はそこではない。
「……姉上……」
じっとりとした目で、姉を見る。
「いい加減、次から次へと私の素性を暴露して回るのはお控えくださいませんか」
「わたくしだって、時と場合と、相手を選んでいるわ」
おどけ半分の表情だったが、姉の目は真剣だった。
「此度はこの子に随分心配を掛けてしまったし、明かさなかったらこの子がそなたを殺し兼ねない勢いだったから、仕方なかったの。許して」
シアは、何をどう返していいか分からず、結果陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせたあと、重い溜息を吐いた。
「……先日、仁城兄上の一件で拝見したところ、姉上は随分武術に精通しておられるようにお見受けします。心配を掛けると分かっていたなら、何故最初に抵抗なさらなかったのですか」
「そこも不可抗力よ」
貞淑姉は、肩を一つ上下させる。
「取り囲んだ兵士を制圧することはできたでしょうけど、『今こちらの手にご家族の身の安全を握っています』なんてコンに言われたら、そなたなら抵抗できて?」
「ハッタリに決まっているじゃないですか。何故確認もせずに拘束されたりしたのです」
「確認に家に戻る余裕などなかったし、万一誰かが出掛けただけだとしても、コンの脅迫があったら無事を確認するまで気が気じゃなかったわ。だったら、自分が人質になっているほうが気が楽だったのよ」
「そりゃ、姉上ご自身はそうでしょうけど……!」
その先をまたどう続けていいか分からなくなって、シアは再度溜息を吐く。ふと上げた視線が、キョンガンのそれと絡んだ。
彼女の目も、概ねシアと似たようなことを考えているのが分かる。
彼女と、目と目だけで、お互い苦労するな、と言い合い、背中の後ろに積まれた布団の束へもたれた。会話が途切れたちょうどその時、扉を叩く音がして、「俺だ」と訪いを告げる声が聞こえる。クァルの声だ。
貞淑姉とキョンガンが目を見交わすのに構わず、シアが「入ってくれ」と応じた。
「何だ、来客中か」
「そなたは……!」
貞淑姉が、弾かれたように立ち上がる。
「これは、翁主慈駕。お久し振りです」
クァルが、一応礼を取って頭を下げる。姉もまた、小さく会釈して、口を開いた。
「そなたとはまた会いたいと思っていたのだ。あの時は、本当にありがとう。お陰でこの通り、弟は快復しつつある。感謝しても、し切れぬ」
「過分なお言葉、恐縮でございます」
「ところで、何故そなたがここへ?」
もっともな疑問に、クァルは後ろへ視線を投げる。
「どうぞ、お入りください」
クァルの言葉に従って入って来たのは、一人の男だった。
円筒状の笠をかぶり、その笠には玉飾りが下がっている。くすんだ黄色で、木綿製に見える中致莫を身に着けたその男は、四十代半ばほどに見える。
丸顔で、切れ長の目だが、目尻は下がり気味で、どこかおっとりとした人柄が伺えた。
「……お兄様……!」
相手を見た貞淑姉が、呆然と呟く。
(えっ)
シアも思わず目を見開いて、改めて男を見る。
確か、貞淑姉が『兄』と呼べる王子たちは、全員亡くなっている。たった一人、現国王を除いては――つまり。
(……こいつが……光海兄上か)
記憶の中の、光海兄の顔には霞が掛かっているようで、もうはっきりとは思い出せない。だから、目の前の男が光海兄だとは、顔を見ただけでは分からなかっただろう。
「ミョンフィも来ていたのか」
「何をしに参ったのです、こんな所へ!」
貞淑姉も、兄王には含むところがあるとは思っていたが、顔を見ただけで毛を逆立てた猫のようになってしまっている。
次の瞬間、『ヤバい』と思った。理由は自分でも分からない。しかしとにかく姉を黙らせなければ、と思った時には、姉は口を開いている。
「まさか、この上ウィにとどめを刺そうと!? 許しませんよ!!」
(うわぁああ、バカ姉上――――!!)
口に出さなかっただけ上出来だが、シアがどうにか呑み込んでも姉が止まらない。
「わたくしは我が子を殺され、その下手人への正当なる処断を拒絶されました! せめて、この子は守ってみせます! もちろん、今生きている我が子たちも!!」
姉は言いながらキョンガンを抱き寄せ、シアを背に庇う。しかしこれで、クァルに口を噤んでもらった意味がなくなった。
「……まさか……そなたはウィなのか」
「何をとぼけていらっしゃるのです! 知っていて、とどめを刺しにいらしたのでしょう!?」
「……あのー、姉上。ひとまず落ち着いてくれませんか」
寝台の上から手を伸ばし、シアは姉のチマを引っ張る。すると、姉は素早い動きで振り返り、シアを抱き起こそうとした。
「立てる? ウィ。早くここから避難しましょう」
この時ばかりは、気遣わしげな顔をされればされるほど、シアの気持ちは冷えていった。呆れたように目を細め、姉を見上げる。
「お気遣い、非常に恐縮なんですけど。兄上は私の素性など、ご存じありませんでしたよ」
「え?」
「たった今、姉上がバラさなければ」
言われてようやく、姉は自分のやらかした大ポカに気付いたようだ。
「嘘っ……ごめんなさい! わたくしったら……」
「……仕方ありませんね、喋ってしまったものは」
今日、何度目かで溜息を吐いたシアは、目を丸くしている光海兄に改めて目を向けた。
「……ってわけで、久し振りだな、兄上。っても、再会を喜ぶべきかは俺には分からないけど」
「そなたは……誠に、ウィなのか」
「だったらどうする? 姉上の言う通り、とどめでも刺すか? それとも、江華島に一度送り返してから毒薬でも賜るか? ま、どっちにしろ、殺りたきゃ今が好機だぜ。何せ、このザマだし」
「ウィ!」
姉は、シアの冗談めかした言葉に、さっと顔色を変え、庇うようにシアを強く抱き締める。が、シアは構わずに光海兄を見据えた。
兄は、ひどく複雑そうな表情でシアを見つめ返したが、やがてその目を伏せるようにして視線を泳がせる。
「……すまない。さぞや、私を恨んでおるのだろう」
「正直、それも分からねぇよ。ただ、こっちも訊きたいね。あんたが本当に俺を殺そうとしたのかどうか」
「言い訳にしかならぬと分かっているが……それは私の命令ではない。私はあくまで、そなたを大妃殿から出し、庶人として宮殿の外で暮らさせるよう命じただけだ。その為の家も用意させていたのだが……」
「ふぅん。それで? そのあと俺が、都中を見せ物みたいに引き回された挙げ句に江華島まで連れて行かれたことは重臣の独断で、あんたは全然知らなかったってのか?」
「いいや……あとから、尚膳〔内官の長〕に聞かされて知った。歯軋りする思いであったがな」
これを聞いたら、初めて兄に対して怒りが沸いた。
「へーぇ。で、知った時点じゃもう手遅れだったから、そうするように手配した奴らは調べもせずに放置して、俺を連れ戻すこともしなかったわけだ。血筋が邪魔な弟よりも、支持してくれる臣下のほうが大事なんだもんな」
「そうではない」
「そうじゃない? じゃあ大事なのは王座か。そうだよな。臨海兄上も俺もチョン兄上も、生きてたら明国からの文句やら口出しやら、民衆の噂やらが鬱陶しかったから、殺して楽になりたかったんだろ」
「違う!」
自分の言い分が通らないからか、覚えず苛立ったように叫ぶ兄に、シアも反射で叫び返した。
「何が違うんだよ!! 今回の慶運宮の一件、あんたも弾劾上奏のほう通したいんだったら、慶運宮で何が起きたか、知らないなんて言わせねぇぞ!!」
「それは」
「俺だって、お二人を助ける為に、宮に入ったから言える。あれは故意に放火されたんだ。燃え方、尋常じゃなかったからな。それ以外にも明らかに過去、火事があった形跡も敷地内で見たぞ。母上と貞明姉上は、今回も含めて少なくとも二度は命を狙われてる。もっとも、俺が流刑にされてから九年は経ってんだ。九年の間に、お二人が命を狙われたのがその二度だけだなんて、よもやあんたもそんなおめでたいことは思わねぇよな」
光海兄は、瞬時沈黙し、口を開く。
「……今日は、その話を……慶運宮炎上の件で来たのだ。そなたから聞いたことは、クァルから軽く報告を受けたが、とにかくそなたの口からもう一度詳しく聞きたくてな」
「そんなに何度も同じ話をするつもりはない。クァルから聞いたんなら、俺が見たことは、それ以上でも以下でもねぇよ。それより、仁城兄上を罰するつもりはねぇのか」
シアは、片膝を立て、そこへ頬杖を突くようにして兄を睨め上げた。仁城君の名が出たことで、貞淑姉も鋭く光海兄を見上げる。
光海兄は、弟妹に睨まれ、オロオロと視線を泳がせた。
「仁城兄上の件は聞いてるんだろ。その件で、俺はヘマしたとは言えこんなことになってるし、右捕盗庁に投獄した連中が死んだんだからな」
「……まあ……」
「百歩譲って今回の件がなかったとしても、仁城兄上は貞淑姉上んトコの長女と、貞正姉上の旦那を殺したらしいじゃねぇか。貞正姉上は、それが切っ掛けで子どもを亡くされたって、キョンガンから聞いた。何でそんな奴が、未だに厳罰にも処されずに、宗簿寺の都提調に居座ってんだ?」
「それは……」
「それともう一つ。こないだ慶平兄上ともひと騒動やらかしたんだけどよ」
「ルクと!?」
反応したのは、貞淑姉だ。
シアは、姉に目を向け頷いて見せると、兄に視線を戻した。
「そのあとファベク兄上に会う機会があって聞いたんだけど、慶平兄上ってファベク兄上曰く『揉め事製造機』だそうだな。さすがに大北派からも、弾劾上奏上がってるって聞いてるぜ。あっちはあっちで取り締まる必要あるんじゃねぇかと思うんだけど、何で野放しなんだよ」
「……すまない。行為だけ見れば、十二分に処罰する必要があると分かってはいるのだが……」
「……いるのだが、何だよ」
「私は……望んだわけではないとは言え、兄上とそなたを処罰し、兄上のほうは死に追いやってしまった。血の繋がった、実の兄弟をだ。チョン――綾昌君に関しても、彼は私には実の甥だというのに……」
「へー。一応、後悔だけはしてんのか」
「当たり前だ!」
叫んだ兄の顔は、泣き出す寸前に見えた。
「……だから……もう私の治世では、兄弟や縁戚を処罰するようなことはしたくないのだ」
「はあ?」
瞬間、その表情に対する同情は、綺麗に吹っ飛んだ。
「何クソ甘いこと言ってやがんだ!? 儒教の教えで親族を大事にとかそーゆー話なら、慶平兄上はともかく仁城兄上は立派に処罰対象だろ! 自分の姪っ子や義弟斬り飛ばしてんだからな。そもそも、そーやって光海兄上が王のクセに『王弟だから~』とかって目こぼししてやるから、仁城兄上はともかく慶平兄上辺りは際限なく図に乗りまくってやりたい放題やるんじゃねぇのかよ!」
「それも重々……」
「ッたく、どんだけ優柔不断なんだよ。それがどんだけ民に迷惑掛けてるか、その辺自覚あるのか!? 民の父が聞いて呆れるぜ」
兄は、また沈黙した。シアの言うことが、いちいちド正論だという認識だけはあるらしい。
「あー、もういい! ってゆーか、あんたが寛大過ぎる所為で、臣下や王弟共が暴走するのは全っ然よくねぇし、それが原因で俺に降り懸かったアレコレを許せるわけねぇし、一連の事件の再調査の前に、民や兄弟姉妹に迷惑掛けまくってるクソ兄貴たちをどうにかしろって言いたいけど、最高権力持ってるクセに肝心なトコで何もしねぇあんたも、どーしよーもねぇクソバカ兄貴だってのはよぉく分かった! この場で縊り殺されたくなきゃ、とっとと帰れ!」
扉のほうをビシッと指さしたシアの指先に、釣られるように視線を動かした兄は、
「その前に、……頼みがいくつかあるのだが」
と申し訳なさそうな表情で、シアにまた向き直った。
「あぁ!? その前に、じゃねぇよ! どの面下げて頼みとか言ってんだよ、クソ兄貴が」
「いや、その……とにかく、まずは慶運宮の件で、そなたに御前会議の場での証言を頼みたいのだ。それで、弾劾上奏が通せるかも知れないのでな」
「かも知れない、とか気弱なこと言ってねぇで必ず通せ。その約束ができるんなら証言してやる。だけど、御前会議の場になんて、どうやって俺が潜り込むんだ」
「それは、クァルに付き添ってもらうことになっているから、心配するな」
「正面突破できると思ってる時点で、あんたやっぱ甘いんじゃねぇの?」
「そうかな」
「そーだよ。まず第一に、俺が証言するってなったら、絶対妨害工作が入るだろ」
「その点は心配ない。前もって証言者を入れると公言するようなヘマはしない」
「したり顔すんな。第二に、証言するってことは素顔晒さなきゃなんない。さすがに七歳で都出た俺の顔をはっきり覚えてる奴がいるとは思えねぇけど、変装の必要はあるだろ。俺は今、公式には死んだことにはなってるけど、生きてるのが判明したら流刑先からの逃亡罪人に変換されるんだからな。どういう身分の人間として証言させるつもりだ?」
突っ込んで質すと、兄は何度目かでまた黙り込んでしまった。まさか、そこまで考えていなかったということか。
「……第三に、証言するのはいいとして、どういう状況でそれを目撃したことにするかが大問題だ。第一、俺が悪巧みの場面でちゃんと面見たのって、モ・ヂュンファンって女だけなんだぞ。男のほうは、声を聞けば分かるかも知れないけど……」
慶運宮炎上の当日、男のほうは戦笠〔上級の武官がかぶる帽子〕をかぶっていた。ほとんど上のほうからそれを見ていたシアからは、戦笠の鍔が邪魔で、男の顔は見えなかったのだ。
兄は、俯いて思案する顔になったが、その内に伏せていた目を上げた。
「……分かった。まず、そなたの立場だが、表向き慶運宮の内人だったことにする」
「俺まだ十六なんですけど」
内人は通常、十八になる年に試験を経て、見習い女官であるセンガクシ、もしくはアギナインからの昇格となる。
「では、見習い女官ということで行こう。その為には、西宮様の証言が要るのだが、西宮様の行方は知っておるか」
「コトが確実にならない内は、答えられないね」
「そうか。では、準備が出来次第、クァルを連絡に寄越す。少し時間をくれ」
「くれてやるのはいいけど、あんたもっと肝心なとこ分かってるか?」
「何だ」
「今回の慶運宮炎上の件だけを解決したって、根本の解決にはならねぇ。もちろん火ぃ掛けた連中には、きっちり償ってもらうけどな。繰り返すようだけど、少なくとも二回は、母上も貞明姉上も命狙われてる。今後も起きないって言い切れる保障がないなら、証言するに当たっての危険冒す価値もねぇ」
「わたくしも同感です」
それまで黙ってやり取りを聞いていた貞淑姉が、口を開く。
「ウィは知らないことですが、お兄様はご存じでしょう? 大妃様とランファは、幽閉されてからの九年を、常に暗殺に怯えて過ごしていたと」
「なっ……」
シアは瞠目した。
「姉上。それは本当ですか」
貞淑姉に視線を向けると、彼女は痛ましげな表情で頷く。
「大体、三日に一度の割合で刺客が来ていたらしいわ。食事の差し入れも乏しく、やっと差し入れが来たかと思えば毒入りで食べられない。最初の差し入れで、毒味の内人が一人亡くなってからは、王宮からの差し入れには最大限警戒されていたと、わたくしも先日伺ったばかりよ。着るものも皆着た切り雀で、排泄物も何度も訴えて、こないだやっと処理されたと」
「そんなっ……何だよそれ!!」
シアは光海兄に顔を振り向けた。
「本当に兄上は、その状況把握してたのか!?」
光海兄は、それまでで最大にばつが悪いと言っている表情で、目を泳がせる。それが、何よりの答えだった。
「ざっけんなよ!! それじゃまるでお二人が死ぬのを待ってるみたいじゃないか!! ひと思いに賜薬〔毒殺刑に当たって下される毒薬〕下すより質悪ぃぞ!!」
反射的に、布団を跳ね上げた立ち上がろうとしたが、十日もほとんど寝たきりだった身体は意思に付いて来ない。覚えず、膝が笑って床へ崩れそうになる。
「ウィ!」
姉が慌てたように名を呼んで、シアの身体を抱えた。
だが、シアは歯を食い縛って足に力を入れ直し、姉の手を振り払う。光海兄に肉薄し、その胸倉を引っ掴んだ。
「何でだよ!! 母上と貞明姉上がそこまでの仕打ちを受ける何をしたんだ!? そんなに残酷に、じわじわゆっくり命削られなきゃなんないようなこと、したってのかよ!!」
「……すまない。当時、儒生たちが……西宮様の罪を十も上げて上奏を寄越した。無論、私は煩わせないでくれと突っぱねたが……」
「突っぱねたが、何だよ。結局勝手にイ・イチョム辺りが行動して、母上と貞明姉上を降格したって言いたいのか? 国王はイチョムかよ! あんた、国王の座にいながら阻めねぇなら奴だってイ氏だ、いっそ譲っちまえ!!」
そうしたら俺だって遠慮なく引きずり下ろせる――そう続け掛けた言葉を危うく呑み込んだ。無意識に、この短い時間で、最早光海兄は王に相応しくないと裁断を下してしまっている自分に、愕然とする。
他方、光海兄のほうも、言い訳が尽きたらしい。苦しげな、ひどくばつが悪くてそれだけで死ねそうだと言っているような、そんな表情で唇を噛み締めている。
苛立ちを最大限込めたと分かる舌打ちを一つして、兄の胸倉を突き飛ばすように解放する。
「……もういい。本当にもう帰ってくれ」
「……ウィ」
「話にならない。今回の慶運宮炎上事件だけのことじゃない。あんたが本気で今回の件で下手人に処罰を下したかったら、まずはあんたの即位翌年からの不正やらかした連中を厳罰に処してから、出直して来い。その時、その証拠を持ってくんのも忘れんなよ」
「本当に……申し訳ない」
背を丸めるようにして頭を下げる兄を見ても、気持ちが冷え切っていくだけだった。
「バカの一つ覚えみたいに謝罪するしか能がないなら今すぐ消えろよ。気が変わんない内に俺の目の前から消えないと、本当にこの場で縊り殺すぞ。断っとくけど、俺は相手が兄貴だからって遠慮しない」
ノロノロと頭を上げた兄は、やはりシアを見つめることはできなかったようだ。かと言って、すぐに立ち去る踏ん切りも付かなかったのか、しばし視線を左右させ、やがて何か言うことはなく、きびすを返して退出して行った。
©️神蔵 眞吹2025.